機関誌『水の文化』75号
琵琶湖と生きる

[湖甦]

琵琶湖と生きる
【経験】

世界に伝えていく琵琶湖の歴史的経験

1984年(昭和59)に開かれた「世界湖沼環境会議」における国連環境計画(以下、UNEP)の提言を受け、その2年後に設立された公益財団法人 国際湖沼環境委員会(以下、ILEC)。1994年(平成6)からは海外向けの研修・教育プログラムを企画し、滋賀県や各省庁、地域団体と連携しながら琵琶湖の経験やそこから生まれた施策などを伝えている。副理事長を務める中村正久さんに、海外に伝えていくことの意義について聞いた。

琵琶湖北部の風景。今も昔もこれからも人びとは琵琶湖にかかわりつづける

琵琶湖北部の風景。今も昔もこれからも人びとは琵琶湖にかかわりつづける

中村 正久さん

インタビュー
公益財団法人 国際湖沼環境委員会 副理事長
中村 正久(なかむら まさひさ)さん

1945年北海道生まれ。米国イリノイ大学土木環境工学科博士号取得。滋賀県琵琶湖研究所所長、滋賀大学環境総合研究センター長などを歴任。琵琶湖を含む世界40カ国の28の湖沼を約400人の研究者を率いて4年間調査し、6つの要素から成る「統合的湖沼流域管理」を構築。

琵琶湖を訪れて学ぶ海外の湖沼関係者

開発と保全を巡る琵琶湖の経験を語るうえで欠かせないものとして、1972年(昭和47)から25年にわたって実施された「琵琶湖総合開発事業」(以下、琵琶総)があります。これは後の琵琶湖・淀川流域社会を形づくるうえで非常に重要な事業でした。

琵琶総は治水・利水・環境保全を目的にしたものでしたが、当初の中心的な議論のなかには淀川下流域への大量送水を可能にする「琵琶湖の改造」がありました。例えば琵琶湖のくびれ部分に湖中堤防を築き、湖の上流部をダム化するとか、湖の沖合いにドーナツ状に堰堤を築き、そのなかの水をくみ上げて下流に送水することで湖岸と堰堤の間の水位を一定に保てば生態系への影響も少ない、といった乱暴な議論が国の省庁や下流自治体を擁護する形で新聞紙上に紹介されたのは、ほんの数十年前の話です。

それに対して、自然の恩恵と脅威の狭間で湖の沿岸・沖合漁業、流入河川流域や沿岸帯での稲作などを通して独特な社会を形成してきた滋賀県は激しく反発。10年近くの論争を経た結果、大渇水時であっても一定の水量を下流に送水できるように瀬田川洗堰(あらいぜき)の改修と湖岸提によって水量を制御する、という現在の方法が採用されました。

これはほんの一例で、琵琶湖を擁する滋賀県の多くの地域が、さまざまな利害関係や思惑を乗り越えてきました。そうした琵琶湖の歴史的経験を他の国々に伝えるのは大変意義あることです。現在(8月下旬)もマレーシアから水資源開発関係者が、琵琶湖や淀川流域の歴史的経験を学びに来られています。

こうした海外の人たちを受け入れて行なう研修・教育プログラムは1994年(平成6)に開始されましたのでかれこれもう30年です。琵琶湖に滞在する間に自分たちの湖沼に関するアクションプランをつくって帰国しますが、後の湖沼流域管理計画のベースとなることも多いです。

  • 図1 開発と保全によって変化する湖沼環境と資源価値

    出典:(公財)国際湖沼環境委員会『世界の湖沼環境の悪化をどう食い止めるか』

  • 図2 ILECの海外向け研修・教育が及ぼす影響

現状を伝えるだけでは相手の役に立たない

このように継続的に行なってきたILEC研修の卒業生は数百人に上ります。研修では、高度処理を可能とする下水処理場や活発な市民活動など「滋賀県として誇れること」を見てもらうことも重要ですが、表面的な視察では、彼らが政策をつくる際にぶつかる環境保全と開発の葛藤を乗り越える糧には必ずしもなりません。琵琶湖における試行錯誤を、失敗も含めて「あのときはこうだった」「のちのちこういう問題が起きた」というストーリーを学び、彼らが同様な状況に遭遇したときに活かせるように研修することが重要です。

例えば地下汚染を取り上げた研修では、汚染が発覚してから数十年にわたる住民、行政、企業による水質浄化や土壌改善の経験を学ぶことがありました。当事者でもあった企業の責任者が困難に直面した状況を赤裸々に語ってくれました。それは研修生が最も感動し、高く評価した研修事例の一つです。

日本がかつてそうだったように、開発一辺倒で水質保全や生態系などにあまり目が向いていない国は多いです。経済が発展する一方、自然環境はどんどん荒廃していく。歯止めをかけたいけれど開発側の圧力は強い。どうすれば……というときに日本の、琵琶湖の歴史的経験が生きてくるわけです。

この海外向け研修・教育は独立行政法人国際協力機構(以下、JICA)の支援によるものですが、成功例だけでなく失敗の経緯もシェアしていくことは、思っている以上の国際貢献となるのです。

琵琶湖の経験も踏まえた「統合的湖沼流域管理」

湖沼はいわば「溜まり水」です。一度悪化すると解決がとても困難なうえ、水のしくみ自体が常に各方面から大きなストレスを受けるものですので湖沼を持続可能にするための回答を一気に生み出すのは難しいです。そこで私たちは湖沼とその流域を持続可能なものとするためのプラットフォームとして「組織・体制」「政策」「参加」「技術」「情報」「財政」を柱とする「統合的湖沼流域管理」(略称=ILBM)を提唱しています。琵琶総に至るまでのプロセスで、琵琶湖はこのILBMをある程度できていたと考えています。

日本では、例えば湖沼にまつわる法律として湖沼水質保全特別措置法という水質改善のためのものがあり、また湖沼は広い意味で河川に含まれるとする河川法も存在します。地域開発や企業活動にかかるさまざまな法律もあります。そういったさまざまな法体系が複雑に関連した政策ができあがる以上、誰もが満足するような「水を巡る社会的なしくみ」は一朝一夕にはできません。社会情勢も制度への要求も時代とともに変遷していきますので、試行錯誤を重ねざるを得ないのです。

また、初期の琵琶総の議論にあったように、単に工学的なアプローチだけでは解決が難しい、利害関係が複雑な社会的課題はたくさんあります。湖沼流域管理もその一つで、地域のなりたちや歴史を反映する人文社会科学的な見方が自然科学・工学的アプローチに統合されなければ、持続可能な取り組みには結びつきません。

そこでILBMというプラットフォームのもと、立場や専門が異なる人たちが集い、六本柱に沿って「こういう考え方がある」「こんな新しい理論もある」と提示し、議論するうちに、隠れていた課題が浮上することもあります。

温暖化によって各地の水源が枯渇しつつあるなか、水資源として湖沼と地下水に目が向けられている一方で、SDGsに「水」は多く出てきますが「湖沼」はほとんど言及されていません。

しかし、ILECが中心的な役割を果たし、2022年(令和4)の「国連環境総会」で採択された「持続可能な湖沼管理(SLM)」は2023年(令和5)3月に行なわれた「国連水会議」につながりました。今後も琵琶湖の歴史的経験を有する日本が先頭に立って、持続可能な湖沼の在り方をリードしていく必要があると思います。

  • ILECが中心となって実施する海外向け研修・教育プログラム。行政、団体、研究者など多数の湖沼関係者が協力している

    ILECが中心となって実施する海外向け研修・教育プログラム。行政、団体、研究者など多数の湖沼関係者が協力している 提供:(公財)国際湖沼環境委員会

  • ILECが中心となって実施する海外向け研修・教育プログラム。行政、団体、研究者など多数の湖沼関係者が協力している

    ILECが中心となって実施する海外向け研修・教育プログラム。行政、団体、研究者など多数の湖沼関係者が協力している 提供:(公財)国際湖沼環境委員会

  • ビワマスの煮付け

    おいしい琵琶湖 ビワマスの煮付
    撮影協力:あやめ荘(野洲市)

(2023年8月22日取材)

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