機関誌『水の文化』29号
魚の漁理

ブリの街道
豪雪を越えて運ばれた海の幸

越中・富山における浜値が、米1斗ブリ1本。それが信州・松本に運ばれると米1俵ブリ1本になったといいます。(ブリ1本の価格が、玄米4斗分に相当) 今でも「ブリがないと正月が迎えられない」と信州人に珍重されるブリは、なぜ、どのように運ばれたのでしょうか。

胡桃沢 勘司さん

近畿大学文芸学部教授
胡桃沢 勘司 (くるみさわ かんじ)さん

1951年生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専攻は日本交通史。交通史研究会委員、文学博士。 主な著書に『西日本庶民交易史の研究』(文献出版2000)、『牛方・ボッカと海産物移入』(岩田書院2008)、『日本史小百科ー宿場ー』(共著 東京堂1999)他。

年取り魚としてのブリ

私は松本出身ですが、松本の人間は、大晦日に「年取り魚」として塩ブリを食べる習慣があります。

年取り魚は東日本の鮭、西日本のブリに分かれますが、信州はその境目で、佐久辺りでは鮭、松本や伊那はブリ文化圏です。それにしても、海から遠い松本で、なぜブリが年取り魚になったのでしょう。

ブリが捕れる富山湾から信州までの道のりは、冬場は雪に閉ざされます。その中をわざわざ運んできたわけですから、何か特別な理由があるに違いありません。

その理由を柳田國男は『定本柳田國男集 第14巻−木綿以前の事・食物と心臓ほか』(筑摩書房1962)の中で、「田作(たつく)りまな祝(いわい)」として、くわしく書いています。「口をなまぐさくしなくては、堂々として一年の新生に入っていくことができないもののごとくに感じていた名残なのでもある」と。つまり、出雲地方の神官も海の中に浸かるように、塩や海水には、俗世界の罪汚れを落とす効があると考えられていたんでしょう。

では、富山で塩ブリがつくられるようになったのはいつごろからか。文禄時代(1592〜1595年)、前田利家が豊臣秀吉に北陸の塩ブリを献上したという記録が残っています。

ブリが松本へ入ったという記録でもっとも古いと見なされるものは、宝暦年間(1751〜1763年)のもので、ブリ輸送開始期日を10月20日と指定した文書や、糸魚川経由で12月にブリが着いたという文書が残っています。

富山からの主要輸送ルートは2つありました。まず、越後糸魚川を経由して千国(ちくに)、大町を経る道で、一般に千国街道といわれている道。

もう一つは、飛騨高山から野麦峠、大平峠を経て信州中南部へ続く道で、この道で運ばれたブリを、特に飛騨ブリといいます。商品に産地名ではなく、経由地名が冠されることは珍しく、魚一手販売のお墨つきをもらった高山の川上家の繁栄ぶりからも、飛騨ブリブランドがいかに珍重されたか、うかがい知ることができます。

しかし、飛騨ブリの古い資料は見出されていません。宝暦の文書も、越後ルートのものです。

千国街道は塩を運ぶ道でもあったのに対し、飛騨ルートでは塩の運搬が禁じられていました。松本藩には「北塩専売制」があり、南塩の流入を禁じ、日本海側の塩を越後ルートでのみ移入する決まりがあったのです。

つまり松本藩にとって、千国街道は生命線でもあったため、街道や宿場も整備され、輸送体系も整っていました。文書が残った裏には、こうした背景があります。

片や飛騨から続く野麦街道は、塩のほか穀物の輸送も禁じられ、魚だけが運ばれていたので、文書も少ないわけです。

では、塩ブリはいかに運ばれてきたのでしょう。

無雪季、千国街道では原則として荷を運ぶのはおとなしいために多数を追える牝牛が用いられました。一方、野麦街道は難所が多く、力を出させるために去勢をしない牡牛が使われました。1頭当りの輸送量は多いのですが気性が荒く、突っかけられて命を落とす牛方もいたそうです。

千国街道の塩ブリは、糸魚川までは船で運ばれました。問題は糸魚川〜大町間。冬は雪が深く、牛が使えませんから、歩荷(ぼっか)と呼ばれる人が担いました。歩荷が運んだ荷物は、男性が16貫、女性は12貫。大町を過ぎると雪が少なくなるので、中馬(ちゅうま)と呼ばれる輸送機関で運びました。

以前、歩荷(ぼっか)をしていた人に取材したことがあります。1913年(大正2)の生まれで、昭和10年代に歩荷をしていたそうですから、多分最終世代でしょう。

運ばれた塩ブリの数については、はっきりわかっていません。

移入魚の記録が残っているのは幕末になってからで、1858年(安政5)12月から翌年11月までに、総数で140万駄弱の魚が北陸から着きました。このうち1月から9月までの季節外の魚荷輸送量が約100万駄。差し引いたおよそ40万駄の大半はブリであった可能性が高いと思います。

1駄とは馬もしくは牛1頭に積める量。牛は雄と雌とで力が違いますから、雌は両脇に、雄は両脇と背にも籠を積みます。1つの籠にブリが5本入っていたとして、1駄は雌ならブリが10本、雄なら15本。40万駄の半分がブリだったと少なく見積もっても100万本になります。ですから江戸末期には、万本単位で塩ブリが松本・伊那地域に届いていたといっていいでしょう。

松本に入ったブリは魚問屋が仕切り、そこから塩尻、さらに諏訪まで運ばれていました。

ところで、「生」と呼ばれるブリは今でいう甘塩。完全な生の場合は「無塩(ぶえん)」と称されていました。

つくり方について、氷見市でブリ問屋を営む久保治右衛門さんに話を聞いたことがあります。1888年(明治21)の生まれで、野麦峠を越えて自ら塩ブリを売りに行ったことがあるそうです。

久保さんによると、三枚におろしたヒラブリと、1本をまるごと塩漬けするマルブリがあり、マルブリには腹の正中線を割くマハラと、横腹を割くヨツとがあります。伊那、赤穂など上伊那に売るものはマハラ、下伊那の飯田用のものだけヨツに割いていたといいます。

この違いは、ブリの食べ方の違いと相関関係があるかもしれません。信州は盆地ごとに文化が違うんです。上伊那は酒粕で煮て食べ、飯田は塩抜きして焼いて食べます。松本では、塩ブリを茹でて食べます。茹でるときには塩を使わず、そのまま食べるのですが、おいしいですよ。

甘塩のブリは、薄く切って刺身で食べることもあります。松本では、昔は塩マグロも同じように刺身で食べていました。

我が家では、年末になると歳神様をお迎えする年棚に、ブリの切り身を供えていました。一方、神棚には、12月30日ごろから二十日正月ごろまで、ブリの尾をお供えしていました。尾も大事なので、松本に送る塩ブリには、尾にカバーがつけられていたようです。

大いなるブランド力を誇った飛騨ブリにも、流通システムの激変が起こります。1902年(明治35)に国鉄篠ノ井線が開通し、信越線と接続したことで日本海側と信州が直結したのです。近代的輸送体系への転換によって、野麦峠を経由していた飛騨ブリは、数年のうちに消え去ります。

しかし、交通網が発達した現在でも、松本の人間にとってブリは大事な魚です。今も年末の松本では、ブリが一切れ1000円は当たり前という、とんでもない高値で売られています。

1976年(昭和51)1月16日の信濃毎日新聞には、「年末の松本にブリがこなければ社会問題だ」という記事が出ていて、思わず笑ってしまいました。

しかし、私自身、越中富山産のブリに今でもこだわってしまうのです。

左:ブリ籠。 右:ブリの尾が輸送中に傷まないように付けられていたカバー。 写真提供:胡桃沢 勘司さん



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