機関誌『水の文化』14号
京都の謎

カッパが語る「京の水」

みなさんが集まったのは京の造り酒屋の歴史を伝える「堀野記念館」の一室。

みなさんが集まったのは京の造り酒屋の歴史を伝える「堀野記念館」の一室。

『もっと知りたい!京都 水の都』

『もっと知りたい!京都 水の都』

『もっと知りたい!水の都京都』を著したカッパ研究会の方々に集まってもらい、外からはなかなかうかがい知れない「京都」の水ばなしをうかがいました。

カッパ研究会



大滝 裕一 さん

京都府土木建築部河川課
大滝 裕一さん

京都府生まれ。1990年以降、河川行政を担当。カッパ研究会の他、全国河川開発調査会会員、NPO由良川流域ネットワーク会員、川の日ワークショップ実行委員。



鈴木 康久さん

京都府農林水産部農村振興課
鈴木 康久さん

カッパ研究会事務局。京都府生まれ。著書に『これからのグリーン・ツーリズム』(分担執筆、家の光教会)がある。



フリーアナウンサー
星野 祐美子さん

神奈川県生まれ。静岡放送アナウンサーを経て関西でフリーとなる。ラジオ大阪で川のリポートを担当し、世界水フォーラムに公私ともに関わる。



平野 圭祐さん

毎日新聞社京都支局兼経済部
平野 圭祐さん

京都市生まれ。横浜支局をへて京都支局記者。現在は宗教、花街を担当。町家で暮らしながら、京都をテーマに取材や講演活動をしている。著書に『京都水ものがたり』(淡交社)がある。

――まずカッパ研究会について教えてください。

鈴木 第3回世界水フォーラム開催を契機として2001年9月に、活動開始しました。カッパ研究会といっても、カッパを研究するのではなく、京都の水について調べようという会で、仲間はざっと20数名です。

大滝 私の場合は、仕事で河川行政に十数年関わっていますが、いつのまにか川が好きになってしまいました。いろいろな川がありますが、一つとして同じ川はありません。そのような川や水の世界に惹かれ、鈴木さんの話にころっと乗ってしまいました。

平野 私はその年の12月に貴船神社(注1)で開かれたカッパの座談会を仕事で取材しに行ったのです。「水源の神を考える」というテーマで、講師は貴船神社宮司の高井和大さんでした。もともと私は水に関心が強かったものですから、そこで意気投合して入りました。入ると言っても、会則も会員証もないのですが。

星野 私はラジオで川をめぐる番組を持っていて、近畿の川でいろいろな活動をしている方から話をうかがっていました。「世界水フォーラム市民ネットワーク」が設立されたときに、仕事の興味も手伝って参加しました。この中にカッパ研究会の名前を見つけ、いい名前だなと思い活動内容を見ると「水と文化」について調べている。これは面白いと思い、入会させていただきました。

鈴木 「世界水フォーラム市民ネットワーク」というのは、京都の水関係活動団体のネットです。ODAやダムの是非をテーマにした団体、雨水利用を進めるなど、いろいろな人が入っていました。京都の水に関わっているグループはほとんど入っていたと思います。カッパの会もその一つとして参加していました。

(注1)貴船神社
賀茂川上流、貴船川の渓谷に鎮座している。水の神である「高おかみ神」を祀る。古代より水の神、旱魃を祈る神として信仰され、同じ性格をもつ大和の国の丹生川上神社(奈良県吉野郡)とともに、丹貴二社と呼ばれた。

京都の水文化は暮らしと直結している

星野 私は5年前に、結婚で東京からこちらに来たのですが、私のような元東京人にとって、京都の寺社が素晴らしいのは当たり前で、それは何度訪れても変わりません。ただそれ以上に、京都の暮らしに触れると観光名所に行かなくても、普通の人に教わることがたくさんあるんですね。
 以前、名水めぐりをしたときに、名水と呼ばれる井戸水をもつ松尾大社(注2)や梨木神社など、何人かの宮司さんにお話をうかがったことがあります。名水というとどこも同じような気がするものですが、一人一人の宮司さんにうかがうとまた違う。自分の水を守りたいという気持ちも強いですし、本当に大切にしておられる。自分達の生活につながっているもので、けっして観光のためにあるものではない。それは、観光客にはなかなか伝わらない話です。

――水が生活に密接に関わっていると感じられたということですね。具体的にどのようなことなのでしょうか。

平野 例えば、町家の打ち水があります。間口が狭く真ん中に坪庭がある町家では、表か裏に打ち水を撒くと温度差が生じて空気が動き、風が起きるのです。私の家は表と裏の両側が道に面しているので両方の窓を開けただけでも風が通りますが、水を撒くことで一層涼しい風が入ってきます。夏でも、ほとんどクーラーは使いません。水の力を借りて自然のクーラーのように涼しくすごせます。
水を撒くと雰囲気だけでも涼しいですし。これも知恵ですね。今は電気ポンプで汲み上げていますが、井戸もあります。井戸水は食生活ともかかわりが強いですし、父親が染め物職人だったので、仕事にも直結していました。すべて地下水のおかげで暮らせているというのが、昔からの実感です。
ただ私にとってはそれが当たり前で、あまり有り難みも感じていませんでした。しかし、就職した初任地が横浜で、離れてみて初めて京都の水の有り難みがわかりました。

――「水の知恵が重層的に織りなされてきた文化を育んできたのが京都」と書かれていますが、なぜ京都では水の文化が育てられてきたのでしょうか。

鈴木 町衆(注3)の存在は大きいでしょう。江戸時代の町の地図を見ますと、区画ごとに門があり、夜は入れないようになっています。その中では、家の戸を開けていても大丈夫。道路も狭かったので安心して暮らすことができたはずです。そうした町衆の密接な関係が、水に関する文化も育んできたのだと思います。

大滝 江戸時代には鴨川に土砂が溜まり、困っていました。本来なら役所で処理するところですが、役所に頼っても仕方がないということで、町衆ごとに隊を作り、土砂の浚渫(しゅんせつ)をしています。みんなが砂を持ち、何万人も総出で、お祭りのようになって土砂浚渫を行っている絵が残っています。それを見ると、旗を振って、みんな楽しそうです。やはり、町の人は役所には頼らないという面が強かったのではないでしょうか。

平野 京都では小学校も町の人が作っていますし(注4)、そういう町衆のエネルギーは強かったと思います。特徴的なのは地蔵盆(注5)で、町内では大人も子供も集まります。町衆の力は昔ほどではないにせよ、いまだに残っています。

鈴木 そういう意味では川に関する地域団体も多いですよ。京都市内には30以上あると思います。川ごとに団体が1つあるようなものです。

(注2)松尾大社
酒の神を祀っており名水「亀の井」がある。酒造りにこの水を加えると失敗しないといわれ、秋に行われる酒造祈願祭に集まる全国各地の酒造業者がこの水を持ち帰るという。

(注3)町衆
応仁の乱以降、商工業者・手工業者が中心に地域的団結組織として町ができ、そこに住む人々を町衆と呼びならわした。町は道路を挟んで形成された近隣組織。この町が集まって結成された自治組織が町組となる。室町期には上京、下京ともに各5つであった町組も、17世紀には上京12組、下京8組に増えた。この他にも、御所西辺に位置しながら上京町組に属さない禁裏六丁町、下京の町組に属さない東本願寺・西本願寺の両寺内町組がある。町組の運営は、10名の総代が担当した。総代には経済力をもつ酒屋や土倉などの有力町衆が就任した。ちなみに土倉とは現在でいう金融業者・財産管理業者で、京都の場合は山門(延暦寺)や祇園社などの有力寺社を顧客にしていたという。

(注4)京都の小学校
1869年(明治2)、それまでの町組が解体、再編され、上京33、下京32の新しい町組が成立し、行政基盤となった。これが町組改正で、このときにできた町組が現在の小学校学区の元型となっている。京都府はこの新しい各町組ごとに、町組合所兼小学校を建設した。これを一般に番組小学校と呼ぶ。小学校は単に教育機関であるだけでなく、町会所であり、府の出先機関でもあり、警察、交番や防火楼を設置した。さらに、塵芥処理、保健所の仕事も担った。これらの経費一切は町組が負担した。このように、学区が独自の財源をもつ仕組みは、1941年(昭和16)の国民学校令で廃止されるまで続いた。

(注5)地蔵盆
京都を中心とする近畿地方で8月24、25日に子供によって行われている地蔵をまつる行事。

暴れ川、鴨川

大滝 昔から鴨川(注6)は暴れ川で、824年(天長元年)には防鴨河使(ぼうかし)という鴨川治水の役職が設置されています。白河法皇が洪水を起こす鴨川のことを嘆いた話は有名ですね。昔は護岸がなかったので、川幅は広く、常に為政者は川に気を使っていました。 
  ちなみに、2000年の東海豪雨と同じ雨が鴨川で降るとどうなるか。シミュレーションした図面を見ますと、鴨川西側の二条城や、桂川との合流点の辺りまで水に浸かることがわかります。こうした災害時の危機管理を、役所だけではなく地域住民とあらかじめ話し合っておく必要性を感じます。

鈴木 豊臣秀吉が寺を集めて寺町を作ったのは、鴨川から町を守る目的であったという説もあります。

大滝 江戸時代の鴨川は幅が広く、少なくとも現在の高瀬川は鴨川の一部でした。河原町通がありますが、河原町は文字通り河原。河原町通と高瀬川の間に岬神社がありますが、そこは岬のような地形ということで、その附近は河原だったのでしょう。おそらく現在は江戸時代に比べ川幅は半分程の狭さになっていると思います。先斗町も全部埋め立てでできた町ですし。

平野 今は、川幅は狭く、その代わり、川底は倍くらい深くして、できるだけ早く流してしまおうという考え方になっています。地下に伏流水が流れていて、表面は水がちょろちょろとしか流れていなかったことが古地図を見るとわかります。

鈴木 江戸時代に「井戸で使った水を川に流すように」というお触れが出ています。川の水量が減ったためか、川のゴミを流すためかもしれません。

大滝 特に出町柳から上流の賀茂川は、明治時代の地図を見ても水の流れは見られないですね。ということは、ほとんど伏流水だったということです。1935年(昭和10)に大洪水が起こったときに川底を倍近い深さにしたので、常に水が流れるようになりました。

平野 川床で食事をして涼をとり暮らしを楽しむという、京都独特の床(注7)の文化があります。これは、室町時代あたりから始まっているのですが、最初は鴨川の中洲に床几(しょうぎ)の床を置いていました。江戸時代前期(1670年)になると高床式の川床が現れ、床几形式と併存します。明治27年に鴨川の東側を流れる琵琶湖疏水、「鴨川運河」の完成とともに、当時東側にもあった高床の川床は姿を消します。大正時代に鴨川の河川改修が行われ、中洲が取り除かれて流れが速くなったため、床几形式の床は禁止になりました。同時に、鴨川右岸に高水敷(こうすいじき)(河川と堤防の間にある平らな部分)を造る計画が持ち上がると飲食店が床の出店ができなくなるから困ると京都府に陳情。その結果、高水敷に人工水路の「みそそぎ川」が開削され、その上に床が出され、現在の形態になりました。現在では、その「みそそぎ川」が納涼床の底に流れています。鴨川そのものが「みそぎ」をする川で、天皇が禊ぎをする場所が7カ所ありました。想像ですが、たぶんそこから名前をとってみそそぎ川としたのでしょう。人工水路のみそそぎ川も、元は鴨川と言っていたのです。

大滝 鴨川を含め京都を流れる川は、地形上南北に傾斜がありますから、用水として横に回しやすいという盆地ならではのメリットがあります。これが平地なら回せないですよ。鴨川はおそらく政令指定都市の川の中で一番勾配が急だと思います。平均して、400m行って、1m下がるくらいですからね。東寺の塔と北山通の高さが同じくらいですから、相当な勾配です。他の都市は河口に立地していますから、流れはもっと緩いですよ。したがって京都は昔から洪水が厳しい。水は回しやすいが、リスクも高いのです。

平野 自転車で走ると、勾配があることがよくわかりますよ。

(注6)鴨川
京都の市街地を南北に貫流し「賀茂川」「加茂川」とも書く。過去、しばしば洪水をおこし、院政をはじめた白河法皇さえ、「賀茂河の水・双六の賽・山法師、是ぞわが心にかなぬもの」(平家物語)と天下三不如意の第1に鴨川を挙げた。

(注7)床
川床のこと。京都では「ゆか」と呼ぶ。

鴨川縦断図

鴨川縦断図

誇りたい水の文化

――京都人として誇りたい水の文化を挙げていただけますか。

大滝 やはり風光明媚を表す「山紫水明」という言葉が生まれたのが鴨川であることは誇りたいですね。最初、中国の言葉かと思っていたのですが、頼山陽(注8)が鴨川を見てつくった言葉と知り感動しました。

鈴木 私は、貴船神社や神泉苑(注9)に代表されるように、水の神様の中心が京都にあるということです。私は水に関しては、京都の特性は3つあると思うのです。第1は水の政(まつりごと)が行われていたこと。水の神様が京都にいて、日本の水の神様の中心であった。雨乞いも朝廷が京都で行っていた。日照りになったとき、天皇や貴族の荘園に雨をもたらさないといけない。その政が天皇の仕事だったわけで、貴船神社や神泉苑は重要な場所だった。第2は、水を中心に考えた都市計画があったということ。第3には、豊かな水が生み出す食文化、お酒、豆腐・・・。素晴らしい所です。

星野 私は東京から来てまだ5年で、京都人と言って良いのかどうか。3代住んでようやく京都人と言えるという・・・。

平野 大丈夫。構いませんよ。京都に住んでいるという誇りがある方は、皆京都人です。

星野 お豆腐とか、麩とか、お酒とか、京都の食べ物がおいしいということは、東京でも知っていたのですが、なぜおいしいのかは考えたことがなかった。それはやはり、地下水が理由で、しかもいまだに続いているということがすごいと思います。町中にたくさん豆腐屋さんがありますが、「地下水が出なくなったのでやめます」と言うくらい、皆さん地下水を大事にしています。それって、私は東京でスーパーのお豆腐しか買っていなかったので考えてもみなかったことで、カルチャーショックに近いものがありました。水の文化が昔から生活の中にあり、今も守られている。それを、誇りたいですね。いまだに、ラッパ吹いてリヤカー引いて売りにきますものね。

平野 井戸水は水温が一定ですからね。17度くらいで、夏だと冷たく感じ、冬だと暖かく感じます。僕も、暑い夏場は水浴びし、冬は顔を洗うのに暖かい井戸水を使う習慣があります。京都に井戸は欠かせません。

星野 東京にいるときは地下水で作っているということを知らずに、京都の水は琵琶湖の水のはずなのに、なんで豆腐や湯葉はおいしいのだろうと思っていました。

平野 一時、京都の水がまずくなったと言われたことがありましたが、それは地下水ではなく水道水のことだったのです。今は改善されたようです。しかし、私は基本的に水道水は飲みません。きちんと検査をして飲んでも大丈夫なのですが、井戸水を一旦沸騰させて飲んでいます。

鈴木 昔は、瓶(かめ)に水を一旦溜めて、それを飲んでいました。上賀茂神社の社家(しゃけ)(注10)のお宅でうかがったのですが、瓶(かめ)に入れておくと冷たいままなので、水は悪くなりにくいということでした。

――ペットボトルの水を買って飲んだことはありますか?

平野 取材で外国に行ったときなどを除くとありません。水を買って飲むという感覚に抵抗があります。

――カッパの会で編集した『もっと知りたい!水の都京都』は充実した内容でしたね。

平野 京都の観光ガイドは多数出版されていますが、それとは角度を変え、「京都を水から見たらどうなるか」という提案を書いてみたのです。
 僕は生まれも育ちも京都で、家の近くには鴨川があり、琵琶湖疏水(注11)も流れています。家には井戸があり、父親が染め物(注12)をしていたという環境に育ったので、井戸水を使うのは当たり前でした。小さいころから川遊びといえば鴨川でしたし、源流を辿ったり、床にも行っていました。子供時代の原風景として鴨川があったのです。だからかどうかはわかりませんが、水を見ると、昔から辿りたくなるんです。習性ですね。好きなんですよ、水が。例えば、今は下水道になっている西洞院(にしのとういん)川(注13)という平安京からの川があり、取材の仕事で訪れた際にその暗渠の下にも潜って写真を撮らせてもらいました。

大滝 そこまでする記者はいませんね。

平野 そこは合流式下水道なので、汚水と雨水の両方が流れていて大変でした。長靴をはいていましたが、流されたら一巻・・の終わり。明治時代は下水道を造るのが大変だったので、西洞院川に蓋をして下水にしたのです。

大滝 客観的なデータはないのですが、確実に川や水の面積は減ってきています。この本の中では、今後再び水辺を増やそうという期待もこめて、特に失われた川にも焦点を当てています。

――ゴミを流すのに十分な流速を得るために川を埋めた、とか、失われた理由や元の川の復元図等をきちんと調べていますね。

平野 大滝さんも私も、もう一度復活させたいという思いは同じですからね。

(注8)頼山陽(1780〜1832年)
江戸時代の漢学者で幕末の志士に影響を与えた歴史書「日本外史」を著す。1822年から10年間、現在の丸太町橋上流に居を構え、書斎を「山紫水明処」と名付けた。現在も当時の居が残されている。

(注9)神泉苑
平安京が造られたときに、大内裏の南東に造られた広大な苑池。総面積約13万平米。799年(延暦18)、桓武天皇の行幸を最初に、歴代天皇の行幸の場となり、詩歌管弦、はやぶさを放って水鳥を捕らえる遊漁、舟遊びなどが行われた。また、雨乞いの場としても用いられた。また、京で初めて公に御霊会(政治的に非業の死を遂げ怨霊となった霊を鎮める祭)が行われた場所でもある。現在もその一部が二条城の南に残っている。

(注10)社家
特定の神社に世襲的に奉仕する神職の家。

(注11)琵琶湖疏水
都市機能の再生のために、明治前期に造られた琵琶湖と京都を結ぶ水路。第1期工事は1885年(明治18)起工、1890年(明治23)に完成した。計画時の目的は第1に水運で、北陸から琵琶湖上を運んだ物資を大津で牛車に積み替えずに運ぶこと。第2は灌漑、第3は動力源確保で、第4は飲料水確保だった。指揮を執ったのは東大工学部の前身である工部大学校を出たばかりの田辺朔郎(1861〜1944年)で、日本人だけで行われた。疏水開通により蹴上発電所が設けられ市内の電化が進み、1895年(明治28)には市電が走るようになった。一方、高瀬川曳舟人足の失業や南禅寺付近の掘削工事による井水枯渇などの問題も発生した。

(注12)染め物
京都で染め物というと友禅染。江戸時代中期に宮崎友禅により完成された。製作工程は、絹に青花で下絵を描き、でんぷん糊で下絵に沿って細線を置き、乾いたら豆汁(ごじる)を生地に引き、糊で仕切られた各文様部分に染料を挿す。これを蒸し色を留め、文様部分に糊伏せし、さらにもう一度蒸し、水洗いして余分な染料と糊を取るというもの。これらを各工房で分業していた。使うのは井戸水。温度と、金気(かなけ)つまり鉄分が出来を左右するという。京友禅は、京都の地下水だからこそ生まれたものでもある。

(注13)西洞院川
西洞院通に流れていたが1904年(明治37)に暗渠となり、消滅した。もとは鴨川を水源としていたが、室町時代までには一旦消滅。その後、戦国時代から江戸時代初期にかけ、堀川から取水し再び姿を現した。

みなさんが集まったのは京の造り酒屋の歴史を伝える「堀野記念館」の一室。

みなさんが集まったのは京の造り酒屋の歴史を伝える「堀野記念館」の一室。

おいしいから名水というわけではない

――名水は文化の多様性が生み出したと書かれていますね。

鈴木 名水というと味を連想しがちですが、名水をおいしいか、まずいかで論じるのではないと思っています。名水というのは「名のある水」、物語のある水ということ。物語というのはいろいろな「謂われ」のことです。例えば「深草少将の水」は、小野小町に通い続けた貴人が亡くなられた所にある井戸です。室町時代にはお茶の七名水もありますし、江戸時代に入ると、「京羽二重(きょうはぶたえ)」という観光ガイドブックに約20の名水が載っています。また、刀鍛冶に使われた吉水(よしみず)という名水もあります。京都に名水が多いというのは、いろいろな水の「使われ方」が存在し、「謂われ」がたくさんあるということの証しです。時代、時代に応じて、物語があり、それが名水を生み出しています。

平野 「柳(やない)の水」というのがありますが、これは千利休が使っていました。井戸に直射日光が当たると水によくないというので、近くに柳を植えた。それで「柳の井戸」と名がついたそうです。

鈴木 宗教的なものもありますね。例えば「独鈷水(どっこすい)」。弘法大師が独鈷(注14)で地面を打ったら、湧き水が出てきたとか。伏見にある「御香水(ごこうすい)」は有名で、名水百選にも入っています。かぐわしい香りの水が湧き、それを飲むと病気が治ると言われてきました。

大滝 醍醐味という言葉の元になっている醍醐の水、あれも香り系ですね。

鈴木 京の町中で遺跡を発掘すると、3〜4m程度の深さに、平安時代から江戸時代までの井戸がいっぱい出てきます。それらの井戸水は基本的には皆同じ味だと思います。その中である水は名水と言われ、ある水では言われない。物語というのは、そういうものです。

大滝 NHKスペシャルの『アジア古都物語京都千年の水脈』で、琵琶湖と同じくらいの地下水盆が京都の下にあるという話が、大変有名になりましたが、実は同じ地下水でも浅いところは縦に流れていたりいろいろです。名水の流れとしては、「梅の井」系の流れと、「染の井」系の流れと「千本通」の流れの3系統があると言われています。このルートの上では、今でも浅いところで水が出る井戸が残っています。

平野 御池通りの南側の井戸を飲み比べてみたことがあったんですけど、深さによって味が違います。

鈴木 浅いと硬度が低く、味が柔らかい。京都はだいたい30万人の人口を維持してきた町だと言われています。京都はその30万人が、最高のものを天皇や公家に対して供給してきました。町の名前も麩屋町、竹屋町、指物町など、ほとんど商工業や工芸に関する名前です。そのような技術を競い合ってきた結果、例えば京都のお酒なら硬度が低い水がいいとか、染め物なら鉄分が少ないほうがいいとか、利用する用途に応じた求められる水が多様であったため、おいしい水と呼ばれる伝統ができ上がってきたのではないでしょうか。食材に関しても最高のものにこだわっていったことが、文化を育んできたと思うのです。

(注14)独鈷
密教で使う棒状の法具

疏水と運河

大滝 人口が爆発的に増えたのは、琵琶湖疏水ができてからですか。

平野 人口増加については、疏水の影響が大きかったのではないかな。琵琶湖疏水ができた結果、産業活動も活発となり、人口が増加したのです。

鈴木 江戸末期、確かに地下水が汚染されており、誰もが飲める状況ではなかったので、琵琶湖疏水がなかったら現在の京都はできていなかったというのは間違いない。京都の近代化の礎を、疏水が築いたと言っても過言ではありません。

平野 水道水を供給しているのが琵琶湖疏水ですからね。現在、安定的に供給している水源で京都市として考えているのは琵琶湖疏水だけです。東京ができて京都が沈滞したというので、琵琶湖疏水の水を使って日本で初めての発電所を造り京都の活気を取り戻したということで、明治時代のプロジェクトは意味があります。今でも京都では渇水はありませんから、もちろん水道供給の意義も大きいですね。第1疏水、第2疏水は明治にでき上がっています。第2疏水は主に水道用で、余計な物が入らないように、ほとんどトンネルになっています。

平野 西陣織が機械化するなど、発電で当時の暮らしも変わりました。

大滝 水フォーラムで映していた田辺朔郎(たなべさくろう)の疏水物語の映画によれば、あの水を南禅寺付近から引っぱり、水車をたくさん回し、産業団地を造るという構想もあったようですね。

平野 もとは灌漑に使うということだったようですが、他にもいろいろなアイデアがあったみたいですね。また南禅寺の庭は、庭師の小川治兵衛がすべて疏水の水を使って造っています。疏水がなければ、今の南禅寺界隈の風景もないわけです。今は流れていませんが、もともと御所に水を供給していた御所水道も琵琶湖の水ですし、東本願寺の水も疏水の水が地下をくぐってきていますから、京の町に琵琶湖疏水は欠かせません。

大滝 京都では、時代ごとに常に新しい運河が掘られ続けてきています。平安時代は縦(南北)にたくさん掘りました。江戸時代は横(東西)に西高瀬川とか、縦に高瀬川とか、そして明治時代には疏水。その時代、時代の目的で、掘りまくっている。

――堀りまくりながら、埋めまくってもいるわけですね。

大滝 ええ。逆に言えば時代背景に合わせて、うまく適応しているといっていいのでしょうね。時代ごとに新しい方法で水の利用法を生み出しているということは、すごいことだと思います。

鈴木 各時代に、水をうまく活用する試みがなされているのは、水の恩恵をよく理解していた人たちが住んでいた都市だからと思います。

大滝 角倉了以も、最初は鴨川を運河として利用するため掘りましたが、すぐ埋まってしまい失敗しています。「失敗したな」と思うと、今度は鴨川の一部を利用して、高瀬川を造りました。

鈴木 きっと高瀬川のような運河を造れば、その利用価値が高いということを知っていたのでしょう。琵琶湖疏水も同様です。

平野 今まで過去の歴史を振り返る機会がなかったと思うのですが、私たちのこうした活動が、みんなの考えるきっかけになればいいかなと思っています。「堀川について知りたいんですが」という電話もかかってきます。「そんなに歴史があるなら調べてみようか」と意識が呼び起こされるようです。

大滝 そうして、愛着を持つ人が増えてきたら、自然と川もよくなりますしね。

平野 水辺への関心が増えてくれば、水辺も増えてくるでしょう。それが、新しい京都の水の歴史にもつながっていくと思います。

――今日は、長時間ありがとうございました。これからもカッパの遺伝子を全国に伝えていただきたいと思います。

南禅寺の奥、琵琶湖疏水を流す橋脚

南禅寺の奥、琵琶湖疏水を流す橋脚



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