機関誌『水の文化』78号
街なかの喫茶店

街なかの喫茶店
【承継】

老舗喫茶店を承継したのは〈お隣さん〉姉妹
――マスターの味を常連と模索

「珈琲専門店 蘭」は、急逝したマスターから店の常連だった姉妹が受け継いだ喫茶店です。マスターの味を大事にしながら再オープンして7年目。姉の永井博子さん、妹の浅野美和子さんに、受け継ぐことを決意した経緯や苦労したことなどをお聞きしたくて名古屋へ向かいました。

老舗喫茶店を承継したのは〈お隣さん〉姉妹

街に愛されている店をなくしたくない

名古屋城に近い中区丸の内2丁目のオフィス街。江戸時代から続く老舗料亭「河文(かわぶん)」の斜向(はすむ)かいに「珈琲専門店 蘭」(以下、蘭)がある。

メゾネットタイプの店内は、天井までの窓からの自然光とやさしい灯りで、やわらかな明るさに包まれている。L字型の二階席からは高窓を通して舗道の景色を望める。せわしい日々にひとときの安らぎをくれる隠れ家のようだ。

午前10時の開店から客足が途絶えない。男性2人に「仕事の打ち合わせですか?」と聞くと「いえ、毎朝の習慣。ここに来ないと始まらないので」と笑った。

1972年(昭和47)頃の開業。近隣の会社の常連客に長く愛されていたが、2018年(平成30)、マスターが72歳で急逝した。後を継ぐ人はいなかった。

閉店の危機を救ったのは、すぐ隣で花屋を営む姉妹だ。

「マスターとは花屋をここに移転してから4〜5年のおつきあいで、よくモーニングの出前を頼んでいました。寡黙な方でしたが、看板犬のココ(トイプードル)を満面の笑みで孫のようにかわいがってくれて……」と妹の浅野美和子さんは偲ぶ。

老舗料亭もあるレトロな街並みに調和したクラシックな雰囲気の喫茶店がなくなるのは惜しい。見ず知らずの人に借りられて別の店になるのは嫌だね、と姉妹で話していた。美和子さんは姉の永井博子さんに「やりなよ」と勧めた。実は、すでに賃貸ビルの大家には自分たちが借りると言ってあった。

博子さんは初め断った。美和子さんの説得工作が始まる。「あんたしかおらへん」。博子さんは飲食業に勤めた経験があったのだ。

「『この日までに返事して!』と期限を切られて。『姉さんが断っても誰か探すよ』なんて言われたので、他人に任せるくらいなら……と決断しました。賭けですよ、賭け」と博子さんは笑う。

  • 姉の永井博子さん(右)、妹の浅野美和子さん(左)

    姉の永井博子さん(右)、妹の浅野美和子さん(左)

  • 「珈琲専門店 蘭」を開業した先代。常連がくれたこの写真を姉妹はスマートフォンに保管している

    「珈琲専門店 蘭」を開業した先代。常連がくれたこの写真を姉妹はスマートフォンに保管している

  • 毎朝必ず「蘭」に来るという男性二人組

    毎朝必ず「蘭」に来るという男性二人組

「常連さん」の協力でマスターの味を探究

「蘭」をリオープンするからには、マスターのコーヒーの味を受け継がなければならない。しかし、ブレンドのレシピは残っていない。「蘭」に豆を納入していた取引先の担当者も知らなかったが、仕入伝票を見て、よく使っていた豆から配合を推し量ってくれた。ブラジル、コロンビア、モカの3種類らしいと判明したが、肝心の配合比率がわからない。博子さんが取引先でサイフォン式コーヒーの淹れ方を習いつつ、姉妹であれこれ配合比率を変え試飲してみた。二人とも「蘭」のブレンドの味はよく知っている。

「いちばん近いかな、と感じるものを何人かの常連さんに試してもらいました。意見を伺って微調整していくうちに『あっ、これこれ!』という味に行き当たったんです」と美和子さんは言う。

どちらかというと苦みよりも酸味が勝り、かなり濃いめの「蘭」のコーヒーがよみがえった。

店の佇まいもそのままにしたい。マスターが愛用していたものをできる限り活かしたい。それが姉妹の望みだった。遺族も「どうぞこのままお使いください」と言ってくれた。変えたのは、トイレを和式から洋式にしたのと、たばこの煙で黄ばんでいた高窓の白いカーテンを取り去ったくらい。開口部が広がり、明るくなった。

フードメニューは、名古屋らしくホイップと小倉あん付きのホットケーキやホットドッグ、サンドイッチ類を追加し、チーズトースト・ザワークラウト・ゆで卵のセットメニューなどは踏襲した。

マスターが亡くなって約2カ月後の2018年4月4日にリオープン。開店準備に追われた博子さんは関西の大学に進学した息子さんの入学式に出席できなかった。

  • コーヒーは先代と同じくサイフォン式

    コーヒーは先代と同じくサイフォン式

リオープンして新しい客層が増える

新生「蘭」に常連たちは戻ってきた。そして、若年層や女性客も増えた。

リオープンの当初は、昼どきだけ隣の花屋から美和子さんが応援にかけつけるものの、基本的には店長の博子さんが一人で回していた。〈お隣さん〉の姉妹が事業承継する、という珍しい経緯が注目され、レトロ喫茶ブームもあってメディア取材が重なり、リオープンから半年を過ぎると次第に新規の来店客が増えた。SNSなどを通じて人気が広がり、インバウンドも含め客層が拡大した。

コロナ禍も乗り越え、今やアルバイトを雇用して経営は順調に推移している。天国の先代マスターもさぞかし喜んでいるだろう。

喫茶店を始めてうれしいのは「いろんな人と出会えて話ができること」と博子さんは言う。「昨日も、お客さんがこんなメッセージをくれたんですよ」と小さな紙片を見せてくれた。そこには、かわいらしいイラストを添えて「今日もおいしかったです」と書かれていた。

美和子さんも「つながった人がまた誰かをつなげてくれたり、お客さん同士で仲よくなったり、喫茶店って素敵な場所」と言う。

姉妹は三重県鳥羽市の漁師町の出身。きっぷのいい朗らかさに包まれた新生「蘭」は多くの人たちに憩いの場を提供している。

  • 珈琲専門店 蘭

    珈琲専門店 蘭
    名古屋市中区丸の内2-13-8 村上ビル1階
    Tel.052-201-8420
    営業時間:10:00~17:30(土日祝休/全席喫煙可)

  • 来店客が残していったメッセージカード

    来店客が残していったメッセージカード

(2024年12月5日取材)

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