機関誌『水の文化』13号
満水(まんすい)のタイ(タイランド)

チャオプラヤー川流域の近代物流史 水辺空間の価値を変えた交通モード

柿崎 一郎さん

横浜市立大学国際文化学部講師
柿崎 一郎 (かきざき いちろう)さん

1971年生まれ。東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了。 主な著書に『タイ経済と鉄道』(日本経済評論社、2000)、共訳書にリスベス・スルイター『母なるメコン、その豊かさを蝕む開発』(めこん、1999)等がある。

公文書史料と格闘埋もれた宝を探す

――柿崎さんが、タイとかかわり始めたきっかけを教えてください。

父親がタイに赴任したことで、中学校時代に3年間をタイで過ごしました。のちに進路を決めるときに、タイにかかわる研究がしたいと思ったのですが、元来の鉄道好きからタイの交通を専門にしようと思い立ちました。ただ、誰も手をつけていませんし、一から始めなくてはなりませんでした。さらに、鉄道の造られる前の状況と鉄道敷設後を比較しようとしても、先行研究が存在しなかったので、敷設前の状況がさっぱりわからなかったのです。

例えば、バンコクにどのようなモノが、どれくらいの量集まってくるのか。地方に行くにはどのような手段があり、どれくらいの時間がかかったのか。こんなことさえも、きちんとした研究がなされていないのでわからない。ですから、鉄道を調べるためには鉄道以外のことを知る必要が生じ、期せずして、物流全般を調べることになりました。

――どのような方法で調べていったのですか。

まず、資料は主にタイの公文書です。100年前の史料を1枚ずつめくって、「何か出てこないか」と探します。タイでは古い資料を探すことが難しい。今でもそうで、役所に行き「このデータ過去10年分欲しい」と言いますと、2年くらいしか残っていないことはざらです。古いデータを史料として残すという習慣がなかったのです。また、ビルマなどの国では、当時の宗主国に史料が残されていることもありますが、タイは植民地にならなかったのでそういったこともないのです。

ラーマ5世(在位1868〜1910年)になってから、公文書を意識して残そうとするようになりました。きちんとそろっているのは1880年代以降です。それも、すべてが残っているのではなく、残す史料を取捨選択し、後生の人が勉強できるように「サンプル」として残している例が多い気がします。でも、探せばけっこう出てくるんですよ。公文書というのは一応タイトルがついているわけですが、中身とタイトルが一致しない。結果として中身を全部見なければならなくなります。おもしろい内容が見つかるときには、タイトルを見ただけでは予測がつかない場合のほうが多いのです。宝探しと同じですね。タイの公文書館には、正味3年か4年の時間をかけて通っています。日本人でタイの公文書館を常連にしている人というのはそうはいないでしょう。もうひとつ役に立ったのは、欧米人の旅行記です。「バンコクからチェンマイまで何日かかる」とか「ここまで船に乗って、そこから象に乗った」ということを、事細かに記しているものもある。それらを全部集めました。

  • 雨期と乾期 チャオプラヤー川流域 デルタ

    チャオプラヤー川流域
    チェンマイ北部から流れるピン川はブーミポンダム下流でワン川と合流する。次にスコータイを流れるヨム川とピッサヌロークを流れるナーン川と、ナコーンサワンで合流しチャオプラヤーと名前を変える。中部デルタの頂点と呼ばれるナコーンサワンには自然湖ブンボーラペットがあり、水量調節タンクの役割を担っているが、タイ四大河川の水量はとても賄いきれない。チャオプラヤー川はターチーン川と分岐した後、アユタヤーでパーサック川と合流し、バンコクを抜け海へ灌ぐ。 13世紀、王宮を中心とした都がスコータイに建設され、タイ族国家が成立したころ、チェンマイにもランナータイ王国、隣りにはパヤオ王国があった。15世紀にはアユタヤー王国がスコータイ王国を併合。アユタヤーは14世紀半ばより約400年に渡って栄えたが、18世紀ビルマに滅ぼされる。1767年、新王がトンブリーに都を建設したが15年で幕を閉じ、チャオプラヤーの対岸バンコクに都が建設されラタナコーンシン王朝が始まる。現在に至るタイ王朝の歴史はチャオプラヤー川に沿って流れてきたともいえる。

    デルタ
    デルタとは河口にできた三角州のこと。インドシナ半島には、イラワジデルタ(ミャンマー)、メコンデルタ(ベトナム)、チャオプラヤーデルタ(タイ)という、三つの大きなデルタがある。イラワジ川は雨期と乾期の水位差が10mにも及び、洪水の流量はチャオプラヤー川の10倍を越える。このため、デルタ開発は洪水に備え、農地を堤防で囲う輪中建設から始められた。メコンデルタは、洪水の流量はイラワジ川と同じ程度だが、途中にトンレ・サップ湖という巨大な遊水池を持っていたため、運河網建設を中心に開発が行われた。チャオプラヤー川の開発は19世紀中頃から、縦横に運河を掘ることで行われた。

  • 雨期と乾期

    雨期と乾期
    「雨が多いのは、バンコクと名古屋のどちらか?」と聞かれたら、たいていの人は「バンコク」と答えるだろう。ところが、ここ30年間の年間降水量の平均を比べると、実際はバンコク(1530mm)よりも名古屋(1564mm)のほうが多い。東京(1467mm)と比べても、バンコクは70mm程度多いだけだ。
    しかし、バンコクの場合は降り方が偏っている。モンスーン地帯特有の気候のため、乾期には水が足りなくなり、雨期には東京の倍近くの降雨がある。だから雨期には浸水が発生する。バンコクを水の都というイメージでとらえるのは、こうした雨期の印象が強いせいだろう。

  • 雨期と乾期 チャオプラヤー川流域 デルタ
  • 雨期と乾期

水運の時代は雨期と乾期で遡航先が異なった

タイの鉄道は、ドイツ人の技師を迎え入れて造られました。彼らが年次報告書を作る伝統を確立したお蔭で、鉄道に関する記録はきちんと残されています。各駅の貨物発送と到着量は、全部わかりました。問題は、鉄道の輸送状況を比較評価するために、他の交通手段や、鉄道建設前の状況を知る必要があったことです。19世紀後半、タイでどのような交通手段が使われ、何が運ばれたか。それと比較することで、鉄道の効果が明らかになるわけです。

――鉄道が敷かれる前の主な交通手段は何だったのですか。

基本的に水運です。南部では沿岸航行、バンコクから内陸部に行くときは、河川水運です。川が使えない区間に限り、陸路が使われました。このころのタイの道は、もちろん未舗装ですから非常に状態が悪い。雨期には路面がグチャグチャになり、場合によっては水没してしまう。これでは、陸路は完全に水運の補完機能しか持てないわけです。

バンコクから、山間部の例えばチェンマイに行くとき、雨期の水位の高い時期にはチャオプラヤー川を遡って行くことができました。ただ、乾期ですと、途中から象を使って陸路で行くというのが普通でした。乾期でも、支流のピン川の先、タークまでは船で行けます。そこから上流は、象に乗り換えたわけです。

――当時主に運んでいたものは何ですか。

バンコクから北部に運ばれていたのは、綿服や糸などです。一方、北部からバンコクに運ばれたのは、チーク材などの高級輸出材や錫(すず)です。チークは、プーミポンダムができる1960年ごろまでは川に浮かべて、筏で流していました。また、米は当時の主要輸出産品でしたから、やはりバンコクへ大量に集められていました。

当時は、圧倒的に内陸からバンコクへの輸送量が多かった。物流の方向が川の流れと一致していたのは、都合のいいことでした。

  • タイの鉄道建設前の交通状況図

    タイの鉄道建設前の交通状況図
    柿崎一郎『タイ経済と鉄道』日本経済評論社、 2000年より

  • 20世紀初頭の象の陸送隊列。
    Karl Dohring, The Country and People of Siam, Land und Volk,1923より

  • 川幅いっぱいに並ぶチーク材の筏。
    Arnold Wright, Twentieth Century Impressions of Siam LLOYD'S GREATER BRITAIN PUBLISHING COMPANY,LTD.1903より

  • タイの鉄道建設前の交通状況図

水運の輸送コストと空間形成力

――乾期に陸路を使うとすると、そこに宿場のようなものが発生したのですか。

どうも、宿場ができるほどの往来はなかったようですね。キャンプのような形で泊まっている。ただ、ある資料を見ますと、北方で、毎回同じ場所で泊まっている場所があります。そこの地名に、休憩所を意味するサーラーという言葉が出てきます。1日の行程ごとに、簡単な休憩所のようなものがあったのでしょう。暑い地域ですから、日の出前に歩き始め、日中は休んで、夕方また歩くというやり方で、1日20kmというのが、当時の陸路の目安でした。

また、川沿いには細かに物資集散地が散らばっていましたので、そこには簡単な宿泊施設はあったかもしれませんね。

乾期のときの積み替え地点は、ナーン川ではウッタラディットです。ここより北は山岳地帯で、象や牛、騾馬を使って隊商として歩いていった。積み換えコストもたいへんです。はっきりとはわかりませんが、積み替え場所では、積み替え商がいたのでしょう。あらかじめ手配することはできないでしょうから、中継点にはそういう役割を果たした人たちがいたと思います。

――バンコクでは、干潮時と満潮時では、河川の水位の差が2m前後あるようですが、舟運には影響がありますか。

チャオプラヤー川の河口には砂洲があり、海路でバンコクに入る船は満潮を待たなければ、その砂洲を越えることができませんでした。地図を見ると、バンコクの手前に大きく湾曲している箇所があります。開削して川の流れを真っ直ぐにした時期もありましたが、満潮時に海水がトンブリーの果樹園にまで影響を及ぼすので、現在ではあえて湾曲したままに残されています。自然相手の事柄は、効率だけでは推し量れない側面も持っているのです。

一般的な船の大きさは、4人乗って、1人が舵を取り、最大で4tの荷物を運んだそうです。

1870年代に蒸気船になってから、下流の方の遡上は楽になりました。その蒸気船も、水の少ない時には、ナコーンサワンまでしか遡れません。乾期になると、そこまでも行けなくて、アユタヤーの先にあるアーントーンという町までです。商人にとって、乾期は輸送コストがかかって仕方がないのです。

政治的事情が左右した鉄道経路

その後、1880年代にバンコクから地方に鉄道を敷設する計画が出てきます。タイが鉄道を造ろうとしたのには、2つのきっかけがありました。

ひとつは、イギリスとフランスが鉄道を造らせてくれと申し出てきたこと。当時イギリスはビルマから、フランスはインドシナから中国へ入るルートを持ちたいという念願があり、タイを経由地として利用したい思惑があったのです。しかし「鉄道を両国に造らせたら、沿線の領土が奪われてしまう」と警戒したタイ政府は、イギリスに「鉄道は造らせないが、代わりに、自分たちでバンコクからチェンマイまで鉄道を敷設する。それが完成したら、ビルマ側ともつなげましょう」と約束したわけです。

もうひとつのきっかけは、漢族ホーの反乱です。ラオスの北部(当時はタイ領)で漢族ホー(太平天国の乱の残党と言われている)の反乱があり、その討伐が85年から86年にかけて行われました。バンコクからウッタラディットまで大量の兵士と食糧を船で輸送し、そこからは象や家畜を使って陸路でメコン川に出る。それから、ルアンプラバーンというラオスの王都まで水路で行きます。大量の輸送ですし、各地方の領主に経費を負担させ、輸送手段である象や家畜を供出させようとしたため、バンコクから送った米が現地にはほとんど届かないという有様に終わりました。こういう一件があり、ラーマ5世とタイ政府は、象や家畜に頼っての陸上輸送には限界があると思い知らされたわけです。

敷設経路については、水運が使える場所に並行して鉄道を造っても輸送費用の面ではあまり意味がありません。チェンマイへの鉄道では、途中のナコーンサワンより南では舟運のほうが有利なので、水運の使えない場所を優先させようという意見があり、バンコク〜コーラート間がまず計画されました。第一に着手されたコーラート線は、1900年に完成しました。

次に計画されたのが、チェンマイへ至る北線です。イギリスによるモールメイン〜雲南間の鉄道計画を認める代わりに、タイが建設を約束した路線の一部でもあったことから、コーラート線に次いで建設されるべきでしたが、コーラート線の建設請負業者との間で、訴訟問題が発生したために北線の着工は大幅に遅れました。1909年にウッタラディットまで、1921年にチェンマイまで開通しました。

タイの鉄道史の特殊性は、輸送手段としての必要性に迫られて、というだけではなく、イギリス、フランスからの外圧に対抗するためということが、他国と大きく違っている点です。

――鉄道と水運が競合する時代はあったのでしょうか。

バンコクと地方を結ぶ鉄道網を構築しようとすると、必然的に鉄道と水運が並行した区間が生じます。ここで、鉄道と水運が競合することになります。

コスト的に見ると、鉄道が水運より安くなるということはなかったですね。鉄道も雨期は安く、乾期は高い価格設定を行い、水運と競合していました。実際の運賃以外で問題となったのは、輸送時間の迅速性です。輸送時間では鉄道のほうが水運より圧倒的に速いことから、迅速さが要求される物資の輸送には、鉄道が有利でした。しかし、当時最も重要な産物であった米は、輸送に時間がかかっても、品質に大きな影響が出ないことから、水運のほうが好まれました。

しかし、自動車による陸運の登場で、積み替えコストの発生という点では、水運も鉄道も大同小異ということになるわけです。

  • 1906年タイ鉄道局の鉄道建設計画路線図。 前頁図ともに柿崎一郎『タイ経済と鉄道』日本経済評論社、 2000年より

    1906年タイ鉄道局の鉄道建設計画路線図。 前頁図ともに柿崎一郎『タイ経済と鉄道』日本経済評論社、 2000年より

  • バンコク発着の国内貨物の水運、鉄道、道路における輸送量比較。道路輸送の量、割合が大きく伸びているが、水運、鉄道の輸送量そのものが減ったわけではない。

    バンコク発着の国内貨物の水運、鉄道、道路における輸送量比較。道路輸送の量、割合が大きく伸びているが、水運、鉄道の輸送量そのものが減ったわけではない。

  • 1906年タイ鉄道局の鉄道建設計画路線図。 前頁図ともに柿崎一郎『タイ経済と鉄道』日本経済評論社、 2000年より
  • バンコク発着の国内貨物の水運、鉄道、道路における輸送量比較。道路輸送の量、割合が大きく伸びているが、水運、鉄道の輸送量そのものが減ったわけではない。

開発の始まりと全国に伸びる道路網

1932年に立憲革命がおき、王制から民主制に移行します。その後、道路を積極的に整備することになり、バンコクから地方への道路が徐々に造られていきます。

それまで鉄道と水運に二分されていたバンコクの輸送手段に、新たに道路という選択肢が加わったのです。ただ、これが全国に広がり、自動車輸送が主流になってくるのは60年代ごろまでかかります。

――61年から第1次経済社会開発計画が始まりますね。ここから開発の局面が変わってくるわけですが、交通はどのように変化しますか。

開発との関係で道路が脚光を浴びるのが、1958年にアメリカの援助で完成したサラブリー〜コーラート間の「フレンドシップ・ハイウェイ」と呼ばれる道路です。タイ東北部とラオスの共産化を阻止するのが目的でした。タイで初めての高規格道路で、外国の土木企業により整備されました。完全舗装で、車が時速100kmで走れるような道路です。それまでコーラートまでは鉄道で8時間かかっていたのが、車で4時間で行かれるようになりました。

道路ぞいには畑がどんどん広がり、牛乳製造等の工場ができ、いわゆる「開発」された空間が、見られるようになりました。人々は「開発」がどのようものなのかを、目の当たりにしたわけです。本当は誤解のような気がするのですが、そのような結果を目指して、道路を全国に伸ばそうとしたのが60年代なのです。

タイの開発体制は、1958年〜63年のサリット政権に端を発しています。開発独裁の最初にあたるのですが、良くも悪くも経済開発を強力に押し進めました。この一環で、各地で高規格道路が延び、70年代初頭までにはほぼ完成します。

バンコク〜チェンマイ間やバンコク〜マレーシア国境間など各地に、高規格舗装道路が伸びました。道路区分としては日本の国道と同じですが、速度制限がありませんから、利用者は高速でとばしています。

道路が整備されると、車の台数もどんどん増えてきます。当初は、トラックが多く、自家用車はずっと後になってからのことです。自家用車は富裕層の持ち物で、そういう層の人は現在内陸に家を持っています。一方、川沿いには商家の立地が多いのですが、ビジネスに成功した中国人も、新居は道路沿いの住宅地に引っ越すことが多くなりました。

――自動車の普及にしたがい、水運は少なくなってきたのでしょうか。

データが少なくはっきりしないのですが、バンコク発着貨物輸送量の比較を見ると、全体の輸送量が1965年から2000年の間で飛躍的に増えていますので、構成比が変わっても、水運貨物量が減ったということにはなりません。シェアとしては道路輸送が圧倒的に高くなっていますが、量として水運が減っているということにはなっていません。

――水運で運ばれるものは、変わってきましたか。

現在水運で多いのは、砂の輸送です。それに伴い、川沿いにセメント工場が立地しています。あとは農産物と建築土木資材ですね。これは都市生活者が増えたことで、建設ラッシュが起きたことを表しています。水運では、基本的には重くて安いものを運ぶわけです。地方でもビルやニュータウンが造られ、建築資材やセメント、砂の需要が増えてきます。それに伴い、水運の役割もそれなりに増えるのです。

――農業生産の効率はどうでしょう。上がってきたのですか。

いや、効率はあまり上がっていないというのが現状です。デルタの中では灌漑が発達していきましたので、二期作、三期作ができるように進化している所もあります。しかし、機械化が進んだことによって生産高が上がったかというと、どうもそうではないようですね。

――すると、商品経済化が、農業生産の効率を上げることに結びついていない場合があるのですね。

かつては、農民も増産に励みました。道路などのインフラが整備され、作れば売れると、未開の地を田圃や畑にしてきたのですが、もう未開地もほとんどなくなってきました。そうなると、次には生産性の向上に走るはずなのですが、それはあまり行われていない。行われていない最大の理由は、生産性向上には資金が必要だからです。そんな金をかけられないから、今までどおりの方法で行う。今までどおりしていると、だんだんと食えなくなる。そこで、農民が、どこかに働きに行かざるをえなくなるのです。

中部地域以外では、現金収入の基本は、もう農業ではなくなっています。収入の多くを都会で働く子どもたちが担い、仕送りがメインの収入となっている農家がかなりあります。ただ、農業をやめない理由は、主食のコメは自分で作るという姿勢を崩さない国民性にあります。たくさんできたら売るという形で、細々と続いている農家が多いようですね。

――日本の場合、農業の効率化に農協などの果たした役割が大きかったわけですが、タイではそのような中間組織は機能しなかったのですか。

一応、そういうものを奨励する政策は採られたのですが、組織化にはあまり成功しなかったですね。場所によってうまくいった所もありますが、全体としては少数派です。

――規制を中心とした産業政策は行われてこなかったということですね。

そうです。特に、農村が現金収入を得る機会を作ったり、農村で人々が食べていかれるようにすることは、あまり熱心にやってこなかった。もちろん、地方に工業団地を造るということはしていますが、それは限られた地域だけですし、全国規模でできませんから。

実は、今、タイでは、一村一品運動が行われています。これはタクシン首相が、日本の大分県の運動を見習って提唱していることです。地方の人が自分たちでアイデアを出して、自分たちの村の特産品を作り、それを売り出そうとしたり、その一環として、日本で言う地酒(どぶろく)の解禁とか、地方の農民が組合を作って、小規模の醸造をできるような機会を与えたりしています。これから、各地方の人が特色を持った村づくりを進めていくことになると思います。

現在のタイは、米に代表される一次産品の輸出を、大して奨励はしていないですが、一応残しているという点では、隣のマレーシアのように一次産品がまったく衰退してしまった国と異なります。このため、1997年のバーツ危機のときには、農村に避難した人もかなりいるといわれています。農村が、いざという場合の余剰労働力の吸収源となり、セーフティネットと言っていいのかわかりませんが、一定の役割は果たしているようです。

  • バンコク市内を流れるチャオプラヤー川には、長く連なって行き交うハシケを縫って、高速水上バスが白波ををたてる。さすがに幹線水路にはまだ渋滞がないが、舟数が多いだけに排ガス規制も問題になっている。 右:チャオプラヤー川上流には、河口までの距離を示す、日本の高速道路を彷彿とさせるサインが数多く見られる。 左:細い水路に入るエンジンボートには舵がなく、とてつもなく長いシャフトの先についたスクリューに頼っている。取り回しには不便に見えるが、舟が浮き草に絡まった場合の安全策だ。その嫌われものの浮き草ウォーターヒヤシンスが、近年脚光を浴びている。籐と同じく家具に利用され始め、洗練されたデザインと、素材の新しさが市場に受けている。

    バンコク市内を流れるチャオプラヤー川には、長く連なって行き交うハシケを縫って、高速水上バスが白波ををたてる。さすがに幹線水路にはまだ渋滞がないが、舟数が多いだけに排ガス規制も問題になっている。

  • 左:細い水路に入るエンジンボートには舵がなく、とてつもなく長いシャフトの先についたスクリューに頼っている。右:チャオプラヤー川上流には、河口までの距離を示す、日本の高速道路を彷彿とさせるサインが数多く見られる。

    左:細い水路に入るエンジンボートには舵がなく、とてつもなく長いシャフトの先についたスクリューに頼っている。
    右:チャオプラヤー川上流には、河口までの距離を示す、日本の高速道路を彷彿とさせるサインが数多く見られる。

  • バンコク市内を流れるチャオプラヤー川には、長く連なって行き交うハシケを縫って、高速水上バスが白波ををたてる。さすがに幹線水路にはまだ渋滞がないが、舟数が多いだけに排ガス規制も問題になっている。 右:チャオプラヤー川上流には、河口までの距離を示す、日本の高速道路を彷彿とさせるサインが数多く見られる。 左:細い水路に入るエンジンボートには舵がなく、とてつもなく長いシャフトの先についたスクリューに頼っている。取り回しには不便に見えるが、舟が浮き草に絡まった場合の安全策だ。その嫌われものの浮き草ウォーターヒヤシンスが、近年脚光を浴びている。籐と同じく家具に利用され始め、洗練されたデザインと、素材の新しさが市場に受けている。
  • 左:細い水路に入るエンジンボートには舵がなく、とてつもなく長いシャフトの先についたスクリューに頼っている。右:チャオプラヤー川上流には、河口までの距離を示す、日本の高速道路を彷彿とさせるサインが数多く見られる。

変わる暮らしと社会

道路網の完備により、モノとヒトの行き来が、迅速かつ簡単になりました。バンコク郊外に工場が林立し始め、都市としての人口の受容力が増えてきます。出稼ぎの人が入ってきたり、出ていったりすることも頻繁です。彼らを運ぶのは鉄道や長距離バスです。

一方で、道路が整備されていくことで、農村では農産物がどんどん商品化され、交易されていきます。今まで販路がなかったものが売れるようになり、現金が手に入る。他方では、今までは買わなくてもよかったものを買うようになる。金がかかる生活の始まりです。農村の購買力が高まることによって、いろいろな工業製品の需要が全国で増えますので、バンコクから地方への輸送も増えていきます。この商品経済化がどんどん浸透していくことによって、今度は、農村で生活ができない人が出現します。彼らがバンコクなどに集中するために、都市はどんどん肥大化してきたのです。

流通業の変化は、日本より、短期間に、なおかつ急速に進んでいます。日本の大店法のような規制もありませんでしたから。今、タイではそのような規制を考えているようですが、外資による大型ショッピングセンターがどんどん入ってきています。そして、それらが乱立して地方に出店し、既存の市場とか中国人の雑貨屋から客足が遠のいているという事情もあり、日本と同じ状況です。オートバイと車の自家用が増え、買い物が陸上化したということですね。

交通という面では、タイも日本が高度成長期に経験した道筋と、似たコースをたどっているといっていいでしょう。

一家に一台、庶民のマイカーはオートバイ。3人乗り、4人乗りは当たり前。日本に比べ、圧倒的に橋の数が少ないタイでは、小さな都市でも橋が渋滞のボトルネックになっている。排ガス問題は深刻で、警官のいでたちもご覧の通り。ヨチヨチ歩きができる子は、ハンドルに掴まる術も修得している。 高価なためか、ヘルメットを着用した子どもには、左端の写真でしかお目にかかっていない。

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