機関誌『水の文化』15号
里川の構想

「見試(みため)し」でつくる里川

大熊 孝さん

新潟大学工学部教授
大熊 孝 (おおくま たかし)さん

1942年生まれ。東京大学工学部土木工学科卒業。新潟大学工学部助手、同助教授を経て現職。また、NPO法人新潟水辺の会の会長を務める。 著書に『川がつくった川、人がつくった川−川がよみがえるためには 』(ポプラ社 1995)、『洪水と治水の河川史−水害の制圧から受容へ』(平凡社 1988)、『利根川治水の変遷と水害』(東京大学出版会 1981)ほか。

里潟としての佐潟(さがた)

川の話に入る前に、湿地の話をしましょう。ここ新潟の近くには佐潟というラムサール登録されている湿地があります。40haくらいの水面を含んだ砂丘湖です。私は、以前から「ここは里潟だ」と言っています。白鳥が来る潟で鯉や鮒もいて、灌漑用水の溜池でもあります。

昔、人々はこの周辺に田んぼをつくり、潟の中のヘドロのようなものを肥料として利用してきました。これをゴミ挙(あ)げと称しています。ここは最近になって公園になりましたが、こうなると潟と人間には、公園とそれを利用する側としての関係しか残りません。長い間いろいろな使われ方をしてきたゴミ挙げも、近代化に伴って利用の循環が切れてしまいました。

潟が公園になると、遠方からも人が訪ねてきます。すると、もとからここに住み、潟を利用していた地元の人が浮いてしまいます。

地元の人は主に農業者で、漁業権を持つ人も多くいて、ラムサール登録湿地になっていますが、白鳥がいる時期でも漁に出ます。するとみんなから「なんだ、白鳥を追いやって」と怒られる。実際は白鳥が餌を周囲の田んぼに捕りに飛び立ってから漁をしているのですが、一般の人から見ると「白鳥を追い立てて、あんな所で漁をしている」という批判になってしまいます。漁をすることはラムサール条約でいうワイズユース(賢明な利用)、つまり、「生態系の自然的価値の維持と両立させた方法で、人類の利益のために湿地を持続的に利用すること」をしているわけですが、「佐潟は、もともと地元の人が利用してきた里潟で、それを前提にワイズユースをしているラムサール登録湿地」という理解が、一般にはまったくないのです。

そこで、我々「新潟水辺の会」では、ここで蓮採り大会をします。咲いているオニバスを踏んづけてしまったりするのですがね。自然保護を訴える人は「そんなひどいことをして」と言うのですが、「もともとそのような使われ方をしていた潟だったのですから、利用しながら維持管理をしていかなくてはだめなのです。だから今、敢えて行なっているんです」と答えるようにしています。最近では、やっと文句を言われなくなってきましたけれど。

通船(つうせん)川でワークショップ

新潟市内東部で阿賀野川と信濃川を結ぶ通船川でも、私たちは活動をしています。この川は阿賀野川の川跡で、まぁ汚い川の典型ですね。貯木場などもあって産業の川でもあります。昔はしじみが捕れるほどで、舟運にも利用されていたのですが、水が汚くなり、さらに地盤沈下の影響を受けたためまったく利用されなくなってしまいました。それを、もう一度みんなで利用できる川にしたいということで、活動を始めました。その一つが花筏(はないかだ)。チューリップの球根栽培で捨てられていた花の部分を集め、花絵をつくり、それを川筏に移して流したのです。昨年まで6年間続けました。

そのうち通船川に関連した市民ネットワークが立ち上がり、官民一体で「通船川、栗ノ木川再生市民会議」をつくりました。具体的な河川改修をするときもワークショップを行ない、議論を尽くして、通船川の改修案を検討しています。市民会議から土木事務所に提案もしています。

川沿いのある敷地を、区画整理し宅地にするケースがありました。川は川で計画され、宅地は宅地の区画整理組合ができ、双方が勝手に計画を練っていました。ところが、川のワークショップで議論したことが宅地の区画整理組合まで波及し、区画整理組合が川沿いに土地を提供してくれました。宅地を区画整理すると、よく公園をつくりますね。普通は区画の真ん中に公園を置きますが、ここでは川沿いに公園をつくりました。また、川沿いに5mの緑地帯を供出していただき、川の整備と併せて区画整理を行なった。結果として、川のイメージがプラスになったようで、宅地を売り出したら完売してしまいました。

ここでも6回くらい、ワークショップをしました。川の断面や護岸勾配(ごがんこうばい)をどうするかなど、いろいろ議論しました。それぞれの工区ごとにワークショプを行なっています。縦割り行政を越えて、川づくりとまちづくりが一体化したという意味では、画期的だったと思います。行政も含めて、みんながその気になりさえすれば、結構うまくいくことも多いですよ。

舟で時間を楽しむ

このようなワークショップを進めていくと、「昔、新潟では、各家庭に1艘ずつ舟があり、それで互いに行き来していた」とか「奥さんが産気づいたときに、舟に乗せて連れて行った」というような昔話がたくさん出てきました。舟は今の自家用車と同じように使われていたのですね。その舟を「板合(いたあわ)せ」と呼ぶんだそうですが、この言葉がワークショップを10回実施したうち、終りのころになって出てくる。そういう重要な情報はかなり時間がたたないと、地元の人から出てきません。実際、60歳以上の人はみんな舟を漕げるんですよ。

水辺の会でも舟をつくり、今年からイベントのときに使っています。彼らはひょいひょいと漕げる。しかし、若い連中は漕げません。こういうことは、今ならまだ伝承できます。私たちは、こういった里川の技術を伝える活動もしています。

新潟の水辺を考えるには、信濃川だけでは語れないし、通船川だけでも語れない。阿賀野川から信濃川を全部一体として見ています。

今年は信濃川に2回ウォーターシャトルを出して、60km上流の大河津(おおこうつ)分水までのんびりと旅しました。6時間かかりましたが最高の気分でしたよ。春は桜や桃の花が見え、7月は桃の丸い果実が見える。観光ルートとして利用してもいいでしょうね。

そこで「6時間かかることを、どう思うのか」という問題があります。「今の日本人では退屈してしまう」という人もいるでしょうし、いろいろな議論があると思います。しかしこれからは、ゆったりした時間こそが大事という価値観が大切なのではないでしょうか。現にイギリスでは、ナローボートと呼ばれる幅の狭い舟で運河を1週間とか2週間かけて楽しむのが、ポピュラーなアウトドアレジャーになっています。いずれ日本も、そうなりますよ。もうすぐです。

高度経済成長期は「1分1秒争って働け」と言われ、我々も必死になって働いていたわけですが、最近になってふと気がつくと、週休二日制で、定年後も結構時間がある。時間に対するものの見方、考え方を変えねばならない。今まで効率一辺倒だったが、これからは、時間をどれだけ楽しくすごすことができるかが課題になるはずです。

この川づくりのために、何度もワークショップが開かれた。
写真:新潟県新潟土木事務所『通船川河口ワークショップの歩み』より

魚が上り、資源を分かち合うのが流域

―― 流域というスケールについては、どう考えますか。

流域という言葉が出てくると、広がりすぎて、焦点がぼけてしまうと思います。三全総(第三次全国総合開発計画、1977年(昭和52))から流域という言葉が使われ始めましたが、いまだに漠としているようです。

江戸時代の信濃川なら、流域から新潟に物資が集まってくることが明確に目に見えたので現実として流域を意識しやすかったのですが、今はそういうものがありません。あるとすれば、それは鮭(さけ)であり、鱒(ます)であり、鮎(あゆ)だと私は思うのです。江戸時代は290km上流の松本に、鮭組合があったんですよ。5万匹捕れたという記述があります。けれど、今は途中にダムがいっぱいあるから魚が戻れない。つまり、ダムをつくることで流域を分断する結果になっています。

阿賀野川にも河口からたくさんの鮭が上ってきていました。周りの人は、それを使って生活をしていた。その恵みは、魚を捕らない人にも必ず配分がありました。山代(やまだい)と言って、漁獲量の5%くらいを捕獲した集落に置いていく習わしです。その集落は山代をいったん貯めておいて、お正月になる前に餅をついたりして分け合いました。川の恵みを限られた人だけが独占するということはなく、漁師でない人にも恵みが配分されるという仕組みが存在したのです。ところが、今は17の発電ダムのためだけの川になってしまっています。

同じことが信濃川でもあります。ここにはJR東日本へ電気を供給しているダムがあり、これが東京の電車を動かす25%くらいの電力をまかなっています。ところが、すぐそばの信濃川沿いを走っている飯山線は電化されていません。これは大変おかしなことで、本来は地域の人に恵みを分け与えるべきなんですよ。発電してもいいけれど、もう少し水を返してくれれば、河口から鮭が上がってくることができるのです。「昔おらっちが遊んでいた川がからからで、遊びもできないじゃないの、昔の川を返してよ」といって、この辺りの人は運動を始めています。流量を増やせということです。

「里川」の設計条件

これからの技術者は、治水と利水だけではなく「子供が遊ぶ」ということも設計条件に入れるべきです。生産に直接役立たないものは評価しないというのでは、不公平ですからね。里川では、そのような価値観が大事になるでしょう。川は多くの人にとって多様な意味をかかえている。そこで遊んだということも、その人の心の糧になるわけです。

―― 里川をつくるときには、具体的にいくつも設計条件があるのでしょうね。

それを知るためには、住民参加でみんなの意見を聞く以外にありません。今の住民は、いわゆる「常識」で考えている場合も少なくないですから、単純に聞いただけではだめです。やはり、時間をかけることが大事です。

先程申し上げた「板合せ」という言葉が充分な話し合いを経ないと出てこなかったように、信頼関係ができなければ、本当の情報が出てこないわけですね。ですから、充分時間をかけて、何でも言えるようにお互い信頼関係を築く必要があります。技術者側も広い気持ちを持って、ちょっとした言葉でも見逃さないようにしなければなりません。我々は「板合せ」という言葉を聞いてぱっと反応できましたが、これは十数年間、水辺の活動をしてきたからです。それにはやはりお互い時間をかけて成長しながら、知識をストックしないとだめですよ。

―― ワークショップを各地で行ない、合意による川づくりをしても、川は土地によって利害も異なりますから、上流中流下流で辻褄が合わない場合も出てくるでしょうね。

「地形条件、自然条件は大切にすべき」ということを、基本原則にすべきでしょう。例えば信濃川を例にとると、長野県と新潟県はよく対立します。信濃川・飯山市の南方に立ヶ花(たてがはな)という狭窄部(きょうさくぶ)があります。上流部にしてみれば、そこを広げれば流れが速くなって水害が起きにくくなりますが、反対に下流は水害が起きやすいということで、決定的な対立があります。明治時代以降、少しずつそこを広げてきましたが、上流のほうは今でも「もっと広げろ」と言います。長野県の脱ダム委員会でも、最後には「そこを広げろ」と言っています。このことは、安全度をどこまで上げるかという議論にもなってきます。私は、従来の地形条件で、ある程度安全度が上がったならば、それ以上は地形を壊すべきではない、と考えています。

―― それ以上のリスクは住民で引き受けるべきということですね。

そうです。そして、どの辺で線を引くべきかが問題になります。

以前、私は「70〜80年に1回の水害なら受忍すべきだ」と言いましたが、最近は私より進んでいる人もいて、「30年に1回の水害なら我慢しよう」という人も出てきていますね。30年に1回の床下浸水くらいなら我慢します、というわけです。これを前提に治水計画を立てれば、川の姿も変わってくるでしょう。

ただ、個々の居住者の我が身の問題となると、納得できないかもしれない。しかしそのときに一人ひとりに考えてほしいのは、80年に1回の水害を受け入れることで、その人生をどれだけ豊かにすごせるかということです。そう言うのは、今の治水の方策が「水害は何がなんでも許さない」という基準で進められているために、少なからず親水の要素が犠牲になっていると思うからです。

多様な人が多様な価値観から見た365日の川の姿があるわけですが、今まで「100年に1回の水害も許さない」という治水対策のために、川と親しむ空間をないがしろにして、川の多様性を否定してきたように思います。豊かにすごすという立場から考えると、本当に「もったいないなあ」と思います。どこに価値観を置くかということを考えないと、個人と社会の意思決定はできません。具体的に「それを認めると、本当に毎日楽しい生活ができるのだろうか?」と、問いかけ続ける必要があるでしょう。やっとそのような問題提起ができる時代になったのではないですか。

―― すると、川も「当事者のかかわり合う空間」を、「人生」という時間と価値で考えなくてはいけませんね。

そのように川を考えるための空間単位は、ある程度自然条件の中でくくって議論することになるということです。ただ、信濃川の場合はやはり流域でとらえるには大きすぎるし、難しいですね。地形の条件で、狭窄部の存在などを前提としていけば、上流と下流は分けて考えてもいい部分はあります。それぞれの川に応じて、コミュニティレベル、県、上流、下流、流域、国、とそれぞれで処理しなければならない問題を話し合っていくしかないでしょう。

―― 流域委員会という発想は、里川をつくる一つのツールとして有効でしょうか?

有効でしょう。行政も含めて、固定観念を外せばいい。もしも外すことができれば、淀川流域委員会のように、みんなが本気で議論をして、良い結論を出せるのです。

里川をつくる方法論として、私は、基本的には話し合いしかないだろうと思っています。どのレベルでもとことん話せば、解決の光は見えてくる。

江戸時代は、話し合いで物事を決めるのがうまかった。例えば新たに用水を取るために既存用水と利害が対立するときなどは、数年様子を見ながら試しにやってみて、不都合があれば軌道修正していくという方法が採られました。これを「見試(みため)し」と呼びます。農民間で選ばれた名主などを中心に、対話で折り合いをつけていった。川をつくり、保ち、楽しく暮らし、後の世代に責任を持つ気持ちで川を守るならば、この「見試し」の習慣は、みんなが身につける必須の道具だと思います。

万代橋上空から見た、新潟市中心部を流れる信濃川

万代橋上空から見た、新潟市中心部を流れる信濃川



<里川の風景>市民企業が水上バスを走らせる

信濃川河口の新潟市内には、全国でも珍しい「公共交通機関としての水上バス」がある。運航しているのは信濃川ウォーターシャトル株式会社。株式会社といっても市民株主による市民企業だ。この会社の広報を担当している中村文弘さん(取締役業務部長)にお話をうかがった。

―― 事業が始まった経緯をうかがえますか。

事業を開始したのは、1999年(平成11)です。当時、新潟には市内を循環する公共交通網がありませんでした。モノレールや地下鉄や電車を走らせようというアイデアはあったのですが、ちょうど町中に立派な川が流れていますので、舟を使い循環できないかということで舟運も選択肢に入りました。その中で、一番コストがかからない方法が選択されました。

最初は、信濃川〜栗ノ木川〜鳥屋野(とやの)潟〜信濃川というルートで循環できないかと考えました。ただ、栗ノ木川は現在保有している舟では、低い橋桁に引っかかってしまう。そこで、取り敢えず、信濃川本川だけ運航しています。

―― この話の主唱者は?

新潟青年会議所(JC)です。JCのメンバーが中心になって「取り敢えずやろう!」と、始めたのがきっかけですが、もともとJCで都市交通を考える委員会があり、その中で問題提起があったわけです。その後、国、県、市の行政主導の「水面利用協議会」が発足し、船着き場などのハード整備は行政で行ない、実際の舟の運航は民間でやりましょうと棲み分けができました。

このときに市民の株主を公募しました。「こういう事業をやりたいので、賛同していただける方、一口5万円で出資してください!」とお願いしたら、あっと言う間に資金が集まり、さらに、JCのメンバーもこぞって出資しましたので、資本金は現在2億1000万円にまでなっています。株主の数は現在約730名で、今も随時募集しています。

―― JCや市民の思いはどこからきているのでしょうか。

観光の観点からいっても、55万人口の都市の割には新潟は観光の目玉がなく、分散している。ただ、全国的に信濃川は日本一の川だという知名度が高いので、それを活用しない手はないと思いました。それと都市交通網の話がうまくかみ合って、実現につながったのではないかと思います。

―― 全国でこのような水上交通を営業している都市は、現在少ないですね。

東京、大阪の主要都市と、新潟だけですね。遊覧船は各地にありますが、定期的な輸送手段として機能している例は、この他はありません。

―― しかも市民株主で運営している。

資金調達に市民が参加しているのは、当社だけです。730名の中で、市民の一口株主は半分強になります。株主数が700を超える企業は地元でも珍しいでしょう。まあ、舟を通じて市民の方とつながり、地域づくりに役立てればということですね。

なぜ市民株主なのか? ということですが、みなさん私たちの夢に出資しようという方がほとんどです。行政とパートナーを組むときにも、市民の後押しをいただいていますので心強いですね。これが1〜2社が大金を出資して設立した会社ならば、そうはいかなかったでしょう。市民がお金を出し合って運営している、市民の声の一部を代弁して行なっている、という意味合いがありますので、行政も協力的です。

―― 考え方としてはNPOと同じですね。

まったくそのとおりです。今年の7月からは競合企業が1社参入しました。

―― 利用客からすると、いい補完効果ですね。

そう思います。今まで当社が2艘所有し、1時間に1本しか運航できなかったわけですが、競合企業が入ることで30分に1本となる。客の乗降頻度が上がり、顧客にとっても非常に良いことだと思います。実際「30分くらい待っていれば舟がくるからいいね」という声を聞くようになりました。

―― 乗客の評判は?

立ち上げ当初から3年は、船着き場が今のようにありませんで、万代(ばんだい)(仮桟橋)発着の周遊船でした。現在の終着地点である朱鷺(とき)メッセの船着き場は今年の5月に完成したばかりで、お客さんからは「船着き場がたくさんできればいいよね」という声はありました。

河川を管理しているのは、国と新潟県ですから「一民間企業に公共の岸は貸せません」という原則があり、自由に発着所はつくれませんでした。今は国と県の協力もあり、4カ所の発着場を整備していただきました。

―― 市民会社であるにもかかわらず、もっと利便性が高い橋の下などに発着場を持とうとしても、いろいろなハードルがあるわけですね。

そうですね。今年4月からは朝の通勤時間帯にも就航していますが、発着場所の利便性は必ずしも良いとはいえません。バス停はマンションのように人がたくさん居住している所にありますが、船着き場はそういう人が住んでいるスペースから離れた所にある。そこまで行くのにバスや車に乗らねばならない。これでは利用者が増えるはずはありません。実際、市民の方からもメールや手紙をいただいて、この橋の下に舟を着けると利用者が増えると思います、という声もいただくんですよ。でも、調査すると、自由に船着き場を設けられないという行政の壁にぶつかります。

―― 年間利用客数は?

初年度から3年目までは、年間約1万8000人くらいでした。これには季節格差があります。1、2月ころはただでさえ船着き場が遠いのに、そこまで行くのが寒くて大変なので、少なくなります。

それと、川の両側には車がたくさん走っていて、川が道路で寸断されているんですよ。しかも信号が非常に少なく、車はスピードを出して走る。利用客が川へ渡ろうとすると、平気で5分くらい待たなくてはなりません。今までの行政施策では、川に背を向ける道路整備を行なっていましたので、今さら川に向けようとしても、根本的なところから直していかないと、市民に利便性を提供できませんね。橋の下に船着き場をつくるにしても、河川管理している窓口と道路管理している窓口が一つでないと、両方にマッチしたような整備はできません。

お客様は、水上バスに乗ると大変喜ばれます。まず、川から自分の住んでいる町並みを見るということがほとんどありませんから、「目線が変わって非常に良い」と言われます。車で移動するとせわしないけれど、舟で移動するとゆったりして良いとも言われます。こうした体験から、川への愛着が生まれます。市民の目が川に向けば、「なぜ、こんな不便な所に船着き場があるんだ」という声が上がってくるようになるでしょう。こうした声が、利用しやすくする第一歩かもしれません。

※注 水面利用協議会
行政機関と水面利用者、例えば、旅客船業者、漁協、プレジャーボート所有者などが集まった係船組合他で構成されるもの。

  • 広報を担当している中村文弘さん

    広報を担当している中村文弘さん

  • 1999年2月に進水した信濃川ウォーターシャトル1号船「アナスタシア」

    1999年2月に進水した信濃川ウォーターシャトル1号船「アナスタシア」

  • 昭和大橋はウォーターシャトルがくぐる

    昭和大橋はウォーターシャトルがくぐる

  • 広報を担当している中村文弘さん
  • 1999年2月に進水した信濃川ウォーターシャトル1号船「アナスタシア」
  • 昭和大橋はウォーターシャトルがくぐる


<里川の風景>里山の粗朶を利用した粗朶沈床(そだちんしょう)

粗朶とは里山の樹木から伐採した木の枝のことで、栗、楢、樫、クヌギや、雪国で育ったエゴ、ナナカマドなど、木によってさまざまな特性を持っている。この粗朶を格子状に束ねて石を詰め、河床の侵食の防止を目的に、川底に沈めた伝統的工法が粗朶沈床である。明治初期に、デ・レーケらオランダ人技師が伝えたもの。昭和30年代まではよく使われていたが、高度成長期にセメントが安くなり、山林が針葉樹の人工林に変わってから、ほとんど利用されなくなった。

しかし、最近ではこの工法が生物の生息に適しており近自然工法の一つの典型と考えられ、注目されている。さらに、粗朶には山林の間伐材を使うことができ、山林の維持と合わせ、地元の自然資源の循環利用という点でも期待される。

治水工法に地元の樹木と伝統の知恵を取り入れる。これも里川の使い方だろう。

※大熊孝さん、中川武夫さん(北陸粗朶業振興組合)のお話による。

里山の粗朶を利用した粗朶沈床

里山の粗朶を利用した粗朶沈床



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