機関誌『水の文化』29号
魚の漁理

漁師が育んだ氷見の歴史
資源管理につながった台網漁

塩ブリを入れて運んだブリ籠。

塩ブリを入れて運んだブリ籠。

寒ブリ人気で近年にわかに脚光を浴びている富山県氷見市。ここで中世末期から行なわれてきた定置網漁は、水産資源を捕り尽くすことのないサスティナブルな漁法としても注目されている。氷見市立博物館長・小境卓治さんに、伝統的な定置網漁と身近な天然素材を無駄なく利用した昔の漁民の知恵についてお話をうかがった。

小境 卓治さん

富山県氷見市立博物館館長
小境 卓治 (こさかい たくじ)さん

1951年富山県生まれ。1975年立命館大学産業社会学部卒業。1979年富山県氷見市教育委員会学芸員。1981年富山県氷見市立博物館学芸員を経て現職。主に民俗分野を研究。越中と能登をフィールドとして定置網の歴史や漁業習俗のほか、漁村の祭礼と年中行事に関する調査と研究に従事する。 主な共著に『氷見の民俗』(氷見市教育委員会1991)、『氷見のさかな』(氷見市教育委員会1997)ほか。

地形に支えられた漁業

氷見の沖合には、大陸棚が5〜6kmまで広がっています。また、富山湾は日本でもっとも深い湾の一つで、大陸棚から湾底まで一気に深くなる海底谷(かいていこく)が多く見られます。この海底谷から大陸棚にかけての谷頭(たにがしら)に季節ごとに回遊してくる魚を捕ろうと、その地形を利用して、定置網を設置する漁業が盛んになったのです。

1901年(明治34)に制定された漁業法で「定置網」という言葉が用いられるまで、富山湾沿岸では「台網(だいあみ)」と呼ばれていました。

定置網漁法というと、その海域にいる魚を一網打尽にしてしまう巻網漁法とは対極的で「資源管理型漁業」といわれますが、最初からそれを目的にしていたわけではありません。

ブリは障害物を感じると、それに沿って泳ぐ習性があります。その習性を利用したのが定置網。垣網(かきあみ)に沿って移動して、いったん身網(みあみ)に入ったブリも、賢いやつは脱出してしまう。漁師の経験則からいえば、歩留まりは3割弱です。

歩留まりが悪いからこそ、定置網漁法は結果的に資源管理につながっているわけです。

氷見では、中世末期から台網漁法が行なわれていた、と考えられています。

ただし、資料として現存するのは江戸初期の文書。この1615年(元和元)の文書には、前年(慶長19)に「夏網」、つまりマグロを捕るための網が下ろされていたことが書かれています。

ブリ網は「秋網」と呼ばれ、1618年(元和4)の記録に、秋網下ろしの許可と営業税として運上銀納付の旨が記されています。

資料が残った理由は、「後世の人のため」というわけでなく、多くはトラブル回避のためでした。

漁の権利をめぐって諍(いさか)いが起きると、加賀藩では昔の文書を要求しました。文書は網を申請するための添え状につけるために残る場合もあるんですが、たいていはいざとなったら「うちはいついつから、こういうように網を下ろして漁をしています」と自分の正しさを証明する論拠にするために残ったんです。

厳密にいえば異論もあるでしょうが、当時は地主が網株を持って網元となりました。ですから記録も多くは地主の家に残っています。

サスティナブルだった網の素材

では1600年代の台網とは、どんなものだったのか。残念ながら、その資料は残されていません。

富山湾内の網の形に関するもっとも古い資料は、1785年(天明5)の『越中魚津浦猟業図会全』で、台網は垣網と身網からなり、藁でできていたことがわかります。

藁というのはとても利用価値が高く、面白い素材です。編めば縄にも草履(ぞうり)や草鞋(わらじ)にもなるし、織れば筵(むしろ)にもなる。履物にも敷物にもなるわけです。なおかつ、毎年供給可能で容易に手に入る。

かつてのブリ漁は、毎年10月15日に網を入れ、翌年の1月中旬になると「春網」と呼ばれるイワシ用の網に切り替えていました。

切り替えといっても、古い藁網を切って海に落とすだけです。網が流されないように米俵や空俵に砂利を詰めた重石も、縄を切って海に落としました。

藁は有機質ですからプランクトンも海草もつく。それを食べに小魚が、また、より大きな魚も集まってくる。

藁縄づくりは、農閑期の百姓の駄賃仕事でした。冬場につくった縄を百姓が漁師に売り、漁師はそれを使って網を編むのです。

網の目でいうと、一番細かいのは身網の魚捕りに使う織り網で、網代に編んでいました。

垣網は1尺目、はす目から沖に行くと5尺目ぐらい。5尺というのは、だいたい人間の背丈と同じ。魚の進路を止めるだけなので、粗くて構わないのです。

1907年(明治40)に「日高式大敷網」が導入されてからは、垣網には従来どおり藁網を使いましたが、魚を捕らえる袋状の身網には綿糸網と麻網が使われるようになりました。

昔の人は「それしかなかったから」という考え方もあるけれど、身近な藁を本当にうまく使っていた。藁は、時間をかけて腐ります。つまり海中に沈んでも何も増やさないし、何も減らさない。これがすごいですね。綿糸の網というのは当然工場生産品。買うわけです。大量に買うには資金がいる。それで、長持ちさせたいと考えるようになる。

また、そのまま使うと綿糸網は弱い。水さばきが悪い。どうしたかというと、撥水効果のある柿渋で染めました。農家では柿渋専用の柿を植え、お盆がすぎると熟する前の青い柿を持って漁師の家に売りに行ったものです。しかしそれも、やがてコールタールで代用されるようになっていきます。

綿糸網は長持ちさせなくてはならないから、春、夏、秋と三季の定められた漁期が終わると、一網ごとに滑車で上げて乾していました。そのまま置いておくと、蒸れて繊維がもろくなるのです。

浮子(うき)には、ロクハンと呼ばれる杉の丸太材を四つ割りにしたものを使っていました。両端に切り込みを入れて縄を巻き、数百m伸ばすんです。伸ばした縄に網を吊していく。夏のシブ網(マグロ網)には、桐アバと呼ばれる桐材でつくった浮子も使っていました。

それが「日高式大敷網」を導入するにあたり、孟宗竹を束ねて使うようになります。水圧で節が抜けたら、桟橋などに転用しました。

その後、ビン玉と呼ばれるガラス玉製の浮子も使われました。周囲を藁縄で覆って緩衝材にして、1つではなく連結して使うことが多かった。氷見でビン玉が使われ始めたのは戦後になってからですが、それはガラス玉の破損を懸念したほか、「ガラスに反射する光を魚が嫌うのではないか」と恐れたからだそうです。そのために、初めはビン玉を黒く塗って使ったりしていました。ビン玉利用は、昭和30年代まで続きます。

今はみんなFRP(繊維強化プラスチック)になりましたが、昔の秋網の網取り船はドブネ(胴船)でした。材料はほとんど杉で、ロープで擦れる箇所には摩擦に強いアテと呼ばれるあすなろの木を使いました。つまり、アテは摩擦に強い。そのことを経験則で知っていたんです。漁場ごとにそういう知識のある船大工がいて、僕らにはわからないけれど、彼らは山に入れば「宝の山」と思うわけです。

木造船は修理がききますし、船としての役目を終えたあとの再利用も盛んに行なわれていました。

ロクハンや孟宗竹は古くなったら燃料にして、残った灰は田んぼに撒いたり、ワラビやゼンマイの灰汁抜きに使ったり、石鹸がない時代は灰でオシメを洗ったりしました。

身近にあるものをうまく生かす。再利用して、最後もうまく処理していたのですから、そこのところは、すごいと思います。

左から、大敷網の敷設模型、ドブネ、織り網。

左から大敷網の敷設模型、ドブネ、織り網。大敷網の敷設模型は改良された「越中式鰤落とし網」のもの。ドブネは、胴部分の断面が四角いことから「箱船」とも呼ばれ、大きなものは「ドブネ1ぱい、家1軒」といわれるほど高価なものであった。織り網は、魚が入る身網の部分に用いられ、指が入るぐらいの細かい目で編まれた。

台網の変遷

1907年(明治40)の日高式大敷網導入が、定置網発展の転機となりました。宮崎県で大漁を続けていたこの網を、氷見も取り入れたのです。

台網に比べて占有水面がかなり広いといわれた「麻苧台網」(あさおだいあみ・金網)の仕込み費用が2500円だったのに対し、「日高式大敷網」は仕込みに3万円もかかったといいますから、かなり大規模で資本がないと導入できなかった網です。

しかし、導入直後である1908年(明治41)2月の決算額は10万7000円。米1俵が10円の時代ですから、いきなりとんでもない利益が出たわけです。

この噂はたちまち近隣に伝わり、翌年には灘浦地先では前網と樽水、氷見浦地先では茂淵と岸網などのほか、富山湾沿岸では合わせて25カ統(かとう)にこの網が導入されました。

この年の11月27日には、ものすごい大漁記録が残されています。氷見沖の唐島の沖の網にブリが4万本入ったんです。「1斗ブリ」という言葉があって、ブリ1本と米1斗が等価交換された時代。1斗は米俵で4分の1俵ですから、1日で米1万俵分が網に入った計算になります。

こうした豊漁は何年か続きましたが、日高式大敷網は網口が大きく開いていて、回遊してきた魚が入りやすい反面、身網に入った魚が逃げやすかったため、より大規模で身網を横長の楕円形にした「上野式大謀網(うえのしきだいぼうあみ)」に改良されました。

昭和初期には、身網の前に「チョウシ前」と身網の中に「返し網」を設けて、いったん身網に入った魚が逃げないように工夫した「越中式鰤落とし網」が考案されました。

「日高式大敷網」の導入で、漁獲高が飛躍的に増大したことから、氷見では今でも大型定置網を「大敷」と呼び、三季網の内、秋網を「大敷網」と呼んでいます。

富山県氷見市博物館には、魚豪に関する古文書や昔の道具が、系統的に展示されている。

富山県氷見市博物館には、魚豪に関する古文書や昔の道具が、系統的に展示されている。大切な歴史遺産は、越中ブリの産地としての伝統が後世に伝えられるために生かされている。

魚の味噌汁「カブス汁」

網には設計者が必要です。氷見では、網の設計をやる人間を「大船頭」と呼んでいました。彼は網の現場の総責任者なんです。網元は資本家で経営を担当しますが、現場では一切口出しをしません。

大船頭には、網に対する抜群の知識、経験、もう一つは彼にならついて行くという人徳が求められた。横綱と一緒です。

大船頭の下には副船頭と小船頭。船には13人ほど乗っていた。大敷網になると10杯で1網、つまり総勢130人ほどで漁を行なっていました。

漁師は丸弁当という檜(ひのき)のわっぱにチャンバチと呼ばれる丼鉢を入れ、中蓋にご飯を5合〜7合入れて家を出ました。漁が終わったあと、アカマノリと呼ばれる会計責任者が「今日はこの魚でオツケにせんまいか」と言うと、若い衆がでっかい鍋で魚の味噌汁をつくるわけです。それを丼鉢に入れてもらい、おかずにします。

おかずは365日決まって刺身と汁、これしかありません。汁は漁師汁とかカブス汁とか呼ばれます。以前は、漁に出たら朝と昼の2回食事をしました。

明治に入ると、網は個人所有から問屋資本に変っていきます。問屋になったのは味噌屋や醤油屋が多かった。「日高式大敷網」を最初に導入したのも醤油屋さんです。

しかし、もしかすると網元が味噌屋や醤油屋になったのかもしれない、と私は思っています。130人の人間に味噌汁を毎日2食食べさせるんです。それで、自分のところでつくろうじゃないか、という話になっても不思議じゃない。

ブリの産地とはいえ、氷見の庶民がブリを普通に食べるようになったのは、ごく近年のことです。

明治の終わりから大正、昭和の初めにかけて生まれた人から聞き取り調査をしたら、やはりみんな「ブリが食卓に上がることはめったになかった」と言っていました。私も子供のころにブリを食べた記憶はあまりなく、正月の雑煮にブリを入れることもありません。

漁業も変わる

実は氷見の漁師にとって、給料は昔からイワシ。ブリは冬のボーナス、マグロは夏のボーナスです。

昔は給料は歩合制で、小船頭、トモ櫓を漕ぐトモトリ、船首に乗るオモテなどには役付手当がつきました。

氷見は銀の流通圏でしたから、北前船で大阪と取引をしていましたが、北前船にはブリはほとんど乗せられていないのです。この船で運ばれたのは、主に藁製品と肥料。肥料はイワシで、古くは干加(ほしか)、明治後期から大正にかけては〆粕(しめかす)でした。浜で干したイワシが干加、茹でこぼして圧搾してから干したものが〆粕です。

船は木造船のドブネから19t規模のFRP製になり、艤装(ぎそう)を入れて1億円はするんじゃないでしょうか。網の値段も億単位です。しかも古くなって処分をするときもお金がかかりますから、昔とは何もかも大きく違っています。

綿糸網のころは劣化した網は小網に回したりしていたけれど、今、化繊の網を入れ換えようとしたら、産廃業者を呼んで、その処分にも大変な金額がかかります。

網元という言葉も、もう使われていません。今は地域の人が資金を出し合って漁業組合をつくり、何株持っていてもみんな同じ組合員です。ただ、リスクを分散するために一人で持てる株数を制限したり、よその土地の人には譲渡できない仕組みがつくられています。

現在は給料制ですので、魚が捕れようが捕れまいが給料が出ます。最後に決算をして水揚げが良かったら割増が出ます。昔は不漁だったら魚をもらうだけの現物支給でした。カブス汁のカブスというのは現物供与という意味なんですよ。

ブリの価値

ドブネ1杯に積める量は、ブリ1000本。10杯の船全部に積んだら1万本で、これが大漁です。氷見では、ここで初めて大漁旗を掲げました。ちなみに大漁旗を揚げるのはブリ漁だけ。他の魚のときは揚げません。

もう一つ、面白いことにブリは1本いくらではなく、キロ単位で値段がつきます。ブリは、やはり特別なんですね。

ブリが昔から価値のある魚だったことは、1595年(文禄4)の塩鰤上納申付け状でもわかります。

豊臣政権の大番頭として伏見にいた前田利家の意を受けた加賀藩の重臣らからの書状で、「ブリを17本、背刀を入れ辛塩にし、早く送れ」という内容です。

氷見から京都までは、多分早馬に乗せて運んだのではないでしょうか。通しで行けば3〜4日、荷継ぎをしながらだったらもう少しかかったと思います。

当時ブリは加賀藩の統制品でしたから、勝手に送ったりはできません。高岡を経由して、金沢の加賀藩までブリを送ることを「ブリ御用」と呼んでいました。

加賀藩の御用が済むと、ある日「ひら売り」の許可が出されます。ひら売りとは自由販売のことで、氷見町の町役人が1827年(文政10)から1859年(安政6)にかけて記した『応饗雑記』には、「本日ひら売りを仰せつかった」という記述が何度も出てきます。

飛騨高山辺りでは、年取り魚としてブリを非常に珍重しました。飛騨へ送るブリは塩蔵で、1本あたりに塩を1升から1升3合も使ったといいます。飛騨ではその塩も大切に使われました。

塩ブリは12月25日までに飛騨の問屋に送られ、仕分けしてから再び各地に送られました。籠は使い捨てで、真竹の身を使った雑なつくりです。ちなみにイワシを入れる籠は何度も使うので、丈夫な真竹の皮で、丁寧につくられていました。

ところで飛騨に送る塩ブリは近世からつくられていたといわれますが、証明する資料はありません。一世を風靡した塩ブリも、現在ではつくっているのは富山県・魚津の与八水産だけになってしまいました。

氷見では娘が嫁いだ最初の年は、嫁ぎ先に「ツケトドケ」といって歳暮ブリを送る風習があって、今でも続いています。

これには10kgぐらいのブリを使いますが、年によっては20万円以上します。これでは、もらったほうも大変ですね。

氷見には、こんな言葉があります。

「生で食うか、焼いて食うか、放る代わりに煮て食うか」

何といっても、魚は刺身。生で食べることをよしとした背景には、季節ごとにさまざまな魚が闊沢に回遊してくる、という条件がありました。魚も野菜もそれぞれに旬があり、季節のものを生か、あるいはあまり手をかけないで食べるのが一番うまいですね。

 

獲物を載せた船が続々と帰港し、手際よく、競りにかけられていく。

ブリ漁期も終わりを向かえようとする2月に、氷見漁協を見学させていただいた。獲物を載せた船が続々と帰港し、手際よく、競りにかけられていく。



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