機関誌『水の文化』14号
京都の謎

《京都の水》

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん

1967(昭和42)年西南学院大学卒業、水資源開発公団に入社。 勤務のかたわら30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。 2001年退職し現在、日本河川開発調査会、筑後川水問題研究会に所属。

「やがて山紫水明という言葉が感覚的にぴったりするようになる頃に平安京という都がこの盆地に出現した。今から千二百年ほどの前のことである。建設の指令者である桓武天皇は自分の理想とする土地を発見してさぞ満足をおぼえたことだろう。山容の美はさりながら大勢の人間を養うだけの水が豊富にあったからである」と、田中阿里子は浅野喜市写真集『四季京の川』(京都書院、1987年)に書きとめている。

京都は北東に鴨川、東に白川、西に桂川が流れ、やがて淀川に合流する。中央部には無尽蔵ともいわれる地下水が存し、至る所で名水が湧き出す。さらには明治23年、第一次琵琶湖疏水、明治45年、第二次琵琶湖疏水の通水がなされた。これらの水が京都の人々と文化と生活を支えてきている。

2003年3月20日、第3回世界水フォーラム京都国際会館の会場で、私はケニアの人から「ジャパン・グレイト・ネーション、ビューティフル・キョウト」と話しかけられた。春の陽ざしを受けて京都は瑞々しく輝いていた。ケニアの人を魅了する京都の水景美について、橋本健次・写真、川端洋之・文『京都水景色』、水野克比古・写真『京都雨景』、横山健蔵・写真『京都鴨川』の写真集が1997年に光村推古書院から出版されている。

『京都水景色』

『京都水景色』



名水については、京都新聞出版センター編・発行『名水を訪ねて京都・滋賀・健康ウォーク』(2001年)がわかりやすい。染井(梨木神社)、桐原水(宇治上神社)等の名水を散策できるようになっている。

駒敏郎著『京洛名水めぐり』(本阿弥書店、1993年)では、北野天満宮の太閤井戸、御神用水、三斎井戸をはじめ江戸時代の文献が丹念に考証されており、巻末には江戸時代の名水一覧も掲げられている。

京都に多くの名水が湧き出る所以は、豊富な地下水盆地が存在するからである。この水盆を科学的に検証したのが、NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『京都千年の水脈』(日本放送出版協会、2002年)である。その中で、関西大学工学部楠見晴重教授は「京都盆地の地下の砂礫層に存在する地下水の量を211億トン、琵琶湖の貯水量である約275億トンに匹敵する数値である」と解析されていることには驚く。

京都の地下水は「金気」が少ないため、この豊富な水が多種多様な水の文化を育んできた。京都新聞社編・発行『京都いのちの水』(1983年)、平野圭祐著『京都水ものがたり』(淡交社、2003年)、鈴木康久・大滝裕一・平野圭祐編著『もっと知りたい!水の都京都』(人文書院、2003年)には、納涼床、友禅染、生麩、湯葉、豆腐、京野菜、茶の湯が取り上げられ、さらには水の神を祀る貴船神社、空海にまつわる雨乞い伝承、そして京の街づくりに今出川や堀川の人工河川が果たしてきた役割の変遷についても論じられている。

「川はそれによって生きるわれわれ人間にとっていのちである。運命である。文化である」と書き始める岡部伊都子・文、木村恵一・写真『京の川』(講談社、1976年)は鴨川、高野川、大堰川、清滝川、山科川等を秘やかに訪ね歩いた名随筆である。

森谷尅久、山田光二著『京の川』(角川書店、1980年)は、京文化の源である鴨川、王朝詩文の舞台桂川、桜の仁和寺、芸能の里御室川(おむろがわ)、高僧たちの精神を伝える清滝川、京都復興の礎である疏水を歴史的に捉えている。

『京都千年の水脈』『京の川』

『京都千年の水脈』
『京の川』



吉井勇は「かにかくに祇園は恋し寝ぬるときも枕の下を水ながるる」と詠んでいるが、河野仁昭著『京の川』(白川書院、2000年)では、水上勉『京都暮色』(桂川)、川端康成『古都』(清滝川)、夏目漱石『虞美人草』(高野川)等の小説を引用しながら、京の川は文学を生み出すと評している。

琵琶湖疏水を建設した土木工学者・田辺朔郎の活躍を文学的に描いたものに、山田正三著『いのちの川』(白川書院、1974年)、田村喜子著『京都インクライン物語』(新潮社、1982年)、村瀬仁市編著『京の水』(人と文化社、1987年)、織田直文著『琵琶湖疏水』(かもがわ出版、1995年)がある。

小谷正治著『保津川下り船頭夜話』(文理閣、1984年)は、筏師から船頭に変わった人たちの川根性を聞き出しており、面白い。

『琵琶湖疏水』『保津川下り船頭夜話』

『琵琶湖疏水』
『保津川下り船頭夜話』



毎日新聞社編・発行『鴨川』(1959年)では、鴨川を洪水の川、合戦の川、芸能の川、演劇の川、文学の川、祭礼の川、売春の川、産業の川であると位置づけている。「鴨川ほど歴史の生身である血と情と人の世の悲しみ、よろこびを吸った川はないだろう」と結んでいる。鴨川のつけかえ説については、横山卓雄著『平安遷都と鴨川つけかえ』(法政出版、1988年)、荒川まさお著『鴨川の謎を追って』(文芸社、2001年)の書がある。

1988年、京都府は鴨川源流部雲ヶ畑地区に治水ダム最大貯水量1500万トンの鴨川ダムの建設計画を発表した。田中真澄著『ダムと和尚』(北斗出版、1992年)は、このダム計画を鴨川の清流と水質を守るために撤回させた記録である。また、1995年、京都市はシラク・フランス大統領の申し出を受けて、フランス様式のポン・デ・ザール橋を鴨川に架ける計画を提案した。木村万平著『鴨川の景観は守られた』(かもがわ出版、1999年)は、京都の伝統にこの橋は似合わないと、撤回させた市民運動の記録である。

ポン・デ・ザール架橋問題を契機として、鴨川の橋を知ってもらうために、門脇禎二、朝尾直弘編著『京の鴨川と橋』(思文閣、2001年)が出版され、そのあとがきに「古代の鴨川に橋は架かっておらず、中世には四条橋と五条橋が架けられ、これは此岸から、彼岸である祇園社、清水寺に渡る橋としての宗教的意味あいが強く、近代になると橋は公儀の管理下に置かれたが、一方では町衆が管理する橋もあった」と、橋の変遷について考察している。

『京の鴨川と橋』

『京の鴨川と橋』



京都の風景に重要な位置を占める橋について、松村博著『京の橋物語』(松籟社、1994年)、京都新聞社編・発行『京の大橋こばし』(1982年)、読売新聞京都支局編『京を渡る名橋100選』(淡交社、1993年)がある。

また、京を語る会から田中緑紅著『京の三名橋(上)三条大橋』(1964年)、『京の三名橋(中)四条大橋』(1969年)、『京の三名橋(下)五条大橋』(1970年)がそれぞれ刊行されている。

水は人々に恩恵のみを与えるものでなく、時には害を及ぼすこともある。昭和における水害については、京都府編・発行『甲戌(こうじゅつ)暴風水害誌』(1935年)、京都市役所編・発行『京都市水害誌』(1936年)、京都市編・発行『ジェーン台風災害誌』(1951年)、京都市編・発行『京都七月風水害記』(1951年)の書がある。

最後に、都市の発展、人口の増加とともに、京都の名水はなぜ失われたかを論じた小野芳朗著『水の環境史』(PHP研究所、2001年)、27年間にわたる京都家政学園の女子高生による京の川の水質汚染調査を記録した美籏照子著『悠久の京の川』(合同出版、1995年)を掲げる。江戸末期の儒者である頼山陽は、鴨川のほとりに住居をかまえた。書斎を「山紫水明処」と名付け、ここで『日本外史』を書き上げた。鴨川に面し、比叡の霊峰や東山が一望できる。ここから風光明媚な景色を山紫水明と表現するようになった。作家大佛次郎は「京都の風景を山紫水明と形容したのは確かに正しい。山と水と二つの自然を損なわぬかぎり、この都はいつまでも美しく恵まれていよう」(「京都の誘惑」)と述べている。

『悠久の京の川』

『悠久の京の川』



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