機関誌『水の文化』16号
お茶の間力(まりょく)

「遊ぶお茶」は現代の「講」
闘茶の神事を伝えるお茶講保存会 群馬県中之条町

「遊ぶお茶」は現代の「講」 闘茶の神事を伝えるお茶講保存会 群馬県中之条町

「遊ぶお茶」は現代の「講」 闘茶の神事を伝えるお茶講保存会 群馬県中之条町

群馬県中之条町に、「上州白久保のお茶講」と呼ばれる国の重要無形民族文化財の指定を受けた茶会が伝わっている。茶会と聞くと、「茶道」の堅苦しさを想像するかもしれない。しかし、こちらは天神様の神事で、「闘茶」を庶民的にアレンジした大変楽しい集まり。引き込まれて童心に帰る内、和やかな気分が生まれる「庶民の茶」は、現代の「講」づくりに活かすことができそうだ。

編集部

「講」江戸時代のネットワーク組織

江戸時代、日本中に「講」という組織が無数に存在した。講は「村の中で共通の志を持つ仲間」という意味で、いわば現代でいうサークルのような集まりを想像すればよいだろう。「村組織としての講」「信仰組織としての講」「経済組織としての講」のおおよそ三つに分けることができる。

村組織の講は、その村の戸主の集まりで、実質的な村寄合として機能し、村の祭祀や水利の運営に当たっていた。信仰組織としての講は、山の神講、水神講、庚申講など村内の鎮守を中心とした講、さらには、伊勢講、身延講、大山講など村外の寺社信仰の講があった。この講には、他国を巡回している「御師(おんし)」と言われる参詣や信仰への世話役がおり、御師は参詣への旅行代理店業務もこなしていた。経済組織としての講は、頼母子講や無尽講など、仲間内での資金の積み立て・融通を行う現在の信用金庫や信用組合、あるいは商家のエビス講と呼ばれる、同業者組合が存在した。

江戸時代には、居住地、あるいは地域を越えて、講の形を取っていろいろな共助の仲間がつくられていた。

今回紹介する「お茶講」は、茶を種に集まる講である。しかし、茶は茶でも「闘茶」。この闘茶が群馬県の中之条町に残っている。

闘茶の里

お茶が日本にいつ頃伝わったかは諸説あるが、平安時代にはすでに貴族や僧の間で飲まれていたらしい。さらに鎌倉時代には禅宗の僧、栄西(ようさい)が抹茶を持ち込んでいる。栄西は『喫茶養生記』を著し、その茶は、禅の修業に役立つ薬用の意味合いが強かったという。しかし、当時その茶を受容した武士たちは、後に「茶寄合」と呼ばれた遊びの場を生み出した。

茶寄合とは、多数の武士が集まり、囲碁、双六、連歌、そして「闘茶」で遊んだ寄り合いのこと。闘茶とは、茶を飲み合い、それが茶であるかないか、あるいは、茶の質や水質などを当てて競うもので、後にはギャンブルのような闘茶も生まれたらしい。室町時代に活躍した婆娑羅大名・佐々木道誉は盛大な闘茶の宴を催し、京の都には闘茶が大流行した。この様は、「太平記」にも取り上げられ、鎌倉で始まった遊びが京で流行したことを苦々しげに描いている。

武士といっても江戸時代の官僚化された武士と違い、普段は在郷の領主である。その武士の間で流行った社交の場が、茶寄合であり闘茶なのだろう。

神事として残る

その闘茶が、どのような経緯を辿ったかはわからないが、群馬県の吾妻地方のいくつかの集落に伝わった。そして、現在もはっきりと残っているのが白久保集落である。ここでは闘茶が、「お茶講」という神事として残っている。

白久保集落には、1799年(寛政11)に開かれた際に記録された「御茶香覚帳」が残されていた。これを当時の宗門人別帳と照合し、墓石の苔を落として参加者の素性を明らかにするという苦労の末、国の重要無形民族文化財の指定を受けることができたという。紙が貴重品だった時代のため、襖の下貼りなどに使われ、ほかには1冊も残っていない「御茶香覚帳」が残っていたのは、奇跡というほかはない。

白久保集落の北側に天神様が祀られており、2月24日が天神様の宵祭りに当たることから、年に1回の開催だという。しかし、いつから天神様の神事と結びついたかという経緯は、わかっていない。


  • 白久保お茶講保存会が管理するお茶講の家。

    白久保お茶講保存会が管理するお茶講の家。

  • 寛政11年のお茶講の記録「御茶香覚帳」が、重要無形文化財に指定される決め手となった。

  • 体験コースで参加者多数の際は、町立の蕎麦打ち教室の2階が会場になる。

  • 白久保お茶講保存会が管理するお茶講の家。

    白久保お茶講保存会が管理するお茶講の家。

  • 白久保お茶講保存会が管理するお茶講の家。
  • 白久保お茶講保存会が管理するお茶講の家。

お茶講に参加してみた

「白久保お茶講保存会」の山田藤吉さんから「説明を聞いてもわからないだろうし、そばで見ているだけでもわかりませんよ。まずは参加してみてください」と奨められた。

現在では保存活動の一環として、人数がある程度まとまれば一般の人もこのお茶講を体験できるようになっている。もちろん女性もOK。そこで、編集部もこのお茶講を実際に体験してみることにした。2003年12月。この日は諸事情でお茶講の家ではなく、近くの町営施設の大広間を使いお茶講が開かれた。昼過ぎにうかがうとすでにお茶の包みは整えられており、大広間の壁には天神様の掛け軸が掛けられていた。前日に行うお茶の調合は、最低でも2時間かかるそうだ。

この日申し込んでいたのは、会社の慰安旅行の団体。我々編集部も便乗させていただき、総勢23名のお茶講が始まった。部屋には23枚の座布団がコの字型に並べられ、座布団の前には湯飲み、ポケットティッシュ、お茶講紹介のしおり、そして「花」とか「鳥」とか書かれているササラ紙が置かれている。天神様の掛け軸を背にして山田さんが座り、中央の囲炉裏を模した火鉢には大きな鉄瓶に湯が沸かされている。山田さんの「○○さんは花の席へ、○○さんは鳥の席へ」という声に導かれ、全員が着席。

山田さんはこの日の記録係である「勝」と配当品である菓子の数を計算するそろばん係「叶」を兼任し、座を仕切る。その山田さんの挨拶の後、囲炉裏代わりの火鉢と座敷が塩で清められた。そして、天神様のお茶が点てられ、掛け軸の前に供えられる。参加者全員、一礼二拍。山田さん曰く「お茶講には作法がありません。固くならないでいいですよ。気楽なお茶ですからね。足も崩して、楽しんでいってください」

まず天神様に供えられたお茶が、出される。大きな片口に半紙で包んだ粉茶があけられ、鉄瓶からお湯が注がれると、勢いよく菜箸でかき混ぜる。何とも豪快なお点前だ。片口で点てたお茶を土瓶に移し、お茶坊主が回ってきて各自の前に用意されたぐい飲みに注いでくれる。この茶は客のお茶と同じもの。しかしこの時点では覚えなくともよい。
本来は茶道と同じで回し飲みをするのだが、昨今の衛生感を考えて体験会の場合はぐい飲みが用意される。所々に大きな湯飲みが置かれているのは、味わった後に余った茶を捨てるため。大変強い味のお茶のため、全部飲み干すと舌がしびれて味覚が馬鹿になるからだ。そして前に置かれたポケットティッシュは、ぐい飲みに残ったお茶を拭き取って、次の味に影響が残らないようにするためのもの。よく考えられたシステムに感心する。

次は、試飲。一番、二番、三番、客の4種のお茶が順番にぐい飲みに注がれる。この4杯の味や香りを参加者は覚えなくてはならない。一番の茶はとにかく甘い。その上、不思議なもので、覚えようと思うと、ついつい量を飲んでしまう。これがくせ者で、飲み過ぎると、後の茶の味がわからなくなる。二番の茶は、甘いのだが何となく舌の上がぴりぴりする感覚がある。三番茶は少し香りが強く、客の茶は甘さ・香り・ぴりぴり感共に一番濃い。

次に本茶を7回飲むこととなる。ここからが勝負。まず第1回目。全員がお茶を含み終わる。席の一番端に座した「花」の人から席順に答えを聞かれていく。「花さんは?」と山田さんが尋ねると、「二番」、続いて「鳥さんは?」と聞いていくのである。この答えは「お茶講連名帳」に記録されていく。

最初の本茶は味を覚えているためか、みんな「二番」、「二番」と同じ答えを続けていく。すると、「同じ答えではつまらないな」と言った「銀さん」のみが「一番」と答え笑いを誘った。以後、この「銀」さんは、その場での人気者となった。

二番目の本茶を頂く。

(甘い・・・。客かな?)

答えが花さんから発せられるが、今度は答えがばらついてくる。方々から「これは一番だ」「よくわからないのよね」と声が漏れる。

三番目の茶が注がれる。このあたりで舌が慣れてきて、味がよく区別できなくなる。

(舌の先がピリピリする・・・)

四番目の茶が注がれる。そろそろやけっぱち気味になってくる。

(味がわからない。当てずっぽうでいいか)

五番目の茶になると、どうも自分が予測した茶の味ではない。

(どこかで間違ったか?)

前の答えに疑心暗鬼になってくる。中にはササラ紙を折り忘れて、山田さんに「米さんの二番はもう2回出ました」と指摘され、「えーっ、じゃあさっきのほうが間違いだったかも」と焦る風景も見られるようになる。

七番目の茶を飲み、全員が答え終わるころになると、座の雰囲気はゆったりと一つになっている。

さて、いよいよ答え合わせだ。

山田さんが「最初のお茶は二番です。銀さん以外の人に飴を2つづつ配ってください」と、飴が配られる。「二番目のお茶は、客。正解者6人ですので、8個つづ配ってください」。飴は正答者数に応じて配当されていくのだ。答えが発表される毎に「ヤッター」「エー」とどよめき。小さな飴やチョコレートの配当で大変な騒ぎで、童心に帰ったようにはしゃいでしまう。

この日の全問正解者はゼロ。ちなみに正解数によって呼び名があって、1つしか当たらないとイチボ(斜線で表現)、2つはニフクベ(瓢箪の絵)、3つはサンカラカサ(唐傘の絵)、4つはシテッポー(鉄砲の絵)、5つはヤクナシ(絵がなく空欄)、6つは存在しないので飛ばして7つ全問正解がハナカツギ(梅の花)。1つも当たらないサカサッパナ(逆さになった梅の花)とハナカツギが出ると縁起がいいとされているとのこと。お茶講が終わってから、正解数の呼び名に応じた挿絵が「勝」によって描き込まれて、「お茶講連名帳」が記録として完成し、お茶講の家に保管される。

終了後皆に感想を述べてもらう。「女の勘でがんばりました」(拍手)「二番目を当てたのが大きかったです」(拍手)と感想が述べられていく。

あとで山田さんにうかがうと、茶道をたしなむ人がよく当たるというわけでもないらしい。むしろ感じた通りに答える子どもがよく当たるとのこと。みんな「あー、おもしろかった」「わたし4つも当たった」と場が盛り上がっている。もらう飴は他愛もないものなのだが、やはりこれが増えるとうれしい。このお茶講の参加者はみな平等である。以前、県会議員が参加したことがあったそうだが、他の人と同じように答え、飴をもらって、たいそう喜んで帰ったそうだ。

確かにこのおもしろさは、体験してみなくてはわからない。正直言って、最初はどのようなことをするのか不安でいっぱいだったのだが、答えていく内につい熱くなり、最後には心地よさが残った茶会だった。

お茶講の意味

このお茶講を守ってきたのは、白久保集落の皆さんだ。現在では集落の16戸がすべて「お茶講保存会」のメンバーとなっている。世話人の山田さんに「いつから参加しているのですか」とうかがったところ、「2歳のときからです」という答えが返ってきた。子供のころから、お茶講が楽しみで、毎年心待ちにしてきたそうだ。手順や作法も見様見真似で覚えたので、特に難しいことはなかったという。「お茶の調合もお湯の量も、そんなに正確じゃあないですよ。適当なものです」と言う山田さんだが、原料は充分吟味し、最初から最後まで自ら責任を持って準備する。「人の口に入るものだから、それぐらいの責任感はあって当然です」とも。

山田さんが子供のころ、昭和10年当時は、その年の組長の家がお茶講が行われる「宿」となって、一年交替の輪番制。当時は現在のように2月天神の時だけではなく、正月の初天神の時にも開かれ、年2回お茶講が開かれていた。しかし、戦後、急速に生活様式や農業形態が変化し、昭和38年には「正月のお茶講は何かと用事が重なって大変だから」と取りやめて、2月24日の1回になり現在に至っているという。輪番制で行われていたお茶講の宿も、住居の改造や改築によって実際問題として行うことができなくなったため、昭和61年に県や町の補助を受けて「お茶講の家」が建てられた。

面白いのは、お茶講のあと酒を飲むことはせずに、そのまま家へ帰ることだ。同じ吾妻郡には長野原町堀之内集落にも最近までお茶講が残っていた。これも神事としてのお茶講なのだが、こちらは終了すると「直会(なおらい)」として酒を飲む。

白久保に比べ、より神事としての性格が強いのかもしれない。山田さんによると「お酒が入るとどうしてもケンカが起きたりするので、純粋な楽しみとしてお茶だけにしたことが長続きした秘訣かもしれない」とのこと。

参加してわかったことは、お茶講がざっくばらんに他人同士が結びつくのによく考えられたプログラムであるということだ。ゲームとしてもよく練り上げられていて、引き込まれる魅力に富んでいる。実名を呼ぶのではなく、与えられた呼び名を呼ぶのもコミュニケーションのクッションとして効果的だし、ほどよく個人の差が現われるようになっている点も、面白さを生む上で肝心な点だ。

さらに、日常の力の強弱が持ち込まれないようになっている。神事なので13歳以上の女性は参加できなかったが、子供は親と一緒に参加できた。あくまでもお茶講はハレの場で、ここでの参加者は平等だ。しかも、酒も飲まないということで、結果として日常の「ホンネの世界」がハレの場に反映されないようにもなっている。これなら、参加者は集団の一員であることを楽しみながら再確認できることだろう。

長く続いてきたお茶講だが、白久保集落にも高齢化の波が押し寄せている。保存会では山田さんの息子さんも後を継いでいるが、伝承していくのはなかなか大変だ。「だからこそ今日のようなお茶講体験で、いろいろな人に白久保のお茶講を知ってほしいのです。お茶講は、堅苦しいことのない暮らしのお茶ですから」

そう。お茶講は暮らしのお茶なのだ。ならば、ちょっとした手間をかけ、いまの生活に闘茶を甦らせることで、現代の「講」をつくることができるかもしれない。いま、主婦の間でティーパーティーが流行しているともいうが、こうしたお茶講をスタイルとして真似て、現代のお茶講の創始者になってみるのもなかなか良い趣向ではないだろうか。

「適当なものです」という言葉に「どうでもいい」という含みはない。「遊びの気持ち」で接すべき生活世界があるということを、山田さんの言葉は教えてくれる。こうした人づきあいの世界をつくり上げることが、がんじがらめになった現代生活にゆとりを生じさせるようにも思う。

お茶講は、遊びのある連帯意識=現代の講づくりのヒントなるのではないか。全国いろいろな場所で、現代のお茶講の創始者が生まれることを、山田さんともども期待している。

お茶講体験会に関する問合せ
中之条町教育委員会社会教育課
電話0279‐75‐2111

【お茶講のすすめ方】

1.まずお茶の準備。チンピ(みかんの皮を干したもの)、甘茶、煎茶を焙烙で炒って茶臼で挽き、4種類のお茶を調合する。一の茶 、二の茶、三の茶と客の茶の4種類で、天神様に捧げる茶は客の茶と同じもので、合計5服のお茶をつくる。5服のお茶は、とよみと呼ばれる見本茶と本茶の2組用意し半紙で包む。 とよみは外側に茶名を書き、本茶は途中でわからないように、半紙に切り込みを入れて茶名を書いたら畳んでおく。お茶の包みは、天神様の画幅を掛けた床に供えられる。
さらに、灯籠、連名帳、ササラ紙をつくる。
これらの準備には、当日の午後から各戸一人づつが出役する。準備が済むと一旦帰宅。夕食を済ませてから、子供たちを引き連れ、お茶講が行われる家に集まる。 かつて開催場所は各戸持ち回りで、お茶講が行われる場所は「宿」と呼ばれた。1986 年には「お茶講の家」が作られ、以来ここで開かれている。参加できるのは男性で、女性は厄年の13歳になると座敷に入ることすら許されなかった。基本的には村人の参加となる。

2.お茶講が始まる前に、子供たちが天神様の参道からお茶講の家までの辻に火を灯した灯籠を並べ、天神様を導く。

3.座敷に全員が集まると、組長の進行で開始。書記係が参加者全員の名前を「お茶講連名帳」に記帳し、「呼び名」の書かれたササラ紙が個々の参加者に渡される。この呼び名は、お茶講で使われる名前で「花、鳥、風、月、龍、虎、梅、竹、金、銀、米、銭、鶴、亀、松、桜、籾、稗、大豆、小豆、大麦、小麦、蕎麦、大根、榊、繭、生糸、粟、黍、朝鮮稗、柿、桃、梨、桑、杉、白菜、牛蒡、人参、葱、蒟蒻、玉蜀黍、玉葱、唐辛、いんげん、玉葱、栗、茄蕪、茄子、瓜、トマト、南瓜」などといった生活に結びついた作物やモノの名が使われる。そして、書記係は「勝」、計算係は「叶」と呼び名がつけられる。
用意が整うと、お茶坊主が囲炉裏とお座敷を塩で清め、天神様の掛け軸にお茶を供え、全員で一礼二拍して拝む。


4.まず味を覚えるため「見本茶」を頂くことになるが、最初の一杯は「天神さんのお茶」として、そのまま飲む。この味は再び客の茶として出されるので、この時点では覚えなくてもよい。次いで 、一の茶、二の茶、三の茶、客の茶と4杯のお茶を頂き、参加者はそれぞれに異なる味や香りを覚える。

5.試飲が終わると、順番を入れ替えて、どれがどれだかまったくわからないようにしてから「本茶」が供される。一の茶、 二の茶、三の茶は2回づつ、客の茶は1回の計7回の茶が出される。
開封後の茶の包み紙は、勝の横の畳に挿されたウグイス棒に突き通され、重ねられていく。これは、包み紙に書かれた正解を後から確認する際に順番が狂わないためである。


6.参加者は1回飲み終わる毎に、茶の番号を答えていく。一、二、三は2回、客は1回しか答えられないため、自分の答えを忘れないように、ササラ紙に書かれた茶名を折り曲げていく。各人の答えは、書記係の勝が「お茶講連名帳」に記録し、重複した答えを言うと「一はもう2回出ています」というようにチェックされる。そのため、途中で間違えに気づくと、辻褄合わせのためにますます混乱するという事態に陥る。

7.7回飲み終わると、答え合わせに移る。お茶を点てる役目を果たす人をお茶坊主と呼ぶが、お茶坊主が包み紙に書かれている答えを発表し、正解者に飴を配当していく。


  • 半紙に包まれたお茶を、順不同で並べる

    半紙に包まれたお茶を、順不同で並べる

  • お茶講連名帳の準備

    お茶講連名帳の準備

  • 参加者には、このときだけの呼び名がつけられる。

    参加者には、このときだけの呼び名がつけられる。

  • ササラ紙を折って、答えた番号の覚えとする。

    ササラ紙を折って、答えた番号の覚えとする。

  • ササラ紙を折って、答えた番号の覚えとする。

    ササラ紙を折って、答えた番号の覚えとする。

  • (6)天神様に一礼二拍。

    (6)天神様に一礼二拍。

  • 半紙に包まれたお茶を大きな片口にあけ、鉄瓶の湯を注ぐ。

    半紙に包まれたお茶を大きな片口にあけ、鉄瓶の湯を注ぐ。

  • 半紙に包まれたお茶を大きな片口にあけ、鉄瓶の湯を注ぐ。

    半紙に包まれたお茶を大きな片口にあけ、鉄瓶の湯を注ぐ。

  • 半紙に包まれたお茶を大きな片口にあけ、鉄瓶の湯を注ぐ。

    半紙に包まれたお茶を大きな片口にあけ、鉄瓶の湯を注ぐ。

  • 一服めは、杯に組み分けて分配。

    一服めは、杯に組み分けて分配。

  • 一服めは、杯に組み分けて分配。

    一服めは、杯に組み分けて分配。

  • 次からは土瓶で各自の杯に注いでいく。

    次からは土瓶で各自の杯に注いでいく。

  • お茶を包んでいた半紙の端には、正解を書いた部分が折り込んである。最後の発表のときまで、半紙は順番が狂わないように、うぐいす棒に差しておく。

    お茶を包んでいた半紙の端には、正解を書いた部分が折り込んである。最後の発表のときまで、半紙は順番が狂わないように、うぐいす棒に差しておく。

  • たくさん飲むと舌の感覚が麻痺するので、迷って飲み直すのはよくないようだ。

    たくさん飲むと舌の感覚が麻痺するので、迷って飲み直すのはよくないようだ。

  • 残っているはずの番号と、飲んだお茶の味が一致しないとき、「どこで間違ったのか」という疑問が頭をかすめる。

    残っているはずの番号と、飲んだお茶の味が一致しないとき、「どこで間違ったのか」という疑問が頭をかすめる。

  • (3)記録係の勝は、答えを手際よく連盟帳に記入していく。

    (3)記録係の勝は、答えを手際よく連盟帳に記入していく。

  • いよいよ正解発表。

    いよいよ正解発表。

  • 正解者には、ご褒美にお菓子が配当され、みんな子供のように大はしゃぎ。

    正解者には、ご褒美にお菓子が配当され、みんな子供のように大はしゃぎ。

  • 勝の仕事は、連盟帳に正解数の呼び名に応じた挿絵を描き込んで、完了する。

    勝の仕事は、連盟帳に正解数の呼び名に応じた挿絵を描き込んで、完了する。

  • 「久保お茶講保存会会長の山田藤吉さん。

    「普段着のまま、米や麦を作るのを同じ気持ちで続けてきたからこそ、現代まで継承できた」という白久保お茶講保存会会長の山田藤吉さん。

  • 半紙に包まれたお茶を、順不同で並べる
  • お茶講連名帳の準備
  • 参加者には、このときだけの呼び名がつけられる。
  • ササラ紙を折って、答えた番号の覚えとする。
  • ササラ紙を折って、答えた番号の覚えとする。
  • (6)天神様に一礼二拍。
  • 半紙に包まれたお茶を大きな片口にあけ、鉄瓶の湯を注ぐ。
  • 半紙に包まれたお茶を大きな片口にあけ、鉄瓶の湯を注ぐ。
  • 半紙に包まれたお茶を大きな片口にあけ、鉄瓶の湯を注ぐ。
  • 一服めは、杯に組み分けて分配。
  • 一服めは、杯に組み分けて分配。
  • 次からは土瓶で各自の杯に注いでいく。
  • お茶を包んでいた半紙の端には、正解を書いた部分が折り込んである。最後の発表のときまで、半紙は順番が狂わないように、うぐいす棒に差しておく。
  • たくさん飲むと舌の感覚が麻痺するので、迷って飲み直すのはよくないようだ。
  • 残っているはずの番号と、飲んだお茶の味が一致しないとき、「どこで間違ったのか」という疑問が頭をかすめる。
  • (3)記録係の勝は、答えを手際よく連盟帳に記入していく。
  • いよいよ正解発表。
  • 正解者には、ご褒美にお菓子が配当され、みんな子供のように大はしゃぎ。
  • 勝の仕事は、連盟帳に正解数の呼び名に応じた挿絵を描き込んで、完了する。
  • 「久保お茶講保存会会長の山田藤吉さん。


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