首都圏東部を流れる荒川。雄大で自然豊かな下流部は、メガシティ東京の貴重なオープンスペースとなっていますが、ここが自然にできた川ではなく、「荒川放水路」という人工の川だったことをご存知でしょうか。
第10回里川文化塾では、水の脅威・恵みとともにあった荒川下流域の歴史を垣間見たうえで、船に乗って、この人工水路が流域の暮らしとどのように関わっているのかを学びました。
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荒川・岩淵水門周辺のまち歩き
関東学院大学名誉教授
宮村 忠 みやむら ただし
1939年東京都江東区の隅田川の畔で生まれ育つ。専門は河川工学。ものつくり大学大学院特別客員教授。85年に『水害―治水と水防の知恵』(中公新書)を著し、行政任せの防災に警告を発する。『くらしに生きる川』(農文協)、『東京湾をあるこう』(筑摩書房)などの著書もある。『荒川放水路変遷誌』(荒川下流河川事務所)の編集委員長。毎年実施される利根川水防演習の解説者、自主講座「宮村河川塾」など多彩な活動を行なっている。
NPO法人北区地域情報化推進協議会理事
富田 好明 とみた よしあき
1955年東京都北区の岩淵水門にほど近い志茂に生まれ育つ。北区地域情報化推進協議会でITを利用した商店街活性化事業や観光事業などを行なうほか、防災広場づくりや子育て支援など、幅広いまちづくり活動に取り組んでいる。
国土交通省荒川下流河川事務所
地域連携課長
鴨川 慎 かもがわ まこと
鴨川さんは1990年、太田さんは2004年に国土交通省入省。共に2012年より現職。地域連携課では、荒川下流河川事務所の荒川知水資料館をはじめとした広報業務を行なうほか、荒川下流管内の良好な環境を保全・創出するため、河川環境整備や市民団体と連携した取り組み(モニタリング調査・アダプト制度の運用等)を実施している。
同課地域連携係長
太田 裕史 おおた ひろふみ
編集者
山畑 泰子 やまはた やすこ
中学校の期限付教諭、博物館の学芸指導員(考古担当)などを経て編集者となる。1991年より河川や水文化をテーマにした月刊誌の編集に携わる。2007年3月の休刊後、フリーランスの編集者として主に水環境や水辺の文化に関わる雑誌・書籍の制作を行なっている。志茂在住25年。
編集者
市川 倫也 いちかわ みちや
2002年より河川や水文化をテーマにした月刊誌の編集に携わり、全国の河川、水の現場を取材。2007年3月の休刊後、フリーランス。人と自然の関わりをテーマに、出版物の制作や地域活性化の取り組みに携わる。2010年、第1回全国小水力発電サミット実行委員。
奥秩父の甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)を源流とする荒川は、埼玉県を流れ下り、東京都北区志茂(しも)の岩淵(いわぶち)水門で隅田川と分かれて東京湾に注いでいます。
市街地を流れる隅田川が典型的な「都市河川」の様相を見せるのに対し、ヨシ原や野鳥などが見られる自然環境豊かな荒川下流部は「自然河川」のように見えます。しかし、ここはかつて「荒川放水路」と呼ばれ、東京下町の洪水被害をなくすために約100年前につくられた人工の川なのです。
今回の里川文化塾では、岩淵水門周辺のまち歩きと荒川知水資料館の見学で、水の脅威と恵みを受けてきた地域の歴史に触れ、荒川放水路がつくられた背景を学びました。そして、岩淵から河口までの22kmを船で往復しながら、水害や地震への備え、自然環境保全など、防災面・環境面での荒川の役割を見聞し、流域の暮らしとの接点を探りました。
当日は、荒川知水資料館に隣接するamoaホールに集合。開会挨拶と短いガイダンスの後、岩淵水門周辺のまち歩きを行ない、昼食を挟んで荒川知水資料館を見学しましたが、まずは荒川がどんな川なのかを把握するために、資料館から紹介します。鴨川慎さんが展示解説をしてくださいました。
「荒川知水資料館は、地域のみなさまとの交流、荒川の情報発信基地として1998年(平成10)3月にオープンしました。国土交通省荒川下流河川事務所と東京都北区が運営し、年間6万2000人が利用しています。同館の愛称amoa(アモア)は英語名の『Arakawa Museum Of Aqua』からつけられました」
荒川は全長(流路延長)173km、流域面積2940km²。国が管理する一級河川で、流域は東京都と埼玉県にまたがり、流域内には970万人が暮らしています。源流の甲武信ヶ岳はその名の通り、甲斐(山梨県)、武蔵(埼玉県・東京都)、信濃(長野県)の境にあります。
かつての荒川は洪水のたびに氾濫を起こす「荒ぶる川」で、現在の元荒川(もとあらかわ)筋を流れていましたが、江戸時代初めの1629年(寛永6)、徳川幕府によって流路の付け替えが行なわれました。日光街道の治水対策、舟運の整備、新田開発などがその目的だったと考えられています。
荒川(隅田川)では、江戸時代に日本堤や隅田堤が築かれています。2つの堤防を漏斗(ろうと)状にすることで、大雨の際には上流側の水田地帯に遊水池的な機能を持たせ、江戸の市街地を洪水から守っていました。その結果、江戸市中は発展しましたが、上流側の農村は洪水にしばしば悩まされました。
明治時代に入ると「富国強兵」のスローガンのもと、東京は帝都として近代都市化が推し進められました。その過程で、隅田川沿いには多くの工場が立地し、工場労働者の流入による人口増加と市街地拡大が起こりました。
荒川(隅田川)では明治時代になっても洪水が頻発し、特に1910年(明治43)8月の洪水は、氾濫した水が日本堤や隅田堤を越えて東京の市街地にも流入、浸水家屋27万戸、被災者150万人という甚大な被害をもたらしました。
東京府(当時)や埼玉県では、それ以前から荒川の改修を望む声が高まっていましたが、明治43年洪水をきっかけに、明治政府は荒川の洪水対応能力を高めるための放水路計画に着手、翌1911年(明治44)から荒川放水路事業が始まりました。
荒川放水路の開削は、岩淵から東京湾まで延長22km、川幅(幅員)は上流部455m、河口部588m、水深は約3〜4mという大規模な工事で、移転を余儀なくされた住民は1300世帯にのぼりました。工事は当時の最新技術を導入し、人力、機械、船を駆使して進められ、掘削した土砂の総量は東京ドーム18杯分に及びました。
1923年(大正12)の関東大震災など多くの困難を乗り越え、1924年(大正13)の岩淵水門完成によって上流から下流までがつながり、通水が行なわれました。その後も関連する工事が続けられ、1930年(昭和5)、20年にわたる大工事の末に荒川放水路は完成しました。
荒川放水路の開削には、日本を代表する多くの土木技術者が関わりました。その一人、青山士(あきら)は、日本人で唯一、パナマ運河建設に参加した技術者です。東京帝国大学を卒業すると自らの意思で渡米、8年間パナマで工事に従事しました。帰国後、内務省(現在の国土交通省)で荒川放水路の工事責任者になり、パナマで培った技術を活かして事業に取り組みました。
荒川放水路は、1965年(昭和40)に「荒川」と名称変更しました。完成後80年以上にわたって流域のまちを洪水から守り続けていますが、近年はゲリラ豪雨や台風の巨大化などによる大洪水のリスクが高まっており、堤防決壊の防止策や大地震への備えが求められています。
岩淵水門周辺の北区志茂・岩淵町は、江戸時代の築堤(日本堤、隅田堤など)により、洪水時には遊水池化していたところです。amoaホールで地図を見ながら地域の変遷をたどった後、ナビゲーターの富田好明さんとプログラムリーダーの山畑・市川のガイドで約1時間半のまち歩きを行ないました。
岩淵は江戸時代、徳川将軍が日光東照宮に社参するときに利用した日光御成道(おなりみち)の最初の宿場「岩淵宿」があったところ。志茂は、その川下の村だったことから「下村」でしたが、1932年(昭和7)の東京市編入に際し、小字名だった「志茂」に表記変更しました。
明治末の放水路開削前(下左図)は、赤羽に鉄道が通り、下村も岩淵も集落が拡大しています。荒川対岸のグリッド状の土地は、下村と岩淵の入会地(いりあいち)だった飛地、梛野原新田(なぎのはらしんでん)です。放水路開削にともない、志茂地区の3分の1は河川敷用地として売却、志茂と岩淵の間の田んぼは、開削時に出る土砂を入れて宅地化されました。
明治初期、北区南部の王子・滝野川地区は日本近代産業発祥の舞台でした。1872年(明治5)に洋式紡績工場(鹿島紡績所)が操業を開始。1875年(明治8)には渋沢栄一が設立した抄紙会社(王子製紙の前身)が操業。1876年(明治9)には大蔵省紙幣寮抄紙工場(国立印刷局王子工場の前身)ができ、越前和紙職人を呼び寄せて、初の国産紙幣が印刷されました。
そのため、周辺に化学薬品やフェルト製造などの関連工場が立地しました。明治中期〜大正期には赤羽の台地上に陸軍の工場ができ、王子・赤羽一帯は一大工業地に変貌。1923年(大正12)の関東大震災による被災者流入などもあり、志茂・岩淵の人口は増加の一途をたどります。そんなさなか放水路が完成し、荒川の洪水に悩まされていた農村の面影はなくなりました。
志茂橋を渡ってまち歩きスタート。橋の近く、新河岸川の堤防沿いに鎮座している水難供養のお地蔵さんは、1965年(昭和40)に一住民の篤志で建立され、志茂5丁目の志茂五水門自治会が管理しています。「水門」は地域の呼称でもあったそうで、放水路や岩淵水門への住民の思いが自治会名に残されているのかもしれません。
岩淵町の鎮守社、八雲神社は敷地全体を土盛りした水屋(みずや)になっています。「祭神の須佐之男尊(すさのおのみこと)はキュウリ畑で命が救われたという伝説があるので、キュウリが祀られています」と富田さん。キュウリといえば河童がつきもの。このあたりには河童伝説があるそうです。
「岩淵かっぱ広場」は、北区の防災生活圏促進事業により1999年(平成11)にオープン。広場づくりに関わった富田さんは、「住宅密集地で火災が起きたときの延焼対策として、空き地を区が買い取り、防災広場にしました。ワークショップを開き、住民と行政の協働により設計した防災広場第1号です」と話してくださいました。
岩淵町に宿場町の面影はあまり残っていませんが、旧街道筋(国道122号)の一角には寺院が集中しています。また、新荒川大橋のたもとには1878年(明治11)創業の東京23区唯一の蔵元「小山酒造」があります。一帯の地下には秩父山系から流れる浦和水系が走っており、この地下水を利用して清酒「丸真正宗」がつくられています。
地下水に恵まれた志茂・岩淵界隈は、豆腐屋、風呂屋が比較的多いようで、志茂で銭湯「テルメ末広」を営む徳江康幸さんのお話では、赤羽周辺の銭湯はおおむね地下水利用とのこと。水温は1年を通して16℃前後。1日に約15tの地下水を汲み上げて温め、浴室に供給しているテルメ末広では、北区と連携し、災害時は水の提供を行なうことにしているそうです。
昔田んぼだった志茂5丁目界隈を通り、もともと水路だったとおぼしき路地などを見ながら「志茂ゆりの木公園」着。志茂小学校跡地に整備された防災機能を持つ公園で、志茂まちづくり協議会と地元自治会が中心となり住民参加による企画・管理・運営を実現、2010年(平成22)5月に開園しました。
志茂4丁目にある熊野神社は、近隣の西蓮(さいれん)寺の住職が1312年(正和元)に創建したという志茂の鎮守社。本殿は土盛りした水塚(みづか)になっています。荒川対岸にあった梛野原稲荷神社と渡し場にあった水神宮が放水路開削に際して遷座し、境内に祀られています。
密集した住宅地の中を通って西蓮寺へ。鎌倉時代の弘安年間(1278〜88)開山と伝えられる真言宗智山派の古刹(こさつ)です。
西蓮寺周辺は旧下村の中心部にあたります。昔からの集落は微高地(自然堤防上)にありましたが、たびたび洪水にさらされたので、宅地を土盛りしたり、避難小屋を建てたり、舟を備えたりしました。富田さん宅も昔は軒下に舟を吊っていたそうです。今でも道路面より高い敷地に建った家屋敷が多く、洪水対策の名残をとどめています。
志茂3丁目には2012年(平成24)6月にオープンした「志茂三丁目小柳川公園」があります。「日本化薬(株)の研究所跡地を区が買い取り、志茂まちづくり協議会と地元自治会を交えた公園プランづくりをワークショップ形式で行ないました。約2年にわたって話し合い、ゆりの木公園での反省を踏まえて整備しました」と富田さんが説明。岩淵の広場より格段に進化したかまどベンチ、医療拠点や物資置場になる防災あずまや、災害用トイレ、ソーラー照明などを備えています。
「公園名にある小柳川は荒川に通じる水路で、農業用水や子どもの遊び場に利用されていました。今は暗渠(あんきょ)になっています。北区では昔、子どもが川に落ちて裁判になり、管理責任を問われた区が敗訴した経緯もあって、小さな川は昭和30年代に埋め立てや暗渠化が進みました。公園づくりにあたっては昔の土地の姿を後世に伝えたいという意向を持って臨みました」と富田さん。
かつて川だった道を通って志茂銀座商店街に出ました。岩淵宿に通じる旧街道です。沿線の祠などを見ながらamoaホールに戻りました。
ここで、岩淵・志茂地区の舟運について触れておきます。
かつて江戸近郊の農村では、町場の屎尿(しにょう)を買い(もしくは野菜や薪炭と交換)、農作物の肥料にしていました。下村ではこれらを運ぶ肥舟(こえぶね)を扱う家が多く、1858年(安政5)の記録で31人、大正時代には40軒ほど従事していましたが、関東大震災を境に消滅したそうです。(参考資料:北区史編纂調査会編『北区史 民俗編2』東京都北区)
新荒川大橋付近には、岩淵宿ー川口宿を結ぶ渡船場がありました。中世の『義経記(ぎけいき)』にも記述があり、明治以降も利用されましたが、1928年(昭和3)の新荒川大橋開通によって消滅しました。荒川対岸の農地に行く渡しも2ヵ所あり、1ヵ所は放水路の工事で河川敷となり消滅、もう1ヵ所は1933年(昭和8)頃まであったそうです。(参考資料:同上)
渡し船は現在も見られます。隅田川の志茂ー足立区新田(しんでん)間を結ぶ(株)日本化薬東京の渡船です(里川文化塾当日は、荒川の堤防上から桟橋を望むにとどめました)。同社は、1916年(大正5)に火薬製造会社として誕生後、染料会社、製薬会社を吸収合併してできた総合化学メーカー日本化薬グループの一員で、染料やプリンター用インクを製造しています。
戦前の合併で、隅田川の対岸(新田)にある染料工場との行き来が必要になり、1949年(昭和24)から渡船の運航を開始。当初は木造の手漕ぎ舟でしたが、現在はFRP船外機船(定員7名)とFRPディーゼル船(定員12名)を使い、従業員の通勤や業務連絡などで随時運航しています。
片道1回として1日平均277回(年間6.9万回弱)運航、1日平均259名(年間6.4万人強)が利用(2006年8〜9月、同社調べ)。業務用として許可申請している渡船なので一般の部外者は利用できませんが、消防署、警察署の依頼により隅田川や荒川での水難事故の捜索、救助に協力しているそうです。
船着場に向かう前に、岩淵水門へ。太田裕史さんの解説です。「この水門から下流が隅田川で、河口まで23.4kmあります。荒川の洪水時は水門を閉め、増水した荒川の水が隅田川へ流れるのを防いでいます。1982年(昭和57)の完成以来、この水門を閉めたのは4回のみです」
「水門のゲートは3門あり、1門の重さは214t、面積は小学校の教室の8面分あります。1門閉めるのに45分かかりますが、順次動かすので1時間あれば3門とも閉まります。水門は電動で降ろす仕組みになっていて、事務所の災害対策室で遠隔操作できます。しかし現在、耐震対策として自重降下できるよう改修工事をしています」
「ここで隅田川と荒川(放水路)の堤防の高さを見比べてください。このあたりの荒川の堤防の高さはA.P.12.5mです。一方、隅田川の堤防は約7m。荒川に流す水の量がはるかに多いので、そのぶん堤防を高くしています」
A.P.とはArakawa Pailの略で、Pailはオランダ語で基準という意味だそうです。1873年(明治6)に隅田川河口部の霊岸島(れいがんじま)に水位の高さを計る量水標が設置され、そのゼロの高さをA.P.ゼロに設定しました。荒川水系の水位の基準で、堤防の高さもA.P.をもとに決められています。
老朽化によって役目を終えた旧岩淵水門は、モニュメントとして残されています。ゲートは当初ネズミ色で、赤は錆び止めペイントでした。その近くの川の中に、過去の大規模洪水時の水位を示したポールが立っていて、一番高い位置には1947年9月のカスリーン台風時の最高水位A.P.8.60mとありました。
岩淵リバーステーションから荒川下流河川事務所の「あらかわ号」に乗船しました。リバーステーション(緊急用船着場)は、災害時の復旧活動に必要な資機材や救援物資などの積みおろしを行なう場所ですが、平常時も利用されています。ここから河口まで22kmを往復しました。往路は鴨川さんと太田さんによる沿川ガイド、帰路は宮村忠さんのレクチャーと質疑応答で、約3時間の船による荒川探訪です。
「あらかわ号は、有事の際に人や軽い荷物を輸送したり、被害状況を調査するための災害対策支援船ですが、平常時は今日のような活動に利用しています。大地震などが起きると陸上交通網が機能しなくなる可能性がありますから、水上からの復旧活動は有効な手段だと考えています」
「荒川下流部は勾配が緩やかで、5〜10kmで1mの高低差があります(河床勾配5000〜1万分の1)。また、河口に堰がないので、岩淵の10数km上流にある秋ヶ瀬取水堰までは潮の干満の影響を受けます。荒川上流河川事務所が管理しているこの堰で、東京都と埼玉県で使う上水を取水しており、東京は朝霞(あさか)浄水場、埼玉は大久保浄水場に送られます」
「荒川下流河川事務所では、河口から30kmを管理しています。岩淵地点で河口から約21kmですから、今日は私たちの管理区間の3分の2を見ていただくことになります。ところで、川は自然に流れているのに、何を管理するのかと思われるかもしれませんので、河川管理者の仕事について少しお話しします」
「河川を管理するうえで、定期的に測量を行ない、川底が掘られる傾向にあるのか、逆に土砂が堆積する傾向にあるのかなど、川の変化の傾向を把握することも重要な仕事です。過去38年間の調べでは、荒川下流部の川底は安定していますので、土砂が溜まりやすい水門の出口や支川の合流部などを除いて、現在浚渫(しゅんせつ)は行なっていません」
「河川の状態を把握するという点で、水質調査も大切な仕事です。川の汚れ具合を表わす指標はBOD(生物化学的酸素要求量)が用いられ、荒川下流では、おおむね5mg/ℓという数値となっています。数値ではわからないと思いますが、コイやフナなどが棲息できるくらいの水質だと思ってください。一般的に、川の水質は上流から下流にいくにつれて都市化によって汚れていくものだと思われているかもしれませんが、荒川は海水が入ってくるので、上流よりも下流のほうがきれいな傾向にあります」
「雨量の把握も欠かせません。どれくらいの雨量でどれくらい水嵩(みずかさ)が上がるのかを知らなければ、岩淵水門を閉める判断もできません。洪水時にどれだけの量の水が流れるかを調べる高水流量観測も行なっています」
「荒川の河川敷は野球場やゴルフ場などに利用されています。また、緊急時の物資輸送のために整備した道路をサイクリングやウォーキングで利用している方も多いです。みなさんが譲り合って自由に使うというルールのもとに開放していますが、周囲への配慮に欠けるゴルフの練習、リードを外した犬の散歩、高速自転車と歩行者の衝突など、河川敷利用のマナーの悪化も課題となっています。河川敷という土地を個人が使用することはできないのですが、ホームレス約500人が暮らしています」
進行方向の右手(右岸側)に、マンション群が見えてきました。新田地区の高規格堤防、いわゆるスーパー堤防です。「高規格堤防は、通常の堤防よりも幅を広くとっています。たとえば岩淵周辺の堤防の高さは約12mですが、その高さを1とすると、高規格堤防はその30倍の幅を持たせ、耐震構造になっていますので、水の浸透や大地震に耐えられます」
「万が一、大洪水によって水が堤防を越えても、決壊による壊滅的な被害は防止できます。まちと川が分断されない環境も魅力です。しかし、高規格堤防は大規模な市街地再開発事業などと連携しないと実施できません。100年単位ぐらいの長いスパンで計画しないと進められないので事業仕分けで取り上げられたのですが、堤防が決壊した場合に人命を守ることを最優先に考えた結果、荒川下流部はそのために必要な区間として高規格堤防事業を進めています」
定期的に流量観測を行なっている西新井橋の下を通過しました。関東厄除け三大師のひとつ、西新井大師が近くにあり、そこは牡丹(ぼたん)の名所なので欄干に牡丹をあしらっているそうです。
川の中に、ロケットのようなものが見えてきました。水位観測所です。「岩淵水門の上流にも同じような水位観測所があり、データはリアルタイムに無線で飛ばし、事務所の災害対策室で確認できます」
「今、船のスピードが落ちたのにお気づきになられたでしょうか?」と鴨川さん。「波線に赤の斜線が入った標識が見えると思いますが、ここにはヨシ原がありますので、大きな波でヨシを傷めないよう減速区域を表わす標識です。ほかにも進入禁止や追い越し禁止など、私たちの事務所が独自につくった船の航行用標識があります」
ヨシ原の前には木杭が並んでいます。これは、川岸の植物を波から守るために設置した波消し(消波工)だそうです。自然素材を使った土木構造物は、穏やかな水辺の風景を演出していました。
堤防工事をしているところにさしかかりました。「洪水や雨水が堤防に染み込まないよう、堤防強化対策をしています。調査の結果、荒川下流では安全性不足で対策が必要な区間が27kmあり、順次工事を行なっています」
「管理者からみた道路と河川の大きな違いは、河川は工事をする時期が限られていること。河川管理者が相手にしているのが自然現象だからです」と太田さん。「1年のうち、洪水が起こりやすい時期(出水期)は、工事の影響で堤防が壊れることがないよう堤防改修などは行なっておりません。統計上10月を過ぎると台風はあまり来ないので、それから梅雨入りまでの期間で工事をしています」
「右岸に隅田水門が見えてきました。放水路事業にともない、1919年(大正8)に起工された水門で、舟運の確保と荒川の洪水が隅田川に入らないようにする役目があります。荒川沿いの水門や排水機場では耐震対策の工事が順次進められています」
四ツ木橋にさしかかると、東京スカイツリーが間近に見えます。「このあたりの左岸から見るスカイツリーは、障害物がないので開放感があり、個人的には一番きれいだと思っています。よろしければ後日、足を運んでみてください」と太田さんおすすめのスポット。
「荒川下流部には道路、鉄道を含めて30の橋が架かっていますが、橋梁(きょうりょう)の高さ不足の影響で、局所的に堤防の高さが低い区間があります。都心と成田空港を結ぶ京成本線の荒川橋梁は、荒川下流部で最も高さが不足していて、増水時にそこから水が溢れてしまう危険がありますので、現在、鉄道事業者とともに橋の架け替えを行なっています」
河口から約7km、左岸の首都高速道路上に「かつしかハープ橋」が架かっているあたりの地図を見ると、左岸側に中川、右岸側に蛇行した旧中川があります。「中川を分断する形で放水路が通っています。左岸側の中川は、放水路をつくったときに付け替えて、荒川と並行して海に流すようにしました」
なぜ、中川を放水路に合流させなかったのでしょう?
「荒川と中川は、洪水のピークに時差があります。荒川の流域は広く、源流の秩父の山奥で降った雨は約1日〜1日半かけて流下してくるのに対し、中川流域はずっと狭いので早く洪水がやってきて、荒川の水がピークのときに中川に逆流してしまいます。また、逆流しなくても中川の水が吐けずに溜まってしまうこともあります。そこで、荒川と中川を分断して流しているのです。川と川に挟まれた堤防(背割堤:せわりてい)を中堤、中土手と呼んでいます」
「左岸の首都高速江戸川線は、中堤の上に延びていて、堤防に橋脚が刺さっている状態です。通常、堤防内には構造物を入れません。洪水時にはそういうところから水道(みずみち)ができ、破堤が心配されるからです。しかし経済効果などの点から、道路と河川の事業者が協力してこのような道路ができました。橋脚の基礎は岩盤まで埋まっていますが、地震震動や平常時の交通震動が堤防に悪影響を及ぼさないよう、鞘管(さやかん)構造といって、堤防と橋脚を独立した構造にしています」
河口から約5km、首都高速7号線の橋付近の右岸側では、自然再生事業が行なわれています。「垂直の矢板護岸を撤去して、緩やかな傾斜をつけた水際にし、ヨシ原や干潟の再生を図る自然地再生試験工事を実施しています」
続いて小松川地区の高規格堤防区間です。このあたりは工業用の地下水汲み上げなどによる地盤沈下で、海面より標高が低い海抜ゼロメートル地帯。「住宅や工場、商業地が密集し、防災上のリスクが高い地域でしたが、東京都の市街地再開発事業と併せて高規格堤防を整備しました。同時に江戸川区が千本桜の整備を手がけ、1.9kmの桜並木は東京の新名所にもなっています」
荒川ロックゲートが見えてきました。ロックゲート=閘門(こうもん)は、水面の高さが違う2つの川の間を船が通行できるようにするための施設です。荒川と旧中川は水位差が最大3.1m違うため、2つのゲートを設けてその間で水位を調節し、水面の高さを同じにしてから船を通すという、いわば船のための「水のエレベーター」です。
2005年(平成17)10月に完成した荒川ロックゲートによって、荒川と旧中川が結ばれ、小名木(おなぎ)川を経由して隅田川ともつながりました。これで江東デルタ地帯への水上交通が荒川・隅田川の双方向から確保され、震災時の救援物資や復旧資材の運搬、被災者の救出など、災害時の支援活動が速やかにできるようになったのです。
「これから旧中川に入ります。荒川側のゲートを前門、旧中川側を後門といい、2つのゲートの間を閘室(こうしつ)と呼びます。閘室に船が入ったら前門を閉じ、閘室の水位を旧中川の水位と合わせます。そして後門を開けて船を進めます。旧中川から荒川に出る際はその逆になります」
旧中川から今度は閘室の水位を上げて荒川に戻りました。ロックゲートの通過体験後、船はさらに下流へ。清砂大橋をくぐると、中川との合流点が荒川ゼロkm地点。以前はここが河口でしたが、埋め立てによって川の長さが4km延び、ここから先は、マイナス1km、マイナス2km……と数えるそうです。
「右岸側に2005(平成17)〜06年(平成18)に造成した新砂干潟があります。それまでは人工的な護岸でしたが、試験的に人工干潟を造成しました」
最も海寄りに架かるJR京葉線の橋梁を過ぎると、もう海です。海に入った途端に波が高くなりました。「左手に葛西臨海公園の観覧車が見えます。その向こうが東京ディズニーシーです」と太田さん。ここでUターンして、宮村忠さんのレクチャーを聞きながら、上流に向かいました。
今、荒川の河口にいますが、進行方向左手が江東区、右が江戸川区です。川には源流と河口があって川の長さが決まりますが、水源に定義はなく、人為的に決められているにすぎません。長江は、ヒマラヤ山中で新しい水源が見つかったとかで、川の長さが400kmも延びました。利根川一本分が突然現れたわけです。水源に対してこだわりがないから、そういうことが起きるのです。
本川(本流)、支川(支流)というのも、河川管理上決めておいたほうが便利なだけで、定義はありません。川の名前も案外変わりやすいです。荒川放水路も1965年(昭和40)に「荒川放水路」から「荒川」に呼称を改め、荒川本川下流に位置づけられました。それまでは隅田川が本川または旧川とされていました。
隅田川は国が管理する一級水系ですが、東京都が委託管理を受けています。放水路開削の頃から隅田川はひどく汚れていました。メタンガスが発生して、金糸を使った高級な着物などは黒く変色しましたから、芸者さんは屋形船に乗らなくなりました。
私が子どもの頃、隅田川に関する市民アンケートでは、埋めてしまえという意見が圧倒的に多く、かなり真剣に埋め立てが検討されていました。その代わりが、川の上の首都高速道路ですが……。高度成長期時代の、早く、安くつくってしまおうという短絡的な考えでこんなことになってしまったのです。
ところで今、舟運復活の声が聞かれますが、物流としての舟運を考えるのであれば、航路の確保やどういう船を通すかなど船を動かすための要素や、接岸場所や荷上げ場、荷さばきしたものを運び出す道路などにも目を向ける必要があります。それらをセットで考えなければ、昔あった船だけ復活させても意味はありません。
明治時代の帝都建設では、物流の拠点として船と鉄道をセットで考えていました。東京駅の計画は船と鉄道の組み合わせでしたが、船はやめてしまいました。秋葉原、南千住の駅では実現し、名古屋や大阪でも駅と船がドッキングして物流機能を果たしていました。鉄道が通ったから船が衰退したとよくいわれますが、そんなことはありません。
しかし、日本人はどちらか一方に統一したがる傾向があるんでしょうね。日本の港では船の形がみんな同じですが、外国の港に行くとさまざまな船が見られます。太平洋などでは大型タンカーが帆を上げて走っています。加速度がついたら帆を使ったほうが効率的なんですね。
荒川放水路は今から約100年前に工事が始まりました。明治も半ばを過ぎると東京の帝都建設は進み、日本銀行本店(1896年〈明治29〉竣工)や銀座煉瓦街ができました。1914年(大正3)には皇居正面に東京駅が竣工し、帝都の玄関口と謳われました。帝都ですから防衛機能も必要です。火薬などをつくる化学薬品の工場がたくさんでき、労働者人口も増えていきました。
ところが具合の悪いことに、荒川沿いでは当時、洪水が頻繁に起こりました。特に1896年(明治29)、1902年(明治35)、1907年(明治40)など、明治元年から同40年の間で床上浸水などの被害をもたらした洪水は10回以上ありました。東京郊外がだんだん市街地化するにつれ、洪水被害も拡大していき、荒川の治水対策が検討されていました。
こうした動きのなか、1910年(明治43)の洪水で、ここから60〜70km離れたところにある利根川右岸側の中条堤が壊れ、東京まで水が来ました。荒川、隅田川も氾濫し、帝都東京は大きな被害を受けました。これが契機となって、荒川放水路をつくることが決定されたのです。
実は、荒川放水路は変な形をしています。放水路は隅田川が溢れないようにするためのバイパスです。道路はバイパスのほうが長くてもいいのですが、河川のバイパスは水を早く流すためのものなので、通常は本川より短いものなのです。ところが、荒川放水路は当時の本川よりも長いのです。
その理由は、これまで指摘されていなかったことですが、利根川や荒川の洪水から帝都東京を守る意味合いが大きかったのではないかと推測されます。放水路開削当時の堤防は、左岸に比べて右岸のほうが天端(てんば)幅が広いのです。このことは、荒川放水路建設100年の記念誌『荒川放水路変遷史』に初めて書かれました。なお、現在の堤防は左右岸とも同じ幅になっています。
1947年(昭和22)のカスリーン台風時に利根川で堤防が切れて、氾濫した水は放水路の左岸まで来ましたがそこに留まり、都心部には達しませんでした。このことから、放水路は隅田川だけでなく利根川の洪水から帝都を守るためのものでもあったことが実証できました。逆に、東京でも荒川左岸の葛飾区、足立区、江戸川区は大洪水のときに被害をこうむる立場だったことになります。
江戸川区はほとんど田んぼでしたが、荒川放水路開削後、中小の工場ができ、燃料には天然ガスが使われました。放水路の左岸側から房総半島にかけては天然ガスが採れますから。天然ガスは地下水を汲み上げながら採取するので、地盤沈下が起こりました。
江東区は明治以降、水運を利用した工場地帯で、浅野セメント工場をはじめ大きな会社がありました。縦横につながる運河は物流のルートとなり、水路沿いは工場が林立しました。しかしながら、江東区の工場地帯では隅田川の水が使えませんでした。
荒川、隅田川の水を使おうと思ったら、埼玉県熊谷の川が平野に出るところ以外からは取水できません。なぜなら荒川は、天井川にはならず、どんどん掘られていく川だからです。これは東京の弱点でもあって、江戸時代にも多摩川から玉川上水を引いたり、東部では本所上水を引いたりしましたが、まったく足りず、各家庭は井戸水を使っていました。
明治以降にできた工場では大量の水を使うので、地下水をどんどん汲み上げた結果、地盤沈下が起こりました。最も沈下したのは放水路が完成した後で4mも下がりました。現在では江戸川と隅田川に挟まれた江東デルタと呼ばれる地域は海抜ゼロメートル地帯です。
そこでスーパー堤防の話が出てくるわけです。スーパー堤防というと批判されたりしますが、要は盛土です。沈下した地面は土を盛るしかありません。ただ、広大な土地を一気に盛土するわけにはいきませんので、できるところから少しずつ手をつけて、100〜200年単位の長いスパンで考えざるを得ません。
ところで、コンクリートの垂直の堤防のことをよくカミソリ堤防と言いますが、これは誤りです。もともと内務省の隠語で「切れやすい」堤防のことを指していたのが、いつの間にか誤用されるようになったのです。
カミソリ堤防は、いざという時ここを切るのが一番被害が少ないとか、その間に逃げようとか、万が一の際のヒューズです。全国の川には必ずヒューズがありました。これが無いのは恐いことで、たとえば両岸とも同じ強度の堤防は実は危ないのです。どこが壊れるかわからないから。壊れる箇所が想定できたほうがいいのですが、ヒューズを設けることができなくなったことが、現代の川の不幸といえます。
Q「西蓮寺は鎌倉時代創建とのことでしたが、当時、それ相当の集落があったのですか」
富田さん「記録がないので明確ではありませんが、お寺ができるということは、その周りに人が暮らしていたのだと思います。西蓮寺の住職は知人ですので、お寺も含めて志茂の歴史をもっと調べてみたいと思っています」
Q「防災広場などは、どのような災害を想定しているのですか。また今後、この地域に洪水被害はあり得るのでしょうか」
富田さん「志茂地区は木造住宅密集地域のため、防災広場などは、地震時の倒壊や火災時の類焼を防ぐフリースペースと一時避難場所として考えられています。住民としては、地震よりも洪水の心配の方が大きいのですが……。昔は家に舟があったり、大切な物は2階に置くのが当たり前でした。電柱に洪水時の水位が示されていて、住民に注意は促していますが、避難訓練で区が決めたルートを通って逃げたら、実はその途中が浸水区域だったことがあります。とにかく水が出たら高いところに逃げるしかありません」
Q「岩淵・志茂地区の水害はどの川によるものですか」
太田さん「岩淵・志茂地区の水害は、時代によって異なります。荒川放水路ができる前なら隅田川によるものですが、放水路ができてからは、下水や小河川がキャパシティを超えて溢れ出る内水被害によるものです」
Q「新河岸川の名前の由来は?」
宮村さん「河岸(かし)は江戸時代に出てきた言葉で、荷さばき場のある船着場を指します。新河岸川は川越と江戸を結ぶ舟運路でした。材木やサツマイモなどを船で積み出すために、あちこちにできた河岸を新河岸といい、そこから新河岸川と呼ばれるようにもなりました。また、船にたくさんの荷が積めるよう、川を蛇行させることで水深を下げ、流量の安定化を図りました。茨城の小貝川もその典型ですが、九十九曲がりと呼ばれ、勾配のない関東平野の舟運路の特徴です。そういう川はよく氾濫していましたが、深刻な被害が出なければいいんです。新河岸川は、明治期の荒川改修に併せて改修されました」
太田さん「現在、新河岸川は岩淵水門の下流で隅田川に合流していますが、1920年(大正9)頃までは荒川本川の笹目橋のあたりで荒川に合流していました」
Q「荒川下流域ではいつ頃まで洪水があったのでしょうか。堤防を少し高くしただけでは荒川破堤の対策にはならないと思うのですが、そのような場合の防災計画はどうなっていますか」
太田さん「荒川放水路ができてから荒川本川の堤防が切れて氾濫したことはありませんが、1999年(平成11)に熱帯低気圧豪雨により比較的大きな水害が発生しました。被害は荒川流域全体で、半壊・全壊・流出を含めて2戸、床上・床下浸水は2363世帯でした。堤防を多少高くしても破堤を完全に防ぐことはできません。堤防の嵩上げや強化はハード対策ですが、日頃から避難場所などを確認しておくといった住民自らのソフト対策も重要だと思います」
宮村さん「わが家も防災計画を立てていますが、洪水時にむやみに逃げるのは考えものです。パニックを起こすこともあるし、高いビルに逃げても水に浸かったら電気は使えません。下水処理場が浸水したらトイレが使えないし、浄水場が浸水したら復旧に8〜10日かかるそうですから、むしろ堤防に避難したほうがいいかもしれません。逃げるなら何も持たずに逃げる。重要な物の置き場は決めておいて、後で取りに行けばいいんです。
ゼロメートル地帯の江東区にあるわが家はリフォームしたばかりで、雨水は3ヵ所で受けるようにし、家の土台は1.5m高くしています。安心できる高さではないけれど、びくびくしながら暮らしているわけでもありません。災害は、受け止める側の資質によってずいぶん異なります。荒川の堤防は頑丈で大丈夫だと思う人もいれば、不安に思う人もいます。私は、堤防が安全だと思っている人には、いつ壊れるかわからないよと言い、危ないと言う人には、そんなに心配するなと言っているんです」
水塚があったり、軒下に船が吊るしてあったことなど、木曽三川の輪中と同じ対策をとっていたことに共感を覚えました。(60代男性)
水屋、水塚、自然堤防上のまちづくりに関心を持ちました。(60代男性)
スカイツリーの見え方が変わるのは、新たな荒川の面白さでしょう。是非、荒川の舟運を復活したいです。(30代男性)
以前、隅田川の汚染がひどく、埋めようとしていたことに驚きました。荒川ロックゲートの水のエレベーターは面白かったです。(20代女性)
荒川放水路の必要性や工事の経緯、隅田川との関係が理解できました。旧水門をよくぞ残したと思います。(60代男性)
amoaの洪水シミュレーションにみんな釘付けでした。洪水時に自分の地元がどうなるのか、やはり気になります。(50代男性)
河川事務所が実に多面的な仕事をしていると知って驚きました。また、川は人間がいろいろ手を加えたぶん、管理もきちんとしなくてはいけないのだと思いました。(60代女性)
宮村さんのお話にあった帝都がつくられた経緯に興味を持ちました。(60代女性)
宮村さんの荒川放水路が利根川の洪水対策だったという話に驚きました。(60代男性)
「自然河川に比べて河畔に歴史が感じられない。100年経ってもそうなのかと思いました」。参加者のお一人がくださった、船上から荒川(放水路)を見ての感想です。
ひるがえって、岩淵水門周辺のまちには、土盛りした神社や民家など、水害に悩まされていた時代の記憶が刻まれていました。また、ゼロメートル地帯のスーパー堤防の整備は100年単位のスパンで考えなければならないことです。
都市開発でまちが一気に変貌することもありますが、川の姿は、自然の営みと人との関わりのなかでゆっくり変わっていくものなのでしょう。これから100年、1000年……、荒川はどういう歴史を積み重ねていくのでしょうか。
(文責:ミツカン水の文化センター)