機関誌『水の文化』24号
都市公園

水路を公園にする夢を描いて 都市に水と緑の回廊をつくる

岐阜県各務原市(かかみがはらし)学びの森 左下の写真提供:慶應義塾大学石川幹子研究室



石川 幹子さん

慶應義塾大学環境情報学部教授
石川 幹子 (いしかわ みきこ)さん

1976年、ハーヴァード大学デザイン学部大学院卒業 1994年東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程修了 工学院大学建築学科教授を経て現職 主な著書に 『都市と緑地』(岩波書店2001)他。

研究と実践

20世紀は、都市が急速に拡大した時代でした。そのために自然が破壊され、多くの緑地が失われていきました。私は失われたものをただ惜しむのではなく、緑地を確保するための知恵を理念や計画、政策、財源、人のネットワークといった多面的なアプローチによって浮き彫りにする必要がある、と考えてきました。

しかし、こうした研究はほとんどなされてきませんでした。私自身、現場での活動という形で実践から入ってみて、やはり学術研究の裏づけがなくてはいけないという思いを強くして、20数年を費やして数多くの都市の事例分析を中心に、学術研究を行なってきました。そして再び実践に携わることで、研究に裏打ちされた実践の確かさを実感しているところです。

公園のはじまり

そもそも今日の「公園」に相当するものは、江戸時代から存在していました。花鳥風月を愛で、四季を楽しむ生活スタイルは、日本人の暮らしに根ざしたものだったのです。江戸でいえば、隅田川の堤、品川の御殿山、飛鳥山などが有名です。また神社仏閣は信仰の対象であると同時に、庶民のレクリエーションの場としても活用されていました。

明治維新が起こり、土地制度が改革されたときに、明治政府は官有地となった土地を近代的な土地利用に生かしていかなければならなかったのです。

私がここで感心するのは、欧米に肩を並べる都市づくりをしようという気概を持っていた明治政府が、いち早く公園制度を導入したことです。このときの太政官布達(1873年 明治6)がなかったら、日本の都市にこれだけの緑地が担保されなかった、と思っています。

この布達の意味するところは、「三大都市をはじめ、都市地域における古くからの景勝地、旧跡などは、これまで『群衆遊観の場所』として親しまれ、かつ地租を課していない土地であるのだから、『永く万人偕楽の地』とするのにふさわしい場所を公園とするため、各府県においてはそれぞれに調査を行ない、図面を添えて大蔵省に伺い出ること」

という内容でした。つまり、古くから庶民に親しまれてきた社寺境内や大名屋敷などを公園と名づけることにより、近代都市の都市施設として位置づけようとするものだったのです。

この太政官布達の文章、実に味わい深いものだと思いませんか。上から強制するのではなく、自分たちで調べ、誇りとする場所を選んで決めなさいという内容なのです。

これに基づいて設置された公園は、東京では上野、芝、浅草、深川、飛鳥山の五公園、大阪では住吉、四天王寺、箕面山、浜寺の四公園、奈良では奈良公園、京都では円山公園、水戸では常磐公園(偕楽園)、水戸公園、高松では栗林公園、長崎では長崎公園などがあります。

この中でも戦後の政教分離で、社寺に返されてしまったものもあります。浅草公園などがその例で、今ではまったく残っていません。中には、社寺に返された後、経営の都合で切り売りされて消えていった公園もあります。日本の近代化百年の光と影が明瞭なのが公園なのです。

つまりいくら良い公園があって、制度があっても、地元の人の育てようという心と制度とがうまく結びついていないと、残っていかないのだということがわかります。

公園づくりはまちづくり

例えば、奈良公園では東大寺などの建物を維持するために大きな森を造り、それを約千三百年の間管理して維持してきたわけですね。伊勢神宮も同様で、現在の地にできたのは雄略天皇のころといわれていますが、20年ごとに殿舎を建て替える式年遷宮が始まったのは持統天皇の時代です。以来、お宮を建て替え続けているわけですが、20年周期でお宮が建て替えられても、それが千三百年以上も続けば伝統になります。どちらも、その場所を守る制度と人々の意思の結果です。

また、弘前公園(青森県)のお花見は有名ですし、高遠城址公園(長野県)、高岡古城公園(富山県)など、大事に維持されてきた公園はたくさんあります。

したがって公園をつくるには、緑の文化を持続させる仕組みをいかに内包するかが問題になるのです。

九州の木が北海道では育たないように、それぞれの場所にふさわしい自然本来のありかたに公園がなっているか。それを支える人がいるか。社会としてどういうふうに公園を支えていくかという、インフラとしての仕組み。つまりこの3つが都市の公の園としての公園づくりに必要な要件ではないかと思います。

世界の都市に目を転じると、素晴らしい水と緑の公園がたくさんありますね。社会的共通資本として、水と緑の財産を持っているまちは、しっかりと財源を担保してきたまちです。方法は都市によって異なります。ただ、財源の担保のない所にいい公園はできていません。

良い公園とまちをつくるのに、何よりも大事なのは理想です。どういうまちにしたいか、どういう暮らしにしたいか、そういうことを次の世代に託していくわけです。水と緑を育てるには、自分の代だけでは無理ですからね。

二番目は、法律や制度といった、実現するための社会システム。

三番目は人ですね。

そして、四番目が財源。

でも、この財源がしっかりしていないと、いくら理想が良くても実現できません。公園とまちづくりはまったく同じです。

これからは、水や緑の公園「で」まちをつくるようになるでしょう。まちづくりそのものが、水と緑のインフラづくりであって、その上にまちづくりがあるというように発想を転換しないと、良いまちはできないと思います。私はそれを、実践し続けなければいけないと思っています。

パークシステムでつなぐ

良い公園は、本来は緑だけではなく水と一体となり、地域に根差したものです。ところが残念なことに、水と緑が一体となり、うまく動いてこなかったというのが、日本の公園が近代化する際の特徴です。

伊勢神宮では、前に五十鈴川があります。あそこでみんなは禊ぎをして、参拝するわけですね。各地の城址は、お堀と一体になった緑がある。それなのに、なぜ日本では水と緑が近代化の過程で切り離されていったのでしょうか。このことが、実は大きな課題なんです。

太政官布達で「公園を届け出してください」と言っていたころは、水と緑は一体でした。広島の厳島神社は海も山も一緒で、それをばらばらにしようとは日本人なら誰も考えませんでした。しかし、後につくられた公園では、水があまり意識されなくなってしまいました。

その一つの理由は、都市内河川がしっかりとした社会資本として日本の都市計画の中では捉えられてこなかったこと、都市の文化として認識されなかったことがあります。

というのは昔は下水道が整備されていませんでしたから、生活排水が都市内河川に垂れ流されて、川が死んでいきました。都市内河川は都市の中で一番汚い場所になってしまったのです。そのために埋められたり、道路になったり、町の裏側になっていきました。つまり、下水道などの近代的インフラが立ち上がらない内に都市内河川が排水路化してしまい、川、本来の社会資本としての価値が消えてしまったというところに、最大の問題があるわけです。

ところが今、下水道が100パーセント近くまで普及するようになり、やっと川を復活させられる可能性が見えてきました。そして市民もようやく、都市内河川をどうするかについて気がついてきたのです。公園などの社会的なストックを取り戻す条件が、100年かかって、やっとそろったということです。

そこで私は、パークシステムという言葉で、水と緑を都市に取り戻そうと考えています。

パークシステムというのは、19世紀の中ごろにアメリカで生まれた言葉です。これは、緑地(公園、河川、湖沼、都市林等を含む)と並木のある広幅員街路(パークウェイ、ブールヴァール)のネットワークを都市形成の基盤として導入する手法で、当時は新しい響きがあったんですね。私は今、日本でこれに相当するものを「水と緑の回廊」という言葉で表現できるのではないかと考え、実際のまちづくりに応用し実践しています。

財源の確立が必須

では、都市計画をつくるときに、都市内河川のような水の場を社会的なストックとして見なかったのはなぜか、という疑問が湧きます。

もっとも影響したのが、財源の問題です。

例えば、都市計画で道路をつくるときに土地がないとします。川は本来蛇行して流れていますが、それを真っ直ぐにして効率よく流すと、余分な土地が出ます。その土地を売り払って、都市計画の財源にしました。

つまり、都市計画やまちづくりに対して、しっかりとした財源を築くことができなかった。その解決のために、日本の場合は、川という社会的共通資本にしわ寄せがいってしまった。それも一級河川ではない、都市の中で生活に密着した都市内河川にです。

ですから、私はいつも水と緑を考えるとき、理念とそれを支える法律や政策だけではなく、財源をとても重要視しています。これを抜きにしては何も語れないからです。

アーバンデザインから生きものの場へ

公園に求められる期待も、時代によって変わってきました。

高度成長のころはレクリエーションやアメニティなど、おしゃれな感じが求められました。アーバンデザインという言葉を使っていいと思いますが、都会も郊外もおしゃれであればいいという考えのもと、緑を切り取って、スポーツ施設やレジャー施設をつくるという時代でした。

私自身も1990年代に、お台場の海浜公園やプロムナードの設計にかかわったことがありました。あのころは、都市博(1996年に東京海浜部で開催が計画されていたが、反対を公約した青島幸男氏の都知事当選により1995年に開催が中止された)開催の計画などもあり、アーバンデザイン的に舗装して、木を植え、並木をつくりました。しかし照り返しが強くて、木がうまく育ちませんでした。ペーブメントは立派なんですけど。結局、プロムナードをここ10年の間に緑の深いものに変えました。自治体も水と緑の空間を少しずつ増やしていくしかないということに、ようやく気がついたわけです。

でも設計した当時は、「照り返しで木がもたない」とは、誰も想像がつかなかったと思います。お金をかけてつくりましたから、そのときはそれでいいと思っていましたが、木は正直ですからね。

水と緑をつくることと、建築との一番大きな違いは何でしょうか。

それは、私たちが相手にするのは、生きものであるということ。すべてそこにいきつくわけで、人間だけではなく、命を育むまちがいいということに、時代が変わることでようやく気がついてきたのです。

ですから、公園に求める価値が変わってきたと同時に、現在はそれほどまでに殺伐とした都市になってしまったということではないですか。昔は、ちょっと田舎に行けばホタルも飛んでいたし、ザリガニもいました。決して珍しいものではなかったのです。生物多様性を大切にするようになったといいますか、川でも、そこに生きものがいるということに目線が移ってきています。

岐阜県各務原市新境川

岐阜県各務原市新境川

公園という既成概念

公園が矮小化されたのは、戦後のちょっとの間だけです。戦災都市が54カ所もあったことを考えれば、当時は非常事態であって復興が優先されたことは仕方がなかったと思います。

しかし、自分たちの足下を見る時代にようやく立ち返った今、先人の苦労を受け止めて、私たちは何をするべきなのか真剣に考えなければなりません。

規制緩和が進んで、容積率が大幅に拡大され、超高層ビルも建つようになってきました。市場経済で良くなる部分もありますが、まちというのは片手に公共の福祉が、常に厳然として存在しなければなりません。公共の福祉がきちんと機能しないと、まちは人間的な生きた空間となりません。そう考えると、現在の規制緩和はきわめて市場メカニズムに偏ったものだと思います。

では、そのための財源をどのように確保したらいいのでしょうか。

そのヒントとなるのが、ニューヨークのセントラルパークやエメラルド・ネックレスと呼ばれるボストンのパークシステムです。これらは開発利益の地域還元という形で緑地をつくっています。

ボストンの場合ですと、今、もっともお洒落なまちがバックベイと呼ばれる地区です。ここは、もともと二束三文の湿地でした。そこに世界で初めての第三セクターをつくって、埋め立てをしながら、並木道と水辺に市民が近寄ることができるようなまちをつくっていきました。

公園化されると、湿地がいい水辺環境となり、地価が値上がりしました。普通、その利益は開発当事者のデベロッパーが自分の懐に入れるわけですが、地価の増加分を土地増価税という形で公共に還元し、そのお金を水辺と緑への公共投資に充当していったのです。

今の日本の例でいうと、丸の内では今まで800%だった容積率が大幅に緩和されて1300%になりました。500%の増加ですから、地面の5倍分です。その増加地価分(容積ボーナス)の分配が、社会的に公平なかたちでなされているか、現状では不透明です。容積ボーナスというのはオープンなシステムでしかるべく公共投資に還元されるべきです。

こうした容積率の割増分の開発利益、つまり自分が額に汗して働いて得た収入ではない収入、都市計画のルールが変わっただけで突然生まれた収入、それをどう公共に還元するかという仕組みを社会的に立ち上げないといけません。

うまくいっているまちというのは、利益を得ることとそれが還元されることが、きちんと循環しています。再びボストンの事例ですが、広域圏の緑地を広域パークシステムとして担保しています。それはボストンが繁栄するためには水がいる。水は山から来る。山の森が守られなければボストンのまちは立ちゆかない。しかし一元的に見たら、人があまり住んでいない山や農家にお金を出して、森を守らねばならないのはなぜなのか疑問が出るのは当然です。そのために広域協議会をつくって、ボストンの人がお金を出して、森を買っていったわけです。自分たちの必要な水のインフラは、自分たちでお金を出し合って買うことで守っていくというわけです。

こういう仕組みは21世紀になった今でも大いに参考になります。日本の経済のエンジンとして動いている場所から産出される利益が、公平な形で分配されるべきです。首都圏を支えている例えば利根川や多くの農地、そういう所に資金が環流するような仕組みが必要です。

言い換えれば、それは、開発利益を社会的共通資本(注1)に投資していくということです。

うまくいっているまちでは、そういう社会的共通資本をつくってきました。例えばミネアポリスでは「公園と公園道路税」という目的税をつくり、自分のコミュニティに対して税金を払い、それで並木道やミシシッピー川沿いの斜面緑地を保全することに使われてきました。

これからは「水や緑の公園でまちをつくるようになる」と申し上げたように、まち全体、生活の場全体が公園である、と考えることで、縦割りの所管や税体制までをも変えていく必要があるでしょう。

(注1)社会的共通資本
経済学者の宇沢弘文が使い始めた言葉。一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、豊かな経済生活を営み、優れて文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。社会的共通資本は、たとえ私有ないしは私的管理が認められているような稀少資源から構成されていたとしても、社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理、運営される。

みんなの公園へ

ここで、最初に申しあげた「公共性が問題だ」という答えになります。

公共性が日本では問題になるのですが、明治以来「公はお上がつくるもの」という形できてしまったので、自分たちが工夫して公共の空間をつくるという発想や仕組みが育ってきませんでした。

私はこれからの都市公園は、公という考え方を抜本的に変える必要があると思います。「不特定多数の人たちが共有する空間が公共の空間である」という考え方にならないと、いいものができないと思っています。

これに呼応する動きを、私が今、携わっている岐阜県各務原市の現場でも実感しています。この岐阜県各務原市のケースは、NPOやボランティアなど、地域を背景にした市民の力はすごい。自分の身近な環境を豊かにするという生活の実感と、地球規模の出来事とが矛盾無く同じテーブルの上に載るということが地域貢献なんですね。私もいろいろなケースを見てきましたが、各務原の皆さんは、「どうしてここまで熱くなれるのだろう」と思うぐらい、高い意識を持っておられます。活動の場所さえあれば、人はいるんだ、という手応えを感じましたね。

どんなまちでも、計画がないまちは駄目なんです。今は計画を軽視する傾向がありますが、理念を形にしたものが本来の意味でいう計画なんです。どこを目指していくのか目標がわからない限り実現は無理、というのが真実です。遠い目線つまり長期的な計画、かつ柔軟な計画であることが大切です。

各務原市の森市長さんにも「これからは住民主導でないとまちは動きませんから、現場主義でいきましょう」と言いました。その方針を愚直に守り、みなさんでつくってきたのが「水と緑の回廊計画」です。

都市緑地法は法定計画です。どんな計画も法律に根拠を持ったものでないと、どうにもなりません。法律に根拠を持つからこそ、実現していく段階で財源と事業を結びつけることができます。

それまで個別の都市公園法とか河川法などで行なわれてきたものが、やっと1998年(平成10)に法定化され、長期計画として全体のプランニングが可能になったのです。この類の長期計画が日本の都市計画に位置づけられるまでに1世紀かかりました。かなりの自由裁量も与えられ、自分で手を挙げて緑をつくることがようやくスタートしたところです。

まち全体が公園

まち全体が公園にならないと、都市公園ではない、というのが私の考えで、人が住んでいる真ん中にこそ良い空間が必要です。

各務原市の中心部には、かつて市の誇りであった岐阜大学農学部がありましたが、昭和40年代に移転してしまい、跡地をどうするかという議論が起こっていました。都市計画道路が予定されており、土地は切り売りされてしまう恐れがありました。

岐阜大学がなくなったということは、考え方によってはまちの心が失われたということです。そのことを補うために、何をしなくてはならないのか。ニューヨークにセントラルパークがなかったら、パリだってブローニュの森がなかったら、都市の品格が今日のようには、ならなかったかもしれません。各務原はそんなに大きな都市ではありませんが、やはりまちの心として、真ん中を公園にするべきではないのか、市民のみなさんの意見を実現するため、ワークショップをひらきました。そして、交通量調査を実施して、その計画道路が本当に必要なのかどうか、再検討した結果、都市計画道路の建設は廃止となりました。

ここで必要だったのは、計画実行者に「信じるに足るものをつくる義務」という意識があることと、実行に至るまでの丁寧なプロセスを踏むことです。計画道路を廃止するにしても単に過去の否定としてではなく、当時の様子、現状でのニーズの変遷、地域住民や利用者の声など、目標に向かって進むプロセスを住民主導で丁寧に積み上げていくことが、まちにとっての大きな財産になると思います。

そして岐阜大学の跡地を公園に、計画道路を並木のある街路にしたところ、大変に評判が良く、公園に隣接して住んでいる人たちがガーデニングをするようになりました。中にはブロック塀を取り払ってオープンガーデンにされた方もいます。みなさん、自分の庭だと思って管理してくださっています。そういう意味では、町内会などの人の輪がある地方都市にこそ、これからの可能性を感じますね。

公共空間の捉え方も変わってきていて、水辺のそばの福祉センター、柵のない養護学校、庭園駐車場も含めて、まち全体を公園にするという試みを始めています。本年6月には、古い火葬所を新しくしたのですが、農業用水の溜池と一体とすることにより、美しい『最後の場所』に生まれ変わりました。オープンスペースを持たない事業は各務原にはない、と言っていいほど、公園事業だけでなくすべての所管の事業が柵をつくらないオープンスペースづくりを進めています。

いま、市内を流れる新境(しんさかい)川という放水路を公園にする夢を描いています。新境川は本来の境川の洪水を防ぐために、大正年間に直線の放水路としてつくられました。この川を引き込んで流れを公園に利用したり、交通量調査を実施して、堤防に載っている道路を付け替えることも視野に入れています。

  • 岐阜県各務原市 那加福祉センター

    岐阜県各務原市
    那加福祉センター

  • 岐阜県各務原市新境川

    岐阜県各務原市新境川

  • 左:岐阜県各務原市雲雀通り  右:岐阜県各務原市 養護学校

    左:岐阜県各務原市雲雀通り  右:岐阜県各務原市 養護学校

  • 農業用水の溜池と一体化した美しい火葬所
    写真提供:各務原市

  • 岐阜県各務原市 那加福祉センター
  • 岐阜県各務原市新境川
  • 左:岐阜県各務原市雲雀通り  右:岐阜県各務原市 養護学校

歩けるまち、拡げる川

ここで問題になるのは、モータリゼーションと水路の相性の悪さです。

公園づくりにとって、車は大きな課題です。欧米の都市で今、何が変わってきているかというと、車社会に逆行するのではなく、町の真ん中からは車をシャットアウトするまちづくりになっていることです。そのために必要なインフラ整備が進められています。ドイツのハイデルベルグでは、地下駐車場に車を止めて、地表は歩ける環境にしています。

赤ちゃんでもお年寄りでも、自分の歩いていける空間に良いオープンスペースが欲しいのです。そのためには、それだけの社会的コストを払うという社会的決断と、市民の意見を丁寧に聞くプロセスが必要です。

戦後、日本の川がまちから締め出されたと、先程申し上げました。都市の中に水辺空間を増やすためには、川にもっと自由を与え、川の空間をもっと拡げて考えることが鍵になるでしょう。学校、道路、公園、農地などの土地と川との関係を見直せば、川の空間を拡げることは、まだまだできると思います。

それぞれの土地・建物の、互いの敷居を取り払うだけで、私は本当に良い空間ができると思います。そこが鍵だと思います。



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