機関誌『水の文化』19号
合意の水位

世間の合意形成

編集部

水と闘うための合意形成術

「水と闘う」と表現される地域は世界中にある。オランダ、日本、中国、カンボジア、エジプト…。国内に目を転じても、八郎潟、亀田郷、木曽三川、さまざまな土地があり、見ようによっては東京だって水と闘っている。ただし、水の何と闘うかはまったくばらばらで、その土地の風土、歴史、住民の意思などにより決まってくる。オランダは主に海水位と地下水位が闘う対象となり、日本は洪水や渇水と闘う場合が多い。

水と闘うことは、生活を守ることと直結するため、「何を守るか」で意見の相違が生まれ、ときには紛争も起きる。洪水と闘うならば、上流・下流、都市住民・農業従事者等々で何を守るかという立場が異なるし、それに連動して、犠牲にする場所の配分も違う。

水と闘うには、当事者の「言い分(いいぶん)」をまとめて社会として結論を出すための技術、すなわち合意形成の技術が不可欠だ。

二つの合意形成「言い分型」と「意見型」

「言い分」を「意見」と書かなかったのにはわけがある。それは、日本では、この二つを分けて考えていないと思ったからだ。

言い分とは、要は、自分の立場が言わせる物言いである。とりたてて責任を伴った明言というわけではない。

鳥越皓之は『環境問題の社会理論〜生活環境主義の立場から〜』(御茶の水書房 1989)の中で「問題が生じたときに、自分が納得し、他者を説得するためにつくられた論理で、日常的な知識に基づいている」と、言い分を説明する。

一方、意見はオピニオンの訳で、これが社会でまとまるとパブリック・オピニオン、つまり「世論」となる。意見に対して、言い分は、適当な英訳がみつからないやまと言葉である。それだけに、日本の話し合いの習慣に、より深く根ざした言葉でもある。

言い分と意見の違いは何か。

言い分も、意見も誰もが持っているものだ。しかし、一人の人間がたくさんの言い分を持つことはあっても、意見というものは一つだ。つまり、意見とは自分の責任を伴った明言であり、自分の中のいくつもの言い分を吟味判断して、ただ一つ責任を持って主張できる意見につくり上げたもの、と言ってよいだろう。

日本人は、などと大上段に構えるのは床屋談義の類かもしれないが、日本人はこの二つの違いを、合意形成の過程の中で意識して使ってこなかった。

例えば、戦後、イギリスやアメリカの民主政治をお手本にして、日本には「個人がない」などと言われてきた。この場合の個人とは、意見を決定する能力を持ち、自ら表明し、国を選んだ人間という意味で、通称「市民」と呼ばれるものだ。

しかし、それはイギリスやアメリカのような意味での個人がないというだけの話であって、日本では言い分を調整することで合意形成するという伝統があった。それは今でも企業文化・政治文化として広く残っており、公式な合意形成とは別に、非公式に「裏の根回し」、「相手の顔を立てる」などの慣習として受け継がれている。

ただ驚くのは、そのような「言い分の合意形成手法」が非公式なものだから「存在しないもの」と蓋をされてしまうことだ。こうした姿勢の中にこそ、意見と言い分の差をあからさまにしない精神の根っこがあるのではないか。

『環境問題の社会理論』

『環境問題の社会理論』

世間の合意形成という方向性

「日本に個人はない」と診断する一人が、社会史家の阿部謹也だ。『日本社会で生きるということ』(朝日新聞社 1999)の中で、「社会は個人から成り立っているが、そういう意味での個人は日本にはない」という。

「明治17年ごろに、individualという言葉が日本語に訳され、個人となった、それ以前に日本には個人という言葉は存在しなかった」と指摘し、それに対する社会という言葉もヨーロッパの歴史を背負っていないという。社会に対応する日本の言葉は「世間」だが、その世間とは「個人と個人が結びついているネットワーク」「その人が利害関係を通じて世界と持っている、いわば絆なんで、それ以外のものではない」と断じている。そして、「その人がその人でありうるためには、仲間を持っていなければならず、その人がその仲間の中にいることによって、その人でありうる、というふうな場」が世間だという。著者は、世間の持っている閉鎖性を挙げ、社会のほうが望ましいと思っているのだが、歴史が違う以上、日本の場合は世間主義でよいのだという、悩んだ末の結論を出している。

日本にあるのは「世間」なのだという、指摘そのものは鋭い。

しかし、それは背景に持つ歴史が異なるのだから、当然のことだ。私たちはこの歴史から逃れられない以上、むしろ、世間というものをもう少しポジティブに捉えた上で、世間の合意形成というものを考えられないだろうか。世間とは、まさにいろいろな役割の人々が取り結んでいる人間関係からなるネットワークだ。そして、人はその関係、つまりは世間の中でいろいろな思いを表明する。これが言い分だ。

いろいろなネットワークとかかわり、世間を増やし広げることで、人はさまざまな言い分に触れ、自分なりの言い分をたくさんつくることができる。かつては「勤め人としての言い分」「家族としての言い分」「むら、まちの住民としての言い分」ぐらいしか、自分のかかわる世間も少なかった。でも、今は勤め人でも、自営業者とサラリーマンとでは言い分が違うし、業種毎に言い分が変わる。同じ地域でも、親や子を養っている人と、独身の人とでは言い分が違う。さらに、温暖化を防ごうというNGOに加入している人は、他国の人を通じた自分の言い分がある。自分がかかわる世間が異なれば言い分も異なるし、言い分が違うことが意識されてくれば、つき合う世間も異なってくる。

『日本社会で生きるということ』

『日本社会で生きるということ』

世間の矛盾を意識するとき

このように世間をたくさん知ることは、昔は大人になる要件でもあった。「お前も、大分世間のことがわかってきたな」ということは、人間関係の判断能力が備わってきたことを意味した。さらにそういうことにくわしい人は「世間通」と呼ばれるようになる。

さて、ここで世間に通じるようになると、現代のように多様な世間がある状態では問題に直面することがある。例えば、近所の小学校が人口減少のために廃校になると想像していただきたい。「かつてそこに子を通わせた親としては廃校に反対だ。しかし、それで税負担が低くなると約束してくれるのなら、納税者としては賛成だ」と、自分の言い分同士が両立しない場合があることを意識する。そのとき、「やはり、この地域住民としては、教育の質が大事と思うので、廃校に賛成する」と初めて「意見」を決定するのである。

意見は言い分から生まれる。そして、言い分が意見になるときに「地域住民として」という新たな価値を持った世間を想定するのである。しかし、なぜか言い分を意見にする技術は、これまで学校でも家庭でもほとんど教えられてこなかった。

合意形成というのは、実は「言い分を意見にする」段階と、「意見を社会的意見にする」という2段階ロケット方式で宇宙に飛び出すようなものなのだが、第1段階の「内なる合意形成」がなおざりにされ、第2段階にだけ目が向けられるケースが多い。しかし両方がそろわないと、合意に手間取るだけでなく、たとえ合意に至っても合意に有効感が感じられず、合意を守らない人も出てくる。

「ごめんなさい 橋が上がっていたのです」 オランダは運河の国だ。運河が舟運路として、いまだに活躍している。大きい所でいえば、西スヘルデ川はアントワープへの大動脈となっており、この航路がストップするとベルギー経済は大打撃を被る。

「ごめんなさい 橋が上がっていたのです」
オランダは運河の国だ。運河が舟運路として、いまだに活躍している。大きい所でいえば、西スヘルデ川はアントワープへの大動脈となっており、この航路がストップするとベルギー経済は大打撃を被る。小さい所では、ちょっとした小川のような運河に、ボートがのぼってくる。
これだけ内陸航運が発達していると、必然的に「はね上げ橋」も多い。船が通るとき、橋がはね上げられ、橋を通る人や車は待っていなければならない。オランダでは船が優先なので、渋滞しても、みんな仕方がないという顔で待っている。橋は、人間一人ではね上げられるものもあれば、ロッテルダムにあるように、高速道路や鉄道までがはね上げ橋になっている所もある。
オランダでは遅刻すると「橋が上がっていて」という言い訳があるそうだ。

合意をつくるということは新たな世間をつくること

日本では、政策の方向を決める委員会などでも、意見による合意形成ではなく、言い分でいきなり社会的な合意形成をする例が見受けられる。

最近興味深いニュースを目にした。環境省は特定外来生物被害防止法に基づき、輸入や移動を禁止する動植物の選定を進めていたが、そのリストからブラックバス類の主要魚種であるオオクチバスを外すと委員会で合意形成をした。ところが環境大臣は、「バスも入れる」と委員会の合意とは異なる決定をしたというのだ(朝日新聞、2005年1月22日)。

生物多様性の維持という観点から、当初の決定に反対した研究者は安堵しただろうし、バス釣り等で生計を立てている業界関係者は一瞬ホッとしただろうが、環境大臣の決定に「委員会で決まったことをくつがえすのは問題だ」と憤慨している。

どちらの決定が「正しいか」「正しくないか」をここで述べるつもりはないし、その能力もない。

ただ、この事態が象徴的なのは、委員が言い分を言うことに留まり、結局は、委員会としての理念、委員会が主唱する新しい世間をつくることができなかった、ということだ。

政府の委員会で言い分を集めても、社会的な意見としてとりまとめることができないという事実に、合意形成の難しさが感じられる。

「議論の本位」と「利害得失」

日本における合意形成の難しさを見通していた人物の一人が、福沢諭吉といえるかもしれない。福沢は、庶民レベルで議論の伝統がない日本で、侍文化に代わる文明を打ち立てようとした。彼は、多事争論が好ましいと考えたが、同時に言いっぱなしがはびこり、無秩序になることを怖れた。

そこで、福沢は1875年(明治8)に出版した『文明論の概略』を「議論の本位を定る事」という章から始めている。

福沢は「相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位」という。いわば議論の物差しであって、これを定めない内に、利害得失を談じてはならないという。さらに、「利害得失を論ずるは易しと雖も、軽重是非を明にするのは甚だ難し」、つまり利害得失の話し合いは優しいが、議論の本位を定める話し合いは難しいというのだ。

「利害得失」の話し合いと、「議論の物差し」の話し合いを分けている点は、当然のこととはいえ、やはり現代人には新鮮に映る。なぜなら、議論の物差しを、現代人はつい忘れてしまうからだ。

例えば、最近では「合意形成」という言葉が、社会資本整備の世界でよく使われる。日本土木学会でも『土木学会誌』(2002年6月)で合意形成論を特集しているが、この特集のサブタイトルとして「総論賛成・各論反対のジレンマ」とつけられている点が面白い。

総論賛成・各論反対を、アメリカではNIMBY問題と呼ぶ。Not in my backyardの略で、迷惑施設をつくることは住民として、つまり総論としては賛成だが、具体的に自分の家の裏につくられるとなると、個人として拒否するという意味で用いられている。迷惑施設と書いたが、治水施設・利水施設にも多くの場合は、便益を得る当事者と、不利益を受ける当事者が存在する。そこで、異なる当事者間で合意を形成しようとすれば、不利益を被る人には、別の形で便益を与えましょうという解決策が模索されることが多い。つまり、互いが得すれば、合意は達成されるという論法である。これはこれで、現実的な方法である。しかし、これはあくまでも利害得失の合意形成だ。

では、この前提となっている議論の本位、物差しとは何だろうと問うと、途端に曖昧となる。

利害得失の合意形成ばかりが叫ばれるほど、物差しの合意形成が忘れ去られ、多様な意見が社会に反映されなくなる。このことと、言い分を意見にする「内なる合意形成」が見落とされがちという点は、何か関係があるのだろうか。

川が氾濫したとき、予め遊水池として契約されている畑や牧場などが緩衝地の役目を果たすことを、手を広げて説明するNOVEMのスピッツさん。

川が氾濫したとき、予め遊水池として契約されている畑や牧場などが緩衝地の役目を果たすことを、手を広げて説明するNOVEMのスピッツさん。

「話し合う社会」と「決める社会」

オランダを見て、聞いて、調べると気づかされる点。それは「決めること」と「話し合うこと」が程良くバランスしていることである。

別にオランダが良いというわけではないが、オランダはやはりコンセンサス社会であり、決めることを前提にしながらも、話し合うことに重点を置く。いったん出した政府決定を、話し合いのすえ覆したり、凍結することなどざらにある国だ。この国でいう計画とは、方針を示したガイドラインにすぎない。つまり、「今の政策の考え方は、このような前提をもとに、話し合いの末に出された結果です」と、その時点での議論の本位と、利害得失を並べる。だから、計画が状況に合わなければ、かなり頻繁に調整が加えられる。

これに比べると、日本は決めることには性急なのだが、話し合いが少なく、いったん決まったらなかなか変更しないという印象がある。そのくせ、自分の言い分や利害得失に合わなければ、実質的には守らないという融通無碍なところがある。

民主主義という仕組みも、その受容のされ方は土地や歴史によって異なってきた。だから、さまざまな民主主義があるのは当然だ。

民主主義という仕組みには「決めることを重視する」側面と、「討論を重視する」側面があると述べているのが、リンゼイの『民主主義の本質』(未来社 1964)だ。

決めるのに早急すぎると、議会投票で独裁者が選ばれることも起こりうる。大事なことは「討論」であり、さらに「大切なのは、政府の最終決定に対してすべての人の賛同が得られなければならないということではなくて、各人はその最終決定に対してなんらかの形で貢献していることである」と述べる。これが、まさしく現在、その重要性が叫ばれている「参加」の意味であって、リンゼイはこのような意識を支えるのが討論で培われる「集いの意識」と言う。

オランダの合意形成の上手さの裏に、話し合いの場面の重要性があることを指摘する人は多い。ただ、もう少しよく調べると、話し合いに無駄に時間を費やすわけではなく、合意したらすぐに実施されるし、間尺に合わなくなったら細かい軌道の修正をいとわず、決まったことを人々がよく遵守する。こうした、話し合いと決定のバランスの良さには、感心せざるを得ない。

これがオランダモデルの背景にある、何事もコンセンサスと計画を通して社会問題をコントロールしていこうという、決めることと話し合うことの程の良さなのだ。


『民主主義の本質』



言い分を意見にするコスト

さて、水と闘おうとするとき、治水・利水に関する合意形成は複雑だ。何しろ、問題によっては、当事者が何万人、何十万人ということもある。複雑な問題に立ち向かうには、多様な問題を力ずくで解決するという方法ではなく、目の前に並べるようにして話し合いでコントロールするという発想は、大変魅力的である。

このような「力の解決」から「問題の制御」へと、社会運用の考え方が変化すると、合意形成の手法や考え方にも変化が求められる。そのとき日本に必要なのは、言い分を意見に変える「内なる合意形成」と、意見を交わすことで「議論の本位」を話し合うことだろう。自分が訴えたい問題を、誰にも通じるように意見として表明しないと議論に参加できないし、意見の背景にある自分の言い分と「内なる物差し」を自覚していないと、「議論の本位」の議論に参加できないからだ。

しかし、パートタイム就労を支える制度が整備され、セーフティネットが整い、寛容の精神が旺盛なオランダと異なり、日本では言い分を、意見として表明する心理的コストはかなり高い。

そのようなとき期待をかけられるのが、NGO、NPOセクターであろう。こうした団体とかかわることで自分の言い分が鍛えられ、討論と集いの意識を感じ、公の場で意見を表明することは、自分の意見を形成する上で、重要な訓練の場となるのではないだろうか。

まだ見ぬ人との合意形成

さらに、NGO、NPOがパートナーシップを結ぶことで、世間が広がることがうれしい。

社会ネットワーク論の分野では「6次の隔たり」という言葉がある。あなたに100人の友人がいるとして、その友人にまた100人の友人がいるとする。「友達の友達は友達」が六つ連なると、計算の上では100億人の人とつながることになる。つまり、6次のネットワークの中に、地球の全人口をつなげることができるので、地球が小さいのも当たり前という比喩だ。しかし、当然ながら、友達は重複するし、似た者同士がつながるわけで、友達のつながりの塊ができると考えられる。これを世間の一つと呼んでも、差し支えないだろう。

こうしたネットワークが緊密であるほど、音楽が爆発的にヒットしたり、意見が雪崩を打つように変わっていくこと(規範のカスケード)が知られている。この社会ネットワークのメカニズムを解説しているのがダンカン・ワッツ『スモールワールド・ネットワーク』(阪急コミュニケーションズ 2004)だ。

話し合いで意見を変え、それが広がり、地球レベルに影響を与えることも、世間をうまくつなぐことで可能なのだ。

ここで改めて問われるのは、あなたが話すのは狭い世間の中だけで通じる言い分だろうか。それとも、広い世間にも通じる意見だろうか。

そろそろ、言い分の利害得失を問題にする合意形成から、意見による議論の本位を討論する合意形成が求められる時期がきているのではないだろうか。利害得失のゲームで問題が解決するというような合意形成だと、地球レベルの大きな世間を見失うような気がしてならない。

  • 『スモールワールド・ネットワーク』

  • 異なった立場の人間が、合意できる地下水位を測るための穴(ワーゲニンゲン大学の実験農場)

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