機関誌『水の文化』62号
再考 防災文化

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CASE4【伝承】

土砂災害を風化させない「まんじゅう」配り

土石流、地滑り、がけ崩れなどの土砂災害は、雨が引き金になるケースが多い。長崎市太田尾町の山川河内地区では、江戸時代に発生した土石流による被害の記憶を留めるため、まんじゅうを全戸に配る「念仏講まんじゅう」を続けている。

まんじゅうを手渡しで全戸に配る「念仏講まんじゅう」。山川河内地区で続けられている風習を自治会長の山口辰秋さん(右)と川端綾子さん(左)が再現

まんじゅうを手渡しで全戸に配る「念仏講まんじゅう」。山川河内地区で続けられている風習を
自治会長の山口辰秋さん(右)と川端綾子さん(左)が再現

成長してわかるまんじゅう配りの意味

「2個1セットのおまんじゅうを、こうして一軒ずつ訪ねては配って回るのです」

そう言いながらまんじゅうを手渡す様子を再現するのは、長崎市山川河内(さんぜんごうち)地区(以下、山川河内)で自治会長を務める山口辰秋さん。今回は特別に手づくりのまんじゅうを用意して迎えてくれた。

山川河内は1860年(万延元)に土砂災害で33人の犠牲者を出して以来、犠牲者の供養とその災害を忘れないように14日を月命日として各家の持ち回りでまんじゅうを全戸に配る「念仏講(注1)まんじゅう」を欠かさず行なってきた。「誰かいれば手渡しますし、留守ならば郵便受けに入れておく。配り終えるまで1時間くらいでしょうか」と山口さんは言う。

ただし、ずっとまんじゅうを配っていたわけではない。「豆や串団子のときもありました。当番の家にあるものを配るのが基本でしたから」と田川正春さん。まんじゅうに決めたのは昭和40年前後。今は30世帯だが、かつては36世帯だったので3年に一度当番が回ってくる計算だ。費用は個人負担。配られたまんじゅうはいったん仏様に捧げてからいただく。子どものいる家ではおやつとなった。

「子どものころは『なんでまんじゅう?』と不思議でした。水害を忘れないために配っていることは大きくなってから知りましたね」と楠山昭雄さん。よその集落から嫁や婿として迎えられた人たちに、まんじゅうを通じて、この地の水害の歴史を伝える役割もあった。

(注1)念仏講
念仏を唱えることを契機として結成される講のこと。山川河内では「念仏講まんじゅう」のために念仏を唱えることはしないが、1月の「御願立(おがんだて)」、4月の「御大師様祭り」、7月の「御願成就」「地蔵様祭り」など少なくとも年に7回は鉦を打ちながら念仏を唱える「鉦はり」を行なっている。

  • 田川正春さんの家でつくってくれたまんじゅう。田植えや収穫などが終わると手づくりのまんじゅうを食べる習わしもかつてはあった。ふだんのまんじゅう配りでは市内の店に発注したものを用いる

    田川正春さんの家でつくってくれたまんじゅう。田植えや収穫などが終わると手づくりのまんじゅうを食べる習わしもかつてはあった。ふだんのまんじゅう配りでは市内の店に発注したものを用いる

  • 山川河内地区の全景。菊や草花、球根などの栽培で栄え、立派な家屋が多い。潅水事業が完了する以前は、山や沢から流れる水を栽培に使っていた

    山川河内地区の全景。菊や草花、球根などの栽培で栄え、立派な家屋が多い。潅水事業が完了する以前は、山や沢から流れる水を栽培に使っていた

  • 山あいにあるので傾斜はかなりきつい

    山あいにあるので傾斜はかなりきつい

  • 念仏講まんじゅうや1982年の長崎大水害について語る山川河内地区の皆さん。自治会長の山口辰秋さん

    念仏講まんじゅうや1982年の長崎大水害について語る山川河内地区の皆さん。
    自治会長の山口辰秋さん

  • 田川正春さん

    田川正春さん

  • 楠山昭雄さん

    楠山昭雄さん

  • 川端一郎さん

    川端一郎さん

集落のお地蔵様が人々の身代わりに

1982年(昭和57)7月23日に発生した長崎大水害(注2)で山川河内は大きな土石流に見舞われる。1〜2トンはありそうな巨岩がゴロゴロと川筋を流れるのを山口さんは目の当たりにした。しかし、家屋こそ2戸流されたものの、死者も怪我人も出なかった。

災害伝承の面から山川河内と念仏講まんじゅうを調査・研究した長崎大学名誉教授の高橋和雄さんは、「大規模な土石流が発生したにもかかわらず怪我人すらいないというのは大きな驚きでした。すぐそばの集落では十数人が犠牲になっていましたから」と語る。

念仏講まんじゅうを続けていたから人的被害がなかったのだろうか。そう問いかけると山口さんは「それは後づけの理由ですよ」と笑みを浮かべてこう言った。

「長崎大水害の晩、みんな江戸時代の伝承を思い浮かべたと思います。集落の東側の逃底(ぬげそこ)川が崩れたということを知っていたからこそ、少しでも安全だと思う場所へ逃げたのでしょう」

消防団員として土嚢を積んでいて増水した川を渡れず足止めされた山口さんが深夜自宅へ戻ると誰もいなかった。近所の人たちともっとも高台にある家へ逃げていたからだ。楠山さんの家から出られずにいた田川さんも、雨が弱まって家に戻ると家族は隣家に避難していた。誰かが避難を呼びかけたわけではなく、一人ひとりが自ら判断して避難した結果だったのだ。

その晩、お地蔵様、観音様、お大師様が祀られている観音堂に土砂が流れ込み、お地蔵様の首がもげて転がっているのが翌朝発見された。実は7月23日と翌24日は地蔵様祭りの日。田川さんや楠山さんたち施主は、夜中に鉦(かね)を打ちながら念仏を唱える「鉦はり」を行なうためいったん家に帰った。そのあとの出来事だった。

「もしも観音堂に留まっていたら無事では済まなかったでしょう」と田川さん。山口さんも「お地蔵様は私たちの身代わりになったと思っています」と語った。

高橋さんは「江戸期に崩れた逃底川のところには、その後、家を建てていません。山川河内では、かつての伝承と教訓が生きつづけているのです」と語る。

(注2)長崎大水害
「昭和57年7月豪雨」のこと。7月23日夕方から、長崎市付近で局地的に1時間100mmを超える猛烈な雨が3時間以上降りつづき、死者・行方不明者299人、住家被害3万9755戸、がけ崩れ4306カ所、地すべり151カ所という大きな被害をもたらした。

  • 1982年の長崎大水害後の山川河内地区。1週間後、救助に訪れた人たちは災害の規模が大きいのに怪我人さえ出なかったことに驚きの声を上げたという(住民の上野一則さんや田川徳美さんからの提供写真。高橋和雄さんが保管)

    1982年の長崎大水害後の山川河内地区。1週間後、救助に訪れた人たちは災害の規模が大きいのに怪我人さえ出なかったことに驚きの声を上げたという(住民の上野一則さんや田川徳美さんからの提供写真。高橋和雄さんが保管)

  • 1982年の長崎大水害後の山川河内地区。1週間後、救助に訪れた人たちは災害の規模が大きいのに怪我人さえ出なかったことに驚きの声を上げたという(住民の上野一則さんや田川徳美さんからの提供写真。高橋和雄さんが保管)

    1982年の長崎大水害後の山川河内地区。1週間後、救助に訪れた人たちは災害の規模が大きいのに怪我人さえ出なかったことに驚きの声を上げたという(住民の上野一則さんや田川徳美さんからの提供写真。高橋和雄さんが保管)

  • 1982年の長崎大水害後の山川河内地区。1週間後、救助に訪れた人たちは災害の規模が大きいのに怪我人さえ出なかったことに驚きの声を上げたという(住民の上野一則さんや田川徳美さんからの提供写真。高橋和雄さんが保管)

    1982年の長崎大水害後の山川河内地区。1週間後、救助に訪れた人たちは災害の規模が大きいのに怪我人さえ出なかったことに驚きの声を上げたという(住民の上野一則さんや田川徳美さんからの提供写真。高橋和雄さんが保管)

日常生活に組み込んだ自主的な取り組み

連綿と続く念仏講まんじゅうだが、今年一つの曲がり角を迎えた。毎月実施していたものを、年に一度、自治会行事として行なうことに変更したのだ。

山口さんの先々代の自治会長を務めた川端一郎さんは「十数年前にも『年1回にしてはどうか』という声はありました」と言う。

菊や草花、球根などの栽培で栄えた山川河内にも会社勤めの人が増え、毎月14日にまんじゅうを配ることが負担にならないよう、十数年前に「14日前後の週末でもよい」とした。しかし回数を減らそうとの声が再び強まり、アンケート調査を行なった結果、半数以上の人が「年1回」を望んだ。

今年は万延元年の災害から160年目にあたるため、7月14日の「御願成就」に合わせて念仏講まんじゅうを年次法要として行なう。それと同時に、墓地にある万延元年の災害の死者を弔う大きな卒塔婆(そとば)(注3)も新調する。

「石碑にしたらとの意見もありましたが、木ならば10年ごとにつくりかえるはず。それは後世に災害を伝える一つの術になりますからね」と山口さんは言いきる。

山口さんたちが悩みながら続ける念仏講まんじゅう。どんな意味をもつのか、高橋さんに尋ねた。

「大きく二つあります。一つは、災害はめったに起きないので風化しがちですが、『まんじゅうを渡す』という形で日常生活に落とし込んだことがすばらしい。もう一つは、自主的な取り組みであること。長崎大水害後に私たちは自主防災組織の立ち上げを推し進めましたが長続きしませんでした。しかし、念仏講まんじゅうのような自分たちで始めたものは続くのです。『防災対策はボトムアップが大事』と気づかされたのは、実は山川河内の皆さんの取り組みからでした」

災害は忘れたころに、しかも同じ場所で繰り返される。だからこそ人々の深層心理に届くよう、しつこく伝えつづける必要がある。まんじゅうを手渡すという行為は、「何があろうともこの土地で生きつづける」という人々の覚悟が形になったものといえるだろう。

(注3)卒塔婆
死者の供養塔や墓標としてつくられる板木。頭部に五輪形を刻み、梵字などを記す。そとうばとも呼ぶ。元来は釈迦仏の遺骨を収めた仏塔であるストゥーパが漢訳されたもので、広義には三重塔、五重塔などの塔や五輪石塔なども指す。

  • 山川河内地区の災害関連図
  • 長崎大学名誉教授の高橋和雄さん。今回の取材に関する仲介と同行をお願いした

    長崎大学名誉教授の高橋和雄さん。今回の取材に関する仲介と同行をお願いした

(2019年6月8日取材)

参考文献:高橋和雄 編著『災害伝承—命を守る地域の知恵—』(古今書院 2014)

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