中央南北に釜無川、その西側に扇状地をつくっているのが御勅使川(みだいがわ)、都市部の西側を南北に流れているのが荒川、南部を東西に流れているのが笛吹川、最南部ですべてが合流し富士川となる。
田んぼが「季節によって乾く二毛作可能な田」「水田」「沼田」の3つに区分されているのは、陸軍歩兵が歩行に要する時間を計算するために土の状態を表わしたため、といわれている。水が引かない歩きにくい地域や利用されていない空白地帯を、水の流れと合わせてみると、御勅使川や釜無川の元の流れや、暴れ具合が想像できる。釜無川の堤防は、霞堤(かすみてい)ではなく長く続く部分が多くなったとはいえ、意識的に分断されており、広い遊水地が用意されている。釜無川は、信玄堤より上流にも多くの人の手が入っているようだ。釜無川の流れを高岩にぶつけるために蛇行させたとも見て取れる。信玄の御勅使川の流路変更計画は、そのエネルギーを利用して釜無川を蛇行させるためだったのかもしれない。
御勅使川扇状地は、通常は水が地下にしみ込み、ワジ(注:雨季になると急激に出水することがある、普段は流水のない涸れ川)のように地表は乾いてしまうようだ。御勅使川の流れを変える信玄の治水工事は、水のない状態での作業だったのだろう。その甲府盆地西部の砂礫地帯に田んぼがつくれるようになったのは、江戸時代初期に釜無川上流から引いた徳島堰の功績だ。また、扇状地南部に沼田が多いのは、いったん砂礫地帯に染み込んだ地下水が、湧水として地表に湧き出てくる土地柄だからかもしれない。