機関誌『水の文化』16号
お茶の間力(まりょく)

《茶》

古賀 邦雄さん

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん

1967(昭和42)年西南学院大学卒業、水資源開発公団(現・独立行政法 人水資源機構)に入社。30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。 2001年退職し現在、日本河川開発調査会、筑後川水問題研究会に所属。

江戸幕府は、井の頭池の水を引くためにお茶の水丘陵地を掘削し、神田上水掛樋工事を行った。この掘削土は、日比谷入地の埋め立てに利用し、今日の日比谷の街が造られた。五味碧水著『お茶の水物語』(吉井書店、1960)、同著『お茶の水讃歩』(日本経済評論社、1986)は、主に神田上水掛樋工事に関するものである。「お茶の水」の地名について、「この辺りに金峰山高林寺なる寺があり、ある夜境内に突然清泉が噴出し、世の評判となった。これを将軍家光が聞いて「御茶水」として献上を命じたとあり、また『上水記』に、家康、家光が度々井之頭を訪れ、池水でお茶をたてたのでここを源とする流れの川下に、御茶の水の名がついた」とそのルーツを記している。

俳聖松尾芭蕉は一時期ではあるが、神田上水工事の仕事に就いていた。33〜37歳のときである。酒井憲一、大松騏一著『芭蕉庵桃青と神田上水』(近代文芸社、1994)、大松騏一著『神田上水工事と松尾芭蕉』(神田川芭蕉の会、2003)には、江戸期の森林許六の『風俗文選』(1706)、蓑笠庵利一の『奥の細道菅菰抄』(1778)、喜多村信節の『庭雑録』(文政期頃)等の文献を引用しながら、上水の仕事が人夫か、水番か、現場監督だったのか、そのいずれかに携わったこと等を追求している。とにかくも芭蕉が生活のためとはいえ、水に係わる仕事に従事していたとは、驚きと同時に親しみを覚える。おそらく芭蕉は、神田上水の水でお茶を飲んでいたに違いない。

  • 『お茶の水讃歩』

    『お茶の水讃歩』

  • 『芭蕉庵桃青と神田上水』

    『芭蕉庵桃青と神田上水』

  • 『お茶の水讃歩』
  • 『芭蕉庵桃青と神田上水』


神田上水の通水後も、上水が届かない所や井戸で良質な水が得られない地域では、上水の水や上流の川の水が水売り業を通して、煮炊きやお茶にも利用された。東京都公文書館編『東京の水売り』(東京都、1985)では、水売り業が、江戸期以来の深川の水船業者、そして、明治期には水会社に組織され栄えたが、明治31年以降、近代水道の普及に伴って衰退していく過程を考察している。

水茶屋について、日本「水」の会編『事典・日本人と水』(新人物往来社、1994)は、次のように述べている。「江戸時代、寺社の境内や路傍で往来の人に茶を供し、休息させた茶店の称で、葉茶を売る葉茶屋と区別して、水茶屋といった。『本朝世事談綺』(1734)は京の祇園社(八坂神社)境内の二軒茶屋を、『嬉遊笑覧』(1830)は宇治橋際の通円を、水茶屋の始まりとする。(中略)店の奥に座敷を設けるところが現れると、それが男女の密会などの場となった。江戸では宝暦、明和(1751〜1772)ころ、両国、浅草、上野山下などの盛り場、あるいは寺社の門前、境内などに水茶屋が続出し、それぞれに笹森お仙のような美人の看板娘を置いて客を吸収した」

佐藤要人著『江戸水茶屋風俗考』(三樹書房、1993)には、両国の水茶屋(歌川豊国筆)、墨田堤茶屋見世図(一親斎広近筆)も描かれており、水を媒介とした男女の仲はロマンティシズムよりむしろエロティシズムを醸し出す。水の流れは女体を表現していると述べた作家も現れるほどだ。

  • 『東京の水売り』

    『東京の水売り』

  • 『江戸水茶屋風俗考』

    『江戸水茶屋風俗考』

  • 『東京の水売り』
  • 『江戸水茶屋風俗考』


茶船で、江戸期の文人たちは舟遊びに興じている。茶船は主として運送に用いた十石積みの川船であるが、屋根のある屋形船は川遊びに使われた。深野正著『下利根川茶船遊覧』(崙書房、2000)には、茶船に乗って布川から下利根川を銚子まで下り、遊んだ渡辺崋山や芭蕉、小林一茶の模様が描写されている。

横道にそれるが、芭蕉と一茶がそれぞれ〈蛙〉の句を詠んでいる。その俳風を比較してみたい。芭蕉は〈古池や蛙飛び込む水のをと〉と有名な句があり、一茶は〈おれとしてにらみくらする蛙哉〉と詠んでいる。芭蕉は侘びを追求した作風であり、一茶は川柳的で、自ずから俳風が対極的であっておもしろい。

この〈古池〉の句を総合的に捉えた復本一郎著『芭蕉古池伝説』(大修館書店、1988年)は、わずかな十七字の俳句の世界について、〈古池〉の人気の今昔、〈古池〉誕生秘話、〈古池〉人気の源流、〈古池〉評価の諸相、〈古池〉句のパロディーなどの内容から考証されており、興味が尽きない。

  • 『下利根川茶船遊覧』

    『下利根川茶船遊覧』

  • 『芭蕉古池伝説』

    『芭蕉古池伝説』

  • 『下利根川茶船遊覧』
  • 『芭蕉古池伝説』


茶と俳句の取り合わせに妙味を感じると、茶の湯を詠んだ江戸俳句を追っている黒田宗光著、矢田健爾画『茶味俳味』(淡交社、2003)に、一層の興味を覚える。

とくとくと 水まねかば来ませ 初茶湯(素堂)

新年に汲む水を若水と呼び、寅の刻に汲み上げる水を井華水(せいかすい)と呼ぶ。茶の湯の所作はまず水を汲み、運ぶことから始まる。

大ぶくや かはらぬ色を 初むかし(不白)

正月の初茶の湯には大福茶を祝う、所作の喜びを詠んでいる。さらに次の句もある。

蝶々の ふはりとゝんだ 茶釜かな(一茶)

硯にも 茶にもうれしや 春の水(青蘿)

茶は、本来道徳的な一面を持っている。武士社会の一期一会の世界だった男茶道は、明治時代には婦女子の良妻賢母型の躾育成のために重要視され、変化を遂げた。茶道家で化学者でもある堀内國彦著『茶の湯の科学入門』(淡交社、2002)に、「湯は長く煮えすぎると平衡化してなれた水になってしまう。この時水差しの水を一柄杓(ひしゃく)汲み、釜に加えてから、濃茶に湯を注ぐ。すでに千利休の時に始まった」とある。水が生き返るのである。茶の湯だけでなく澱んだ汚れた水は活性化を図りたい。

  • 『茶味俳味』

    『茶味俳味』

  • 『茶の湯の科学入門』

    『茶の湯の科学入門』

  • 『茶味俳味』
  • 『茶の湯の科学入門』


お茶と水について、「中国茶の味は名茶の場合は『濃なれど、渋ならず、淡ならずである』とくに武夷岩茶(ぶいがんちゃ)(ウーロン茶の最高峰)の場合、『甘く爽やかな香りが蘇る』ものでなくてはならない。緑茶の名茶龍井(ろんじん)は淡泊で幽遠、香気があって清々しい。黄金の芽の異名をもつ龍井茶は天下無双の称賛を得ている。つまり余韻が名茶の必須条件なのだ。「名茶の余韻は名水を得て響き輝く」と、左能典代は『茶と語る』(NTT出版、1991)の中で記している。

茶の原郷を探求した守屋毅著『お茶の来た道』(日本放送出版協会、1981)は、西南中国の茶、北部タイ、ビルマの食べる茶、四国山地の碁石茶を訪ね歩いている。タイでは、茶を漬物にし、料理に使われているという。

2003年10月17日「全国茶サミット福岡大会in八女」の会場にて、食べる茶を体験した。啜り茶である。小さな蓋のある湯飲み茶碗に極上級の玉露を入れ、湯を注ぐ。蓋を半分開けて茶を啜る。菓子をいただき、また湯を入れて啜る。仕舞いにその茶がらにポン酢をかけて食べる。茶の香り、舌ざわり、喉ごしもよく、余韻が漂う至福の時を味わった。

日本茶業中央会は、立春から八十八夜の5月2日を「緑茶の日」と定めた。その制定理由は、茶摘みの最盛期で、この日に摘まれた新茶はこの上もなく栄養価が高い所以である。ついでながら6月1日は「麦茶の日」、8月1日は「水の日」、10月1日は「コーヒーの日」となっている。

茶は水を媒介として、コミュニケーションの円滑化を図り、エロティシズムを醸し出し、文学性を高め、道徳性を求め、健康を維持する効用があるようだ。「茶寿」は108歳を祝う。茶の字、茶冠(ちゃかんむり)を二十、その下の部分を八十八に見立てると、合わせて108になる。人は誰も死から免れられない。「茶寿」とまでは言わないが、大いにお茶を飲み、健康で長生きと願いたい。

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