[湖歴]
琵琶湖では京阪神を潤す「水資源」の開発が1972年(昭和47)以降進められてきたが、人間活動が琵琶湖に棲む生きものたちにどんな影響を及ぼしてきたのか。プランクトン藻類による水質の変化など、湖沼生態系の機能と構造解析に長年取り組んできた中西正己さんに話を聞いた。
インタビュー
京都大学名誉教授総合地球環境学研究所 名誉教授
中西 正己(なかにし まさみ)さん
1937年三重県生まれ。東京教育大学(現・筑波大学)理学部を経て東京大学大学院へ。専門は水域生態学。植物プランクトンの有機物生産過程の研究を軸に、湖沼生態系の機能と構造解析に取り組む。
琵琶湖との出会いは1968年(昭和43)に遡ります。当時、国際学術連合会議(略称 ICSU)による「国際生物学事業計画(以下、IBP)」というものがありました。これは、世界の人口爆発による食糧不足の懸念を背景として、森林、草原、海洋、湖沼、河川、湿地を調査対象に、生物生産の基盤となる植物が光合成によって水と二酸化炭素からどれだけの有機物を生産することができるかを地球規模で評価することを主目的にしていました。琵琶湖が日本の「貧栄養湖沼」の代表調査水域として登録されました。
光合成過程を通して植物プランクトンの環境適応のしくみを研究していた私は京都大学に赴任し、IBP琵琶湖班の一員となり、植物プランクトンを対象として一次生産(注)に関する研究を分担することになりました。人為的撹乱のもっとも少ない琵琶湖最北端の塩津湾を調査水域としたのですが、その結果には驚きました。植物プランクトンのクロロフィルa量、硝酸態窒素濃度などは、貧栄養湖ではなく、中栄養湖の特徴を反映していたのです。これは調査前に研究者や学術書から得た情報とはまったく違う結果であり、琵琶湖の実態に初めて触れた体験でした。
1977年(昭和52)に淡水赤潮が発生しました。湖沼では植物プランクトンの異常発生が起きます。琵琶湖でもこのとき黄色鞭毛藻(ウログレナ アメリカーナ)が異常発生していたのです。滋賀県の委託で私たちは発生機構の解明に取り組みましたが、ウログレナの異常発生と琵琶湖の富栄養化との因果関係の解明には至りませんでした。湖沼で発生する植物プランクトンが関係する諸現象のほとんどは未知の世界です。
淡水赤潮の発生は植物プランクトンの異常発生による富栄養化の結果であるとよく喧伝されますが、未だ科学的に検証されていません。現に、私は1975年(昭和50)にイタリアの湖でウログレナの大発生に出会いましたが、赤潮は発生しませんでした。
(注)一次生産
生物が二酸化炭素から有機物を生産すること。この有機物が生態系全体の物質循環の出発点となる。
琵琶湖の普遍的な価値は「固有種を核とした食物網構造を有する世界に一つしかない生態系」です。この普遍的な価値が保全・再生されるからこそ、人間にとっての価値が維持されます。すなわち、安全な水資源、固有種を対象とした漁獲漁業、多様な生物・物理・化学環境の織り成す「情操の場(景観)」といった価値です。
1972年(昭和47)に公布された琵琶湖総合開発特別措置法の第1条は「琵琶湖の自然環境の保全と汚濁した水質の回復を図りつつ、その水資源の利用と関係住民の福祉とをあわせ増進するため(後略)」と開発の目的を並列して規定しています。本来なら「自然環境の保全と水質の回復」が優先され、そのうえで「水資源の利用と関係住民の福祉」があって然るべきです。
私は1976年~1989年の「琵琶湖総合開発に伴う諸工事の差し止め訴訟」の原告団に加わりました。この訴訟の本来の目標は、「諸工事が歴史的にも学術的にも貴重な琵琶湖とそこに生息する生きものの生活に大きな被害をもたらす」として、日本でも生きものや自然環境に代わって人間が訴訟を起こし裁判できる環境権の法制度を確立することでした。
環境権とは、きれいな空気や水、日照、騒音のない静かな環境などを享受する権利です。国土開発による環境破壊に対抗するために提唱されました。
しかしそれだと受理されないので「琵琶湖の水を利用している原告が健康被害を受ける」という民事訴訟となり、結果的に原告の主張は退けられました。
この裁判で感じたのは環境問題の科学的な検証が非常に難しいことです。当時の滋賀県知事が「原告の主張する生態系保全にも考慮して琵琶湖の保全に努めていかなければならない」と記者会見でコメントしたのは幸いでした。
琵琶湖全体の生態系のダイナミズムを踏まえ、どの程度の人間活動が琵琶湖に生息する生きものに影響を及ぼすのか、明らかにすることです。これを基本的なテーマとした研究活動が求められます。
まずは調査の方法論から開発しなければいけませんが、2年や3年で結果が出せるわけがなく、この仕事には10年〜20年以上の長い期間がどうしてもかかります。ですから若手の研究者にしかできません。若手がじっくりと腰を据えて取り組める研究環境の土台が必要です。
すぐに結果の出ることにしか予算がつきにくい現状では難しいかもしれませんが、生物の世界に取り組もうと思ったらそれくらいの覚悟がいります。
私自身、湖沼のプランクトンの調査研究を通じ、生物を介した自然現象のほとんどは、わかっているようでわかっていないことが多いと実感しました。琵琶湖の未来のためにも、ぜひ長期的な視野に立った研究活動が実現してほしいものです。
(2023年9月2日取材)