機関誌『水の文化』11号
洗うを洗う

《雨乞い》

古賀 邦雄さん

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん

1967(昭和42)年水資源開発公団に入社。勤務のかたわら30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。 昨年退職し現在、日本河川開発調査会、筑後川水問題研究会に所属。水に関わる啓蒙活動に専念している。

2003年3月、大阪・京都・滋賀において「世界水フォーラム」が開かれる。世界水フォーラム成功の祈願祭が2002年4月29日、京都の貴船神社にて行われた。翌日の京都新聞は「晴乞、雨乞の神事が千年振りに再現された。皇室が平安中期まで晴天を願って白馬を、雨を願っては黒馬を奉納した。二頭の神馬が神職に手綱をとられて拝殿の周りを三周した」と報じた。生きた馬は、やがて描かれた馬に変わり、願い事を書いて奉納する現代の絵馬に変遷していく。

高原三郎著・発行『大分の雨乞』(1984年)では、絵馬と雨乞について、「農耕時代に入り、支配権力があらわれると彼等は君主水徳の観念により、水、雨の順調に責任があるとされた。旱魃が激甚となると、人を殺して神へ供え、さらに時代が下がると人に代わって牛・馬が犠牲とされ、さらに生き馬に代わって木馬、紙馬を献上し、そして今日のように神社に絵馬を献上することとなった」と論じている。この書は雨乞の歴史、雨乞の習俗などから構成され、大分の雨乞をくまなく調査した結果が反映されている。また、中国、朝鮮、台湾、琉球王朝、アイヌの雨乞にも言及されている点がおもしろい。

日本各地の古来連綿と続けられてきた雨乞儀式について、膨大な資料に基づき、歴史的、体系的にまとめられているのが高谷重夫著『雨乞習俗の研究』(法政大学出版局、1982年)で、いわば雨乞研究に関するバイブルである。この中で「『扶桑略記』(平安時代末期に書かれた歴史書仏教史が中心)の推古天皇33年(625年)の条に、高麗僧恵灌に命じて雨を降らせたという記事、およそ年代記の存する限りでは、日本の雨乞資料として最も古いものである。雨乞が仏教によって始まったものではない。ただ、古代人が雨を祈ったであろうと思われる神々に関する伝承がわずかに存する限りである」と、雨乞の由来が記されている。さらに、日本各地の雨乞儀式が類型化されている。宮に籠るアマゴモリ。水を浴びるミソギ。地蔵を水につけ、縄でしばる雨乞地蔵。動物、魚類の供儀。池や泉の水を代えて乾かす水かえ行事。池に牛・馬の糞、不浄の物を入れ雨の神を怒らせて雨を降らす。山に登り雨乞の火焚き。雨の神を喜ばせて雨を降らす雨乞踊り、能楽、獅子舞、雨乞太鼓踊り、等々。

  • 『大分の雨乞』

    『大分の雨乞』

  • 『雨乞習俗の研究』

    『雨乞習俗の研究』

  • 『大分の雨乞』
  • 『雨乞習俗の研究』


同じ著者による『雨の神』(岩崎美術社、1984年)では、飲用水や灌漑用水を水害から守るため水神を祀ることが習俗化すると述べられており、雨水を司る雨の神として龍王や龍神が祀られ、各地に雨乞社、雨の宮、雨降社、龍王社が分布するという。例えば、有明海北岸佐賀県川副町は干拓で開かれた地域だが、この町には雨の神と海の神の両方を祀る龍王社が存する。さらに、この書では、泉鏡花で有名な夜叉が池伝説についても論じている。

平安の初め、美濃地域に日照りが続き、美濃郡司安八太夫安次は田んぼにいた蛇に、「水が欲しい。もし、雨を降らせたら俺の娘八叉姫を嫁にやろう」とつぶやいた。蛇は即座に慈雨をもたらし、蛇は八叉姫を夜叉が池にむかえる。この伝説については、岐阜県坂内村誌編集委員会編『夜叉が池』(坂内村教育委員会、1987年)や、安八太夫安次の子孫といわれる岐阜県神戸町の石原傳兵衛著・発行『夜叉が池説』(1991年)の書がある。夜叉が池は岐阜県坂内村の標高1105メートルに位置し、今でも雨沢の恵みの源泉として崇敬されている。

先に紹介した高谷重夫氏によると、龍とか大蛇という型をつくり雨を乞う祈願法は、東北から九州まで広く分布するという。埼玉県鶴ヶ島市教育委員会編・発行『脚折雨乞』(2000年)では、長さ30メートルほどの麦藁の龍を雷電神社のカンダチの池に入れ『雨ふるたんじゃい』と唱える祭りが紹介されている。川崎市博物館資料調査室編『川崎の雨乞い』(川崎市民ミュージアム準備室・1988年)の中でも、市内の中原地区では、かつて大蛇を担いで田の中を練り歩いたと記されている。日本の各地には雨乞山、雨乞岳が存する。日照りが続くと、山に登り、鉦をならし、雨の神に祈る。西尾寿一著『鈴鹿山地の雨乞』(京都の山の会出版、1988年)には、この有様が記されている。

  • 『雨の神』

    『雨の神』

  • 『夜叉が池説』

    『夜叉が池説』

  • 『雨の神』
  • 『夜叉が池説』


少雨というと讃岐、現在の香川県だ。瀬戸内海気候のため年間平均降雨量が1200ミリに過ぎない。山地は県土の40パーセントを占め、大きな山と河川がないため、昔から水に難儀し、旱魃には泣かされ、ため池が多く造られてきた。昭和49年、徳島県池田町から、吉野川の水が香川用水によって導水されてから、河川、ため池、香川用水の水を併せ有効に利用されているが、水を大事にする県民性には変わりはない。

菅原道真公が讃岐の国司であった時、彼の祈雨で潤雨を得、その喜びに始まったと言われる香川県綾歌郡綾南町の「滝宮雨乞踊り」が今でも滝宮神社に奉納されている。香川県教育委員会編・発行『讃岐の雨乞踊調査報告書』(1979年)には、讃岐地域の雨乞踊りについて詳しく調査されている。また、香川県大野原町田野々雨乞保存会編・発行『雨乞踊今昔と保存会春秋』(1992年)は、昭和8年の大旱魃により一時途絶えた、慶長年間から続く踊りが昭和46年に復活したという記録である。正岡子規は「月赤し雨乞踊り見に行かん」と詠んでいる。

雨乞太鼓踊りについては、奈良県月ヶ瀬村石打太鼓保存会編・発行『石打太鼓踊復活記念誌』(1989年)、同県都部村教育委員会編・発行『吐山太鼓おどり』(1983年)、熊本県宇土市教育委員会編発行『宇土雨乞い大太鼓調査報告書』などがある。宇土は、江戸時代、細川三万石の陣屋が置かれ、農村地区では集落ごとに大太鼓を所有し、雨乞い祭り、虫追い行事に大太鼓を使ってきた。昭和61年から宇土大太鼓フェスティバルが行われるようになり、今では雨乞大太鼓が地域起こしに一役買っている。

さて、朝鮮の雨乞儀式は、動物をあくまでも供え物、供儀で、日本のように雨の神を怒らせる不浄物を与える考えはなかったと高谷重夫氏は推論している。韓国の研究者、任著『祈雨祭』(岩田書院、2001年)は、雨乞儀式に関する韓日比較民俗学的研究の書であり、雨乞いの国際比較を行った初の書である。古代の韓国では、旱魃による雨乞儀礼とその対策は王の責任で行われた。この災害が解消されなかった場合は、その責任をとらされ、王は殺されたという。日本では、旱魃解消の責任が天皇の死まではつながらなかった。

  • 『宇土雨乞い大太鼓調査報告書』

    『宇土雨乞い大太鼓調査報告書』

  • 『祈雨祭』

    『祈雨祭』

  • 『宇土雨乞い大太鼓調査報告書』
  • 『祈雨祭』


雨乞習俗を考えると、古代から日本人と水との関わり方は深く、水の文化、食の文化、芸能の文化と大いにつながっていることがわかる。日本各地の雨乞習俗を絶やさないこと、絶えているものは復活させることは水の文化の発展につながる。さらに、世界の雨乞習俗の調査研究、その国際比較もまた、水の文化の未来につながるものといえるだろう。

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