プログラムが終わると、目指した人のもとへまっしぐら。数人の子ども特派員と通訳をしてくれるサポーターの迫力あるインタビュー風景に、大人の記者もつい輪に混じって聞き耳を立ててしまう。アメリカの農夫のリアルな話から、子ども特派員は敏感にからだ言葉を感じとっていく。
8日間に渡り国内外2万名以上の参加者が意見を戦わせた、第3回世界水フォーラム。その会場では、青と白のジャンパーを着て首からプレスカードを下げた子どもたちが取材に走っていました。彼らは「水っ子新聞」の子供特派員。会期中に4回発行された、日英2カ国語新聞の記者たちでした。 専門家と呼ばれる大人たちに物怖じもせずにコメントを取る姿。子供たちによる新聞づくりも、ちょっと工夫すると、日頃意識しない社会の約束事を楽習する格好のプログラムになるのかもしれません。
編集部
18世紀に生きたイギリス、スコットランドの哲学者デビッド・ヒュームは、コンベンションという言葉に特別な意味を持たせた。大ざっぱに言えば、人々が約束を交わすのに前提としている、社会で周知された共通の問題関心や考え方、という意味を特に強調したのである。この一見古めかしい哲学者の考え方は、コミュニティづくりに携わる人々の間で、現在関心が高まっている。
国際会議を、英語ではコンベンション(convention)と呼ぶ。英和辞典を見ると、1代表者大会・その参加者、2協定・協約、3世間のしきたりや慣習、というおおよそ3つの意味が載せられているはずだ。最近では、プロ野球のドラフト会議のことを「プロ野球コンベンション」と称して開催しているので、聞き覚えのある人もいるかもしれない。
コンベンションとは「共同体の意見を出し合い、ものごとを決める場」であり、人々との約束であり、それを守る人々でもある。この「共同体の意見を出し合い、ものごとを決める場」がないと、みんなが個々の知恵や歴史的蓄積を出しても約束は守られないかもしれないし、社会に認知されていかない。
世界水フォーラムのような国際会議は、共同体の知恵や歴史的蓄積を集め合意して約束するという側面と、それを社会の共通認識に変えていくという二つの側面を持つ、まさに「コンベンション」の典型であろう。
子ども特派員による国際会議の取材~新聞発行は、共同体の知恵や歴史的蓄積が、広く一般に認知されるための橋渡しを実現した例として取り上げた。
左から日本語版編集長を務めた葛西映吏子さん、世界子ども水フォーラム副代表の塚本明正さん、同じく事務局長の小丸和恵さん。このほかにも多くの協力者が「未来の大人」たちのために集まった。
子ども特派員全員が、公式のプレスカードを着用しての取材となった。子ども特派員が大人の記者と肩を並べて取材できるよう主催者側が配慮したのは、ほかに類を見ないのではないか。
今回は、日本語版編集長を務めた葛西映吏子さん、世界子ども水フォーラム副代表の塚本明正さん、世界子ども水フォーラム事務局長の小丸和恵さんにお話をうかがった。
取り組みを簡単に紹介すると、水フォーラム8日間の会期中に4回発行され、子ども特派員により取材、制作された新聞が「水っ子新聞」である。読者は、会場の大人たち。日本では年間数千件のレベルで国際会議が開かれているが、おそらく、このような取り組みは初めてのことではないだろうか。
実物を手にしてみると、新聞はA3の白黒印刷1枚。これなら、デジタルカメラやパソコンを使い、学校にあるような印刷機でも作れそうだ。ただし、国際会議参加者に読んでもらうため、表は日本語、裏は英語となっている。会期中の発行日は3月16、18、20、22日とある。つまり、取材、原稿作成、構成、翻訳、印刷の作業をほぼ1日半ですませていることになる。
子ども特派員は総勢30名。7歳から14歳(当時)の男女小中学生だ。
この試みをサポートしたのは世界子ども水フォーラム京都の事務局のみなさん。代表を務めた嘉田由紀子さんは、「子どもは必ずしも教育される存在ではない」と言う。ただ、ここで急いで付け加えなくてはならないのが、この「子ども」という言葉の意味。実は私たちが普通に使っている小中学生を指す「子ども」という意味ではない。サポーターの大人たちは、「数年後には大人になる小さい大人」という意味で使っている。
「川とまちのフォーラム・京都」世話人代表も務める塚本さんは、「流域のことを考えるのに、子どもたちの意見を聞かなくては始まりません。子どもたちの意見は10年後の大人の意見ですから。子どもと大人の相互作用が大事なんです。ですから、環境教育という言葉はやめよう、ということになりました」と語ってくれた。
そうは言っても、一見すると、別に特別なことはしていないように見える。以下は、このプログラムの活動記録である。
▼もしも蛇口が止まったら? 南西部アフリカのマラウィ共和国のお話・水のことを考えてみよう
▼いきいきライブペインティング 加藤登紀子さんが子どもたち用につくってくれた水と生き物のうた、「生きている琵琶湖」を聞きながら巨大アートに挑戦
▼ぴかぴかどろだんご作りと土と水のお話 どろだんごを作って土と水の関係を知ろう
▼新聞講座 新聞記者さんから取材の仕方を伝授してもらおう
▼京都の「いいもの」見に行こう! 京都の老舗麩屋店「麩嘉」に取材
▼琵琶湖博物館へ行こう 自分なりのテーマをもって博物館を取材
▼子ども新聞社会議 伝わりやすい記事ってどんなだろう?書いてきた記事の編集・添削
▼本能寺跡地古井戸取材 跡地を見学して昔の人の水とくらしを知る
▼子ども新聞社会議 車座会議に向けての取材計画
▼水を学ぼう子ども車座会議 参加団体の人たちに取材
▼子ども新聞社会議 水フォーラム本番に向けての取材計画
▼本番の取材
▼本番終了後、子ども特派員同士で、感じたことを話し合う座談会
▼関係者全員が集まり、子ども特派員が感じたことを発表し、意見を交換しあう報告会
興味深いのは、このプログラムが単なる「水フォーラムの記者体験」ではない、ということだ。むしろ、記者体験をきっかけにして、水について感じたり、水をめぐる大人たちの知恵や約束事に触れる場をつくることに意味がある。そして、子どもたちがその場に身を置いて何を感じたか、この体験から何を受け取り何を捨てたか、何を継承していこうと思ったのか、そこまでの過程が丸ごと体験できる仕組みになっている。まさに、水についての知恵や蓄積が、周知になっていく過程のまるごと体験である。
キーポイントは、まず、身の回りの出来事を素直に感じ取るために、「もしも蛇口が止まったらどうなるか想像する」とか「泥団子を作って、土と水の関係を体で感じてみる」といった体験をとおして、自分の感覚を磨くことから始めている点だろう。
この後、実際に新聞記者のみなさんに講師になってもらい、取材の方法、記事の書き方について教えてもらったそうだ。講師となったある記者は「『なんで?』を探して、『へぇー』が多ければ、その出来事は一面に載ることが多い」と体験談を話したそうだ。サポーターの方々はいろいろなご苦労があったと思われるが、身の回りの取材から始めれば、別に特別に準備が大変ということはなかったそうだ。
さて、いよいよ本番。取材する のは、これまでトレーニングしたような遺跡や博物館のような出来事ではない。特派員は国際会議で交わされた大人たちの意見を聞き、これはと思った発表者には素早くインタビューに行き、自分がおもしろいと感じたことを記事にする。
実際の新聞記事はホームページにアップされているので、そちらをご覧いただくこととして、ここでは会期終了後の3月23日に行われた特派員座談会の中で、特派員と葛西編集長、スタッフの山下さんとの間で交わされた議論を紹介する。
この新聞の発行世話人である嘉田由紀子さんは「あたま言葉、からだ言葉」という言い回しで、二つの異なる知識のありようを表現する。あたま言葉は、体験なしで考えた抽象的な難しい言葉。抽象的だからどんな場合でもわかった気になる。逆に、からだ言葉は体験に根ざした身近な瑞々しい言葉。とかく、大人は頭でっかちで、あたま言葉を使いがちである。今回のプログラムでは、新聞を作るという体験をとおして、子どもたちがあたま言葉にからだ言葉をぶつけていく環境をつくろうというもの。
あたま言葉、からだ言葉のどちらが大事か、というのではない。国際会議場には、あたま言葉が飛び交っている。それを子ども特派員は、あたま言葉とからだ言葉の両方を使って取材する。この経験は、自分たちが腹の底から納得する意見を述べるための「こころ言葉」を体得する訓練の場となったのではないか。そういう意味からすると、あたま言葉もからだ言葉も、両方とも必要なのである。
さて、水っ子新聞の例は、何も大きな国際会議に限った話ではない。現在、日本中の地域の河川、地下水、雨水、海、実に多くの水辺で、さまざまな団体が活動を行っている。それらの活動の中で、共同体の知恵や蓄積をこころ言葉に直して、広く一般社会の周知に翻訳していく働きは、子どもこそが大きな鍵を握っているのではないだろうか。
今回活躍した子ども特派員は、今後、どのように水に関心を向けていくのだろうか。6月1日の報告会で発言した特派員、徳永莉紗さんの言葉を紹介して終わりたい。「水フォーラムは全体をとおして、水が豊かな国と貧しい国で論点が分かれていた。
アフリカは、生きるために、疾病にかからないために、水をどう使うか。水が豊かな国、例えば、アメリカやオランダでは、舟を使うことでCo2がどう変わるかとか、洪水を防ぐとか、より快適な暮らしを得ることが論点だった。
この2つが交わって、水の乏しい国と水の豊かな国の間でやりとりがあると、互いに得るものがあるのではないか」
この子どもたちが大人になったとき、こころ言葉で語った水についての問題意識、感想は、社会の周知の考え方になっていくに違いない。