IPCC第四次評価報告書が公表され危機感を煽られていた割りには楽観的な内容だった、とホッとした人も多いと思う。 その理由を、政治的動機に基づく批判にも耐え得るような「具体的な推定値をあげるだけの研究がなされてこなかったため」と沖さんは分析する。 そして、エネルギー価格の高騰もあり得るとしてコンパクトシティ、地産地消、中山間地、といったキーワードを沖さん流に提言。 困難を伴う合意形成も、危機感を煽ることではなくコスト意識によって変えられるのでは、と話してくれた。
東京大学生産技術研究所人間・社会系部門教授
沖 大幹 (おき たいかん)さん
専攻・関心分野 地球水循環システム。気候変動がグローバルな水循環に及ぼす影響や、バーチャルウォーターを考慮した世界の水資源アセスメントなど。 主な著書に『水をめぐる人と自然』(共著有斐閣2003)、『千年持続社会』(共著資源協会編・日本地域社会研究所発行2003)、『水の世界地図』(監訳丸善2006)他。
IPCC第四次評価報告(気候変動に関する政府間パネル)の判断が出ました。悲劇的な将来展望がマスコミでもいわれていましたから、意外と楽観的だった、という声が聞かれます。
今出ているのは政策決定者向けの要約で、政治的な意図としては温暖化の影響を1990年レベルから2℃以内に抑えよう、という目標を設定し、それに対する国際的な合意を得ようという意志で進んでいったように思います。
しかし、気温上昇が2℃だと大丈夫で3℃だと絶対ダメかというと、必ずしもそんなことはないわけで、説得力がないという意味で失敗しています。
また、水への影響としては、水と気温の変化が必ずしも一対一で対応しているわけではありませんので、2℃、3℃といってもシナリオによって変ります。また、その温度上昇が今すぐ起こるのか、100年後に起こるかによっても、影響の出方が違います。
しかし、温暖化した場合の水の総量を足していくと、結果として水資源は増えることが計算されています。降水量は増えるけれど、陸からの蒸発量はそれほど増えないので、水資源は増える、というのが理由です。
降水の変化を見ると、極域と湿潤熱帯域は10%から40%程度増えます。逆に熱帯・亜熱帯乾燥域では10%から30%減ります。旱魃(かんばつ)の影響を受ける地域は増大し、激しい降水によって洪水のリスクも増えるでしょう、といったあたりは具体的な数字も出ているので新しいのですが、既にわかっていることも多い。また地域によって、現象の表れ方が違うのですが、そこまで言及しておらず具体性に欠けるのです。
また、政策決定者向けのサマリーに載せることで、「うちの国は温暖化で水資源が増えるらしい」という誤った受け取り方をされる懸念があるような図は、サマリーでは却下されたという事情があります。温暖化で水資源が増えるのであれば、温暖化を抑えるための施策や予算を獲得していくのが難しくなる、というのがその理由です。
確かにそういう誤解を招きかねない表現方法なのですが、それは現状のアセスメントの仕方が不充分だからです。
たとえば、降水量を年総量で表現すると、増えることになる地域では水資源が豊かになるように思われてしまいます。しかし、本来、欲しい時に欲しい量が降らないと実際には資源として使えないのです。従って、年総量というざっぱくな表現ではなく、月単位、日単位といったもっと細やかなデータの解析が必要になっていきます。そうでないと現実的な水ストレスを把握することはできません。
世界の水資源アセスメントの研究は、我々を含めて5グループほどが取り組んでいるのですが、そういう意味ではもっと頑張らなくてはいけない、と思っています。
レポートの結果としてこれぐらいしか盛り込めなかった理由は、温暖化影響の基礎研究が少ないからです。そのうちの一つが、たとえば我々がやっている水ストレスの研究です。
水ストレスにも、いろいろな指標がありますが、よく使われるのは年間一人当たりどれぐらいの水を使うことができるか、というものです。これは河川の流量変化と人口の変化だけを考えれば割り出すことができる簡単なものです。これに対して水需給の比による指標もあり、この場合、水需要の将来の変化も想定する必要があります。
農業に関していえば、潅漑面積が人口と同じように伸びてきています。将来も、きっと伸びるでしょう。ただし、土地の制約がありますので潅漑農地は今の面積より増えないし、都市を侵食することはできないといった制限をかけて、しかし基本的には人口に合わせて増えるだろう、という見込みをしています。
工業用水に関しては、日本は再利用がとても進んでいます。工業部門のGDPが高いのは、アメリカ、中国、日本の順ですが、日本だけがGDPの割には、極端に取水量が少ないのです。アメリカや中国も、日本ぐらい再利用率を上げれば、工業用水使用量はまだまだ減らせるのではないでしょうか。
一人当たりのGDPが増えると、一般的に生活用水使用量も増えていきます。GDPに対する平均的な使用量との差は、文化の差として将来推計にも考慮しています。
IPCCでは
A「経済高度成長を重視」
B「環境保全を重視」
1「グローバリゼーションが進む」
2「地域化が進む」
を組み合わせたものを予測のシナリオにしています。
このシナリオは、さまざまな研究分野で共有されています。私も、世界の水資源が気候変動にどのように左右されるかという点を考察するときに、「総水資源量」や「深刻な水ストレス下の人口」の算定に、このシナリオを用いました。
1のグローバリゼーションの指標は地産地消の価値観からいうと悪いイメージがありますが、ここでいっているグローバリゼーションというのは「価値観の共有」を指しています。ここで規定されている概念は一般的に感じている言葉のイメージとは少し違っているようです。水資源に直接働きかける因子でいえば「活発な技術移転」を指します。技術移転などによりエネルギー効率が上がり、工業用水の効率化が改善されると期待されます。「価値観の共有」という意味からは人口抑制につながります。
平均温度が上がるのは、2050年以降のことだといわれています。しかし、極端現象のシグナルは、それよりも早く顕在化するのではないか、とすでに第三次報告書でいわれています。
では、極端な現象はどれぐらいの頻度で起こるのでしょうか。
気温の例でお話します。極端な現象が起きる確率は、気温の頻度分布曲線の裾野の面積で表されています。平均気温が上がり、分布曲線が右にシフトすることで三角の部分、「暑い日」の面積が大きくなる、つまり生じる確率が大きくなるわけです(「気候変動モデルの違いによる異常気象の確率」上図)。
また、平均が変らなくても、気温分布にバラツキが増えて裾野が広がることで三角形部分の面積が大きくなります(同中図)。実際には両方が併せて起こる(平均気温が高くなるとともに、分布が変化に富む)と考えられます(同下図)。今だとたまにしか起こらないことがしょっちゅう起きると懸念されているわけです。
同じように雨も、今は200年に1回ぐらいしか降らない大雨が、将来は80年とか60年に1回の頻度で降るようになる、ということです。500年に1回しか降らない大雨が100年に1回降るようになる。そういうことなのです。
それを地図に落とし込んだのが、左の日本周辺地図です。二酸化炭素が2倍になったとき1日に50mm雨が降る確率というのは、将来どのぐらいの頻度になるかということを表しています。現在20mmの雨が降る頻度で50mmの雨が降るようになったら、深刻な状況ということですよね。同じ発生確率で比べると豪雨の強度は約1割ぐらい増えそうです。
ただ、現在のモデルシミュレーションには限界があり、たとえば観測された東京の最大日降水量は200mmとか300mmなのですが、これは雨量計で計ったもので、モデルの値はそれよりもかなり小さく、単純に比べられないところもあります。
そういう計算結果を現実的な河川の計画に落とし込んでいくことができるか、というのが今後3、4年の非常にホットな研究課題だと思います。
治水安全度が20分の1として、それを50分の1に上げようとしているのが、現在の状況です(下図)。同じ生起確率の豪雨の強度は1割程度増える、と考えられていますから、同じ設計容量であれば、治水安全度はかえって低くなります。現状で目指している50分の1という目標が、温暖化によって遠ざかってしまうということです。気候変動によって引き起こされる設計容量のプレミアムを、どう実現していくかが問題だということです。そして、本当はその解決にかかるコストを、お金で換算しなくてはならないのです。
温暖化に対応するためにどれぐらいの規模のことをしなくてはいけないか、そしてそれにどれだけお金がかかるのかは示されていないけれど、私は「日本はなんだかんだ言ってもお金があるので、温暖化しても対応できる」と思っています。
川の場合の試算は、確率がどう変化するかを見て、それに対してどれぐらい水増ししなくてはいけないかを推測するのであれば、比較的簡単だと私は思っています。難しいのは、放っておいた場合に、どれぐらい被害が増えるかという予測です。
そういう研究には今まで誰も取り組んできませんでした。どれぐらいの頻度で、何年に1度の確率の雨が降ったからどうなったのか、ということを私たちは全国規模で調べる研究をやろうとしています。
本当の流量と計算上の流量には、どうしても差が出てきます。それで計算上の流量と実際の観測水位を強引に結びつける計算式をつくって、仮想水位流量曲線のようなものをつくるのです。すると、計算結果の誤差傾向が一定だったら、水位はだいたい合うでしょう。水防で重要なのは水位ですから、これは使えます。今現在やろうとしているのは、この研究です。
温暖化したときにどうなるかも、土壌雨量指数にヒントを得た「流量確率指数」(コラム【流量確率指数/年】参照)を利用して、現在と将来でどれぐらいリスクが変化しますよ、といえるのではないでしょうか。それがないと、どれぐらいの確率でどのぐらいの豪雨が降ったら、どれぐらいの被害が出る、ということまでいえないわけです。堤防をどれだけ高くするかで、どういう効果があるかということも、こういう研究がベースにないとはっきりしないでしょう。
ちなみに流量確率指数の計算は毎日リアルタイムに行なっており、うちの研究室のウェブで見てもらうことができます。
まあ、現在はほとんど起こらないことが、温暖化すると100年に1回にしろ200年にしろ、起こり得るようになる可能性があります。
そういう将来像を突きつけられたときに、現在の気象条件下での設計許容量を嵩上げするか、しないか、という問題は、合意形成にかかわってきます。もうこれくらいの安全度でいいじゃないか、という方向に、みんなの気持ちが傾くことだって考えられます。
土砂崩れが起きる確率が高い地域に住むリスクに対しては、膨大な時間と予算が必要となる対策工事だけではなく、新規立地の抑制、既存住宅の移転促進といったソフト対策を推進しようとする「土砂法(注1)」というのができています。
そういう危険地域に対しては「分譲はやめてください」とか、「家の建て替えはしないでください」とか規制をして、徐々に安全な場所に人口を集約化していくことは有り得ますし、トータルで見たときに、私はそのほうが健全のような気がします。
国連の持続可能な開発委員会から諮問を受けてまとめた報告書の中に、「海面上昇が予測される地域より低い土地の新たな開発をやめるべきだ」という勧告が出ています。やはり、そういうアクションを起こすべきでしょうね。
日本ですら、現段階で堤防などの設計目標が満たされていないんです。ですから、計画の嵩上げは現実的ではありません。まして途上国は、全然到達できていません。そこの認識が大事なんですよ。まずは、今の設計目標の実現を目指すことは、少なくとも無駄じゃないね、という共通認識が確認されたことに、今回のIPCC報告の意味があると思います。
気候変動に関するODA施策をどうするか、という会議が昨年行なわれたのですが、そこでも現状の脆弱性に対応することが、温暖化気候変動に対応するための第一歩であるという認識を得ました。私は、それは基本的に正しいと思います。
(注1)「土砂災害防止法」
2000年(平成12)4月27日成立、翌年4月1日施行。土砂災害の被害を受ける恐れがある危険箇所は年々増加し続けているが、すべての危険箇所を対策工事するには、膨大な時間と予算が必要となる。そのため土砂災害の恐れのある区域を明らかにして、危険の周知、警戒避難体制の整備、住宅などの新規立地の抑制、既存住宅の移転促進といったソフト対策を推進しようとするもの。
こう見てくると、日本に関してはやはり住まい方を集約していってコンパクトシティを目指すのがいいと思います。住まい自体は集約化して、公園がみんなの庭のような役割を果たす。そういう住まい方が治水のためにもいいんじゃないでしょうか。
コンパクトシティというのは、集まって住むことでエネルギーを効率的に使うことです。そう考えると100年後のエネルギーがどうなっていくかで、いろいろ左右されますね。
千年持続学的にいうと、20年、30年より先のことを予測することには、あまり意味がありません。それより、こうであってほしいということを考えるべきであろうと思います。
それは夢といっていただいてもいいですし、目標といっていただいてもいい。やはり、こうあってほしいということを考えることが建設的ですよね。ただそれがわからないときには別の意味でシナリオ(将来の社会像を具体的に検討すること)が必要で、たとえばエネルギーが現在と同じぐらい使えるとしたらこうかな、とか、使えないとしたらこうかな、というように考えるべきでしょう。
日本のように平地が少ない国にとって、水害に遭いやすい地域を、安心して住めるようにしてきたことは重要だったわけです。しかし、今後エネルギー価格が高騰し、人口が減少したときには、ポンプに頼らなければ安全が確保できない地域に住む人を減らし、町をコンパクト化していくことは理にかなっているのではないでしょうか。
それには、駐車場の上に部屋をつくるような2階建て、3階建ての戸建住宅をたくさんつくるのではなくて、集まって住める5〜6階建ての住宅を増やすべきだと思います。
0メートル地帯は、下水だってポンプアップして成立しているんです。つまり、ものすごく資源を投入している。全部を水門で守るというやり方も、エネルギー価格が高騰したら維持できなくなるでしょう。
100年後に化石エネルギーが使えなくなっている、ということはまず「ない」と思いますが、価格が非常に高騰している可能性はあります。電気料金が10倍になったときに、水害常襲地を守るためのコストとして、それだけかける価値を見出せるかどうかですね。
エネルギーが水とかかわるという側面から考えると、石油価格が高騰したとすると自然エネルギーを使った発電の価値が上がり、水力発電の価値も上がりますよね。そうすると水が流れない川の区間が増えるかもしれませんから、水環境にとっては逆風要因かもしれません。
私はときどき通勤の途中で、猫とか犬とかを見かけるんですが、こういう動物がいなくなったら寂しいなあ、と思います。できたらもう少しいたらいいですよね。猫とか犬だけではなく、リスとかも。そういう意味で山間地の自然や動物と住宅地の緩衝地域として、里山の存在は重要ですよ。
しかし2107年というと、6000万人、7000万人ぐらいの人口で、戦後すぐぐらいと同じ水準になるのでしょう。そうすると、住宅地にもちょっと空き地があって、余裕を感じられる。それがコンパクトシティ化することで、さらに中山間地にはあまり人が住まなくなります。営林署の人とか、公務員しか住まなくなるんじゃないですか。住んでください、といっても誰も住みたがらないわけですよ。だから、まさに防人(さきもり)の役目が求められるんです。
なぜ今防人になっていないかというと、海とかは防衛上の理由があるので人を置くでしょうが、平和な時代には中山間地はその重要性に欠けるかもしれませんね。
日本の森は放っておくと300年で自然に戻るそうです。ですから途中は大変かもしれませんが、今の荒れた森もいずれ元に戻る。
源流シンポジウムとかが行なわれると「いいなあ、自然は。家族を連れて行きたいなあ」と思うんです。でも結局まだ行っていない自分を省みると、やはり都会の生き方も変えないと、エコツーリズムもなかなか盛んにならないのではないでしょうか。土日に仕事をしないで済むようになって、混まないでリクリエーションが楽しめる100年後の社会。いいですよね。
外環とか圏央道とか整備が進んでいるし、人口が減ってガソリンが上がれば、利用者が減って渋滞なんてなくなっているでしょうね。
これはまさに千年持続学に書いたことですが、不慮の死とか、望まない事故による被害というのは、非常に悔いが残る。
日本で洪水で亡くなる方は、とても少ない人数です。それなのに、なぜ洪水がこれほど重視されているかといえば洪水被害に対して国などが責任を取らなくてはならないというだけではなく、やはり理不尽に感じるからではないでしょうか。また、みんなが「洪水で死ぬとは思っていない」ということもあるでしょう。誰も自分が洪水に対してリスクを負っているとは考えていないんです。交通事故で亡くなるのは、ある程度自分でリスクを予想しているので、心理的にまあ比較的納得しやすいのでしょう。
やはり理不尽な死に方をするとか、大きな制約を受けた暮らししかない未来を次世代に残すのは可哀想ですから、抽象的な言い方ですがそうではない未来や世の中をキープしたい、と思います。
少なくとも100年後は、そういう被害が増えてほしくない。増やさないためにできることをやるべきです。また一方で、非常に窮屈な思いを持って、環境に配慮する社会になっているのも、100年後の人にとってかわいそうなことですね。
私なんかはゴミの分別を細かく行なうのは割りと窮屈なんですが、今の子供は生まれたときから当たり前にやっていますから、窮屈とは感じない。ですから、環境への配慮も当たり前になっているかもしれません。そういう楽観的な思いもあります。しかし、水を使うときにちびちびと計るようにして使わなくてはならないのでは、やはり窮屈ですよね。また、運動したら「お前、たくさんカロリー使ったから地球環境に悪いじゃないか。もっとうちで安静にしてろ」とか言われる世の中も嫌ですよね。
笑い事じゃなくて、オリンピックなんか、なくなっているかもしれません。案外現実的な話としては、飛行機で海外に行くのは無理になっているかもしれませんね。行くなら、船で。
温室効果ガスを排出することが悪いということが、100年後にはわかっていると思うんですよ。
大地震に対してもいえることですが、危機を煽るのはよくない、と思う半面、危機感がなければ、人間はなかなか動かない。ただ危機だ、危機だ、と言っていると、みんな表向きは反対しませんが心のどこかで「嘘だ」と思っている人もいる。今はマスコミも温暖化だったら何を言ってもいい、という風潮になっているんじゃないですか。それはそれで、行き過ぎると足許をすくわれると思うんですね。中庸で、いろいろなことにバランスよく注意を払いつつ、危機を管理する。でも、そういうことって、なかなか正しく伝わらないですよね。これに関しては私は悲観的で、何か事が起きないと人は動かないんではないか、と思っています。
今のところ、豪雨の強度は1割しか強くならないのか、という反応があるかもしれませんが、実際には1割って重要なんですよ。
100年後を考えたときに、水とエネルギー以外のことでいえば、食糧生産の公益性がどうなっているのかな、と思います。
水利権の話でいえば、現在の日本は「慣行水利権はまず認める」という前提に立っています。その理由は、戦後、食糧を国内生産でまかなうということに社会的正義があったからです。なぜなら、食糧難の時代に食糧を自分の国でつくるということに「社会的公正性」があったのです。みんな、そのためだったら、自分の儲けのために行なう工業生産や、生活の中で贅沢に水を使うことなどを我慢しても、農業=食糧生産を優先しよう、農業は国の基礎だ、と考えていた。今はそういう時代とは、考えも変ってきているんではないでしょうか。
しかし、輸送コストが高騰すれば、逆に地産地消で再び農業用水が重要になる。社会的公正性が、再び増すということです。エネルギー問題ひとつとっても、こういうまったく逆のシナリオが描ける。
それがどっちになるかは、今の時点ではわかりません。でも、世の中の多数を占めているのが小規模農家という時代から、企業経営的な専業で成立できる規模の農業になって「あなたのところは、確かに食料はつくっているけれど、それで利益を上げていますよね」、というようになれば、それは対価を払いなさいということになるかもしれません。
エネルギーが高騰して地産地消が進めば、農地は郊外を中心として必然的に増えるでしょうね。
今の日本では、100年後も今とあまり違ってほしくないと思っている人が多いのではないでしょうか。これは、日本はとても恵まれていると思っていることの裏返しで、何も変ってほしくないと思っているんです。
しかし、変らないでほしいということは、環境に対する今のハイインパクトを続けていくことを容認するということです。
この前うちの子供を寝かしつけているときに、「暗いと恐い」と言うので、「照明を消さないとね、お前の子供ができたときに使う電気がなくなるかもしれないでしょ。消そうね」と言ったら「わかった」と言って寝ました。3歳です。そういうことがあると、ちょっと考えますね。
ハイインパクトな暮らしを規制によって抑えていくのかどうか。私は下手な規制より、エネルギーコストが10倍になれば、不要なものは自然に淘汰されていくと思います。
そういう意味で科学技術をうまく使うような、社会システムを考えていく必要があります。また、国内だけではなく、バーチャルウォーターやフェアトレードの視点から、国際的な適正価格を追及していく必要もあります。
また、保守的な「変らないでほしい未来」を越えて、新しくこんな風になってほしいな、という夢でいうと、都市河川を諦めないできれいにしてほしい。世間はちょっと諦めが早すぎです。
里川のように、今は無理だと言っていることも「本当に無理なんですか」と問い直していくことも必要なんじゃないでしょうか。公園みたいと批判されてもいいから、都会の川を美しくするために長期的に取り組んでいきたい、と思いますね。
最近、台風のときなどのニュースで、「過去10年で一番土砂災害が起こりやすくなっています」というアナウンスを耳にする。これは、気象台が発表している「土壌雨量指数」をもとに算出されている。
「土壌雨量指数」は、地中に含まれる水をタンクと見立て、降水量(レーダー・アメダス解析雨量と降水短時間予報から算出した計算値)から河川流出量と地中浸透量をマイナスした水量で、土中に残った雨量の指数。
土壌雨量指数だけでは土砂災害の危険度はわからない。その地域の土壌における、水分許容量が見えないからだ。そこで過去10年間の土壌雨量指数の履歴順位と比較することによって、土砂災害の危険度を予想する。
しとしと降る雨でも、長期間降り続ければ、河川への流出が少なくても、土壌雨量は大きくなる。そして河川の流量が急激に増えるのは、土壌の許容量を超えたとき、つまり一番上のタンクから表面流出が始まるときで、土壌全体の質量も上がり、土砂災害の危険度が高くなる。
沖・鼎研究室では洪水予警報への適用を目指して、土壌雨量指数にヒントを得て、全国を10kmメッシュにして、時間流量の約30年分のデータをシミュレーションして確率分布を定め、毎時算定される流量の超過確率を逆算して「流量確率指数」と名づけた。さらにそれを国土交通省の「水害統計」のレイヤーと重ねることで、「流量確率指数」の大小が過去の災害と実際にどう対応しているか調べている。
国土交通省の「水害統計」は市町村別に統計がとられているので、それを緯度、経度にデジタル変換してグリッド化して利用しているそうだ。
上図は、2004年10月20日の台風23号による浸水被害時の、浸水被害面積、日平均流量、日最大流量確率指数。
日平均流量だけを見ると、大河川で流量が多いという当たり前のことしかわからない。つまり、流量だけを見ても災害との関係性は浮き上がってこない。
日最大流量確率指数を見て、浸水被害面積と照らし合わせてみると、「流量確率指数」が実際の浸水被害の状況とほぼマッチしているということがわかる。つまり、「流量確率指数」は、どの程度の流量のときにどの程度の浸水被害をどの程度の確率で引き起こすか、ということをある程度正しく表すことができている、ということができる。
くわしくは沖・鼎研究室のホームページをご覧ください。
http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/indexJ.html