水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん
1967年(昭和42)西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川開発調査会。筑後川水問題研究会に所属。
明治維新以降、わが国はヨーロッパの列強に対応し、「殖産興業」、「富国強兵」策をとった。このため明治政府は、鉄道、道路、築港、干拓、疏水、河川改修、水力発電、上下水道等のインフラ整備を図った。これらの土木事業は国土の急速な変貌をもたらしたが、近代国家の形成に寄与した。
田辺朔郎を編纂委員長とした、工学会・啓明会編『明治工業史 土木篇』(工学会・明治工業史発行所1929)には、道路・軌道は池田圓男(のぶお)、砂防は赤木正雄、河川は金森鍬太郎・三浦矩明(のりあき)、築港は廣井勇、上下水道は中島鋭治、運河・水力発電・土木教育は中山秀三郎、農業土木は近藤仙太郎、軍事土木は伴宣(ばんのぼる)、航路標識は石橋詢彦(あやひこ)等の執筆によって、明治期の全国的な重要な土木事業が纏められた。この土木事業の完成には、明治政府が招聘した1000人近い外国人技術者・お雇い外国人の活躍が担っていた。おがたひでき・文『おやとい外国人とよばれた人たち』(全国建設研修センター1998)に、イギリス人による鉄道建設、オランダ人による河川改修を捉えている。
エドモンド・モレルは東京・横浜間の鉄道建設に尽力し、その後を継いだダイアックとイングランドが完成させた。当時の人たちは鉄道建設に関心は薄く、無用、不要、売国行為と反対したという。リチヤード・H・ブラントンは下田港神子元島に灯台を造り、9年間で30の灯台を建てた。イギリス士官学校出身の技術将校H・S・パーマーは、相模川の水を津久井地区から鉄管で、横浜まで水道を敷設した。樋口次郎著『祖父パーマー』(有隣堂1998)に、その業績を辿る。
河川土木にはオランダ人技術者11人が来日。フアン・ドールンは野蒜(のびる)築港、安積疏水施工に携わった。疏水で恩恵を受けた農民たちはドールンの像を建てた。太平洋戦争末期に金属類の供出が始まったときには、この銅像は密かに農民たちによって隠され、戦後に復元された。そのことを鶴見正夫作『かくされたオランダ人』(金の星社1974)で描かれている。
さらに福井の三国港、改良案を作成したエッセル。リンドウとムルデルによる利根運河の完成。そして、日本の河川を隈なく踏査し、河川改修に取り組んだデ・レーケは、木曽川、長良川、揖斐川の三川の水害を防ぐ案として「三川を完全に分離する」「堤防を高め、浚渫を行う」「土砂を川の流れの力で、海中へ流すように河道を延長する」「舟運を連結するため水門をつくる」などを提案、1887〜1891年(明治20〜24)にかけて工事が行なわれ、その後水害は減災した。また、暴れ川・常願寺川の改修工事について、「堤防を高め川幅をとる」「白岩川を分離して放水路をつくる」「土砂の溜まる用水路取水口をなくす」などの工事を行なった。デ・レーケについては、オランダまで取材した上林好之著『日本の川を甦らせた技師デ・レィケ』(草思社1999)、小説化した三宅雅子の『乱流』(東都書房1991)、建設省木曽川工事事務所編・発行『デ・レーケとその業績』(1987)、吉野川資料研究会編『工師デ・レーケ吉野川検査復命書』(徳島工事事務所1996)の書がみられる。
お雇い外国人の意義について、「近代科学と未知の技術への道を案内人となったこと」「土木や建設の工事には総合する力が必要なことを示したこと」「単なる物知りでなく、実際の状況や様子に応じて対処する真の科学の姿を伝えたこと」「最新の科学技術に携わる者は高い見識と理想を追い求める人格を備えること」を教えたことが挙げられる。1887年(明治20)外国人たちは次第に帰国して行くが、欧米に学んだ留学生や国内で育った日本人たちによって、日本の技術の自立が可能となってきた。
このように、お雇い外国人は日本の技術者に対し、高い技術力と現場主義の大切さ、そして人格にまで影響を与えた。ここに日本人技術者の努力と自立を捉えた、おかだひでき文『近代土木の夜明け』(全国建設研修センター1998)には、京都・大津間の鉄道建設・逢坂山のトンネル工事を指揮した井上勝、フランス留学を終え、河川工学を学び、全国の河川改修にあたった古市公威(こうい)と沖野忠雄、琵琶湖疏水工事を完成させた田辺朔郎、小樽築港工事を成し遂げた廣井勇の5人を描いている。
土木学会編・発行『古市公威とその時代』(2004)に、古市公威の経歴をみると、1880年(明治13)パリ大学を卒業、帰国、内務省土木局に入り、信濃川、阿賀野川、庄川などの工事監督に就く。山縣有朋の欧州巡回に随行、貴族院議員、土木局長、逓信次官、京釜鉄道総裁、土木学会初代会長、万国工学会会長を歴任。この間、淀川改修、新潟築港、大阪築港、京釜鉄道、東京地下鉄道等に指導的立場で関与し、明治期の国土をつくり上げた。1934年(昭和9)永眠、79歳であった。
古市は、土木工学の性格に対し、「余ハ極端ナル分業ニ反対スルナリ。専門分業ノ文字ニ束縛セラレ萎縮スル如キハ大ニ戒ムヘキコトナリ」と述べている。現代では、土木工学がますます専門分業化していることを古市はどう捉えるのだろうか。
沖野忠雄は、古市と同様にフランス留学を終え、内務省土木技師となり、富士川、信濃川、庄川、北上川等の工事を監督し、さらに淀川改修と大阪港修築工事により、その名を不朽とならしめた。真田秀吉著『内務省直轄土木工事略史・沖野博士伝』(旧交会1959)の書があるが、全国の土木工事はほとんど沖野の裁断を仰いだという。沖野の人格については、大阪港工事の功労に対し、大阪市の謝礼金を受け取らなかったとか、工区外の淀川犬塚堤防が壊れたとき、不当な批判に対して一言も反論せずに修復工事を行なったという逸話が残されている。また、計画や予算に対し法規や慣行をたてに妨害する者があると、法や悪例を改め、正論を貫いた。故郷の円山川の改修は後廻しとし重要な工事を優先して、退官後に着工するなどという話からは、清廉潔白な人柄がしのばれる。藤井肇男著『土木人物事典』(アテネ書房2004)によれば、「1911年、内務技監に就任した沖野は河川・港湾の統轄者となり、内務省の土木事業はその秩序を古市公威によって確立され、沖野によって技術的に完成された」と指摘する。
田辺朔郎は、1890年(明治23)3月、琵琶湖疏水工事を竣工させ、28歳の若さで最初の水力電気事業を興し、現在の京都市発展に寄与した。この工事を小説化した田村喜子の『京都インクライン物語』(新潮社1982)は、琵琶湖から長等山のトンネル、山科盆地、鴨川に至る延長11kmの導水工事の苦闘を描く。
クリスチャン内村鑑三、新渡戸稲造の感化を受けた工学博士廣井勇(いさみ)の生涯を描いた高崎哲郎著『山に向かいて目を挙ぐ』(鹿島出版会2003)には、1883年(明治16)廣井は札幌農学校卒後、自費で渡米。河川や鉄道の会社で働き、技術者としての努力と自立を実践して帰国。札幌農校教授のまま小樽築港事務所長になり、北防波堤を完成させ、第二期工事も1922年(大正11)に完成させた。日本海の荒波や暴風雨に耐える防波堤の築造にはコンクリートの強さを試験するため6万個の試作品がつくられた。この工事の経験から「築港」全5巻が纏められた。「廣井君ありて明治・大正の日本は清きエンジニアーを持ちました。」(内村鑑三)「廣井君が身を汚さず、心を汚さず世を渡った事は終生の感謝である。」(新渡戸稲造)と、廣井の人格を評している。以上を見てくると、水利土木者たちは、近代国家を創りあげるために「努力と自立と清潔」を身を持って実行してきたといえるのではなかろうか。
さらに、前述の流れをくむ水利土木者たちに関する書を掲げる。
日本で初のパナマ運河の建設に従事し、荒川放水路、信濃川大河津分水路を竣工させた青山士(あきら)、高崎哲郎著『評伝青山士の生涯』(講談社1994)、青山士写真集編集委員会編『後世への遺産』(山海堂1994)。青山とともに大河津分水路を成し遂げた宮本武之輔、高崎哲郎著『工人 宮本武之輔の生涯』(ダイヤモンド社1998)。台湾の上下水道の建設に尽力した浜野弥四郎、稲葉紀久雄著『都市の医師』(水道産業新聞社1993)。台湾烏山頭(うさんとう)ダムを建設し、台湾の人たちに愛された八田與一、古川勝三著『台湾を愛した日本人』(青葉図書1989)、斎藤充功(みちのり)著『百年ダムを造った男』(時事通信社1997)。「耐震工学」の学問分野を開拓した物部長穂、川村公一著『土木工学界の巨星 物部長穗』(無明舍出版1996)。植林・造園・産業振興を図った本多静六、遠山益(すすむ)著『本多静六 日本の森林を育てた人』(実業之日本社2006)。
以上、近代の夢を描いた水利土木者たちを追ってきた。その精神の根底には「欧米に追いつくこと」、即ち民族的なバイタリティーと「日本の国のため」というナショナリズムの結実がある。明治人、大正人の強い個性、自信、情熱、そして無私、清潔さの精神力が「用強美」の備わった土木事業を興した。お雇い外国人はわが国のために尽力し、客死した者も多い。逆に青山士はパナマ運河、八田與一は烏山頭ダムの建設に寄与した。
今日、国際化の波の中で多くの日本人技術者は世界各国で活躍している。この場合、一番重要なことは現地の一般庶民の幸せを願うこと、現地の人に慕われる仕事をすることである。用強美の優れた技術には、その国を想いやる心が何よりも大切である。このことは国内でも同様である。
このような国創りの考え方は、近代土木遺産として、100年後も必ず生きてくるだろう。それが真の文明である。