機関誌『水の文化』18号
排水は廃水か

雨水排水路が汚水を流す下水道に 江戸から東京へ流れる排水の歴史

栗田 彰さん

下水道史研究家
栗田 彰 (くりた あきら)さん

1937年生まれ。元東京都下水道局職員。 日本下水文化研究室評議委員。著書に『川柳・江戸下水』(日本下水道文化研究会)、『江戸の下水道』(青蛙房1997)などがある。

川柳を手がかりに

私は東京都下水道局に勤めていたのですが、広報係のとき、ある都民の方から「江戸の下水道はどうなっていたのですか」と質問を受けたのです。ところが、下水道局には江戸時代の下水道について史料が何も残っていない。唯一『東京市下水道沿革史』に、「近くの堀や川に流していた」とだけ書いてある。私は落語が好きでしたので『三軒長屋』という噺の中に「長屋の前のドブを堀に見立てて・・・」という場面を思い出しまして、今から考えると恥ずかしい話ですが、「多分、素堀りのドブがあって、流れているうちに地中に染み込んでしまったんじゃないですか」と答えたのです。

そのときの経験から、江戸の下水が気になり始め、資料を集めてみようと思い立ちました。しかし、何をどのように集めていいのかわからない。結構参考になったのが『半七捕物帖』。でも、著者の岡本綺堂がいくら江戸風俗に詳しいといっても、所詮明治以降の人です。江戸時代に暮らした人が書いたものはないかと探したところ、気がついたのが川柳なんですよ。

川柳は民俗資料の宝庫です。そこで、『柳多流全集』(1765〜1838の間に順次刊行)という川柳全集に掲載されている約10万句の索引集から、ドブ、雨、下水、雪隠といった言葉を使った句を全部抜き出していきました。

川柳にはドブという言葉はしょっちゅう出てきますから、溝のことはドブと呼ぶのが一般的だったようです。ドブという言葉は幅広く使われており、溝という漢字にドブというルビがふられることもありますから、細い流れ一般を指しているのでしょう。せせなげ、せせなぎ、細流れなどとも呼ばれていました。

下水という言葉が出てくる句は一つしか発見できませんでした。「小侍、蜘蛛と下水で日を暮らし」という川柳がありますが、これが唯一。武家に雇われている少年が小鳥の餌にする蜘蛛やミミズを下水から捕らえて侍から小遣い銭をもらい暮らしているという意味です。下水という言葉が文献上に表われ出したのは室町時代のことだそうです。語源は古代神道に根拠を持つもので、ケスイつまり穢水、ハライによって浄化されハレに戻ることが前提とされる水を意味しています。

「東京市下水道設計図」

「東京市下水道設計図」

排水路の種類

幕府が江戸の地誌をつくるということで、町方からの書き上げを編集した『御府内備考』や『新編武蔵風土記稿』、それと沽券絵図は大いに参考となりました。沽券絵図は現在で言う地籍図でして、土地の所有の区割りや所有者名が記されています。

これらを見ますと、江戸の下水は屋敷地境、町境に造られていました。当時は下水という言葉は、下水路という意味にも、下水そのものを指すときにも使われていました。ちなみに下水道という言葉は、明治になって下水道法ができてからの言葉といわれていましたが、調べていくと江戸時代前期の町触れの中で使われていたことがわかります。

現在の私たちは、上水、下水と使い分けますが、江戸時代では最初に下水を水道と意識しており、それに対して神田上水、玉川上水のような「上水」という言葉が後から使われたと思うのです。大坂や江戸では下水のことを水道と呼んでいました。

ちなみに、排水路には規模によっていくつかの種類がありました。建物の庇(ひさし)から落ちる雨水を受ける溝は、雨落下水と呼び、表通りにありました。ドブと呼んでいる溝もこの類。家の前にあって、幅は7〜8寸(23〜26cm)ですから、ひとまたぎにできる大きさです。割下水と呼ぶ、水はけのために造られた排水路もありました。これは道路の真ん中にあって、幅は2間(3.6m)ほど。明暦の大火のあとに江戸が拡張された折りに、本所、深川地域が開発されますが、本所は田地だった所なので土地が湿っている。その水はけをよくするために、割下水を造りました。武家屋敷が多かったことから、「黙礼のなかをながるゝ割下水」という川柳が見られます。割下水を中にして、武士が黙礼をかわしている光景を詠んでいます。

排水路の本管ともいうべきものが屋敷地境、町境に造られた下水で、幕府が造ったものが御公儀下水、今でいう民間所有のものは自分下水とか、手前下水と呼ばれました。沽券絵図に、例えば「鉄砲町大下水」という町名を冠したものもあったようです。こちらは、幅3尺から6尺(0.9〜1.8m)。今の町境は、通りや川筋が境界線になっていますが、当時は通りが境界ではなく、通りをはさんで、向かい合うのが一つの町ということです。民俗学的には、悪霊(あくりょう)が入り込むのを防ぐために町境に排水路をつくった意味があるようです。いわゆる結界のようなものです。

下水は石積みや木樋で造られ、地中に埋まっていましたが、神田上水の上をまたいでいた下水は、「箱樋(はこどい)」で通されていました。その様子は、絵に描かれています。

  • 石組下水と竹雨樋:中央の竹雨樋が屋根の雨水を下水に流している。(「風俗四季哥仙」"五月雨"鈴木春信画)

    石組下水と竹雨樋:中央の竹雨樋が屋根の雨水を下水に流している。(「風俗四季哥仙」"五月雨"鈴木春信画)

  • 表店、棟割長屋、裏店から出た水は町境下水を経て、川に注ぐ。

    表店、棟割長屋、裏店から出た水は町境下水を経て、川に注ぐ。

  • 雨落下水 店の軒下に下水が描かれている。錦袋圓『江戸名所図会』

    雨落下水 店の軒下に下水が描かれている。錦袋圓『江戸名所図会』

  • 町境下水『守貞漫稿 巻之三』

    町境下水『守貞漫稿 巻之三』

  • 石組下水と竹雨樋:中央の竹雨樋が屋根の雨水を下水に流している。(「風俗四季哥仙」"五月雨"鈴木春信画)
  • 表店、棟割長屋、裏店から出た水は町境下水を経て、川に注ぐ。
  • 雨落下水 店の軒下に下水が描かれている。錦袋圓『江戸名所図会』
  • 町境下水『守貞漫稿 巻之三』

下水浚いは鳶の仕事

下水の管理は原則として町が行います。町境の下水は両側の町で分担して決め、時代が下ると、掃除や補修の費用を分担しあう下水組合をつくり管理をする例もありました。これを町入用、「まちいりよう」とか「まちにゅうよう」と呼び、地主が屋敷の間口に応じて負担したので、長屋の住人が払うということはありませんでした。武家屋敷も一緒になった組合では、武家は禄高に応じて負担費用を決めたそうです。

下水浚いを鳶が町から委託されていたというのは、面白い発見でした。なぜ鳶かというと、土木一般に使う道具を持っていたから、という理由が有力でしょう。江戸風俗に詳しかった三田村鳶魚(えんぎょ)(1870〜1952)が記した中に、大家が下水の掃除をすると、鳶が「俺たちの仕事だ。余計なことをするな」と妨害する話が出てきます。彼らはもともと地元の土木技術者だったわけです。そして、鳶は後の享保時代になると、町火消しになります。町火消しを組織した当初は、町の旦那とか素人を集めたのですが、素人でうまくいかない。そこで、やはり身の軽い人ということで、鳶が中心になったようです。

ドブや溝は町人の管理でしたが、堀や川の浚いは町奉行が入札で請負に出します。芥(あくた)取りと呼ばれた浚いの専門業者で、堀や川の浚渫(しゅんせつ)だけではなくて、町のごみを集めて埋め立て地に運搬することもしていました。

排水量は少なかった

現在の東京の地図からは想像もできないほど、江戸にはたくさんの堀や川が流れていました。ですから、私は「堀や川も、江戸の下水道の役割を果たしていた」と言っています。当時は下水といっても、屎尿(しにょう)は別ですし、家庭から出る雑排水もそれほど汚れていませんから、川や堀に直接流れていっても問題はなかったのでしょう。町なかの下水は6〜9尺(1.8〜2.7m)くらいの幅でしたが、深さはせいぜい膝まで。「放れ馬 どぶから旦那首を出し」という川柳は、暴れ馬が来て避けるためにドブに飛び込んだ旦那が首だけ出して様子をうかがっているという様子を詠んでいます。現代の私たちは、下水路に落ちるというと、ひどく汚い感じがしますが、昔のドブは大して汚れていなかったはずです。

堀をすべて掘り終わったのは元禄時代のころだそうです。

このころになると江戸の人口も増加します。1657年(明暦3)で推定28万人。元禄時代(1688〜1703)で35万人。享保時代(1716〜1735)で50万人。これはあくまでも町人の人口でして、武家人口は正確にはわかりません。

―これだけの人口の排水量は膨大なものでしょう。

いいえ、私は、そんなに多くないと思っています。水の使い方が現在と全然違いますから。

まず、水を得ることが非常に大変な仕事でした。神田上水、玉川上水が江戸市中を給水していましたが、今のように蛇口をひねれば水が出てくるわけでもない。井戸端に行き、水を汲んでこなければならないわけで、それは大変な仕事です。

それと風呂屋がいい例ですが、それぞれの地域に銭湯があり、個人宅で風呂を持つことは大変な贅沢でした。これは水が稀少だったことだけでなく、薪が高かったことも原因にあります。

町人が使う水も、米のとぎ汁はふき掃除に使いました。その残りは植木に撒く。下水に入る余地はほとんど無かったのではないでしょうか。朝、顔を洗い口をゆすぐぐらいでしょう。洗濯、野菜を洗う等はあるでしょうが、ふんだんに水を使っていたはずはありません。ですから、江戸の下水道は、汚水排除ではなく、雨水排除のために造っていたのでしょうね。汚水といっても洗剤を使うわけでもなく、便所は汲み取り式で、下水道は汚れていなかったと思います。

江戸の屎尿処理

東京で屎尿の汲み取り料金、つまり、汲み取ってもらう側が相手に金を支払うようになったのは1933年(昭和8)になってからです。それまではお百姓さんが、肥料代としてお金を払って汲み取りに来ていました。

江戸というのは、現在の地図でいうと山手線の内側と墨田区、江東区です。世田谷の郷土資料館で見たのですが、世田谷、赤羽、葛飾あたりの農民は、江戸市中に汲み取りに行っていたようですね。水路がある所は「肥舟(こえぶね)」で屎尿を運び、水路の無い所は馬で運びます。肥舟は、揺れでチャプンチャプンと揺れないように内部が仕切られていたので「部切舟(へきりぶね)」とも言われたり、葛西から来たので「葛西舟(かさいぶね)」とも呼ばれました。

農民が払う汲み取り料は、長屋では大家さんの収入となります。今の感覚で、幾らぐらいになるでしょうか。川柳で「こひ(肥)ぞつもりて、大根が五十本」という句があります。1年分の肥えがその値段ということですね。あと茄子が50個とかね。「光陰矢のごとし、雪隠もう溜まり」などという句もおもしろいですね。

肥料の需要が増えれば、屎尿の値段も上がります。寛政のころ(1789〜1800)、農民が町奉行に汲み取り料の値下げを嘆願した記録が残っています。長屋では大家が現金で受け取っていたようで、かなりの金額になったようです。農家の汲み取り料金値下げ要求は、大家の収入をも左右するわけで、決着まで1年程かかっています。

いずれにしても、屎尿処理に至るまで、自分たちのことは自分たちでやる、という自治の精神が生きていました。

  • 右と下:部切船と肥取 花咲一男『江戸かわや図絵』太平書屋

    部切船と肥取 花咲一男『江戸かわや図絵』太平書屋

  • 左:四谷大木戸を肥桶をつけた馬が行く。『江戸名所図会』

    四谷大木戸を肥桶をつけた馬が行く。『江戸名所図会』

  • 右と下:部切船と肥取 花咲一男『江戸かわや図絵』太平書屋
  • 左:四谷大木戸を肥桶をつけた馬が行く。『江戸名所図会』

江戸の「水を捨てる」

長屋を例にとると、長屋の台所から出た水は、木の樋、あるいは竹筒で外のドブにつながっていました。井戸端の排水も、どぶに行きます。そのドブが、また表通りの下水へと流れていきました。

江戸時代には、水を無駄に捨てるという感覚はありませんでした。使えるだけ使って、余ったものを流すという感覚だったと思います。防火用に溜めた天水桶にボウフラが涌かないように、3日おきに変えろと町触れがありましたが、道路が舗装されているわけでもないですから、そういう水は埃が立たないように乾いた道に撒くなど、ただ捨てるのではなく有効に使っていたのだと思います。

ただ、為政者の側では治水のために水を捨てるということはあったでしょうね。

これは私の推測ですが、徳川家康が1590年(天正18)の8月1日に江戸に入ります。翌々日の8月3日に大雨があって、現在の不忍の池と、その南の池、浅草の千束のあたりの池がそろって溢れ水びたしになっています。それを見て家康は「水を何とかして排除しなくては」と思ったのではないでしょうか。

治水の面からいうと、水路の出口に水門を造らないと水が逆流します。隅田川とつながる水路出口には水門が無かったようが、隅田川に出る手前、割下水が横川につながる所では、水門である「圦樋(いりひ)」が造られていたという記録があります。その開閉の番人がいたこともわかっています。隅田川の河口に水門がなかったのは、日本堤などの土手の外側が遊水池として機能していたからで、大水が出て水浸しになっても構わない地域を、ちゃんと残していたからです。

復元された長屋。水瓶の横から木樋で水が排水される。 (江戸東京博物館『模型で見る江戸・東京の世界』1997)

復元された長屋。水瓶の横から木樋で水が排水される。
江戸東京博物館『模型で見る江戸・東京の世界』1997

銀座煉瓦街の下水道

1872年(明治5)に銀座の大火があり、その後に有名な煉瓦街ができます。そこに下水道を造ったと言われています。どの下水道史を読んでも、道路の両脇にあった側溝にふたをしたもので、これが西洋風の溝渠(両側のU字溝に蓋をしたもの)と書いています。しかし、私はその記述を間違っていると思っています。きちんと暗渠で造られていたのではないかと思うのです。

東京都立中央図書館に『東京地理志(ママ)料 巻之四』の草稿が所蔵されており、それには「道路中央の車馬道両側の底には一條の暗渠が設けられている。横には数條の支溝が通じていて、雨水や各家の汚水を受けてこの暗渠に送られる。暗渠は下水を集めて堀河(三十間堀川・京橋川・外堀・汐留川)に流す。暗渠の中は常に潮の干満により下水が流され、不潔なものが停滞することはない」と書かれ、暗渠であったことがうかがえます。

煉瓦街の両脇に家が造らましたが、家には便所も台所もありません。ですから、入居者は台所をあとから増設したらしいですね。便所は、建物の裏側の共同便所を利用した。江戸時代と変わらないですよ。映画のセットのようなものです。ですから、私は銀座の煉瓦街の下水は、雨水排除のために造られたもので、汚水もそこへ流されたというものだったと思っています。

[銀座煉瓦街](中央区立京橋図書館蔵)

[銀座煉瓦街]
中央区立京橋図書館蔵

近代下水道

明治10年代になると、何回もコレラが流行しました。コレラの原因は下水が水道の中に入るからではないかと心配され、東京市も水道を造らねばならないと憂慮し始めます。

神田下水は1884年(明治17)に着手されます。これは汚水処理をせず、近くの竜閑川と神田川に排水するようにしただけで、屎尿は入ってきません。最初は東京全域に張り巡らされる予定だったのですが、資金が続かなくて、1888年(明治21)まで工事は続けられたそうです。

同年、東京市上下水道調査委員会が「東京市下水設計第一報告書」を提出しています。「屎尿は今まで通り肥料として使う」「雨水は今までのドブを使う」「汚水だけを排除する」という計画で、内務省衛生工学師W・K・バルトン(英国人)の案です。これも資金が足りないということで、結局は、上水の整備が優先されることになりました。

明治20年以降になると、富国強兵で工場が徐々に増えてきました。本所の割下水が汚れ始めたのも明治20年代以降のことです。

上水の整備もある程度目途がたってきた東京市では、1904年(明治37)に東京帝国大学の教授だった中島鋭治に下水道設計を依頼しました。ここで注意しなくてはならないのは、中島もバルトンも、衛生工学という点から上下水道を一体として捉えています。また、屎尿を流し処理するという考えが無かったということです。中島の計画はバルトン案とほぼ同じですが、違っていたのは汚水と雨水を同じ管で流す合流式を提案していることです。もちろん、衛生面では、汚水と雨水を分けて流す分流式の方が良いということは当然わかっていたのでしょうが、資金がないということで、簡単に決めてしまったという事情もあるようです。下水道料金の徴収にしても、「川で充分だ」という反対の声がずいぶんと上がったといいます。

紆余曲折の末、東京で下水道の工事が始まるのは1913年(大正2)で、三河島汚水処理場が稼働を始めるのは1922年(大正11)です。

東京市の下水設計のために、中島鋭治は海外視察をしています。当時は、パリの下水もロンドンの下水も、町から遠くへ運んでそのまま川に放流するものでした。

1914年(大正3)には、現在標準的に使われている浄化技術「活性汚泥法」がイギリスで研究開発されたという記録があります。ただ三河島では当初は、活性汚泥法ではなく、散水濾床法(さんすいろしょうほう)といって、下水を石の上に撒いて、石に付着している微生物が浄化をするという仕組みをとっています。その後、名古屋で1924年(大正13)に活性汚泥法で最初の処理場が造られましたし、その2年後には三河島にも活性汚泥法が導入されます。

  • 1919年(大正8)〜1921年(大正10)に行われた、現在の和泉橋 (神田川にかかる橋)付近の下水道工事。

    1919年(大正8)〜1921年(大正10)に行われた、現在の和泉橋 (神田川にかかる橋)付近の下水道工事。現場は大雨のとき、下水管内に造られた堰を越えた下水が、神田川に流れ出るようになる「分水堰」の築造工事。
    『第七回東京市下水道事業概要』より

  • 東京市時代の芝浦下水処理物のシンプレックス式曝気(ばっき)槽

    東京市時代の芝浦下水処理物のシンプレックス式曝気(ばっき)槽

  • 1919年(大正8)〜1921年(大正10)に行われた、現在の和泉橋 (神田川にかかる橋)付近の下水道工事。
  • 東京市時代の芝浦下水処理物のシンプレックス式曝気(ばっき)槽

川が汚れ出した

川が汚れだしたのは終戦後の印象で私の人生とも重なりますが、ひどくなったのは1950年代後半から、つまり昭和30年以降です。

先ほど申し上げたように1933年(昭和8)、東京市が汲み取り料金を徴収することとなりました。大正時代までは農民が町中まで買いに来ていました。つまり昭和初期になって、屎尿が農家にとって財と見なされなくなってきたわけです。そこで処理に困り、東京市が東武線などに頼んで近郊まで屎尿を運んでもらったりしています。この列車は「黄金列車」と呼ばれました。

屎尿は資源ではなくなり、水洗化が進んで処理される対象となっていきました。

豊島区池袋を水源とする弦巻川という川がありまして、昭和の初め、そこを下水化することを誇りに思うと高田町町長が言った石碑が雑司ヶ谷に残っています。これも当時の気分を表していますね。

昭和に入ると家庭に風呂が普及し始めます。また、1940年(昭和15)ころの調査では、水洗便所の設置価格が高く、普及率はかなり低かったようです。当時田園都市として計画された田園調布は、浄化槽を備えていました。

戦後復興が中心だった政策が、そろそろ経済成長期になり、工場廃水が問題化するにつれて、衛生観念も強まって、下水道を急いで造ろうという風潮になってきました。全国下水道促進会議が「下水道国策樹立要望の請願書」を国会に提出したのが1955年(昭和30)で、2年後には建設省(当時)都市局に下水道課ができます。それまでは道路整備が優先され、国も下水道に資金を出したがらなかったのですが、1959年度(昭和34)は前年度に比べ、下水道事業に対する国庫補助が倍になりました。東京にオリンピックを招くということがあったからでしょうね。このころから地盤沈下、洪水といった問題が多発し始め、川の汚染もひどくなりました。

上水道と下水道が別々に

もともと東京の下水道事業の所管は、1911年(明治44)東京市下水改良事務所が始まりで、1926年(大正15)に土木局の下水課となり、1936年(昭和11)に水道局に移管されました。これは下水道を造る資金を、上水道の方から財源調達しようとしたためです。

戦後、1962年(昭和37)に下水道局が水道局とは別に発足します。これはオリンピック準備への対応や、事業資金にも国庫補助がつくようになったこともあり、水道局と下水道局が別れて、独自に仕事をしなければならないという意図があったと思います。また、下水道が土木産業の振興などに利用された面もあるかもしれません。

高度成長で下水道局が新設されたので、急遽、技術者を集めねばならないということで、求人キャラバン隊というのが下水道局につくられ、全国の工業学校を回ったというエピソードも残っています。

昭和40年代になると、流域下水道が各地で導入されます。下水道法では、下水道はもともと各市町村が整備することになっています。東京都の場合は特殊で、23区内の仕事を東京都が市の代わりに行っています。

流域下水道というのはわかりやすくいうと、2つ以上の市が、川の水質保全を目的として県が処理場と下水道幹線を造り、そこに各市が下水道をつないでいくというものです。各市が公共下水道をつくり、それをつないだのが流域下水道です。

1967年(昭和43)に、建設省(当時)都市局長が流域下水道の事業主体を都道府県とする通達を発令し、国の事業に対する補助率が1/2となりました。まあ、国として事業を進めなさいと後押しするようになったわけですね。

下水を開く

私は、山形県の庄内地方にお住まいの親戚のおばあさんから、「最近の人は水をいじめている」と言われ、ドキッとしました。私も実際に見に行きましたが、そのおばあさんは洗剤は使わない。台所で使った水は、屋外の沈殿池にいったん溜まり、上澄みだけ川に流れます。あとで使う人が困らないように、汚さないで捨てるという姿勢が、排水に対して行き渡っています。私たちは水道水がまずいとか臭いとか文句を言いますが、自分が捨てた水が原因の一部であることを、考えようとしていません。

そういう目で改めて東京の排水を見ますと、使った後の水はすぐに見えなくなってしまいます。使った水を捨てたり流したりすることは、無意識に行われていますが、それは見えないからです。しかし江戸時代には、開渠ですから流すことが見えていたのです。

今の人は、自分が使った水がどこを通って、どこで処理されているか知らないと思います。だとしたら、子供のころにそういうことを「躾(しつけ)る」必要があるでしょう。「教育」ではないのです。

きれいにする、という基準は人によって違います。

下水処理によって、排水が100%きれいになるという下水道局員に対して、「その処理水は飲めますか?」と聞いた人がいました。「飲めません」との答えに「それじゃあ100%きれいになったことにはならない」と聞いた人は思います。局員は排出基準をもとに答えていますが、聞いたほうは「飲めるかどうか」がきれいの基準なんですね。私はこういった普通の人の感覚は大切だなあと思いました。

この感覚の差は、住民と行政がよく話し合わなければいけないのだけれど、これまでそういうことはされてこなかった。下水処理場の見学なども、積極的に行って、見て、知ってほしいですね。節水意識は進んできましたが、水質に対する意識はまだ遅れているように思います。

最近考えるのは、下水道ができてたかだか100年。果たすべき役割は、時代とともに常に変化しているのだから、その変化に対して柔軟に対応することが必要なのではないかということ。今の時代に、本当に生活に必要なものは何なのか。水洗便所なんか浄化槽で充分で、わざわざパイプで遠くに持っていって処理することもないのではないか。

江戸に学んで、汚水処理、雨水処理、屎尿処理のそれぞれについて、根本的なことを問い直さなくてはなりません。住民と行政が話し合うといっても、せいぜいが工事説明会止まり。もっと計画段階から市民と話し合うといいと思います。

大切なのは、住民と行政の信頼関係を取り戻し、協力していく姿勢を双方につくることではないでしょうか。

隅田川に流れ込んでいた江戸の堀や川

栗田 彰『江戸の下水道』青蛙房 1997



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