機関誌『水の文化』創刊号
舟運を通して都市の水の文化を探る

ため池文化《香川》融通の智恵平成6年 大干ばつ 何が都市を救ったか

「日本の文化は水との緊張の文化である」―こう唱えてきた富山和子氏が香川を訪れ、ため池文化の現場を歩きます。『平六渇水』でクローズアップされた農村の智恵、そして水をめぐる都市と農村の関わりは都会人が忘れてしまった“水”とのつきあい方を考えさせます。

富山 和子さん

立正大学教授・日本福祉大学客員教授
富山 和子 (とみやま かずこ)さん

群馬県に生まれる。 早稲田大学文学部卒業。 水問題を森林・林業の問題にまで深め、今日の水、緑ブームの先駆となる。また「水田はダムである」という重大な指摘を行ったことでも知られる。著書『水と緑と土』は環境問題のバイブルといわれ、25年間のロングセラー。 自然環境保全審議会委員、林政審議会委員、環境庁「名水百選」選定委員、食料、農業、農村基本問題調査会委員など歴任。 「富山和子がつくる日本の米カレンダー、水田は文化と環境を守る」を主宰。 主な著書に『水と緑と土』(中公新書)、『水の文化史』(文藝春秋)、『日本の米』(中公新書)、『川は生きている』(講談社、第26回産経児童出版文化賞)、『お米は生きている』(講談社、第43回産経児童出版文化賞大賞)、『水と緑の国、日本』(講談社)などがある。



長町 博さん

香川用水土地改良区事務局長
長町 博 (ながまち ひろし)さん

1931年香川県に生まれる。三重大学農学部卒業。1953年香川県農林部土地改良課へ入庁。以来土地改良行政一筋に勤務。 1989年香川県農林部次長兼土地改良課長を辞し、現在、香川用水土地改良区事務局長、農学博士。 主な著書に『讃岐のため池』(共著、美巧社)、『古代の讃岐』(共著、美巧社)、『農業基盤としての条里遺構の研究』(美巧社)などがある。

「日本文化は、水を仲立ちにした人と大地との営みの結果である。」そう、私は新著『水と緑の国、日本』(講談社)に書きました。

それほどに日本文化の、他の諸文化と異なる特徴はといえば、水との緊密な関係です。水にまつわる独特の言葉だけでも、何と多いことでしょう。水に流す、水をあける、水争い、水掛け論、水臭い、寝耳に水、水をさす――。どれも外国語には訳せません。

なぜでしょう。水に恵まれているからでしょうか。水の豊かな国ならたくさんあります。では稲作文化だからでしょうか。そうには違いないが、ただ米を作るだけなら、アメリカでもヨーロッパでも作っています。

そうではなくて、水をめぐる緊張関係の文化、緊張関係によって共同体が生まれ、緊張関係によって初めて共同体の秩序も維持される社会。それが日本文化だったのです。対自然との緊張関係であり、また人間社会内部の緊張関係――例えば上流対下流、対岸対こちら側、隣の田圃対うちの田圃、といった関係です。

それこそは地形急峻、雨の偏って降るきわめて特殊な自然条件下、水をコントロールして稲作を営むことで養われた特質、自然とのつきあいの知恵だったのです。(注1)

けれどいま、緊張関係は薄れ、水とのつきあいの知恵や伝統は忘れられつつあります。

蛇口をひねれば水の出て来る現代社会に、昔の知恵や伝統など無用の長物なのでしょうか。

例えば水不足の時、決まって都市から出されるのが、こんな声なのです。
「農業用水の慣行水利権なんてもう古い。そんなもの見直して、水を都市へ回せ」と。

果たしてそうでしょうか。

1994(平成6)年は歴史的な渇水でした。いわゆる「平六渇水」です。とりわけ香川県の水不足は深刻で、「早明浦ダムの貯水量何パーセント」といったニュースが、連日のようにテレビで全国に報じられたものでした。高松市は五時間給水を実施し、市民の大騒ぎぶり、苦労ぶりも全国に報じられました。

しかしこのとき、高松市民を救ったその命綱とは、実は農業用水から分けて貰ったものであったこと、農民が都市に水を分けたその陰では、農民の涙の出るような犠牲があったことは、あまり知られていません。しかもその犠牲を行うことが出来たのは、過去の伝統や知恵を、復活させたからこそであったのです。

というのは、農家が水を都市へ分けるためには、各農家がよほど足並みを揃えて節水し、同時に、厳しい配水管理をそれこそ二十四時間体制で行わねばなりません。普通ならとても考えられないそうした苦労が、混乱もなく整然と実現できたのは、『慣行水利権(注2)に基づく配水ルール』という、その土地土地の水とのつきあい方の伝統を記憶していたお年寄りたちが、若い人たちに伝え、指導したからだったのです。

残念ながらこういうことはマスコミも報道しません。かえって「水が都市へ回せたのは、農業用水が余っていたからだ」とさえ報道する始末です。

その根底には、いかにして農業用水を取り上げるかが、都市の水行政の戦前からの重要テーマだったのです。(注3)

都市の私たちはいったい誰に養われているのだろう。そんな謙虚さに立ち、古い伝統や知恵をいまのうちに伺って、後世に伝えていく必要がありはしないか。そう思って私は、このとき節水の総元締めとして苦心され、いわば古い慣行や知恵の窓口でもあった香川用水土地改良区事務局長の長町博氏をお訪ねし、お話をうかがいました。

(注1)富山和子『水と緑の国日本』
講談社 1998年
(注2)慣行水利権
慣行水利権はいわゆる“権利”ではなく“財産”である。「200年前からの権利などもう古い。慣行水利権を見直して都市へ回せ」という議論も、「おまえの家や土地は先祖代々のもの。何百年も昔の財産など現代に通用しない。我々によこせ」というに等しい。
(注3)富山和子『水の文化史』
文藝春秋 1980年

今世紀最大の大渇水

富山 長町先生、平六渇水では大変なご苦労をされましたね。高松市の水不足があれだけ全国に報道されながら、そのかげで市民を救うため、農家がどんな苦労をされたか知らされていない。これはとても残念で、都市の私たちにとっても不幸なことだと思うのです。

そればかりか最近になっても、朝日新聞が「農業用水を都市へ回せたのは、水が余っていたからだ」と社説で書きました(1998(平成10)年8月4日付)。それに対して先生が、それは違う、実状はこうだという一文を投書されたが、載せてくれなかったというお話です。やはり都市へ水を分けてあげた木曽川の宮田用水土地改良区の事務局長さんも、投稿されたが、載せてくれませんでした。

長町 平六渇水は、高松気象台102年間の最小降雨記録を更新した記録的な大渇水でした。香川県でのこれまでの大渇水は、1939(昭和14)年の大干ばつが記憶に残っている人が多いのですが、あの渇水は、それをしのぐものでした。ですから、今世紀最大の大渇水ということが言えます(注4)。

1939(昭和14)年の大渇水の時には、稲の収穫皆無の地区が非常に多かったんです。ところが平六渇水では、稲は平年作を上回りました。そうなりますと、「農業用水には、かなり余裕があるのではないか?」という見方をされる方が都市部の方の中にはおられました。農水省の農業工学研究所では、「あの大渇水で香川用水は厳しい取水制限を受け、かつ上水道への融通を行ったのに、なぜ稲は平年作を上回ったのか?都市部の人達が言うように農業用水には余裕があるのだろうか?その点を解明したい」と調査に来られたんです。実は、この背景には農家の皆さんの大変な「節水灌漑」があったのです。

香川県の農家は、渇水時にはこのようなことを行うのが何百年来の習慣でして、それは当然だという理解があります。でも農業工学研究所の方に節水灌漑の実情を話しますと「当然とはいえ、それは大変なことだ」とびっくりなさる。香川県の農家の皆さんが当たり前のことのようにやっていることが、実は大変なことをやっているんだなという認識を私自身がもちました。そこへ、たまたま富山先生がお出でになり、ずばりそのことを教えられたんで、本当に嬉しくなってしまいました。

(注4)1994(平成6)年の高松市 月別 気温・降水量
1994(平成6)年の高松市 月別 気温・降水量

1994(平成6)年の高松市 月別 気温・降水量

上水道の危機を農業用水が救う

富山 もともと香川県は雨が少ない。そこで満濃池に代表されるように溜池が発達し、厳しい番水制度もありました。それが、早明浦ダムが出来、香川用水が来ると、市民の水意識もすっかり変わってしまった。人間の意識なんて、こうもあっさり変わるものかと、当時ダム建設に苦労した行政関係者の間で、よく話題になったものでした。そこへあの渇水でした。大騒ぎになりました。

長町 上水道用水も非常なピンチに陥りました。香川用水の第1次取水制限が6月29日に始まって、1週間ちょっとで早くも第2次に入って、いきなり60パーセントの取水カットに移行したんですね。香川県民にとって6月の末に取水制限が始まるというのは、平成6年の渇水が初体験だったんです。

60%の取水カットになると、上水道はたいへんな事態になります(注5)。しかし、そういう時は農業だってピンチなのです。そこに、なんとか農業用水、工業用水の協力を仰いで上水道を救済したいということで、県の渇水対策本部から救援要請があったのです。それは農業用水のカット率を重くして、上水道のカット率を緩めるという、利水者間での融通を配慮した配水調整をお願いしたいということでした。

香川用水土地改良区(注6)の中でも、これにどう対応するか、随分と議論がありました。農業用水も連日の猛暑干天のため、ため池の貯水量が急速に低下していました。しかし、その段階では、今世紀最大という大渇水になり、この先渇水が延々と続くという予測はなかったですからね。とりあえず上水道はピンチだし、何とか協力しようということで融通に応じたわけです。

ところが、渇水は予想以上に厳しく、長期にわたりました。農業用水もたいへんなピンチです。そこで、農家の人も節水灌漑に努める一方、井戸を掘ったり、ポンプを据えたり、新しく揚水パイプを配管したりと干害応急工事にも積極的に取り組むことになった。このように、利水者間での融通の背景には、農家の皆さんが行なった、採算を気にしない干害応急工事の実施と節水灌漑とがあったわけです。

(注5)
この取水制限で、高松市では7月15日〜8月15日の間、16時〜21時の時間給水に追い込まれた。ちなみに1997(平成9)年の少雨の際には、9月に香川用水からの取水が50%まで制限されたが、減圧給水でしのぎ、断水にはいたっていない。
(注6)土地改良区
簡単に言うと、農業水利組合のこと。1949(昭和24)年制定の土地改良法に基づき、それまでの耕地整理組合、普通水利組合に代わって設立されたものを指し、県内に約150近くある。香川用水土地改良区は1968(昭和43)年に設立され、香川用水事業における農業専用区間(59km)の維持・配水管理を行っている。

上水道への融通

富山 「節水率」というのがあります。限られた水をどう我慢し合うかの数字ですが、渇水になると我慢をさせられるのは、いつも農業の側ですねえ。

実は平六渇水の時、愛知用水でこんなことがありました。愛知用水は名古屋市の一部から知多半島全域を潤す水で、水源は木曽川上流のダムに頼っています。が、このとき水源がゼロになった。では知多半島の人たちはどうしのいだかというと、木曽川下流の農業用水から分けて貰った。さきにふれた宮田用水です。それも無料でです。そのこと一つが、農業用水のありがたさを示していますが、貰ったその水を愛知用水内部で、どのように分けあったか。

農水、工水、生活用水の節水率を見ると、一番厳しい季節でしたが、農水65%、工水65%、生活用水33%でした。生活用水最優遇です。

「それは違うのではないか」私はそう、愛知用水の方に申し上げた。都市の人たちにも、そう、講演でお話ししました。

「だって、いまのようにたくさん水を使っている時代、少々の節水で人間は死なない。が、植物は死ぬ。だったら、農業を優先させるのが筋でしょう」と。「ただ、隣の家へはたくさん水が来て自分の家へは来ない、といった不平等では混乱が起きる。水をどう分け合うかという問題、これは非常に大切で、日頃から研究し準備しておく必要がある。が、あくまで都市内部の問題です」と。

渇水の時の節水率は、利根川水系を初めどこも大抵、こんな割合ですねえ。「生命のため」という大義名分が唱えられるのですが、香川用水ではどうでしたか。

長町 香川用水に上水道を依存しているのは5市19町。その内、この用水に100%依存しているのは6町です。全体では、この5市19町の水道需要量の56%を香川用水に依存しています。その香川用水の利用が60%カットされますと、これは大変なことになってくるわけですね。1994(平成6)年の灌漑期間中の香川用水の計画取水量に対する取水実績は、全体では65.5%なんです。ところが、農業用水は59.6%、工業用水は45.8%に抑え、上水道は83.3%の取水をしています。この差が融通なんです。

水量としては、そんなにびっくりするほどの数字でもないんです。ただ、融通された水は上水道が本当にピンチの時に効率的に運用されますから、水量は少なくても効果は抜群なんですね。そういう融通を行うことによって上水道がパニックに陥らなかったんです。

高松市は5時間給水が延々と続いたわけですが、この融通がなかったら3時間給水に陥っていたに違いありません。3時間給水になりますと水道が減圧してしまい、高松市の半分が断水になるんです。そうなると間違いなくパニックが起こります。ですから、最低5時間給水を維持するために必要な融通を行うという方向で、香川用水土地改良区の配水管理委員会に話をさせてもらったのです。

豊稔池

左:豊稔池

農業用水内部での融通

その代わり、融通したために干ばつの被害が広がったという事態があってはならない。そこで、県下のため池の貯水状況、節水灌漑の実施状況、被害の発生状況等をできるだけ正確に把握し、その情報をもとに、本当に困っている地域を救済するための、農業用水内部での融通をやったわけです。その段階で節水灌漑を充分に行っていない地域には配水を若干控えてもらい、本当にぎりぎりの節水灌漑を行いなおかつ危機的な状況になっている地域には、そこだけ配水量を増やして救援する、そういう配水調整を行いました。

香川用水のすばらしいところは、その幹線水路が香川県の内陸部を東西に走っていて、県下の13河川水系を串刺しにしている点です。このため、香川用水の配水を水系間で調整することによって、受益地域内の水不足の状態を平準化させ、一定地域に被害が拡大するのを未然に防ぐことができます。平六渇水では、その機能を最大限に働かせて、水源供給力の弱いところへ優先配水するという基本方針を貫きました。

分水量は権利 ― 融通のための説得

富山 農家のみなさん、そんなに簡単に同意されたのですか。

長町 やはり、それは言うは易しくして非常に難しいんです。と言いますのは、香川用水の幹線水路の建設費の地元負担金は、土地改良区の定款で水量割り7割、地積割り3割で賦課することになっています。水をたくさん使うところはたくさん建設費の負担をしていただいているわけでね。ですから、実際水をたくさん使うところへは、「お宅はたくさん水をあげます。その代わりお金をたくさん払ってださい。」という負担になっています。したがって、香川用水の幹線水路には農業用分水口が179所ありますが、各分水口の期別の分水量は一つの権利になっているんです。それだけのお金を負担してますからね。ですから、無断で私どもの裁量権で勝手に分水量を変更することはできないんです。これはやはり説得以外にないわけです。「お宅はよそに比べて比較的状況がいいから、危機に陥っている地区を救済するためにバルブを閉めさせてもらえないか。」といった説得です。ですから融通は一見簡単なようで、非常に難しいんです。

そういう融通をしながら一方では、農家の方々に、「節水灌漑を徹底してください。」と申し上げる。節水灌漑をやって、なおかつ被害が出る状態であれば融通の対象地区にしますが、節水灌漑をしない地区へは「節水灌漑をしてくれないことには救済はできませんよ。」ということになります。でも、そこまで言わなくても、どの地区も節水灌漑をやっていました。

節水灌漑

富山 番水制度は日本中どこへ行っても、実にきめ細かく敷かれていますね。その土地土地独特で、文字通り日本特有の水の文化だと思うのです。が、このときの節水灌漑って、具体的にどういうことをなさったのでしょう。

長町 ため池の配水ルールは、通常ため池ごとにその受益地域を3ないし5ブロックに分けて、ローテーションを組んで輪番制で順番に水を配水していく。それが番水制です。通常の天候の年には3〜5日という、そのルールに従って池の水を抜くんです。ところが渇水になってきますと、3日のところを2日にしたり、5日でローテーションを組むところを4日にしたりする。池の水を抜く日数を短くするわけですね。

各ブロックには『水配(すいはい)さん』がいて、その下に『田子(たご)』がおります(注7)。節水になり、配水期間が短くなってくると、「走り水(注8)にしよう」となるわけですね。ですから、1枚の田んぼに配水する時間が短くなり、十分に水を溜めることができなくなるわけです。節水時の配水方法にはいろいろありますが、例えば、田んぼの一番高いところに、竹に白い紙をつけてそれを立てる。一番高いところへ水が届いたら配水を停止して次の田んぼへ移動する。だから田んぼの高さを見間違って低いところへ印をするとその人は損するわけですね。(笑)

(注7)水配・田子
水の配水権限をもっているのが“水配”。ため池の配水管理を“池守り”が行い、その下に各ブロックの“水配”、さらにその下に“田子”がいるという配水権限者の階層がある。
(注8)走り水灌漑
田んぼに水を溜めるのではなくて、水を田面に走らせて、田んぼを湿らせる程度にしか灌漑しない節水の方法。

水配さんの責任

長町 水配さんは通常の年は1人で差配します。平六渇水では3人の水配さんの合議制にして、だいたい水が行き渡った状態を見て、「もうよかろう」と3人の意見が一致したら次の田んぼへ行く。

もう一つの方法は、移動式ポンプを使って、水路に堰上げられて溜まった水を勢いよくポンプアップして田面に走らせる方法です。勢いよく水がバッーと飛んで広がりますね。そうすると短時間で田んぼ全体を湿らせることができる。

それをさらに一歩進めた方法で、「切り落とし」というのがあるんです。田んぼには水の入口になる「水口」(みなくち)と、田の水を落とす「水落」(みと)があります。水口から水が入って、水落へ水が届くと「届いたぞ」という合図で次の田んぼへ移動するんです。

水が届いただけで水口を閉め、配水を停止して、次の田んぼへ移動するだけでなく、同時に水落をあけて、入っている水を落とすのです。これはまさに究極の節水灌漑方法ですね。池守(いけもり)さんは権限が強くて、「きょうは何時から何時まで、お前のところは水を抜いてやる」とローテーションを組みます。そうすると、水配さんあるいは水引きさんは、自分の受持ちの田んぼ、例えば5haとか、10ha毎の何百枚かの田んぼに、その時間内に平等に水を配水しないといけないわけです。責任があるわけです。皆さん必死です。終りの方の順番の人は、日暮れが近くなってきて池のユル(注9)を閉められる恐れがある。ところがまだ水は向こうの方にある。「これ一体どうなっとんや、うちまで届かんぞ」という心配がありますね。そうなるともう「届いたぞ」という声が、真に迫るといいますか、声が本当に大きくなるんですよ。そういう緊迫した空気が伝わってくる。全部の水田に配水が終わらなくても、約束の時間がきたら池の取水バルブはピタッと閉まりますからね。その意味では水配さんの責任は大きい。

(注9)ユル

池の水の出口を閉じる栓。この地方では、栓の形がスッポンの頭に似ていることから“スッポンユル”とも呼ばれている。人が抱えている「筆木」を上に抜くと、穴から水が通じるしくみになっている。(下写真)

干害応急工事への取り組み

長町 香川県の農家の皆さんは、一度田に植えた稲はどうしても収穫しようと、採算を忘れて懸命にやりますね。ですから節水灌漑もさることながら、井戸を掘ったり、ポンプを据えたり、干害応急工事をあっちこっちで行いました。業者も手一杯で、特にポンプ関係の業者はもう底をついてしまって、頼んでも来てくれないですよ。ですから自分でやるわけです。朝4時、5時から起き出して、土方をやって、農家の皆さん自らの手で工事するんです。井戸を掘ったり、それからパイプを埋設したり、これはもう本当にすごいですね。そういう干害応急工事が県下で8200所も実施されています。

富山 渇水のためにですね。

長町 そうなんです。その一例ですが、丸亀にある讃岐富士と呼ばれている山の近くに170haの田んぼが加入している飯野土地改良区があります。そこには既設の井戸が91カ所あり、ポンプをフル運転しました。それに新しく井戸を34カ所掘る一方、揚水機を新しく138台設置しているんです。170haのところで1億6600万円の干害防止のための工事をやっているんです。

富山 1億6600万円!

長町 そうです。ここではもう8月初旬に池が空になって、地下水へ移行したわけですね。ところが浅層地下水ですからね。これだけのポンプが一斉に水を汲み上げて、田んぼに水をやったら大変なことになる。

富山 水がなくなってしまいますねえ。

長町 水がだんだん細くなって、中にはもう吸込口が浮いてしまったりして、揚水できないところも出てきた。そこで土地改良区は総会を開いて、3分の1を犠牲田にして灌水を中止する。井戸から揚水した水は個人井戸といえども、地区水利組合長の管理のもとに配水する、香川用水からの救援水の配水は理事長に一任し、理事2名を加えた合議によって配水する。盗水があったときはその氏名を公表し、以後の配水は行わない。こういう厳しい掟を定めている。「自分のところのポンプだから、自分のところの田んぼへ入れる」ということは許さんと。地下水は全部、お互いに共通の水だから、これからは、その水は水配さんの指図によって配水するということになった。困っているところ、枯れそうなところには優先して配水する、というルールを決めたわけです。

富山 それは平成6年の渇水で新たに決めた取り決めですね。

長町 そうです。ただしポンプの運転経費は改良区で負担したんです。

富山 その170haの中には何戸ぐらいの農家があるのですか。

長町 約460戸です。

富山 460戸。460戸で1億6600万円の負担。補助金なしですか。

長町 いいえ、県が60%補助、その上に丸亀市が30%上乗せ補助をしています。それにしても採算は度外視しています。

平池

平池

水ブニ慣行

長町 香川県では水ブニ慣行というのがあります。讃岐地方では、ブニというのは持ち分という意味で、「あの人はブニがある」といえば、「あの人は持ち分がある」すなわち「恵まれている」という意味で、「あの田んぼは水ブニが多い」といえば、「あの田んぼは水の持ち分が多い」ということになります。田んぼ1枚1枚ごとに水の持ち分がある、全国に例のない特殊な慣行なんですね。

本来、農業水利権は、一定地域の水利組合などに所属する農地、または組合員の総有的なもので、水利組合の組合員の田んぼの面積に応じて平等に共有するのが普通なのですが、ここでは同じため池の水が入る田でありながら、田んぼごとにその水のブニが違うというのが、この水ブニ慣行の特徴なんです。ため池の水を均等に分けるんじゃないんです。平等に分けるのではないのです。

ある田んぼはたくさんもらえる、ある田んぼは少ない。その多少を何で表すかと言うと、線香の長さで表す。田ごとの線香の長さを記した台帳があるわけです。また、時にはこの水ブニが売買の対象にもなります。線香の長い田は値段が高い。この田んぼの水ブニが良いとなると買いたい人が多くなるわけです。そして、地主さんが水ブニを全部買い占めてしまう地域も出てきて、「地主水慣行」にまでなっていた地区があります。地主さんの権限で水を配水するわけです。

富山 なぜ平等ではなく、田んぼによって違ったのでしょう。

長町 最初はね、平等だったんだと思いますよ。それがやはり力関係の差で、そういう田ごとに差が出てきた。

それからもう一つには、新田開発とため池の築造が密接につながっています。藩の石高が年々上がっていく過程を見ると、新田開発が非常に進んだ時期があります。それはまた、ため池の数が増えていった過程でもあるのです。水の必要な田んぼが新しく増えたから、ため池を築くというのも増える原因でしたし、もうひとつには干ばつや日照り続きから、もっと水を安定供給しよう、生産を上げたい、収量を増やしたいということで、ため池を築く。いろいろな要因がありますね。

新田開発をする場合は、古田(こでん)の水源の上に新しく水田が出来て、それが同一水系にありますと、古田と新田の間で軋轢が起こります。話し合うのですが、新田はどうしても不利になる。そこで、分水の時間の差、水ブニの差が出るということも考えられます。一つのため池があるとします。このため池の補助水源として、もう一つため池を造ろうとする場合に、新しく出来た水をどうやって配分するか。そこでも力関係の差が出てくるわけです。

線香水

長町 水路に水が来ますね。ある程度水位が高まらないと田んぼへは水が入らない。水路の水位が高まって、田んぼへ水が入り出した瞬間に、拍子木(ひょうしぎ)を叩く。その音を合図に火を付けるわけです。そして、線香が燃え尽きたら、太鼓を叩くんです。そしたら、水路に入れた堰板を外して、次の田んぼに水を流す。夜水(よみず)(注10)でしょ、昼夜兼行でやるから線香水は蚊帳をつってやる。

富山 線香を燃やし配水台帳にしたがって合図をする線香番は、蚊帳の中で行うのですね。合図を聞いた後はどうなりますか。

長町 ちゃんと水引きがついていますから、水引きが指図するわけです。

富山 大勢で見ているのですか。

長町 もう総出です。配水順番が来てその地区へ水が入って来た時は皆でね。終わって太鼓を叩くと、次の田んぼに水が入る所へ行く。全員田に出ていたわけね。田んぼの持ち主と、水を見ている人と水引きさんがいる。欠席すると水をもらえません。

富山 線香水はいつ頃始まりいつ頃まで続いたのですか。

長町 「大野録」という古い書物に「寛文12年夏5月、南城にて香の水という事を定む」という記述があるんです。今から326年前に香の水が始まったことを裏づけています。戦後、土地改良事業が進み満濃池(注11)の嵩上げ事業が完成した1960(昭和35)年頃から線香水は終息に向かいました。今では水ブニの不公平は是正されたものの、線香に代わって時計を使ったりして、その基礎をなす番水(番組)は立派に継承されてきていまして、平六渇水ではこれが復活して節水に偉力を発揮したのです。

富山 現在ではそういうことを知っている若い人は少ないのでしょうね。

長町 線香水という配水慣行は大変なことなんですが、ここらでは大変な事やっているという認識があまりない。お年寄りによほど注意して話しを聞きださないと、日常的にやっていた当たり前のことだからと、とりたてて話したがらない。でも、私はいつも驚きをもって聞きますし、若い世代へ語り継いでいかなければと思っています。

(注10)夜水
夜間にも配水すること。

(注11)満濃池
有効貯水量1540万tを誇る日本最大の農業用ため池。弘法大師が修築したと伝えられる池は1184年に決壊。以後450年間は満濃池がないという空白の時代で、その間に丸亀平野下流部のため池群が完成した。現在の池は、寛永年間(1624〜44年)に、生駒藩藩士・西島八兵衛により再築され、その後たび重なる増築を経たものである。

線香番水に使われた「配水箱」

左:線香番水に使われた「配水箱」。箱の中は二つに区切られ、一方は底が深くなっている。箱の縁に刻まれた目盛りを使って、水利台帳の寸法に合わせて線香を切り、小さな板にびん付け油で線香を立てて燃やした。風の強い日には、底の深い方が使われたという。
右:線香水について村のお年寄りから話を伺う富山和子氏。線香水のお話をして下さったのは、長野ヨシノさん・92歳。子育てをしながら男衆に混じって線香水による配水をした経験をお持ちで、貴重な話を伺うことができました。

ヘッドライトがホタルのよう 時間制限による配水の苦労

富山 ここで、平六渇水に話を戻しましょう。やはり時間制限による配水が行われた地区もあったのでしょう。

長町 豊稔池土地改良区では、時計を使っての配水を行いました。時計を置き、旗を立てています。「この田んぼへ今、水が入ってます」という印なんです。番組にしたがって時間が来ると、次の田んぼへ移動するわけですね。理事長さんが「1日24時間では時間が足らんのです」といっておられました。というのは、どうしても自分のところへ少しでも水を行き渡らそうとしますから、決められた時間をオーバーします。ですから結果として、1日24時間では足らんのですよ。この配水方法ですと、どうしても田んぼ全面に充分に水が行き渡らない。畦(あぜ)の周辺がちょっと高くなっていますから、そういうところへは水が行き渡らない。放置しておくと枯れますから、自家製のタンク車を使って畦前(あぜまえ)へホースで自分のうちの井戸から汲み上げた水を散水するんですね。水路の水をポンプアップすることは許されませんからね。平六渇水ではこういうタンクを積んだ車をよく見かけました。

番水制で順番に水を配っていくと、自分のところの田んぼに配水の順番が来た時に本人がいなくて、欠席すると水がもらえない。ところが兼業農家の方はそんなことを言われたら大変です。

富山 勤めがあるし…。

長町 夫婦で勤めているところはだめなんですね。そのために耕作放棄した人が、あちこちにおりました。勤めのために自分の田んぼへの配水時刻に出てこられない人は「うちは結構です」と最初から水をもらうのをあきらめていた。それほど厳しいしきたりであるということを知っているわけです。

また、香川用水の受益地域内で水配さんをしている人で、このままでは共倒れになるというので、自ら自分の田んぼを犠牲にして、みんなに協力を要請するという方もいらっしゃいました。非常に責任感が強いんですね。そこまで水配さんがすると、お互いに譲り合うということになる。

それから、もっと厳しくなってくると、いわゆる分水、分け股というんですけど、分け股で盗水が起こったりします。水が盗まれるんです。

富山 一体どうやって水を盗むのですか。

長町 分水施設がありますね。自分の所へ余計水がくるように、相手側のところに石を放り込んで、水の流れを阻害しようとする。あるいは水門を勝手に操作したり、堰板を入れたりして、自分のところへ水をたくさん引こうとするわけですね。それを防ぐために、分け股に張り番がつくわけです。このため、昼間勤めに出ている人は夜に交代で分け股へ張り番に行く。張り番に行ったり、夜水をしたり、夜に自分の田んぼへ水を入れたり、あるいは井戸を掘ったり、昼夜兼行での作業になるわけです。平六渇水の最中に、ため池の多い綾南町を夜通った時、頭に電気をつけて夜水をやっている人が、まるでホタルが飛び交っているようにみえました。

富山 ヘッドライトをみんな付けて作業している…。この話、印象的で忘れられないのです。こうした農家の方々の努力が実り、この大渇水もひとまず乗り越えることができたわけですね。でも、こういうことは何も報じられないのですねえ。

満濃池

満濃池

水の有効利用 ― 結局は“節水”と“融通”

長町 大渇水が終わった後、新聞記者が私のところに見えて「長町さん、一体今度の渇水はあなたにとって何でしたか。そのポリシーを一言で言ってくれ。」と言われまして、私は思わず「節水と融通です。」とお答えしたんです。

渇水対策は、ハード面では井戸を掘ったり、ポンプを据えたり、という干ばつ防止のための干害応急対策工事であり、ソフト面では節水と融通になると思うんです。私ども香川用水土地改良区は、そのソフト面を受け持ったわけです。それに対し記者は「配水調整とか、水利調整とかいう言葉より、融通が一番わかりやすくて、ええ言葉や。」と言ってくれました。私もそう言われてみたら、なるほど、融通というのはいい言葉だなと思って。(笑)

富山 私、日本の歴史の中で農民と水との関係ほど、民主的な存在はない、と思っています。古代でも江戸時代でも、明治専制君主の時代でも、中央政府が掌握しようとしてもこればかりは出来なかった。どの程度の渇水の時には、隣の家とどう水を分け合うか。そうした約束事は、その土地土地の人たちの、長い年月の経験から共同して編み出されたもので、共同して守っていく。こんな地域密着型の民主主義はありません。

ですがその融通、農業内部の融通と、農業から都市への「融通」とは、区別して考えないといけないと思います。農業から都市への場合は性質がまったく違ってきます。都市にとってはありがたいことなのですが。

長町 水を節約して使い、それでも足らない。足らない度合いを見計らって乏しい水を融通し合う。それが節水と融通です。水の有効利用とは何かということを煎じ詰めたら、私は節水と融通だと思いますよ。香川県の農家の皆さんは昔から水不足に苦しんで、非常な節水灌漑をやって来たわけです。それが体にしみついている。ですから、渇水になって節水を呼びかけますと、非常にスムーズに、協力的に節水に移行してくれるんです。だけど融通には強い抵抗があるんです。これは融通というのは、それが慣習化すると慣行になるからなんです。もっと進んで言いますと、3回譲ったらもう慣行になると言われています(注12)。

(注12)
このことは、水利組合間での農業用水の融通で言われていることだが、都市に対して融通する場合にも同様に言われている。

現代人が忘れてしまった “水とのつきあい方”

長町 水源の早明浦ダムは取水制限をしなかった場合、5年に1回は底をついて使用不能になる。一方、香川用水は10年に1回の渇水でも対応できるだけの施設容量をもっている。いくら施設容量があっても水源が枯渇しては機能を発揮できません。渇水多発の原因は地球温暖化にあると考えられます。地球温暖化はだんだんと進行し、21世紀は絶対に渇水が多発する。

富山 「21世紀の資源は水」と、私は以前から言って来ましたが、本当にその通りになりました。

長町 1993(平成5)年、米不足の問題があり、緊急輸入をしたりの大騒ぎがあった。そうした米不足や頻発する水不足という問題は、われわれが今後21世紀社会のなかで、本当に地球市民として環境との調和を保ちながらうまくやっていけるかどうかの試練を与えたと思います。

現在、農業用水は需給のバランスを保っていますが、問題は都市用水です。都市用水は水洗トイレ、自動洗濯機の普及など利便性の追求が進んで、使用量はうなぎのぼりでしょう。ダム建設はコスト面、環境面でも限界に近くなっています。日本は雨は確かに多く世界平均の2倍も降るんです。しかし、一人当たりの水量となると5分の1です。しかも雨量は、季別に変動が大きく、台風とか梅雨の時に一時に大量に降るでしょう。だから雨水の利用が非常に難しいんですね。ですから、先生がおっしゃったように21世紀には水不足がより深刻になることは避けられないでしょうね。

富山 貴重なお話を、ありがとうございました。この話、日本中の都市の皆さんに、いえ農業者の皆さんにも知っていただきたいと思います。

【香川用水とため池】

香川県は昔から水資源に恵まれず、先人達が多くのため池を築造するなど、用水確保に苦労を重ねてきた(注13)。こうした問題の抜本的な解決を図るために、四国の水資源の総合的な開発を目的とした「吉野川総合開発」の一環として計画、施行された事業が香川用水である。吉野川上流の高知県長岡郡本山町に早明浦ダム(有効貯水量2億8,900万t)が建設され、その運用によって新たに生み出される年間8億6,300万tの用水が四国4県に配水され、そのうちの2億4,700万tを香川県に導入するという一大事業であった。早明浦ダムから放流された水は、吉野川中流部の池田ダム(徳島県)に設けられた取水口を経て、ここから阿讚山脈を貫く導水トンネル(全長8km)で県内に導かれることになる。ここから県を東西に横切り、その長さは約90kmで、香川県のほぼ全域を潤している。1968(昭和43)年に着工され、1981(昭和56)年に完成した。維持管理は、共用区間を水資源開発公団が、農業専用区間を香川用水土地改良区が担当している。これにより、長い水不足の歴史に一応の終止符が打たれと言われた。

(注13)
ため池の数は約16000あまり。これは、兵庫県、広島県に次ぐ多さである。また、ため池は治水機能も持っている。例えば、丸亀市は土器川と金倉川に挟まれているが、洪水路線に沿って発達したため池が、洪水調整機能を果たし、丸亀市街地を洪水から守っている。

ダムの水源・山村と林業にも目を向けよ ―対談を終えて― 富山和子

ご記憶の方もあるでしょう。やはり平六渇水でこんなことがありました。水不足に悩む福岡市が農家に対し、田植えを止めさせ、その水を都市にまわしてくれと、申し入れたのです。「代わりに金を払うから」と。

このニュースはさすがに全国に報道されたものでした。いやしくも水について少しでも勉強した者なら、それは発想だに出来ぬことなのです。というのも、日本人と水との緊密なつきあいとは、弥生時代からのもの。むろん農民の文化です。川を作り替えたのも農民、治水の主役も農民、水とのつきあいの知恵、といっても農民のもの。都市市民と水との関係は、まだ百年の歴史でしかない。

百万都市福岡市が、水の研究者をかかえていないはずはない。それが、こんな提案をするとは、いかに水について分からなくなってしまった社会か、ということでした。

そればかりではありません。実は農業が水を使うということは水を作ること。農業は水の利用者であるが、水の生産者でもあるのです。なぜなら、放っておけば海へ捨てられてしまう川の水を、その分大地へ止め置くわけですから。もしも農業が水を使わなくなったら、日本列島は川の水も地下水も確実に減ってしまうのです。

四年前に私はそのことに気づき、そう主張し始めました。この重大なことになぜ最近まで気が付かなかったのかと、私自身驚いているほどです。「水田は水を貯えるダム」ということは、もう四半世紀前の『水と緑と土』の時代から訴えつづけてきて、最近漸く皆さんに理解されるようになってきたのですが。

「融通」のお話は、水とつきあってきた日本農民の知恵であり、美しい伝統でした。それが都市を救う命綱になりました。しかし、農民同士が水を分け合うなら、また大地に返されて水を養うことになる。井戸を掘っても、また大地に返される。しかしその水を都市が使えば、ただ消費して捨てられ、新たな水資源にはなりません。その分だけ日本の国土は、渇いていくことになる。そこが基本的に違います。

このことは、都市の私たちも、農民の皆さんも、よく知っておいてほしいと思うのです。

最後にもう一つ。水の原点は森林であり、その森林は林業で支えられています。香川用水の水源、早明浦ダムの水も、流域の山村の人たちの懸命の労働で作られています。ダムを土砂の堆積から守っているのもまた、山村の人たちです。

いまその森林も、危機に瀕しています。一見黒々と見える日本列島の山々も、一歩中に入れば崩壊寸前の姿です。木材の自由化による林業の衰退、山村の過疎のおかげです。加えて農業の不振が追い打ちをかけています。

日本は世界に冠たる森林国でした。そのおかげで私たちもこの国土に生を受けることができ、いまもダムに水が供給されています。ところがその森林が放棄されつつあるのです。

平六渇水の時、毎朝テレビで「早明浦ダムの水、ただいま何パーセント」と報じられるたび私は、「だから農業を守れ、林業を守れ」という声になぜならないのか、残念でなりませんでした。

大変な犠牲の上に作ったこの巨大ダムの水も、山村が崩壊すれば元も子もないこと、都市の人たちも農業者の皆さんも、十分承知しておかなくてはなりません。

日本の「木の文化」についても、いずれこの誌上でご紹介したいと思います。ここではその「木の文化」も実は「水の文化」であったこと、その根底にあったのが「米の文化」だったということだけ記しておきましょう。



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