編集部
わかっているようで、ちゃんと知らない水商売。『広辞苑』には「客の人気によって成り立ってゆく、収入の不確かな商売の俗称」とある。一般的には風俗関係の商売を指していうことが多いが、それは江戸時代の「水茶屋」からきているからだ、ともいわれている。
いずれにしても、「商いは水物」といわれるように、不確かな収入の業種をいうことには違いない。一見さん相手のいい加減な店のせいで、水商売にはネガティヴなイメージがつきまとうことも、また事実なのである。
ところが実際の「水」を商う業種は、水商売の従来の定義とは程遠く、非常に堅実である。電気やガスは民営化されても水道が依然として官に置かれるのは、水がそれだけ生きていく上で不可欠なものだ、とみんなが思っていることの表れともいえる。明治20年に都市水道が横浜に初めて施設されて以来、「清浄にして豊富低廉な水の供給を図り、もつて公衆衛生の向上と生活環境の改善とに寄与することを目的」(水道法)として、水道という商売はたゆみなく努力を続けてきた。いわば、「律儀な水商売」なのである。
そんな水商売事情に異変が起きたのは、ここ10〜20年のこと。社会インフラとして整備している水道の水ではなく、ペットボトルに詰められた水や家庭用浄水器を、生活者が競って買うようになったのである。最初はファッション性や機能性に敏感な一部の人の間だけの流行だったが、水道水がきれいなことで有名な地方都市でも同じ有り様に陥っている。
大口利用者が割高になる料金システムを逆手に、自前の水道システムを売る企業も出現し、水商売は今や、競争の時代に入っている。
しかし選択肢が増えること、特に災害時や渇水時に、代わりとなるオプションを持つことは決して悪いことではないだろう。
ここにきて一気に進んだ水商売の多様化は、客の人気によって成り立つ商いの「人気」の部分、いわば消費者の要求が多様化した結果、引き起こされたのではないだろうか。
その要求の一つに「味」がある。「水道の水はまずい」と言われるようになったのは高度経済成長期のころで、源水が汚れているのだから、水道水の味はなかなか向上しなかった。
しかし環境への配慮や法的規制によって源水の状態が改善され、技術進化も後押しして、今では、水道水は格段においしくなっている。逆に集合住宅の貯水タンクのメンテナンス不良や、古くなった住宅内の水道管の劣化が「まずさ」の原因になっていることも多いのだから、水道水にとっては濡れ衣のようなものだ。その濡れ衣を晴らすために、水道局の局員がメンテナンスを呼びかける巡回も行なわれているという。
しかし塩素臭の問題は水道法で決められている以上いかんともし難く、この部分においては、水道水は他の競合に大きく水を開けられているといってよい。
しかし「味」だけが問題なのであれば、浄水器の水を水筒に詰めて持ち歩けばよいではないか。ところがそんな人にはほとんどお目にかからないのだから、やはり人気のもとは、当然ながら「味」だけではなく、ボトルに詰められているという「利便性」も人気の上位に挙げられているのである。味や利便性に人気が集まるのは、直接的でわかりやすい構図だ。
しかし「信頼感を買う」という新たな価値観の登場には、考えさせられるものがある。大企業がつくっている製品だからとか、コンビニにボトル詰めされて並んでいるからとかいった、工業製品に対する消費者の信頼感が、水に対しても大きくなっているようだ。そのよい例が、タップウォーターである。
例えば東京都水道局は、2005年からタップウォーターの販売を始めた。金町浄水場の高度処理水をボトルに詰め、「東京水」というブランドネームで売り出したのだ。2004年はPR用に無料提供していたが、現在は都関連施設で、500ml入りを100円で販売しており、売れ行きも好調だという。
ボトリングした過程で塩素除去しているので、蛇口の水に比べれば塩素臭がない分、おいしく感じるだろう。日頃蛇口から出る水に不満を感じていた人が、塩素抜きで蛇口を経由しないボトルドウォーターに飛びつくのは、実際の味もさることながら、「スーパーやコンビニで売るぐらいだから、まずいはずがないだろう」という信頼、つまり「安心感を買っている」と言い換えることもできるだろう。
この安心を裏づけるのは、製品の質の向上のためには、製造コストが上がっても安心を追求するという製造者の姿勢である。その具体的な要素の一つが、水利用なのだ。業務用の水に求められる「純度」や「機能性」や「衛生感」や「環境への配慮」にも、日増しに高いハードルが課せられている。
携帯電話に搭載されているたくさんの半導体チップや液晶画面は、製造過程で大量の純水、洗浄水の使用が必要とされる。メーカーは製品の歩留まりを上げるために造水・再生水・排水処理に多大なコストをかけているのだ。
また、紙や製鉄・金属も生産過程で大量の水が費やされる製品だ。火力発電や原子力発電も、タービンを回すには蒸気が必要で、これまた多くの水を使う。食糧生産や加工の過程でも、水が大量に使われている。
つまり私たちの周りには、水の姿をした水だけではなく、姿を変えた水「バーチャルウォーター」が溢れているということだ。
生産過程でコストが上がっても、生産者が製品の品質を追求することで、最終消費者の私たちにも安心感が届けられている。
生産者が生産過程で安心を追求し、販売者が監理しながら適正な価格で販売する、という暗黙の了解の上に、生産者と販売者と消費者という三者間での信頼関係は成り立っている。耐震にしても輸入牛肉にしてもさまざまな偽装事件の数々は、最終消費者が自己責任で危機管理できない部分が、生産者と販売者に委ねられていることを、改めて教えるものでもあった。
だから、水への配慮が低い状況でつくられた製品は、安心して購入できないとして、そのうち排除されていくのかもしれない。
安心が気になるにしたがって、私たちは「水にもコストがかかっている」という価格のシグナルを、安心の指標として使い始めていることに気づく。
昔は、水は安価で豊富にあれば済んだ。しかし今の消費者は、商品としての水に「それなりの価格だから安心できる」という認識を持ち始めたのだ。
このような変化に応じて、さまざまな水商売が活路を見出そうとしている。
ボトルドウォーターのメーカーも新しい水供給システムを売る企業も、人気を獲得するための独自の魅力アピールに真剣に取り組んでいる。
そして競合の増えた水道局も、その動きに積極的に参画しようと努力している。しかし、皮肉なことに、環境問題や渇水への対応として節水を呼びかけてきたことで、水の使用量が伸び悩んでいる。特に水道料金は、受益者負担の原則があるために、節水効果が財政的足かせになっているのだ。
だからといって、どんどん消費を煽ればいい、というわけにいかないのが水道の悩ましいところである。ここに、水商売の難しさがある。だからこそ、水には一般の消費財と違う倫理観が求められるのかもしれない。
1998年にノーベル経済学賞を受けたインド人、アマルティア・センは、自己利益を最大化することだけを目指すような「合理的な愚か者」から抜け出るには、どうしたらいいかについて言及している。センは、相手の気持ちになれるような、他者とのしっかりとした関わりを描ける「多層的な社会」で重要なのは、「共感すること」と「不利益になることはわかっていても責務としてコミットメントすること」だという。これこそが、市場を機能させるために必要な文化と行動なのである。
したがって、消費者が安心に価値を置くようになると、生産者も、できるだけ水の安心に貢献することが、社会的意義だと気づくようになる。
水源林を守るというコストは、これまで自治体や国の役目と考えられていた。しかし今、生産者は水源林の保全や、水源地の環境保護に自ら向き合っている。それは何も金銭だけでなく、ちょっとした労力や時間、機会を提供することで、製品価格に反映しづらい水の持続コストを支援しようという志である。それが社会の中で水商売をする者の誇りである、と考える企業が生まれているのである。
センの言葉はまた、江戸時代の商売人が持っていた矜持と一脈通じるものがある。そして、現代の水売り企業の志にも通じるように思うのである。
タダで安心できる水など存在しない。かといって利を狙い過ぎると、取引は成立しなくなる。目先の利だけを狙わず、子や孫の遠い将来を思い、商売人の責務を誇りを持って果たしていくことが、結局は健全な水市場につながる。これが、新しい水商売の理なのである。
この律儀な水商売の理が、すべての商いの当たり前になってほしいものだ。