機関誌『水の文化』16号
お茶の間力(まりょく)

茶の湯 そのコミュニケーションの仕掛け 社交をつくる喫茶文化

熊倉 功夫さん

国立民族学博物館教授
熊倉 功夫 (くまくら いさお)さん

1943年生まれ。東京教育大学大学院博士課程修了。京都大学人文科学研究所講師、筑波大学教授を経て現職。 主な著書に『茶の湯の歴史』(朝日新聞社、1990)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店、1997)、『文化としてのマナー』(岩波書店、1999)他多数茶の湯そのコミュニケーションの仕掛け社交をつくる喫茶文化

なぜ、お茶が人を惹きつけるのか

お茶を飲むようになった最初は、薬効を期待したことからだとも言われていますが、それだけではお茶がここまで普及することは有り得なかったでしょう。では、なぜお茶がこれほど支持されたのか。

一番無防備になる瞬間を、人は「恥ずかしい」と感じ、「他人に見られたくない」と思います。食べたり飲んだりしている姿は人間が無防備になるし、あまり美しいとはいえません。だから、人に見られると恥ずかしい。ですから、他人に見られないように食事をとる民族もいるぐらいです。食事作法というマナーは、食べるという恥ずかしさを回避するため洗練されてきたのです。

しかしその裏返しで、無防備な状態を互いに見せてしまえば、親しくなれるということもあります。ですから親しくなるために、今でも一緒に食事をします。その際、お茶やコーヒー、酒を飲むのです。一番本心が出やすいのはお酒だと思いますよ。酒の効果が麻酔的効果だとすると、茶やコーヒーなどカフェインを含んだ飲料には覚醒的効果がある。どちらにも共通しているのは「日常の自分ではなくなる」ということを目的にしている点です。それによって、互いに自分をさらけ出し、おつき合いができるというのは、まあ常ならぬ体験なのでしょうね。そこまで意識しているかどうかは別にしても、お茶やアルコールを飲むときにはそのような期待を抱いていると思います。

ですから、「なぜ飲むのか」と問われれば「美味しいから飲む」のですが、飲んだ結果として「普段と違った気分になるということへの期待」があると思いますね。

ストレス対処法

茶の受容の過程は、文化によって2種類の違ったタイプがありました。元々覚醒作用のある植物が身近にあった文化圏、茶やコーヒーなどカフェインを含んだ植物が自生していたアジア、コカの葉(コカイン)があった南米、煙草の葉(ニコチン)があった北米では、共同体を維持するための一つの方法としてそれらが使われていました。民族儀礼の中でお茶を飲むことが、共同体の結びつきを強化するための場になっていたのです。ただ、それはまさに中世的な共同体が存在していた時代での話。ヨーロッパなどの地域では18世紀になってから、商業的な活動の中で新たにこれらの製品を獲得していきました。ヨーロッパにとってのお茶は、17世紀の大航海時代を経て、近代化の過程で輸入文化として入ってくるわけです。

茶は18世紀に入ると、世界中に急速に伝播し、ほぼ同時期にコーヒー、煙草、チョコレートも拡がります。なぜ、こういうものが世界的に受容されていったのか。これは私の推測ですが、「産業化」に原因があると思っています。

社会が近代化、産業化に直面した時代は、物と人が距離をものともせずに移動を始めた時代でもありました。かつての農村のように、村人全員の顔を知っている社会とは違い、身近に入りこんだ見知らぬ人間ともつき合っていかなくてはなりません。そこで生じるストレスを解消する方法を、新たに作り出す必要が出てきたのです。

ストレス対処法の前段階として、ヨーロッパではエチケットがルネッサンス以後の14〜15世紀に成立しています。この場合エチケットと呼ぶのは、広範の礼儀のことです。マナーはどちらかというと、もう少し狭い世界での様式的な作法と捉えられます。例えばAの地域しか通用しないマナーは、Bの地域では役に立ちません。AでもないBでもないCでもない、どこでも使っていない新しいマナー、つまりエチケットを人々が作り学習すること、つまり自分の土着的なマナーを主張しなくなった結果、お互いが上手に交流ができるようになりました。人間が文明化し始め、都市が急速に繁栄し、いろいろな人間が集まってきます。そこにエチケットの最初の成立があります。

産業革命は、このようにして始まった見知らぬ人とのコミュニケーションをますます深めていきました。産業革命の後になると、今度は階層を越えた交流と集住が始まります。その結果、強いストレスは一層助長されるようになり、鎮静効果を持った飲み物が拡がったのではないか、と私は考えています。

コミュニケーションのクッション

あまり実証的な話ではありませんが、人間がコミュニケーションするときには、クッションになるものが必要です。特に我々日本人は、目と目を見合わせて話すということは苦手ですよね。私は今、あなたとは対面ではなく90度の位置で話していますが、茶の湯もそうです。亭主が座ると、亭主に向かって客は正面に向き合わず、必ず方向を変えます。そのほうが話しやすい。お互いが直にぶつからないように、クッションとして機能する介在物、掛け軸、生け花、茶碗など、何か目のやり場となる物があるといい。これは意外と大事なことなんですね。

人間と人間の間に物が介在することによってコミュニケーションがスムーズにいくわけですが、酒、煙草、お茶もそのような介在物としての効果を持っていると思います。

イギリスに最初のコーヒーハウスができたときは、ものすごい煙草の煙で、向こうが見えなかったそうです。コーヒーハウスでは、ビジネス上の情報公開が行われ商談も行われました。新聞もそこから誕生しました。つまり男性しか入れないクラブハウスの役割を担ったわけです。このような場がどうして成立するかというと、この場合は煙草とコーヒーがキーポイントになっています。煙草とコーヒーが介在したことで、コミュニケーションがうまくいくというクッションの文化。それが近代化、産業化の中で、お茶に託された一つの役割だったのではないかという気がします。

日本人の道具数寄

――日本には茶道はあっても、酒道はないしコーヒー道も聞きません。なぜお茶がマナー化したのでしょうか。

酒道もコーヒー道も、ないことはないのですがね。

少し周辺のことから話しますが、日本人は物を飾ることが好きです。現在の皆さんの家を見ても、箪笥やピアノの上に何か飾ってあったり、テレビの上にも何か置いてある。やたらに物を置くのが好きですね。平安時代でも枕草子にも出てきますが、絵を掛けたり、縁先に花を生けたり。こうしたことは外国へ行くと意外と少ない。欧米では、親族の写真を飾ったりすることはありますけれども。

この「物を並べる」という習慣がいつごろからできたのかというと、鎌倉時代あたりからと言ってもいいかもしれませんね。実はそのころから、中国の物、つまり唐物(からもの)が大量に入ってくるんです。お寺や大名、貴族も唐物を飾るようになります。貴重品への執着もあって、おそらく日本人の物好き心を刺激するんでしょう。そうして物数寄な人がたくさん出てくるのです。そういう人を、当時から「唐物数寄(からものすき)」と呼んでいました。

ここで注目すべきは、日本人は物を鑑賞するとき、美術品として鑑賞する態度はとらない。むしろ物は「使うこと」が前提となっています。

先ほど外国には飾り物が少ない、と言いましたが、壁に絵がかかっていることはよくあります。しかし、この絵は1年中かかっていて、季節によって変えることなどありません。今は変わってしまいましたが、日本では季節によってかけ変えていました。なぜなら、絵をその日の趣向に合わせた道具と捉えていたからです。趣向に合っていなければ、価値がない、場違いなものになってしまいます。

また、もしも私が稲葉天目のような素晴らしい天目茶碗を持っていても、使いこなすことはできません。茶の湯道具として天目茶碗を使いこなすのにふさわしい道具が、全部そろっていなくてはならないからです。

そういう唐物道具を持っている人間は、やはり然るべき社会的地位がなくてはいけないですし、そういう場所に住んでいなくてはいけない。一点豪華主義は有り得ないのです。ですから、一介の庶民がそんな茶碗を持っていても、何の役にも立たない。つまり道具というのは、鉋(かんな)と同じで、大きな物を削るにはそれ専用の大きな鉋、溝を掘るためにはそれ用の小さい鉋がなければ用を成さない。日本の美術品というのは全部道具と言ってもいい。したがって、時と所を得ないと価値がないのです。

ところが、同じアジアと言っても中国は日本とは違います。王侯貴族の美術品で、例えば、水晶の大きな盤とか、使いようのない壺など、鑑賞陶器はあっても道具ではありません。あれは一年中飾っておいていいものです。日本には、逆に鑑賞陶器はない。使うものしかありません。

イギリスの場合も、使う物は格が低く使わない物は格が高い。つまり鑑賞美術と工芸品という分類があって、工芸品は使うものですから美術としては評価されない。ところが、日本では最高の美術品は、使う道具なんです。そこがもう大違いですね。

そうすると唐物という物が日本に入ってきたとき、他の国とはちょっと違って、日本人は「唐物をどう使うか」ということを考えるわけです。その使い方が「お茶」ですよ。ここで、道具が茶の湯と結びついてくる。道具を集めると、どうしてもお茶をしなくてはいけない。ほかに使いようがないわけですね。

その後、お茶はすぐに嗜好品になり、茶会が成立し、お茶の遊びも出てきます。これは宴会の新たなバリエーションになっていきます。日本の宴会はご飯食べて酒飲んで遊ぶ、それに芸能がつくのが基本ですが、中世になると、それにお茶を飲む宴会が加わります。お酒は必ず飲みますが、ご飯を食べてお香を楽しみお茶を飲むとか、ご飯食べて歌を詠んでお茶か酒を飲むとか、いろいろな宴会のバリエーションが出てきます。

茶の湯 隔離と仕掛け

コミュニケーションをスムーズにする介在物はたくさんあります。置物、家具とかのハード、もっといえば、衣裳やエチケット、そういうものも含まれます。ですからいろいろなものを介在させて、人間同士をどのようにしたら、ソフト面で理解しあえるような状況を作るかという「仕掛け」を考えるわけです。茶の湯はそういう仕掛けがまことに上手くできています。知らない者同士がどうしたら親しくなれるか、という仕掛けを網羅したのが茶の湯と言えるでしょう。

茶の湯では集まった人たちを、数時間だけですが外界から隔離します。呉越同舟という言葉がありますが、逃げ場がないから一緒になって親しくならざるをえない。これは一種の遊びですよね。映画の「スタンド・バイ・ミー」で木の上に隠れ家を作るのと一緒で、茶室も一種のシェルターみたいなものでしょう。

もう一つ、現在では火に対する穢れの感覚や浄めの意識がなくなっていますが、昔の人は火に対する穢れを非常に強く感じていた。ですから、「同じ火のものを使う」ことは、やはり他人ではなくなる一つの約束事になります。同じ炉の火を使い、そこでお湯を沸かして、お茶を飲む。ですから「同じ釜の飯を食う」という言葉は、実は「同じものを食べる」ということではなく、「同じ火で炊いたものを食べる」ということなのです。ですから、同じ釜でなくてはいけない。同じ皿の飯を食っても駄目なんですよ。おそらくただ一緒に食べて飲むということだけではなく、「同じ火のものを使う」ことは人と人を結びつける要素だったのでしょうね。ご飯を食べお酒を飲む。すると、いやでもお互いに親しみが生まれてくるというものです。

最後の仕上げは、お茶の回し飲みです。同じ器に唇をつけ、同じものを飲むという共同飲食の仕上げがあるわけです。

このようないろいろな要素は、千利休によって統合されたのでしょうね。共同飲食は日本だけではなく世界中にあることですし、火の禁忌も縄文時代からあることです。そういう要素が、利休によってつなぎ合わされ、茶の湯という様式に昇華したということだと思います。日本でも、15世紀から16世紀にかけて、人間の移動が非常に大きくなってきますので、そういう意味からも千利休の存在は時に適っていたわけです。

千利休像

千利休像

茶室がつくる濃密な緊張

茶室の一番大きな改革は、室町から桃山時代にかけての「小間(こま)」の成立でしょう。四畳半以下の、できれば三畳や二畳というものすごい小さな部屋が発生します。これが茶室の特徴と思います。小さい部屋に躙(にじり)口から頭を垂れて入っていくということが、意味を持つようになります。それを工夫するのは、やはり利休です。

小間ができた時代には、もう畳が普及していました。ただ躙口は、最初はなかったらしいですね。対面ではなく、亭主と90度交差しますから、2人ぐらいしか入れません。ただ、これはいろいろ説があるのですが、利休はその二畳に「3人入れ」と言いました。つまり、本当に膝を接するようにして、みんなが座る。そういう緊張感を利休は求めたわけです。だから利休は、決して茶室の中でリラックスすることを求めてはいないのです。

――すると「一期一会」という言葉も・・・

まさに一番緊張したコミュニケーションを求めているわけです。師匠の武野紹鴎(たけのじょうおう)と利休の違いはそこだったと思いますね。紹鴎の場合には、コミュニケーションのありかたとして、もっと人間の本性をさらけ出すことを求めている。それが「一座建立(いちざこんりゅう)」という言葉です。お互いに和やかな時を味わい、仲間という実感を持つことが一座建立です。しかし、これは、何もお茶でなくてもいい。お酒の方がある意味ではもっと効果的でしょう。ですから、利休は「一座建立」という言葉は嫌いだったといいます。その代わりに利休は「一期一度」という言葉を使った。「一会」とは言っていないのです。一生に一度の出会いという気持で、亭主のしていることを一言も一つも見落とさないようにすることを求めるわけです。ですから、それだけお互いに緊張して相手を見つめれば、やはり理解は深まりますよね。

お茶のコミュニケーションで言う「もてなし」とは、今でいう、癒し系とか、安らぎとか、楽しさとかいうものとはちょっと違います。例えば禅の世界では、密参(みつさん)といって、老師のところにたった1人で行き、前もってもらった公案に対する自分の考えをたった1人で老師の前で言う。その時の緊張感みたいなものと相通じます。老師が何を言うか、弟子はおそるおそる出ていく。逆に老師は何も言ってくれないかもしれないから、そのまま帰って来なくてはならないかもしれない。

こういう意味から言うと、茶の湯は禅に限りなく近い。しかし宗教には絶対者がいて、救いがある。茶の湯があきらかに禅と違うのは、すべてが己に帰するところです。これは、いわば大変濃密なコミュニケーションでもあるわけです。そういうコミュニケーションというものが、利休が茶に求めたものかもしれないですね。

逆に言えば、そのような濃密なコミュニケーションは、それまでの茶の湯にはなかった。また茶の湯と同じように、政治でもそういう場がなかったため、みんながこのようなコミュニケーションを政治の場で使い出します。その結果、お茶が非常に政治的な性格を持つようになります。

  • 臨春閣は1915年(大正4)に起工。もとは1649年(慶安2)紀州徳川、家の初代頼宣が、和歌山市の紀ノ川沿いに建てた夏の別邸巖出御殿。現在。中央の二屋は池に沿っているが、紀ノ川では川に迫り出していたようだ。

    三溪園
    横浜の生糸貿易商、原三溪が1906年(明治39)に開園した日本庭園広さ17万5,000㎡の園内には京都や鎌倉などから移築された古建築17棟が点在している。「この風光明媚な自然は、想像主のものであって、私有物ではない」という理念の元、1906年(明治39)から一般に公開されている。茶の湯を愛した原三溪を記念して、4月には茶道五流派が一堂に会する、日本でも稀な大茶会が開催される。(事前に申し込みが必要)
    臨春閣は1915年(大正4)に起工。もとは1649年(慶安2)紀州徳川、家の初代頼宣が、和歌山市の紀ノ川沿いに建てた夏の別邸巖出御殿。現在。中央の二屋は池に沿っているが、紀ノ川では川に迫り出していたようだ。

  • 蓮華院。1917年(大正6)に原三溪自らの構想で建てられた田舎家、風の茶室で、二畳中板の小間と六畳の広間や土間などが茶の湯の場として、現在も一般に貸し出されている。

  • 蓮華院。1917年(大正6)に原三溪自らの構想で建てられた田舎家、風の茶室で、二畳中板の小間と六畳の広間や土間などが茶の湯の場として、現在も一般に貸し出されている。

    土間中央に立つ太い円柱と、隣室との境に用いられている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材という。鳳凰堂修復の折に出た古材を三溪が何らかの形で譲り受けたものと伝えられる。

  • 花も掛け軸もない二畳中板の小間を見ると、茶室が主人のしつらえで完成される空間として造られていることを実感できる。

  • 内苑の奥にある、聴秋閣。

    内苑の奥にある、聴秋閣。
    1623年(元和9)徳川家光が京都二条城内に造営、春日の局に下賜され江戸へ。1881年(明治14)牛込若松町の二条公邸への移築を経て、1922年(大正11)原三溪のもとに贈られた。空間演出、しつらえの極みを教えてくれる、類例の少ない二層の楼閣建築。

  • 臨春閣は1915年(大正4)に起工。もとは1649年(慶安2)紀州徳川、家の初代頼宣が、和歌山市の紀ノ川沿いに建てた夏の別邸巖出御殿。現在。中央の二屋は池に沿っているが、紀ノ川では川に迫り出していたようだ。
  • 蓮華院。1917年(大正6)に原三溪自らの構想で建てられた田舎家、風の茶室で、二畳中板の小間と六畳の広間や土間などが茶の湯の場として、現在も一般に貸し出されている。
  • 内苑の奥にある、聴秋閣。

密室という政治空間

日本の王様、王権というのは、基本的に隠れている存在です。人前に出てきては、いけない。常に一番権威のあるものは奥に隠されていて、神社もご神体を見せません。何重にも隠すことで、権威が権威でありうるのです。ですから、日本の天皇というものは民衆の前に絶対に姿を現さなかった。これは天皇だけではなく、将軍もそうです。

それに対して、西洋の王権は、いつも民衆の前に姿を現します。現すことで、権威が保たれるわけですね。ですから、今でもローマ法王は民衆の前に姿を現している。そもそも、バルコニーというのはそのための建築的な造作ですからね。すると、民衆の前に姿を現すための仕掛けが必要になります。それが、宝石の文化や、ファッションです。日本に宝石の文化がないのは、王や貴族が民衆の前に姿を現さなかったからです。天皇のファッションなど誰も問題にしないのです。これは、必要ないからです。だから日本には「裸の王様」という童話が生まれなかった。

ところが、日本の歴史の中で、王権が自ら民衆の前に姿を現した時代が過去に3回ありました。南北朝の内乱と、戦国時代の動乱と、文明開化です。この3回は、後醍醐天皇が出てきたり、あるいは佐々木道誉が民衆を引き連れて大原野の花見をしたり、豊臣秀吉が北野大茶会を行ったり、明治天皇が歴史の中で初めて全国巡行をする。民衆の前に王権が姿を現すときに使う仕掛けが、時代によって違うのです。安土桃山時代でいえば、それが茶の湯だった。茶の湯というイベントを行うことで、権力が民衆の前に姿を現したのです。

つまり利休はある意味で、政治的イベントの演出者なんですよ。政治の場としての、政治の密室というコミュニケーションの場としての機能を、茶の湯につけるわけです。鉄砲の一大産地でもあった堺は、商業的に人の出入りの多い地域だった。だから、政治の密室というコミュニケーションの場は、大変需要が多かったことは想像に難くない。千利休が堺から出たということは、時に適っただけでなく、場所としても最適であったということです。

茶は女性文化か

近代、茶の湯がこんなに隆盛を遂げることができたのは、女性文化になってからです。女性の支持があったからこそ、現在の大文化になった。では、女性は何をお茶に期待したのか。

イギリスのお茶についてみれば、お茶は台所で女性が管理します。ティーキャディーというお茶を入れる箱を、その家の主婦が管理します。鍵を主婦が持っていて、その家の味をそこでブレンドするわけです。女性が飲食を管理するということと繋がって、お茶は女性の文化になりました。また、それだけではなく、朝食にお茶を飲むことが、一つのステイタスとして18世紀の女性の流行になる。同じようなことが日本でもあったため「お茶は女性の文化だった」と言う人もいます。それによると男は酒、女はお茶と分かれていた。茶の湯文化というと男の文化になるけれど、ベースとなる庶民のお茶の文化は女性が担っていたという考え方です。

江戸時代、女性が物見遊山に行きお酒を飲むのは難しかったでしょう。ですから、「物見遊山に行ってお茶を飲む絵」という風俗画がかなりあります。江戸幕府が出した「慶安のお触書」(1649)の中にも「大茶を飲む女房は離縁すべし」という文が見られるように、お茶を飲む女房が増えてくる。茶を飲む贅沢が女性の中に生まれてくるわけです。女性が物見遊山や神社、仏閣の参詣に出かけるようになってくることと、お茶を飲むこととは関係があるかもしれません。

一方、「茶屋」という存在を考えると、こちらは男文化ですね。江戸中期になってくると、茶屋が機能分化し水茶屋などいろんな茶屋ができ、その後別の意味を持ち出し、お茶は遊興やセックスと結びつく。

また、現在のある地域の風習では、お見合いの時にお茶が出る。お婿さんになる人に娘がお茶を出し、そのお茶を男性が飲めば承諾という印になるそうです。

神事としての喫茶もあります。群馬県中之条町にはお茶講が残っており、毎年2月24日に闘茶をします。神事ですので、女性は穢れと見なされてしまい参加できません。清めの塩をまいたら、女性は12歳以下の子供しか入れなくなります。

プロセスが大事

現代の我々にとって茶の湯がどういう意味を持つか考えると、私はやはりプロセスというものをもう一度見直すべきではないかという気がします。結果をすぐに求めるのではなく、プロセスの持つ意味を考えることが今の社会では非常に重要です。現代的な茶の湯の意義というものをそこに見つけたいと思っています。

プロセスといっても、からだを動かせば良いという、最近よく言われる「身体化された知識」ということ、いわゆる体育系のプロセス論とは違います。つまり脳をフル回転させて経験しないと、肉体化されてこない。だから、単に身体的な動きを真似るのとは違うという気がするのです。

もう一つ大事なことは、師の存在です。独立独歩では駄目です。師は数寄のモチベーションを維持するために、不可欠な存在です。自分を見ている師がいる中で、自分で考え、学び、行いに励む。世阿弥も似たことを言っていますが、そのようなプロセスは意外と近代的なものではないかという気もします。

茶人が茶の湯をするのは、自分の周りのすべての物を整えたいという思いからです。こう言うと抽象的でわかりにくいかもしれませんが、茶の湯をする人の思いは、皆そこにあると思います。「そこ」に至るためには「する」しかない。それが先ほど言った、プロセスを大切にするという真意です。秘事は求める者にとってのみ、価値があるのですから。

マナーの間

今は、社交が危機的な状態で、人との距離感がなくなっています。空間的な距離感だけではなく、年齢や社会的地位の距離感など、実感としての「間(ま)」の感覚がなくなてしまっている。タイミングの間もあるし、季節の間、人間関係の間、いろいろな道具、物との間もありますね。本来日本人がデリケートに持っていた、物と物、人と人、人と物という生身の関係が、どこか狂ってきているのではないでしょうか。

マナーというのはまさに間の文化です。間が上手くとれるということがマナーの一番大事なポイントです。ですから、マナーそのものが存在しなくなると、もう法律で縛るしかなくなり、人間の行動を法律で規制せざるを得なくなる。今、法律がどんどん肥大化しているのは、マナーの衰退の反映です。社交を取り戻したいものですね。

――結局、茶の湯を考えると、人との普遍的な付き合い方が透けて見えてきますね。

桑原武夫先生がある文章の中で、文学の鑑賞にはいろいろなスタイルがあると言っています。例えば、満開の桜がいかに素晴らしいかということを論じるのは作品論。だけど、その花が散って、葉が落ちた後、その枝ぶりや幹の形を論じるのは作家論だと言うわけです。すると、もう一つ大事なのことは、目に見えない土の中の根が、浅い地層に広がっている根なのか、もっと深い所へ到達している根なのか、を論じる批評のしかたがあるはずだ。それが、その作家や作品が文学という文化の層とどう繋がっているかという視点から見た評価の仕方だ、というのです。そうした論点から中里介山の『大菩薩峠』という小説を論じると、近代的思想の下に儒教的な部分があり、その下に仏教的な部分がある。さらにもっと深いところにある古層に根を下しているのが『大菩薩峠』という作品だと議論しているのです。

同じようなことが茶の湯の世界についても言えると思います。民俗や民間信仰という層にまで根を下しているという、日本文化としての確かさが茶の湯にはあります。実は利休が作ったというけれども、その根っこは、本当は縄文時代まで根を下ろしている。そこが日本文化としての確かさの証しであると思います。



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