機関誌『水の文化』10号
アジアの水辺から見えてくる水の文化

アジアの水辺から見えてくる水の文化タイの首都バンコク トンブリー地区

アジアまち居住研究会

アジアの水の文化

アジアの都市を「水」からの視点で研究しはじめて、十五年の歳月が経つ。ちょうど日本では、東京・芝浦の「インクスティック」や「タンゴ」といった運河沿いのカフェバーが話題となった頃だ。それを皮切りに、日本の各地で水辺を生かした町づくりが繰り広げられる。あのウォーターフロント・ブームである。だがすぐに、水辺のガラスでピカピカの建物から人々の足は遠のき、過熱気味のブームもあっという間に終わった。

もっと自然な人と水との関わりによって生み出された生活様式や習慣を感じたい、知りたい。そうでなければ、本質的な水辺の再生はありえないと思った。そんな時に出会ったのがアジアの水辺、とりわけ中国江南の蘇州とその周辺の水の町である。そもそも、かつて日本やアジアの各地域では、欧米よりずっと水が人々のくらしに密接に結び付き、豊かな生活文化を形作っていた。その文化の掘り起こしが今求められている。

そして今、興味の対象はタイのバンコクと、その河川流域の歴史的な都市へと移っている。1998年から毎年調査に出かけ、水を中心とした生活環境を都市・建築の視点から調査している。中国の江南地方と同じく、ここにもまた居住や生産には適さない湿地帯を開発して定住を可能にする、いわば水との闘いと共生の繰り返しという歴史がある。それを乗り越えることによって実現したタイの水辺には、建物や人々の生活に欧米のような華やかさはないが、水と共生するくらし本来のあり方と人々のエネルギッシュな生活がある。タイや中国といったアジアの水辺から見えてくる水の文化とは、日本人が失い忘れてしまった、かつてのこうした豊かな「水の文化」そのものなのかもしれない。

タイの水の文化を斬る!

この調査研究は、「ミツカン水の文化センター」研究事業として、2002年度から新たにスタートする。調査研究の目的は、水路、道路、宗教施設、住宅地・商業地といった都市構造と、民族、宗教、階層、職業といった社会構造を結び付けながら、水と密接に結び付く都市空間がいかに形作られ、成り立っているのかを歴史的に明らかにすることにある。民族や階層といった社会構造の違いは、水路や宗教施設、住宅地などからなる都市構造にそのまま反映される。また、住宅や店舗などの建物は、その場所の様々な条件に応じて多様なタイプを生み出している。それら相互の関係に着目し、水の文化の背景を具体的に探ることが目標となる。とりわけ、

タイを見る上で欠かせない二つの視点がある。

一つは、水辺の環境づくりから、タイ人と住まいの変遷を考えることである。この調査研究では、バンコクが主な対象となるものの、水との関わりの中で、多種多様な民族がいかにタイ人へと同化し、それによって住宅のスタイルがどのように変遷したのかを解き明かしていきたい。そのためには、スコータイやアユタヤも調査研究の視野に入れる必要がある。そもそもタイでは、モン族、タイ族、クメール族(カンボジア人)、漢族(中国人)、またマレー人やインド人、ポルトガル人など、民族も宗教も異なる人々が支配あるいは共存してきたという歴史がある。

つまり、都市部のみならず、様々な地域で幾重にも積み重なる文化層が築きあげられた。その時代と地域の変遷のなかで、彼らの一部は高床を共通としながらも、住まいのあり方をその場の環境に応じて変化させている。したがって、水を中心とした環境形成を探りながら、どのように人々がその地に根付き、住まいを作り上げていったかを建築的に考察し、同時に地理学的な視点をも含めながら考えていきたい。このことは、水を中心としながら大都市における多種共生をいかに実現するか、そのためのプロセスとはいかなるものかといった今日的問題への解決にも結び付く。

二つ目の視点は、水辺に展開するまちのくらしと信仰の関係を探ることである。タイでは、水の側に顔を向ける仏教、道教、ヒンズー、イスラムなどの寺院を中心として、それぞれが個々に集落やコミュニティーをつくりだしている。とくに、タイの仏教寺院は、単なる信仰の場ではなく、修行や儀式、祭礼、墓地、また学校としても機能することが多く、まちの中心としての役割を果たす。それらが水辺に点在する様子は、まさにタイを代表する都市景観といえよう。実は、水辺には小さな祠も数多く点在し、水と信仰、人々のくらしがあらゆる部分で深く結び付く。水路が埋め立てられた場所でさえ、残された寺院や祠が住民たちやまちの空間に記憶としての水を蘇らせる。まちや建物の空間の把握をベースとしながら、このような民俗学的な視点をもって考察を深めることが、タイの水の文化を知る重要な視点となるはずだ。

こうして、タイの水の文化を掘り起こすことで「新しい人と水とのつきあい方」を見つけていきたい。まずは、本調査がスタートする前のプレ調査として、2001年夏に実施したバンコク・チャオプラヤー川西岸のトンブリー地区の報告をおこなう。この調査は、バンコク都市研究の第一人者であるチュラロンコン大学スワタナ・タダニティ助教授とその研究室との協同ですすめられた。

トンブリー地区には、アユタヤ滅亡後、十八世紀後半にわずか十五年だけ王朝が置かれた。その後、首都は東岸の現在のバンコク中心部に遷都し、トンブリー地区は見捨てられたかのように考えられがちである。だが、遷都後も、ここでは水の都市ならではの町づくりが行われ、道路を中心とした近代化の時代にあっても、むしろ水との関わりを積極的に推し進めている。水辺に様々な民族が共生し、それぞれに個性的な住まいを持ち、また信仰の場としての寺院や祠が多いトンブリーは、今後の調査研究を進めるうえで、まず最初のフィールドとして最もふさわしい地区なのである。

【バンコクのタイ人】

一般にタイ人と呼ばれる人々は必ずしもタイ民族ではない。華人系、マレー系、インド系、クメール系などのタイ人も少なからずいるからである。しかも、現在ではそれぞれを明確に区別できない。それほど混血が進んでいる。そもそも、トンブリー王朝の創始者であるタークシン王その人自身が、中国人との混血であった。そのうえ、個々の宗教が自立していて、祭事の内容さえも混合が進んでいるから、ますます複雑だ。つまり、文化も融合しているのである。

とくに、都市部ではその傾向が強い。バンコクでは、人口600 万のうち半数以上が華人あるいは華人との混血であるといわれている。チャイナタウンやインドタウンには、外見から中国人やインド人とすぐに見分けがつく人々が集中している。だからと言って、それ以外の場所では、すべて仏教を信仰するタイ族ということにはならないのである。実際、われわれが調査を行ったサンタクルース教会地区には多くの華人系キリスト教信徒が存在し、仏教寺院のあるイーカン地区では中国の神棚を数多く見かけた。ひとつの家に、上座仏教の仏像と中国の財神が並んで祭られることも少なくない。夫と妻で民族の系統が異なるからだという。その点、ムスリムは、地区、家族ともにイスラム信者としての統一感が強い。それでも、ひげを伸ばしたり、白い帽子をかぶっているわけではないから、外見は他とあまり変わらない。

こうしたタイの都市を対象に、民族や宗教からなる社会構造をひも解きつつ、いかに水との関係をとりながら建物を築き豊かな暮らしを作り上げてきたかを探ることは、複雑ではあっても実にエキサイティングな作業である。

トンブリーの空間構造

わずか十五年という期間ではあったが、トンブリー王朝時代は、この地区のその後の性格を決定付けた。

後に成立するラタナコシン王朝は、王宮を中心に三本の運河を環状に建設し、同時に内陸に向かう道路を通して都市域を面的に広げていく。

それに対して、建都から二十世紀半ばまでのトンブリーは、チャオプラヤー川やヤーイ運河などの水辺に沿って発展を遂げるのである。

トンブリー発祥の地は、ヤーイ運河とチャオプラヤー川という二本の幹線運河が交わる古くから交通の要衝にある。1767年、ここにビルマ軍を掃討した武将タークシンが王宮を建設する。それがトンブリー王朝のはじまりであった。それより前のアユタヤ時代には防衛のための砦があり、ヤーイ運河を挟んだ南側にはポルトガル人傭兵部隊の集落が存在したことがわかっている。

王宮が建設されたといっても、今のラタナコシン王宮のように壮麗なものではなかったであろう。現在、海軍が使用する王宮の跡地には、当時の遺構として中国風の装飾を持った小振りの建物があるにすぎない。

「旧王宮地区」ともいうべきこの地区は、東のチャオプラヤー川、南のヤーイ運河、北のノーイ運河に囲まれている。その中央には、モーン運河が東西に貫き、トンブリーの主要な運河が集まる。

そもそも、チャオプラヤー川は幾度も人工的にショートカットが開削され、流路を変えてきた。旧王宮地区の部分も一五四二年に新たにつくられたものである。トンブリー王朝以来、そのチャオプラヤー川に沿って、水に顔を向けるように寺院などの国家級の大規模施設が置かれた。これらの施設の西側には、小さな運河に沿って、店舗やそこに従事する人々の住宅がつくられている。いずれも運河に沿いながら、地区全体にわたって表のパブリックと裏のプライベートを整然と分けているのだ。こうした合理的な空間構造は、旧王宮地区に特徴的に見られる。

旧王宮地区の南側には、ヤーイ運河に沿って、多種多様な民族、宗教、職業、階層からなる人々が集合して住んでいる。王宮の建設には、アユタヤから様々な職能集団が呼び寄せられた。もともと住んでいたポルトガル人の末裔のほか、中国人、ムスリムなどが集まり、それぞれ独自のまちをつくりあげている。変化に富む密度の高いこの地区こそ、まさに「旧都心地区」として、トンブリーの軌跡を象徴している。

一方、北のノーイ運河沿いは、外洋船が小船に荷を積み替えるための港として機能した。現在でも所々に水上の高床倉庫が残っている。

十九世紀末には、対岸の旧王宮地区側に鉄道の駅がつくられた。このノーイ地区こそ、東のラタナコシンを含めた大バンコクの流通拠点として機能したのである。

ノーイ地区の北には、水を中心としたトンブリーの空間構造の原理を知るのに欠かせない場所がある。我々が「イーカン地区」と名付けたその場所は、チャオプラヤー川から寺院へと続く支線運河に沿って発達した。運河と平行に走る参道には二列の店舗群が軒を連ね、反対側の土地には官僚貴族の住宅が点在している。まさに水と共にくらすための典型的な構造がここにはある。しかも、チャオプラヤー川沿いには、あたかもヴェネツィアのパラッツォを見るかのように、王族の住宅が川の側に顔を向けて立地しているのだ。

現王宮のあるラタナコシン側に対して、一握りに語られることが多いトンブリーだが、丁寧に見ていくと実に多様な性格を持っていることがわかる。十九世紀中頃から、ラタナコシン側は劇的な近代化を経験し、陸上都市として変貌する。それに対し、トンブリーでは水上都市としての性格を強く持ちながら緩やかに成長していく。

では、「イーカン地区」、「旧都心地区」、「旧王宮地区」をより具体的に見ていこう。これらの地区は、いずれも水と共に生きるトンブリーを総合的に理解するのに欠かせないものばかりである。

  • 左:チャオプラヤー川を挟んで西側がトンブリー東側がラタナコシン 右:1932年のバンコク

    左:チャオプラヤー川を挟んで西側がトンブリー東側がラタナコシン
    右:1932年のバンコク

  • 左:チャオプラヤー川を挟んで西側がトンブリー東側がラタナコシン 右:1932年のバンコク

    現在のチャオプラヤー川とヤーイ運河が交わる部分を描いたもの。王宮建設以前の1557年頃にはここに城砦が置かれる。その後、図のような城砦都市が建設された。260m×480mほどの規模で、アユタヤ滅亡後1767年トンブリー王宮がここに置かれる。
    Sim on de La Loube`re, “A new Historical Relation of the Kingdom of Siam. S.p.Gen.”London,1693 より

  • 左:チャオプラヤー川を挟んで西側がトンブリー東側がラタナコシン 右:1932年のバンコク
  • 左:チャオプラヤー川を挟んで西側がトンブリー東側がラタナコシン 右:1932年のバンコク

ノーイ地区

  • 左側にバンコクノーイ駅が見える。タイに鉄道が開業したのは1893年。タイ南部への鉄道の起点で、右側がノーイ運河との合流地域。近代の花形であった鉄道も、開業当初は水運と無関係には成立し得なかった。

    左側にバンコクノーイ駅が見える。タイに鉄道が開業したのは1893年。タイ南部への鉄道の起点で、右側がノーイ運河との合流地域。近代の花形であった鉄道も、開業当初は水運と無関係には成立し得なかった。

  • ノーイ地区屋根状図 かつては対岸の駅と結びついた物流の拠点であった。倉庫群は水中に杭を打つ高床で作られ、水上と陸上の両性的な性格を持つ。倉庫群を含め、家屋や道の下は水面や低湿地であるため、水際線は雨季と乾季では全く異なり、一定しない。

    ノーイ地区屋根状図 かつては対岸の駅と結びついた物流の拠点であった。倉庫群は水中に杭を打つ高床で作られ、水上と陸上の両性的な性格を持つ。倉庫群を含め、家屋や道の下は水面や低湿地であるため、水際線は雨季と乾季では全く異なり、一定しない。

  • 右:1932年の地図では、ちょうど倉庫の並ぶ部分が浮島のように描かれている。

    左:ノー移築の倉庫 チャオプラヤー川をさかのぼってくる外洋船や、鉄道で運ばれてくる南タイの魚介類や果実が、ここで小舟に積みかえられ運ばれていった。
    右:1932年の地図では、ちょうど倉庫の並ぶ部分が浮島のように描かれている。

  • 左側にバンコクノーイ駅が見える。タイに鉄道が開業したのは1893年。タイ南部への鉄道の起点で、右側がノーイ運河との合流地域。近代の花形であった鉄道も、開業当初は水運と無関係には成立し得なかった。
  • ノーイ地区屋根状図 かつては対岸の駅と結びついた物流の拠点であった。倉庫群は水中に杭を打つ高床で作られ、水上と陸上の両性的な性格を持つ。倉庫群を含め、家屋や道の下は水面や低湿地であるため、水際線は雨季と乾季では全く異なり、一定しない。
  • 右:1932年の地図では、ちょうど倉庫の並ぶ部分が浮島のように描かれている。

イーカン地区

現王宮から北へチャオプラヤー川を上り、ノーイ運河を左手に見て、ピンクラオ橋をくぐると、左岸に我々が目指すイーカン地区がある。この地区の南側は、小説『メナムの残照』の舞台となった場所でもある。主人公アンスマリンの生家は、チャオプラヤー川に面し、水と密接に結びつく当時の生活が生き生きと描かれている。川をもう少し上れば、国営工場地区が見えてくる。なかでもイーカン酒造工場は、ラーマ一世期からの政府酒造工場として有名だ。お馴染みのメコン・ウィスキーはここでつくられている。

  • イーカン地区 現況図 (右)と1932年の地図 (左)を比べると、チャオプラヤー川側から寺院に向かって店舗が増え、また内陸の上岸から運河側の下岸に向かって店舗がつくられていったことが読みとれる。

    イーカン地区 現況図 (右)と1932年の地図 (左)を比べると、チャオプラヤー川側から寺院に向かって店舗が増え、また内陸の上岸から運河側の下岸に向かって店舗がつくられていったことが読みとれる。

  • イーカン地区 現況図 (右)と1932年の地図 (左)を比べると、チャオプラヤー川側から寺院に向かって店舗が増え、また内陸の上岸から運河側の下岸に向かって店舗がつくられていったことが読みとれる。

イーカン地区 運河沿いに発達する門前町

イーカン地区でまず目に付くのは、チャオプラヤー川に立つ煌びやかな船着き場兼休憩所(サーラー・ター・ナームー)だ。それが水上の人々に対して、この地区のなかに寺院があることを象徴的に示している。ここで船を下り、300メートルほど歩くと、地区の代名詞であるワット・バーン・イーカンにたどり着く。タイ寺院の立地の特徴を考えると、チャオプラヤー川など幹線運河沿いの自然堤防に面するものと、比較的安定した内陸の土地に運河を引き込み建設されたものの二つに分けることができる。この地区の寺院は後者である。内陸にある寺院へのアプローチのために、チャオプラヤー川からダーウドゥンと呼ばれる運河が引き込まれている。

その運河に沿って商店街が形成されている。運河と平行に幅二メートルほどの参道が通り、その両側に店舗が立ち並ぶ。そのうち片側一方の店舗群が裏で運河に接するというわけだ。1932年の地図をみると、チャオプラヤー川沿いの船着き場、参道、店舗らしき建物がすでに描かれている。

ここでは、中国江南の例にならい、運河沿いの建物が並ぶ所を「下岸」、道を挟み内陸に建物が並ぶ所を「上岸」と呼ぶことにする。下岸には、間口が狭く、奥行きがわずか六メートルほどの店舗が規則的に並び、上岸には、間口が広く、奥行きも深く、不揃いな店舗が並んでいる。それぞれ参道を正面とし、短冊状の敷地が展開している。

下岸と上岸の構造を持つ商業地は、トンブリーでも広く見られ、また、かつてのバンコク最大の商業地であったチャイナタウンでも同様の構造が見られる。この種の商業地は、チャオプラヤー川などの幹線運河に直接面さず、そこから内陸に運河を引き込んだ場所に立地するという大きな特徴をもつ。多くの運河を確保しつつ、水辺という限られたなかでの土地の有効利用を実現しているのだ。運河の埋め立てや水門の建設による舟運の衰退は、水辺の市場(タラート・リム・ナーム)や水上市場(タラート・ナーム)といった従来の空間を破壊した。そのなかで、陸と水の空間が密接に結び付くこうした商業地の多くが、今もその姿を残していることは興味深い。

さて、イーカン地区の商店街では、揃わない日用品がないというくらい雑貨屋、食堂、菓子屋に八百屋、床屋、電化製品の修理屋までもが店を構えている。多くの店舗は、狭い間口いっぱいに商売ができるよう一階部分に壁をもたない。参道の幅員が狭くても、通りと店舗が一体となり、買い物するにはちょうどよい空間をつくりだしている。

実は、トンブリーやバンコクの水辺に見る幅員二メートルほどのコンクリートの通りは、もともとターン・チュアムと呼ばれる木製のデッキである可能性が高い。イーカン地区もまた、かつては木製の歩道であり、その下まで水が来ていたという。従来、運河沿いに堤防はなく、水上にそのまま高床式の建物を建て、店舗を営んでいた。

ところで、下岸と上岸は、どちらが先につくられたのだろう。あるいは一体開発なのか。聞き取りをすると、下岸と上岸の両方の店舗を所有する人が多いことに気付く。その場合、下岸を人に貸し、本人は上岸で店を営む。ときには、下岸と上岸の両方で店を出す場合もある。間口や奥行きの規模、さらには商売や居住環境を考えれば上岸が優位であるはずだ。五十年ほど前、中国潮州から来た父親が上岸に店舗を建設し、その後、下岸にも店舗をつくったという住民もいる。1932年の地図を見ると、下岸の店舗は運河に迫り出しており、上岸に対し戸数も少ないことが確認できる。この商店街は、上岸から下岸、つまり内陸側から水際へと発展したのであろう。といっても、バンコクの水辺は、陸と水の境界が実に曖昧だ。王宮周辺を巡る運河など、一部の限られた場所を除き、護岸整備が行われるのは1960年代以降のことである。それゆえ、建物が水際を作り出すと言ったほうがふさわしいかもしれない。

  • 左:運河沿いに発達する門前町の表玄関である船着場は、近所の人が集まる憩いの場ともなっている。蒸し暑いバンコクでは、水辺に開かれたベンチが心地よい。現在は鉄製の浮き桟橋が付け加えられている。
    右:堤防ができて以来、水門によって水位がコントロールされているが、小舟が入ってくることも珍しくない。

  • 商店街と裏の住宅地 下岸は上岸に比べ間口が狭く奥行きも浅い。その反対側には、水際から離れた場所に官僚貴族の住宅がつくられる

    商店街と裏の住宅地 下岸は上岸に比べ間口が狭く奥行きも浅い。その反対側には、水際から離れた場所に官僚貴族の住宅がつくられる

  • ダーウドゥン運河 護岸が建設される以前は、建物の下も水面であった。現在でも船から下岸の店舗に、直接荷揚げしている場面に出会うことがある。

    ダーウドゥン運河 護岸が建設される以前は、建物の下も水面であった。現在でも船から下岸の店舗に、直接荷揚げしている場面に出会うことがある。

  • 商店街と裏の住宅地 下岸は上岸に比べ間口が狭く奥行きも浅い。その反対側には、水際から離れた場所に官僚貴族の住宅がつくられる
  • ダーウドゥン運河 護岸が建設される以前は、建物の下も水面であった。現在でも船から下岸の店舗に、直接荷揚げしている場面に出会うことがある。

イーカン地区 チャオプラヤー川沿いの王族住宅

イーカン地区において、商店街が庶民であるのに対し、チャオプラヤー川に面する住宅群は、まるで、そこに住む人々の富や権力を示すかのような象徴的な空間である。最初に目を引くのは、パラディオ様式を思わせるような空間構成、アーチ窓や美しいモールディングなどの装飾を持つ洋風煉瓦造の建物であろう。もともと十九世紀末に建設された官僚貴族の住宅で、ラーマ五世の相談役やかつてのトンブリー県知事を輩出した名家である。戦後は、その建築と敷地規模の大きさをかわれ、小学校へと転用された。その並びには、短冊状にほぼ同じ規模の屋敷地が続く。そこには、木造の美しい破風飾りなどを持つ住宅が水辺を飾る。

住宅のなかには、モムチャオ(王の孫の官位)と呼ばれるラーマ四世の孫が住んでいた建物もある。幹線運河に面し、階層の高い人々が居を構えるという事例は、バンコクの別の地域でも見られ、ヴェネツィアやアムステルダム、蘇州などとも共通した特徴であろう。しかし、それら世界の水の都と大きく異なる点が一つある。バンコクでは、水際から直接立ち上がる高級住宅がほとんどなく、少し後退した敷地の内陸側につくられている。一般に、チャオプラヤー川沿いや幹線運河沿いは、水による土地の浸食の影響を直接受ける不安定な土地である。それにもかかわらず、このチャオプラヤー川に面する王族や貴族の住宅群は、水に迫り出すようにつくられた。彼らが自らの権威と象徴性を重視して、住宅地を選択していることは実に興味深い。

そして、かつてチャオプラヤー川沿いには、もう一つの大きな特徴を持つ住居形式が存在した。筏の上に建物を乗せ、水中に打ち込んだ杭に固定する浮き家(ルア・ペー)である。十九世紀中頃から二十世紀初頭にかけての外国人旅行記には、その浮き家がよく描かれており、所有者は裕福な中国商人であったことが知られている。つまり、チャオプラヤー川沿いに居を構えること自体が大きなステイタスシンボルとなっていたのだ。

  • 左:チャオプラヤー川沿いの貴族住宅 戦後は小学校として転用されたが、現在は廃屋となっている。
    右:浮き家(アユタヤ)19世紀中頃の記録では、バンコク住民の多くが水上に住んでいたといわれている。
    Karl Döhring,Land und Volk,1923,より

  • 上段左:下図の、初めにできた住宅。建築当時は水に面していた。
    上段右:水溜 川沿いにカミソリ堤防ができたため、内側にはこのような水溜まりが取り残された。
    下段左:高床式住居の床下は、日本の縁側のようなくつろいだスペースとなっている。このような住宅では、就寝時以外に個別部屋を使うことはあまりない。
    下段右:右図チャオプラヤー川よりみる増築された建物。 手前の小屋はプライベートの船着場だった。

【高床式住居】

地面から高さ二、三メートルに床を張る住宅を一般的に高床式住居と呼ぶ。タイの伝統的な住宅を代表するこのタイプは、紀元前より、日本から東南アジアにかけて広く分布し、古代アジアに共通した住居形式であることが、最近の発掘調査などから明らかになりつつある。そもそも、日本では鉄製工具の発生によって、ほぞ穴の作成が容易になったことから、弥生時代に現れた住居形式と考えられてきた。奈良から出土した四世紀頃の家屋文鏡と呼ばれる銅鏡にも高床式住居が描かれている。しかし、近年、中国江南地方において、紀元前5000年のほぞ穴を持つ高床式住居と推察される遺構が発掘され、日本における発現もより古くにさかのぼる可能性が出てきた。高床式住居の発生には、人間や穀物の獣からの防衛、水上や水郷地帯における杭打ちによる建築形式など、様々な要因が考えられている。とくに、水郷地帯によく見られることから、稲作文化と関連付けられて説明されることが多い。しかしながら、タイや中国南部の山岳地帯でも、最も典型的な住居形式であり、水郷地帯に特有なものとは限らない。江南の民族がタイ付近まで南下し、同じ住居を作ったという説もある。高床式住居について、その地の自然環境と住居形式の伝播の関係を歴史的に解き明かすことは容易ではないが、タイを対象に水との結びつきを考えながら、工法まで含めた住居の変遷を探ることも欠かせない作業である。

王族モンチャオの住宅ともに高床式住居で、内陸側の住宅から水際の住宅の床下(1階)を通り抜けて、チャオプラヤー川に出ることができる。

王族モンチャオの住宅ともに高床式住居で、内陸側の住宅から水際の住宅の床下(1階)を通り抜けて、チャオプラヤー川に出ることができる。

イーカン地区 内陸側の閑静な住宅地

チャオプラヤー川沿いや幹線運河沿いは、土地が不安定であるにもかかわらず、王侯貴族は、むしろ水辺の象徴性を重視して居を構えた。

この階層の屋敷地の立地には運河との関係において、もう一つのタイプが見いだせる。幹線運河から引き込んだ支線運河沿いのより閑静な場所で、同時に安定した土地に屋敷を構えるものである。このタイプは幹線運河沿いの住宅のように、水路に対し短冊状の敷地を並べ、間口を小さく割ることがなく広大な敷地を持つ。水に対する象徴性より、土地の安定、閑静な環境、広大な屋敷地を求めた結果だ。敷地が大きいため、時代とともに子弟の住宅が増築され、屋敷地は血縁関係を持つ一つのコミュニティーを作り出す。

そうした住宅の中でも、とくに目を引く煉瓦造の住宅は、プラヤーという官位を持つ官僚貴族の住宅であり、60年ほど前に土地と家屋を買い移り住んだ。しかし、その前は、王族の土地であったという。付近一帯もまた、かつては王族の所有であった。

このプラヤーの住宅を1932年の地図で確認すると、住宅の裏側にも小さな運河が描かれている。この運河は敷地を示し、裏には広大な果樹園が広がっていた。イーカン地区はランブータンの産地としても知られている。かつて家主は住宅前の船着場から船に乗りチャオプラヤー川を渡って、対岸の役所に通っていた。子供たちの登校も船を使っていたという。

プラヤーの住宅は、モールディングや付け柱といった近代住宅に特徴的な装飾がなく、いたってシンプルだ。インターナショナル・スタイルの影響を受けた1920年から30年代の建設であろう。そのうえ、バンコクの住宅の多くが、洪水や高温多湿な気候風土に対応するため、一階の床を高くし、階段を設けてアプローチさせる高床式であるのに対し、この住宅は基礎の上に直に一階の床をつくる。それだけ、この土地は安定していたことを示す。だが、住宅周辺を見ると、やはり土地の水はけの悪さが目に付く。住宅の正面には、二階に上る外階段が設けられており、それがメインの入り口だった。二階に寝室や居間などの主要な生活空間を置き、一階には、バス・トイレといった水回りなどのサービス空間を配置している。したがって、住み方としては高床式住居(注2)に近いのだ。しかも、その後、敷地内に増築された一つが、木造の高床式住居であるのは実に面白い。やはり、それがバンコクの気候風土にあった最も快適なものなのだろう。

バンコクは一般的に商業地、住宅地といった区別があまりなく、都市が計画的でないといわれている。しかし、こうして都市構造と社会構造から分析すると、そこには近代都市計画とは違う、水と密接に結びつくその土地独自の都市建設の理念が明確に読み取れるのである。

旧都心地区

この地区には、ほぼ一キロ四方に様々な民族がそれぞれに集合して住んでいる。

ポルトガル人集落を起源に持つ「サンタクルース教会地区」、中国廟とワット・カラヤーナミットにはさまれた「中国人の商店街」、モスクを中心に発達した「ムスリム地区」、狭い路地に祠が点在する「タイ路地地区」、運河を引き込んだ「貴族の屋敷地」、舟運と強く結びつく「水辺の産業拠点」、寺院の参道と橋を中心に形成された「橋詰め市場」の七つの小さな地区からなる。

旧都心地区 宗教施設の立地の特徴

まず、宗教施設に注目すると、各地区共通の特徴として、ムスリム、キリスト教徒、中国人、タイ人のそれぞれが寺院を核として地区を形成していることがわかる。また、宗教施設は、1932年の構造別に色分けされた地図を見ると、煉瓦や石の本堂が水際から一定の距離を持って建っている。これは、重量のある建造物が、より安定した地盤を必要としたためであろう。

また、教会、廟、寺院は、それぞれ建物の軸を運河と垂直にとり、ファサードを水に開いて水からの視線を意識した象徴的な構成をとる。それに対し、モスクはメッカの方角である西を向き、水路に対して閉じた構成を持つ。屋根の一部を除いて水辺からその姿を確認することができないのは、信仰と水との関わり方の違いを示している。では、各地区がどのような空間構造を持っているのか見ていこう。

左上;ワット・カラヤーナミット
ワットは寺院を意味する。バンコクでも最大級の寺院で華人系タイ人の信仰があつい。1824年に建立された。つまりトンブリー王朝時代にはまだ存在していなかった。
右下:サンタクルーズ教会
アユタヤ時代、ここにポルトガル人集落があった。現在の建物はラーマ1世時代(1782-1809)のもので、1834年の大修築を経ている。トンブリー時代以後、近くに住む中国人の信仰も集めた。

旧都心地区 サンタクルーズ教会地区

サンタクルーズ教会地区では、主要な通りがチャオプラヤー川と平行に教会の脇から延びている。この道に面して、店舗や地区長の家が立地する。この通りからは、教会の塔を突き当たり見ることができ、街路空間の象徴性が高められている。

かつてチャオプラヤー川沿いの道には、煉瓦造の屋敷が川に正面を向けて建っていた。最も象徴的な外観を持つ住宅が水に向かって並ぶ時期があったのだ。

一方、地区の西側は少し異なっている。西側の運河に沿って並ぶ家々は、チャオプラヤー川ではなく、運河に向かう東西の方向性を持っている。教会側と比べて水との関係の違いを読みとることができる。さらに興味深いことに、同じ高床でありながら、伝統的なタイ住宅が水路側にデッキを持つのに対し、西洋風の装飾を持つ住宅は陸側にデッキを設けている。

上段:サンタクルーズ地区の現況図(右)と1932年の地図 教会側と西の運河側では異なった軸を持っていることがわかる。チャオプラヤー川沿いには、煉瓦造の屋敷があった。この地区を含む一帯はクディチン(クディは土地、チンは中国人を意味する)と呼ばれ、ポルトガル人が伝えたと思われるカステラのようなお菓子の発祥の地であり、そのまま名前にもなっている。
左:サンタクルーズ地区の西側 西洋風の装飾を持ち、床下の柱を煉瓦とモルタルで覆った住宅は陸側にデッキを向け庭をとっている(右)。一方、伝統的な高床住宅は水路にデッキを向けている(左)。建築年代は同時期だが、水に対する意識の差が正反対の構成を生んだ。
写真上:街路のアイストップにみえるサンタクルーズ教会
写真下:伝統的な高床式住居 軒の下は簡易な接客の場となっている。住人はクリスチャンである。

旧都心地区 中国人の商店街

中国廟とタイ寺院の間に位置する中国人の商店街では、チャオプラヤー川の船着場から垂直に道路が延び、そこに商店街が形成されている。ここでもイーカン地区と同様に、店舗の裏に運河が走り、舟運と商店街に密接な結びつきがあったことを物語っている。

実際、この運河は1970年代までは船が入ってきており、表の道で商いをし、裏の運河から商品を運び入れていた。店舗の空間もそれに応じて、一階を商売とサービスにあて、二階を寝室に利用している。中国廟へは、水の側からしかアクセスできないことも、この地区の水との強い結びつきを示すものであろう。

上段右:中国人の商店街 1932年
上段左: 現況図  ワット・カラヤーナミットと中国廟に挟まれた場所に商店街が形成された。船着き場は、渡し船でチャオプラヤー川対岸の市場と結ばれている。

左図:中国人の商店
通り側の間口は狭いが運河側は大胆に増築され、室内化されている。運河の幅は、1932年の地図からもわかるように3 分の1ほどに縮小された。すぐ隣は中国の祠があり、運河側には便所が増築されている。バンコクでは隙間はあっという間に埋まってしまう。
右中:中国廟(建安宮)
トンブリー遷都と一緒に中国人が移住したのはこの周辺である。チャオプラヤー川に面するが、現在堤防が建設中である。
右下:商店街 船着き場に降りて左に入ると中国廟、右に入ればワット・カラヤーナミットに至る。

雑貨屋
間口いっぱいに並べられた商品。その奥に運河に面した出入口が見える。

旧都心地区 ムスリム地区

一方、ムスリム地区では、ヤーイ運河と平行して走るモスク前のメインストリートを中心とし、そこから両側に路地が延びてそれぞれの家にアクセスする。同じような位置にメインストリートをもつサンタクルース地区と比べると、通りから徐々にモスクが見えるわけではなく、連続的な空間の象徴性は意識されていない。むしろ、狭く暗い通りを抜けると突然ファサードを現し、内と外とのコントラストを印象づける。モスクと同様、地区レベルの構造を見ても水との関係は弱い。他の地区が水辺の船着場を起点とした強い軸線を持つのに対し、ここでは水の方向への軸を感じることは少ない。船着場は、細い路地の奥にひっそりと置かれている。そして、唯一ここが地区の水との接点となる。

  • 上:ムスリム地区 現況図
    右:ムスリム地区 1932年

  • 上:モスクと船着場 モスクは常に西を向いて建つ。ムスリムの住宅は、店舗に限らず、街路と居室が近いことが特徴である。
    下段左:ヤーイ運河に面した船着場の桟橋。ゲートに載る球形のドームがモスクの存在を伝える。
    下段中央:街路はいつも人で賑わっている。写真はモスク前の店舗。この道もかつては木製のデッキだった。そのため、現在でも下は空洞だ。
    下段右:モスク バンコクの他のモスクと違い寺院風の外観を持つ。

旧都心地区 タイ路地地区

さて、タイ寺院を信仰する、いわゆるタイ人はどのような暮らしをしていたのだろう。中国人やムスリムが都市的に集住するのに対し、彼らは密度の高い旧都心地区にあって、多民族の間に、比較的大きな敷地を並べて家を建てた。間とは言っても、もちろん1960年代までは、舟運が唯一の交通手段であったトンブリーにあって、水との関係を持たずに住宅は立地できない。彼らは、農村部と同じように、運河に面したところに高床の家を建て生活しているのだ。

タイ路地地区で特徴的なのは、サンパプーンと呼ばれる祠が路地に多く見られることである。これらは、しばしば大樹の根本に置かれる。それぞれの路地は、親族の住宅が取り囲み、独特で親密な雰囲気をつくりだしている。この地区の住宅の内部には、立派な仏壇が置かれ、いずれも東を向いている。日本の大黒柱信仰によく似て、住宅の棟を支える柱も祀られる。このように、多様な信仰空間を内部に抱え、緑の多い路地と庭を積極的に利用した空間を持つのが、タイ人の生活空間といえるだろう。

上左:路地のサンパプーン 常にお供え物が絶えることはない。これほど人々に浸透したサンパプーンだが、もともとは仏教との結びつきはない。写真のような仏教寺院風の祠が広まったのは実は1960年代以降である。
上中央:床下は、近所の友人も集まる親密な空間だ。高床式住居の多くは、床下を壁で囲って室内化している。
下段右:仏壇は東向きが最上で、西を向かないように置かれる。仏像の他、有名な僧の座像や出家した家族の肖像などが祭られ、日本と違い先祖の位牌は別に祭られている。(上段右写真参照)
下段左:狭い路地に多くのサンパプーンが建つ。一般的に辻や行き止まり、大樹の根本などを選んで置かれる。いずれも軒下はさけられる。高床式住居のかつての主室である床上のデッキは、子供たちの居場所になっており、増築部分に仏間がつくられた。 一軒の家屋や屋敷地など狭い範囲を守護する「サンパプーン」が、一本柱の高い柱脚部を持つのに対し、より広範囲の土地を守護する土地神の「サンチャオティー」は、前者にくらべて低い四本柱の柱脚部をもつといわれている。

旧都心地区 貴族の屋敷地

旧都心地区にも貴族の住宅がある。貴族の屋敷地は、ヤーイ運河からさらに運河を引き込んだところに立地する。大きな船が行き交い便利ではあるが、騒々しく地盤も安定しない幹線運河沿いに直接面するのではなく、住宅はより居住環境に恵まれた支線運河沿いの閑静な場所を求めた。

敷地のなかでの増築の方法にまで、そうした考え方があらわれている。チャオプラヤーの称号を持つ貴族の家では、現在、空き家を含めて七棟の建物があるが、最初の建物は運河から奥まった部分にあった。現在は建て替えられているものの、伝統的な高床式のタイ住宅が建っていたという。この住宅の前には、かつての運河の名残である池がある。その池に面してメインの生活空間となるデッキがとられている。この構成は、建て替え後も変わっていない。運河が機能しなくなったいまでも、住宅の空間構成が当時と変わらないのは興味深い。この住宅と支線運河との間に二番目の住宅がある。西洋風の意匠を持つ二層の木造高床式住居で、高床部分の柱を煉瓦とモルタルで覆っている点も、当時の貴族住宅の特徴である。

より安定した地盤の確保と同時に、水へのアプローチが可能な場所に住宅は好んで建築された。その後の建て増しにより、一見、水との関わりが弱い住宅も、もともとは水辺に立地していたのだ。

左上:内陸側の家のデッキ かつては、このデッキの前まで運河から水が引き込まれていた。現在植物が生い茂る池に、その名残を感じることができる。現在の住宅は、ラーマ3世時代(1824-1851)に建てられた高床式住居とほぼ同じ場所に建て替えられたもの。当時の構成をそのまま受け継いでおり、大まかなプランは変わっていないそうだ。
左中段:地図やデッキの形状などから、中央のアーチの前にはべランダがあったと思われる。現在は内部を間仕切り、集合住宅として使用されている。
右:貴族の屋敷地の変遷図 バンコクでは土地の多くは寺院や王族(国)の所有であり、さらに、敷地の中に親族が建て増しをしていく場合が多い。この敷地の場合も同様であり、ラーマ3世時代、敷地の最も内陸側に高床式住居が建てられたのが始まりである。その後、運河側にベランダを持った西洋風の高床式住居が建てられた。

旧都心地区 水辺の産業拠点

ムスリム地区の隣、貴族の屋敷地の対岸に、興味深い水辺の産業拠点がある。ここには、かつての王族の屋敷跡地に倉庫街が形成された。倉庫街の構造は実に明快なものとなっている。運河に面する細長いデッキを持つ住宅と、その裏の大きな倉庫、さらにその奥の道路を挟んだ場所に小さな工場が立地する。これら三つの施設と水をつなげているのは、運河と垂直に引き込まれた路地である。運河に面する住宅は新しく、30年ほど前に建てられた。それまでは大きな倉庫が直接水辺に面していた。倉庫では、魚や米がそのままあるいは加工してストックされ、その加工は道を挟んだ工場で行われていた。脇に引き込まれた運河には中国人が多く住み、土地神や財神を祭る彼らの祠が路地に並んでいる。荷揚げ、加工、保管の作業に応じて空間が構成され、その背後にそこで働く人のための居住空間が計画されているのだ。荷揚げ作業に支障のないように、別の運河に面して住まいが確保されているのは実に機能的である。

  • 水辺の産業拠点 陸揚げされた積み荷は、作業場で加工され倉庫にストックされた。水際にある高床の長屋は後から建てられたもので、以前は倉庫が直接運河に面していた。地区の北側は住宅が密集しており、ヤーイ運河と北側の運河の使い分けが読みとれる。

    水辺の産業拠点 陸揚げされた積み荷は、作業場で加工され倉庫にストックされた。水際にある高床の長屋は後から建てられたもので、以前は倉庫が直接運河に面していた。地区の北側は住宅が密集しており、ヤーイ運河と北側の運河の使い分けが読みとれる。

  • 産業拠点 現況図(上)と1932年の地図(下)を比べると、宮殿跡を利用して作られたことが解る。

    産業拠点 現況図(上)と1932年の地図(下)を比べると、宮殿跡を利用して作られたことが解る。

  • 産業拠点の作業場兼住宅

    産業拠点の作業場兼住宅

  • 水辺の産業拠点 陸揚げされた積み荷は、作業場で加工され倉庫にストックされた。水際にある高床の長屋は後から建てられたもので、以前は倉庫が直接運河に面していた。地区の北側は住宅が密集しており、ヤーイ運河と北側の運河の使い分けが読みとれる。
  • 産業拠点 現況図(上)と1932年の地図(下)を比べると、宮殿跡を利用して作られたことが解る。
  • 産業拠点の作業場兼住宅

旧都心地区 橋詰め市場

倉庫街から橋詰め市場へは、ヤーイ運河に架かる橋を通って行くこともできる。1932年以前のトンブリーで唯一大きな橋が架けられた場所だ。

市場は、ヤーイ運河に架かる橋のたもとにあり、同時に寺院へいたる運河沿いという交通の要衝に立地している。往事の賑わいを示すかのように、対岸にはかつての映画館が残っている。

市場には、寺院へと通じる運河から商品を運び込む。中央のアパートがある場所は、かつて木造の屋根が架けられた市場の中心であった。その周りを一階が店舗で、二階に居住部分を持つ棟割長屋が取り囲む。運河に接する店舗は、運河から商品を荷揚げして、市場に面する部分で商品を売っていた。こうして、水と結び付きながら、店舗の前後で空間を効率的に使い分けているのである。現在の建築は1960年代に建てられたものだが、木造である以外は、それ以前も同じ空間構成であった。

かつてこの水辺の市場には、中国人の信仰する観音廟が置かれていた。しかし、道路拡張のため移転を余儀なくされ、現在の水辺の私有地に移される。そこへは、靴を脱いで住宅の内部を通り抜ける必要がある。ここで重要なのは、参拝に手間がかかるのに、わざわざ水辺に廟を立地させ、なおかつ常時30人ほどの参拝者が訪れるという点だ。水がどんどん遠くなっている現代にあっても、水の記憶はしっかりと継承されている。

以上、トンブリー旧都心地区の特徴的な地区を見てきた。これだけ多種多様な民族、宗教、職業、階層といった社会的背景を持つ人々がつくりだす空間にも、いくつかの共通する特徴が見いだせる。それは、すべての地区が水からのアクセスを前提としていること、重要な宗教施設や初期の住宅、各地区の中心となる道路は、いずれも安定した地盤を求めて運河から一定の距離をとるという二点である。それに対し、ノーイ地区の積み替え港にある倉庫群やチャオプラヤー川沿いの貴族の住宅など、こうした水辺の環境形成の作法から逸脱したところでは、今では滅失の傾向にあるのも興味深い。バンコクの水辺に暮らすうえで、異なる社会的背景を越えて獲得した共通の原理といえるだろう。

  • 橋詰め市場 現況図

    橋詰め市場 現況図

  • 左上:1932年の地図 おそらく1932年当時、幹線運河に架けられたトンブリー唯一の橋である。架橋後、橋のたもとの貴族の邸宅が市場となった。対岸には映画館もある。
    左下:橋詰め市場 中央の市場は、その後買い取った企業によってアパートに建て替えられたが、周囲の店舗は今も賑やかだ。
    右:1階が店舗で、2階に居住部分を持つ棟割長屋 背後の運河から商品を運び、市場に面する店 。先で商品を売る

  • 水辺の観音廟
    観音廟の敷地は背後の屋敷から無償で提供されている。現在でも参拝者は絶えない。お祭りの時には50人ほどが訪れるという。 1階が店舗で、2階に居住部分を持つ棟割長屋。背後の運河から商品を運び、市場に面する店先で商品を売る。

  • 橋詰め市場 現況図

旧王宮地区

この地区には、十八世紀後半にバンコク最初の王朝、トンブリー王朝が置かれた。その後、十九世紀末から二十世紀初頭にかけ、チャオプラヤー川に臨む数々の宮殿は、ラーマ五世の命により、次々と近代施設へ姿を変えていく。この地区を東西に流れるワット・ラカン運河を挟んで、北部には、鉄道のノーイ駅、タイ初の近代病院であるシリラート病院、医学校、官僚の住宅街が建設され、南部には近代的な海軍施設がつくられた。つまり、ラーマ五世は、かつての宮殿跡地を利用して、富国強兵を押し進めるための近代的な再開発を実施したのである。

この地区の運河、道路からなる空間構造を見ると、チャオプラヤー川に面して近代施設が配置され、その西にアルンアマリン通り、さらにその西にバーン・カミン運河が流れ、運河と平行にバーン・チャンロー小路が通る。つまり、この地区は非常に強い南北軸を持つ。

では、まずアルンアマリン通り沿いから見ていこう。この道路は、トンブリーで最も早く整備された道路であり、1896年の地図にも確認することができる。旧王宮地区は、東西のワット・ラカン運河を境に、北部と南部で住民の職業も異なる。それに応じて、アルンアマリン通りに並ぶ住宅も大きく変わる。

北部には、内務官僚、警察官僚、鉄道職員などの文官が多いのに対し、南部ではチャオプラヤー川沿いの海軍施設で働く武官の住宅が並ぶ。つまり、この通りの住宅街は、チャオプラヤー川沿いの近代施設で働く、高級官僚のためのバックヤードとしての性格が強い。それぞれの住宅は、洋風の装飾を持ち、敷地の裏に運河が流れるという特徴を持つ。これまで見てきたトンブリーの様々な地区の高級住宅が水辺から一定の距離をとり、地盤の安定性を求めるのに対し、ここでは多くの住宅が道路に正面を向け、運河から奥まった場所ではなく、道路側から奥まった場所につくられている。通りから住宅までの距離により住宅の格を表すという、陸の都市の考え方によるものであろう。とくに、北部では敷地の道路側に店舗をも建設しているのは興味深い。

1896年の地図を見ると、住宅の前面に、すでに店舗が建設されているものも確認できる。早い時期から鉄道の駅や病院が置かれた北部は、水上交通から陸上交通へと移行する、いわば道路を中心とした近代化への指向が強い。一方、南部では店舗があっても平屋で、伝統的な住宅地としての性格を顕著に示す。

バーン・カミン運河周辺にも、こうした性格の違いがよく現れている。この運河の建設は古く、十八世紀のトンブリー王朝を描いた地図では、もともと城壁の外堀であったことが知られる。運河の西岸には短冊状の敷地が並び、タイの伝統建築様式である高床式住居の住宅が目に付く。しかも、それは南部に多く、北部よりも幅の広い運河と一体となって水との結びつきを強めている。この地も、もともとは王宮などで働く官僚の住宅地であった。

さらに、その西には、バーン・チャンロー小路が南北に通る。この小路は北のワット・ウィセートカーンと南のワット・プラヤータムという二つの寺院を結ぶ。バーン・チャンローとは日本語で鋳物屋集落という意味であり、古くは、仏像や仏具をつくる職人の家が並んでいた。しかし、この通りの名前をもう少し深く考えてみると面白いことに気が付く。タイ語には、一般的に村や集落を表す言葉が二つある。日本人には同じにように聞こえるが、バーン(グ)baang とバーンbaan である。トンブリーで最も一般的なものは、バーン(グ)であり、これは水辺に発達した集落に用いられる。バンコクの名前も、タイ語の発音に近く書くとバーン(グ)・コックとなる。それに対し、バーンは水辺ではなく、陸の集落に用いられる。

バーン・チャンローのバーンは、陸の集落を意味する。1896年の地図を見ると、バーン・チャンローがすでに存在し、さらに1932年の地図からも従来から道路であったことが確認できる。当時は、おそらく木製の歩道(ターン・チュアム)と考えていいだろう。旧王宮地区では、南北のバーン・カミン運河を境に、その東と西においても近代と伝統の異なる空間が並存していたことになる。

  • 上:旧王宮地区 東西断面 トンブリーで初期に建設された近代のアルンアマリン通りに沿って高級官僚や軍人、医者などの住宅がつくられた。旧王宮地区の北寄りに位置するこのあたりでは、とくに煉瓦や石を用いた立派なものが多くなり、道路や敷地も広く整然としたものになっている。バーン・カミン運河を挟んで西側の部分も同様に広い。だが、小路側と水路側の敷地に分割されたため、運河にしか面さない部分は廃屋になっているケースもあるなど、隣接しているが全く性格の異なる3つの敷地で構成されている。
    下:ワット・ラカン運河とモーン運河に挟まれたあたりで、旧王宮地区のほぼ中央部分の現況図。図の場所は上の東西断面よりも、やや南側にあたる。チャオプラヤー川の両岸には国家を象徴する大規模な施設が、その裏側にバックヤードとしての店舗、住宅街が形成された。

  • 1932年の地図では、道路沿いの店舗とその裏の住宅地の関係がはっきりと読みとれる。

    1932年の地図では、道路沿いの店舗とその裏の住宅地の関係がはっきりと読みとれる。

  • チャオプラヤー川から見たワット・アルン アユタヤ時代からの古刹で、トンブリー時代には現在のワット・ポーのような王室寺院であった。 中央にそびえるプラーン(塔堂)は比較的新しく、19世紀前半に現在の規模に大修築された。

  • 左:軍人の住宅 庇から垂れるバージボードが美しい 右上:バーン・カミン運河 トンブリー王朝時代にすでにあった南側の部分を延長し、同時に建設された城壁の外堀となった。ラタナコシン側のロート運河にも城壁が建設され、チャオプラヤー川を内部に取り込んだひとつの城塞都市であった。その姿は、まさに水上都市トンブリーにふさわしい。城壁は遷都後撤去され、ラタナコシンと旧王宮地区は陸の都市へと変貌していく。
    右下:店舗と背後の住宅 道路沿いに並んでいる平屋の木造長屋が店舗で、その背後に住宅が見える。

  • 1932年の地図では、道路沿いの店舗とその裏の住宅地の関係がはっきりと読みとれる。

水の文化の背景を探る

トンブリー地区がいかに多様な背景のなかで成り立ってきたのかを見てきた。いずれも水を重要な軸としながら、民族や階層といった社会構造と水路や街区といった都市構造が有機的に絡み合い、それぞれにふさわしい特徴的な都市空間を作り出している。同じ水辺でも、実に様々な論理のもとにまちが作られ、個々の場所の条件に応じて人々が暮らしている。多様な民族が集合して生活する姿はエネルギッシュで、信仰のあり方も大きく異なっていた。

バンコクの水辺は、華麗や美しいといった印象からはほど遠い。むしろ雑多で統一感があまりなく、建築の質はお世辞にもよいとは言えない。もちろん、これまでにもタイの水上マーケットや一部の水辺の集落が写真集や報告書として取り上げられることが少なくなかった。だが、それらの空間は近代以降に植え付けられた我々のモノに対する概念や見方からだけで評価したものが多い。つまり、社会も都市も民族も異なる地において、それまでに染み付いた自分の尺度をできるだけ外地に持ち込まないという意識が必要なのだ。

そのためには、まず直接対象となる街区や建築といった、いわば目に見える物理的なモノそのものだけを扱うという姿勢を反省し、その空間の背後にある社会や歴史といった背景をも同時に読み解く必要がある。民族や階層といった目に見えない社会構造の仕組みを聞き取りによって解読し、それに応じて形成された空間の歴史的な層の重なりを解き明かす。それにより、建築の側からも、水の文化の本質をきちんと理解できるのである。

今回の調査研究は、多くのディスカッションを経て、こうしたスタンスを全員が持つことから始めた。事前の膨大な史料考察から始まり、フィールドワークでは、きれいな町並みや立派な建物にまず目を向けるのではなく、水との関係の中で、それぞれの地区がどのような特徴を持っているのか、それによりいかなる街区が形成され、そこにどのような建築がつくられているのか、というふうに連続的に見る方法をとった。したがって、ときには今にも倒壊しそうなボロボロの住宅や薄汚れた小さな店舗に入り込み、聞き取りや実測を行った。

そうしたなかで、とくに、どの地区でもタイ族特有の高床式住居が見られたのは興味深い。長い時間をかけてその地に根付くことは、「タイ人」への同化を意味したためであろうか。一方で、水辺の様々な信仰の空間は、民族ごとに独自の空間をつくりあげている点も指摘しておきたい。これらは、今後の調査研究に大きな示唆を与えてくれる。人々が水辺に根付いて暮らしていくプロセスを知ることと、豊かなくらしを支える水と信仰の関わりを探ることは、日本における新しい人と水とのつきあい方を見つける重要な手がかりになるはずだ。



調査・図面作成協力

新藤泰江、小川将、奥富剛(法政大学)、畑山明子(日本女子大学)、ゴップ、ルークナム、ナンシー(チュラロンコン大学)、トゥム(タマサート大学

■バンコク・タイに関する文献紹介
  • スメート・ジュムサイ著、西村幸夫訳『水の神ナーガ』鹿島出版会1992
  • 中村茂樹+畔柳昭雄+石田卓矢著『アジアの水辺空間』鹿島出版会1999
  • 安藤徹哉著『建築探訪10都市に住む知恵』丸善1992
  • 加藤祐三編『アジアの都市と建築』鹿島出版会1986
  • ジャック・デュマルセ著、西村幸夫監修、佐藤浩司訳『東南アジアの住まい』学芸出版社1993
  • 友杉孝著『バンコク歴史散歩』河出書房新社1994
  • 友杉孝編『アジア都市の諸相』同文館1999
  • 大阪市立大学経済研究所監修、田坂敏雄編『アジアの大都市1 バンコク』日本評論社1998
  • マイケル・スミシーズ著、西村幸夫監修、渡辺誠介訳『バンコクの歩み』学芸出版社1993
  • 綾部恒雄、永積昭編『もっと知りたいタイ第2版』弘文堂1982
  • 前川健一著『東南アジアの日常茶飯』弘文堂1988
  • ボータン著、冨田竹二郎訳『タイからの手紙上・下』勁草書房1979
  • トムヤンティー著、西野順治郎訳『メナムの残照上・下』大同生命国際文化基金1987
  • 中村真弥子著『タイ現代カルチャー情報事典』ゑゐ文社2000
  • 石井米雄監修、石井米雄吉川利治編『タイ現代用語事典』同朋舎出版1993
アジアまち居住研究会
〜タイの水辺とくらしプロジェクト〜

アジアまち居住研究会では、中国の北京や蘇州、タイのバンコク、インドネシアのバリなどを対象に、アジアの都市と建築の関係を歴史的な視点から探りつつ、そこに生活する人々のくらしのあり方を調査・研究しています。この作業は、近代日本の西欧中心主義に対立することを目指したものではなく、そこから次の世界へ抜け出すため、それぞれの地域で独自の展開を図りながら、新たな方法論や枠組みを創出することに目的があります。とりわけ、21世紀のアジアにおいては、人口増加や生活の近代化により水需要が増大し、それによる都市化と水環境の問題が重要なテーマとなるはずです。タイの水辺とくらしプロジェクトでは、その方法論として、まず水と強く結び付く住まいや信仰のあり方を探っていきたいと考えています。

高村 雅彦
法政大学工学部建築学科専任講師。
1964年生まれ。法政大学大学院工学研究科建設工学専攻修了。博士(工学)。1989年中国政府給費留学生として上海同済大学に留学。東京テクニカルカレッジ講師を経て2000年より現職。専門はアジア建築史・都市史。建築史学会賞、前田工学賞を受賞。
著書に『中国江南の都市とくらし・水のまちの環境形成』(山川出版社)、『中国の都市空間を読む』(山川出版社)、『北京・都市空間を読む』(共編、鹿島出版会)、『中国江南の水郷都市蘇州と周辺の水の文化』(共著、鹿島出版会)などがある。

潮上 大輔
法政大学大学院工学研究科建設工学専攻修士課程在学中。
1976年生まれ。東京農業大学農学部造園学科卒業。「SDレビュー2001」入選。

岩城 考信
法政大学大学院工学研究科建設工学専攻修士課程在学中。
1977年生まれ。法政大学工学部建築学科卒業。2001年より文部科学省アジア諸国等派遣留学生として、チュラロンコン大学社会調査研究所に留学中。著書に『実測術』(共著、学芸出版社)。



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