機関誌『水の文化』13号
満水(まんすい)のタイ(タイランド)

地域プランナーが語る水の国タイ開発におけるテクノロジーと習慣の共存

上:20世紀初頭と現在の写真。バンコク市内の同じ所を撮影したものBANGKOK THEN AND NOW AB PUBLICATIONS 1999より

20世紀初頭と現在の写真。バンコク市内の同じ所を撮影したもの
BANGKOK THEN AND NOW AB PUBLICATIONS 1999より

 右:観光客相手の夜店が賑わうバンコクのナイトバザール。 左:タイのお菓子には種類が多い。 おとうさんが手にしているのはルークチュップと呼ばれる青豆で作った果物型のお菓子。

左:タイのお菓子には種類が多い。 おとうさんが手にしているのはルークチュップと呼ばれる青豆で作った果物型のお菓子。
右:観光客相手の夜店が賑わうバンコクのナイトバザール。


スワッタナー・タダニティーさん

チュラロンコーン大学社会調査研究所副所長・
建築学部都市地域計画学科助教授
スワッタナー・タダニティー

チュラロンコーン大学卒業後、オーストラリア・メルボルン大学大学院修士課程(地理学)修了。工学博士。

源流から下流まで川と共生する

――タイ国土の開発史の中で、チャオプラヤー川の占める位置についてうかがいたいと思います。日本では水が町にあふれたら、災害ととらえます。すぐに堤防を造り、水を遠ざけようとします。ところが、こちらに来て驚いたのは、雨期で水があふれるのは当たり前と思っているかのように、みなさんが水とつき合っていますね。

それは大事な点です。タイ人はずっと前から川辺に住んでいますので、水があふれることをおかしいと思ったことがないのでしょう。

地域計画の立案を専門とする私の目から見ても、タイは水の国と言えます。水の使い方、水と一緒に生活できるような管理方法を、歴史的に引き継いでいると思います。

タイの習慣の起源は、チャオプラヤー川流域の中部タイにあると言っていいと思います。北部タイ、たとえばチェンマイの人々は川のそばではなく、山と川の間に広がる台地に居住しています。チャオプラヤー川流域の人たちのように水辺には住まず、山のほうに住んでいます。これは、チェンマイ人の頭の良い点でして、北部の川は源流に近いため流れが速く、川の側に住むことは危険を伴うからです。

チェンマイの市街は700年の間、一度も動いたことがありません。しかし、最近の人々は、その地域特有の昔の知恵が理解できず、土地を広げ、ピン川のそばに住む人も多くなっています。雨期になると川の流れは滝のようで、本当に危ないと思って私は見ています。というわけで、タイでもチェンマイの人は、実は洪水の被害に遭っています。

700年前の人は、そのような治水のメカニズムが分かっていたと思いますし、それは現代の人も少し考えてみれば分かることでしょう。ただ、今は、それ以上に土地を広げたいという誘惑が強いのです。その原因の一つは、観光開発です。観光資源として、水辺に価値がもたらされた結果、ピン川のそばに人々が集まり、居住者も増えました。

一方中部デルタより南は、川と海のレベルが同じ程度で、川の流れもたいへんにゆったりとしています。豊かな土地で、開発の手が入る前には、肥料をほどこす必要がまったくなかったといいます。昔のタイ人は、源流から下流まで川とうまくつき合い、自然と共生する術(すべ)を知っていたと言えるのです。

テクノロジーと習慣のバランスが取れない

したがって、タイ人は近代の経済成長が始まるまで、舟を使い、川や用水と生活を共にしていました。おそらく、雨期の増水も、洪水とは思わなかったでしょう。むしろ、雨期は「うれしい時」だったと思います。洪水があっても豊かな土地、いや、洪水があってこその豊かな土地だったのでしょうね。このような事情があるため、住居も高床が多かったのです。

――今でも、雨期を楽しいと思うのですか。

今はそうは思わないですね(笑)。川の代わりに道を造り、舟の代わりに車がとって替わりました。おかげで、土地が水に浸かるとまったく動けなくなってしまう。

昔のタイ人は、道というと人が歩く小さな歩道を意味していました。もちろん、今は車道です。ラーマ5世の時代(在位1868〜1910年)は、タイが急速に近代化を遂げ、社会も大きく変化した時代でした。

それでも道があっても川を忘れず、道と川が両方使われていた時代でした。1932年、ラーマ7世の時代に立憲革命が起こり、政体もそれまでの君主制から民主制に変わりました。民主制になってもみんな王様を尊敬しているわけですが、その後、特に1960年代から現在のラーマ9世に至るまで、タイは急速に経済成長を続けました。この間に、タイは利益のみを求めてインフラを造る時代に入ったとも言えるでしょう。

――そのような時代への評価は?

タイの文化は元来水をベースにしていますので、川と道を一緒に使うべきなのに、今は道だけ舗装し、川は埋めています。テクノロジーと習慣のバランスが取れていないのです。家の建て方も変わりました。昔は高床でしたが、今は土台に土を盛る方法で家を建てています。川沿いの家は、かつては正面を川に向けていましたが、今では道路に面するように建てられています。

経済成長と水

とは言え一時に比べると、タイ人は「テクノロジーと習慣のバランス」を理解できるようになってきているとは思います。しかし、このような社会の変化のため、水は「人に被害をおよぼすもの」と思うようにもなっているようです。

40年ほど前に、チャイナートダムのような大きい堰も造りました。このときは、タイ経済の成長スピードを上げ、米を増産し、輸出したいという目的がありました。このため、チャイナートダムで水をコントロールし、灌漑設備を整備し、二期作、三期作ができるようになりました。このような地域整備は、ほかの地域でも行われています。

また、バンコク市内はタイ経済の最重要拠点ですので、洪水被害に遭うことは絶対にあってはならない。

このため、市街の周囲にパサックダムのような巨大なダムを造り、各運河に水門も造りました。これらのことは、水をコントロールする上では必要だったとは思いますが、水門のために、舟で川を行き来することができなくなるなど、水利用にとっては大変にもったいないことだと思います。

私も学生のころは、学校に行くために舟で運河を利用していたことがあります。でも、おそらくそれは私の世代が最後でしょう。私がオーストラリアに3年間留学しているうちに、その運河はなくなってしまい、車と鉄道を使うしかなくなっていました。

タイの国土整備の方法ですが、地方の整備がどうしても後回しになってしまうために、バンコクばかりが成長してしまいます。このため、車が増え、道路が必要になって、運河を埋める。バンコクが成長すると周辺地域の都市化が進み、豊かな土地なのに田圃を宅地化し、家を建築する。それも、当然、高床式ではなく、土を盛った上に西欧様式の家を建てます。高層ビルもコントロールされずに建ってゆきます。

バンコク市内の建築ブームのピークは、タイの経済が一番良かった10年ほど前です。労働者が足りずに、多くの農民が周辺から集まってきました。外国からの資金も流入、不動産ブームが起こって、地価が高騰し、あたかも日本のバブルのころのようでした。

以前は、バンコクには地方からの出稼ぎの季節労働者が多く、雨期になると帰っていきました。しかし、周辺の農民は農業ができなくなり、バンコク市内の工場で働き、バンコクに居つくことになったのです。

バンコク市内の都市計画は、基本的には全国レベルのマスタープランに対応すべきです。バンコクだけ成長するわけにはいきません。そこでタイの中で大きな都市、例えばチェンマイとかコラートとか主な県の経済を早く整備できるように、大学等を作り人材育成を進めました。

しかし、大学を卒業した人は自分の県で就職せずに、バンコクに移動する傾向があります。人が雇用を求めて移動していたら、いくら地方に大学があっても、また人はバンコクに戻ります。ですから、バンコクの人口は、チェンマイよりも35倍増加しています。とにかく今は、こうしたバンコクへの人口集中問題と産業構造の関わりがわかってきたので、これを地域計画で解決しようとしています。

経済社会開発計画

しかし、その足かせとなったのが、97年に起きた経済危機です。97年8月にバーツが急落し、国際通貨基金(IMF)に金融支援を要請した年です。これで、予定していた開発ができなくなってしまいました。タイの国土開発は、経済社会開発計画と呼ばれ、1961年に開始以来、数次の5カ年計画として実施されてきています。

経済社会開発計画は、本当にタイの社会を変えました。第1次計画の前、つまり、1950年代までは、タイ人は自分たちのことを貧乏だとはまったく思っていませんでした。

ところが、第1次計画で「途上国」という概念が出てきて、タイの人々は自分の国を経済成長という物差しから見て、貧乏な国と思ってしまった。一方、開発イコール西欧化でしたので、たくさんの資金が海外から流れてきました。もともとこれらの計画は、世界銀行や西側諸国からの援助資金を効率的に活用するために作られたものですが、第1次(61〜66年)、第2次(67〜71年)の計画では、高度経済成長を追求し、これら資金が運輸・通信・電力・灌漑整備というインフラ整備に投入されたのです。

この時期の計画では、バンコク都市圏で川の意義はほとんど意識されず、道路ばかりが造られました。また、チャオプラヤー川の南にコーンブリという港があったのですが、もとからあったこの港を使わずに、さらに南に離れたラヨーンに港湾施設を移し、そことバンコクを道路でつなぎました。港の規模を大きくし、より大型船が発着できるにしたわけですが、典型的なスクラップ・アンド・ビルド方式の開発でした。

第1次~3次計画の目的は、GDPで測った経済成長でしたから、一番資金提供を受けたのは交通インフラ整備だったのです。タイの川はまるで網の目のようにつながって活用されていたのに、道路でどんどん埋められ、分断されました。この結果、川の水が十分に循環しなくなり、よどみ、汚れたのです。

97年の経済危機は、第7次計画が終わった時期でしたが、その後、製造業などの工場や企業はバンコク近郊に集中するようになりました。そこで働く人たちの年収は増えていきましたが、一方、低所得者層がそれ以上に増えていく。このため、現在の計画では、それまでの財政投資の偏重を改め、人的資源への投資、つまり人を育てることに重点を置いています。

また、計画の進め方も大きく変わってきています。かつては政府が全国をコントロールしていましたが、第7次計画になってから、政府ではなく各自治体が統治するようになり、税金も、それら自治体の自主財源として使えるようになりました。バンコク以外の地域を強化するという方針です。しかし、バンコクの成長は依然として続いています。

環境と調和した観光開発へ

ところでタイの人は、心の中で水を意識していて、タイ人と水や川は切っても切れない関係にあります。工場が立地し、チャオプラヤー川もだいぶ汚れていますが、水に思いがあるためか、実は「汚くなっても、まだ泳げるな」という感覚を持っているのです。ですから、遊びでも通勤でも、多くの場面で川を利用しています。船着き場は開放的で、村のセンターのようです。

――きれいな水、水上交通、陸上交通。地域プランナーとしての整備優先順位をどのようにつけますか?

どれも欲しいのですが、やはり道路を選びますね。ただ、舟が使える場所ならば、同時に川も整備したい。最近は川側の家に塀があります。昔では考えられません。運河が使えるならば、それもサポートしたい。このような方向の計画づくりが、私の仕事です。

例を挙げるならばトンブリー地区(バンコクのチャオプラヤー川西岸部)にあるコクレット島です。現在のコクレット島の主たる産業は、果物ファームと観光です。居住者は農園で収入を得ながら普通に生活し、同時に観光資源としての川からも利益を得ています。よい農園を維持するためには、水をきれいに保たなくてはいけない。さらに、果物が排ガスでダメージを受けないように、大型車が通るような道路の建設なども控えなくてはなりません。大きな橋をかける予定もありましたが、経済危機でとりやめになり、ほっとしています。

――そのような観光資源を重視した開発は、「テクノロジーと習慣のバランス」が重要であるという考え方と一致するものなのですか。

そうです。コクレットが観光化され人が集まると、情報も集まってきます。観光にかかわっていると、自然環境や昔からの暮らしかたが、いかに価値のあることかに気づかされます。そして、それらを大切にすることが、ひいては自分たちの利益につながることがわかってくるのです。このことは、観光資源を重視した開発がもたらした副産物とも言えるのでしょうが、これからのタイの進むべき道の一つでもあります。

最近は観光客が増え、コクレット島には何の関係もないビールバーなどを政府が開いていますが、このようなケースは感心しません。地域のことは地域の人に任せればよいのです。同じように、水のことも地域の人が判断して管理するべきでしょう。

タイの人たちはチャオプラヤー川を愛しています。タイの人たち自身のためにも、食糧産業の面で世界に貢献することためにも、川を大切にし、もっときれいにすべきでしょう。

チャオプラヤー川だけではなく、繋がっている運河も大切にしなければなりません。運河を整備し、川を復活させると人々が川に集まります。最初の目的は観光ではなくとも、あとから観光客がついてくる。経済も活性化する。そうすれば、運河のそばに住む人も、充実した生活を得ることになると思います。

現在のタイは経済再建の途中ですから、外貨獲得の必要性はよくわかります。しかし、お金のために地元の習慣をつぶしてしまうのはよくないことです。政府の役割は地域のアイデンティティを探し、プロモートすることです。両方できない場合は、せめてつぶさないようにして残すことも大事だと思うのですが。

バンコク市内のチャオプラヤー川。トンブリー側の水路の入り口にある水門は閘門。チャオプラヤ川の堤防は高いが、トンブリー内部は水位を低く押さえなければならない。

バンコク市内のチャオプラヤー川。トンブリー側の水路の入り口にある水門は閘門。チャオプラヤ川の堤防は高いが、トンブリー内部は水位を低く押さえなければならない。

バンコク市内のチャオプラヤー川。トンブリー側の水路の入り口にある水門は閘門。チャオプラヤ川の堤防は高いが、トンブリー内部は水位を低く押さえなければならない。



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