機関誌『水の文化』31号
脱 水(みず)まわり

守るものと生まれ変わるもの
カール・ベンクスによる古民家再生

棚田の美しい新潟の山村で、朽ち果てようとしていた古民家を再生して、地域おこしをしようとしている人がいます。 ドイツ人の建築デザイナー、カール・ベンクスさんの取り組みと暮らしぶりから、新しい住文化を探ります。

編集部

カール・ベンクスさん

カール・ベンクス&アソシエイト有限会社代表
カール・ベンクスさん

東京から車で3時間半、新潟県十日町市竹所(たけところ)という山村に、古民家を再生しながら集落の活性化に取り組んでいるドイツ人の建築デザイナーがいる。ドイツ・ベルリン出身のカール・ベンクスさんがその人だ。

単に仕事として滞在しているだけではなく、自ら再生した古民家に、アルゼンチン出身の奥様クリスティーナさんと暮らしている。

過疎が進む中、外国人であるカールさんが、なぜ竹所に住むことになったのか。その根底にある「磨けば光る原石」古民家を、再生する志をうかがった。

カールさんと日本

カールさんは、1942年ドイツのベルリンで生まれた。父は生まれる1カ月前に戦死。だから、カールさんは父親と過ごした思い出がない。

父は職業画家で、主に城や教会の古い絵を修復する仕事をしていたという。その父が建築家ブルーノ・タウト(注1)の本と日本の浮世絵を遺していったことが、カールさんと日本をつなぐ最初の絆となった。

やがて空手と柔道を習い始めたカールさんは、日本への関心を高めていく。1961年(昭和36)には、柔道の合宿でパリに行き、静岡出身の先生にも指導してもらった。当時、柔道の神様といわれた神永選手を東京オリンピック(1964年 昭和39)の柔道無差別級で破り、金メダリストになったアントン・ヘーシンク(Anthonius Geesink1934年〜)選手も来たそうである。「是非日本に行きなさい」と勧められ、お金を貯めて1966年の春に来日を果たした。24歳のときのことだ。

「神戸に着いたので、足を伸ばして京都に行きました。当時の京都は、私が思い描いたとおりの町でした。東京だって、大きな建物はまだあんまりなかったし、良い雰囲気を残していました。古き良き時代の日本の町並みを、私は壊されてしまうぎりぎり前に見ることができたのです」

せっかく戦争のときも、アメリカが攻撃しないようにして保存したのに、日本自身が壊してしまったなあと、今の京都の変わりようを残念に思うそうだ。

(注1)ブルーノ・タウト (Bruno Julius Florian Taut 1880〜1938)
ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。1910年ドイツ工作連盟に参加。革命への憧れを持って一時期ソ連で活動したが、ナチスが政権についたため、職と地位を奪われた。スイスを経て、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月に来日、そのまま亡命。仙台の商工省工芸指導所を経て、高崎の井上工業及び、群馬県工業試験場高崎分場に着任し、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かしたモダンな家具、日用品を、自身が経営した東京・銀座の「ミラテス」で販売した。1936年に近代化を目指していたトルコのイスタンブール芸術アカデミーからの招請により、イスタンブールに移住、客死する。桂離宮を高く評価したことは、日本建築の再発見を促すきっかけとなった。

建築デザインの仕事

日本におよそ7年間滞在したカールさんは、ドイツに帰国し、デュッセルドルフで建築デザインの仕事を手掛けるようになる。カールさんが目指したのは、ドイツ在住の日本人に和風住宅を提供すること。しかし、洋風を好む日本人にはそのニーズがまるでなく、かえってヨーロッパの人たちから支持されることになる。

日本では価値を認められなくて壊されてしまう、100年以上経った古民家。その建築部材をドイツに輸出して再生させるという仕事で、カールさんは日本とドイツを行き来しながら建築デザインの分野で活躍した。

ドイツも戦争が終わってからは、最低限の住居でも生活することをまずは優先して、小さい有り合わせの家がどんどんつくられたが、東ドイツには幸い古い家がたくさん残った。今、大変なお金をかけてそうした家を直して保存しようとしているそうだ。

「日本人だって海外旅行といえば、ローマ、スペイン、フランス、ロンドン。ドイツだったらロマンチック街道。それらはみんな、古い家や町並みを見に行くんでしょ。だから、やはりみんな古い家を魅力と感じているんです。
 それに、ヨーロッパは石の文化だけではない。ドイツにもティンバーフレームの良い住宅が残っています。だから、日本の古民家の部材をドイツで再生したら、すごく人気が出たんです」

竹所との出会い

1993年、ドイツのお客さんの注文で、日本の古い民家を探していたカールさんは、知り合いの大工さんに誘われて、新潟の竹所に行くことになる。

2005年の町村合併で十日町になったが、それ以前は新潟県東頸城郡松代(まつだい)町室野だった。松代は山の傾斜地を利用した棚田が残る、水の豊かな土地柄だ。ずっと都会暮らしをしてきたカールさんだが、竹所に一目惚れしてしまった。

早速カールさんは、外国人でも土地が買えるのか、調べて行動を起こした。地元の人にも、受け入れてもらえるように相談をしたという。

「自宅の土地は、まあ、家はボロボロだったわけですが、あんまり安くて『0が1つ足りないのかな?』と思うほどでした。
 ドイツに帰ったとき『日本で土地を買った』と言ったら、日本の土地がものすごく高いことを知っている妻は『私のことを殺す』と言いました。でも、私が買った値段を言って、竹所に足を運んで自分の目で確かめたら、彼女もすごく気に入った。良い買い物をしたと喜んでくれましたよ」

「双鶴庵」と名づけた自宅も古民家を再生したものだが、購入した当時の写真を見ると、なんて無謀な計画をしたのかと驚くほどだが、カールさんには「磨けば光る原石」という確信があったのだ。

双鶴庵の外観とキッチン

双鶴庵の外観とキッチン

「双鶴庵」再生

「入母屋だった屋根の形を兜にして、茅葺きにしました。
 私がここに来たときは、地元の人たちは、多分1年ぐらいで逃げ出すと思っていた。そして、『あんなにお金をかけて茅葺きにして』とビックリしたみたいです」

ドイツでも、北のほうは茅も採れるから、茅葺きの民家もある。囲炉裏で火を焚かないと茅葺き屋根がうまく維持できない、と日本では思われているが「そんなことはない」とカールさん。ドイツでは煙突つきの暖炉だったが、茅葺き屋根の保存には何の問題もなかったそうだ。

「茅から水分が取れればいいんです。腐るのは、水分が溜まっているから。それを乾燥させてやればいいんです。みんな、囲炉裏がないから、私の家のことを心配します。でも大丈夫です。昔は煙って大変だったんじゃないですかね。
 天井は張っていなくて、茅が剥き出し。空気は常に抜けているんですが、一番厚い所で80cmもありますから、緩やかに抜けるだけでまったく寒くないし、湿気が溜まることもありません」

カールさんが修復する建物は、必ず断熱材を入れ、ほとんどに床暖房を採用するそうだ。だから、茅葺きでも、ちっとも寒い思いはしないという。

昔のドイツでは茅葺きは貧乏人の屋根の葺き方といわれていたが、今は見直されて、とても流行っている。今の日本では非常に高価なものになっているが、ドイツではそれほどでもないという。

「ハンブルグに日本の大工さんを連れて行って茶室をつくったんですが、茅葺きでやりました。そのときは意外と安かったんですよ。だから、自分の家を日本で茅葺きにするときに、見積もりを見てビックリしました。大きさにもよりますが、去年やった家は600万円かかりました。
 茅葺きは火事になるからといって、許可が下りない地域もあります。昔はやっぱり、地震より火事のほうが恐かったんですよねえ。でも、実際にはそんなに簡単に燃えるものではありません。昔は漏電とか囲炉裏の火が飛んで、という要因がありましたが、設備も良くなっているし火も使いませんから大丈夫」

吹き抜けの大空間に伸びるキャットウォークを歩くと、梁が露(あらわ)しになった小屋裏が間近に見える。茅が音を吸収するので、話し声も柔らかくなる。圧倒されるような量の自然素材を目の前にすると、敬虔な気持ちとともに安心感や安らぎが強く感じられる。

カールさんが古民家再生を通して伝えたかったのは、見せびらかすことではなく、豊かさを感じる心を取り戻すことなのだろう。

いったんすべてを解体して、骨組みが組み直される。骨組みや再試用できる木部以外は、ほとんど新しくするという。壁には構造の補強のために筋交いを施し、断熱性能を上げるために断熱材、防湿シートを入れる。

実は外壁側に見えている柱はツケ柱。昔は室内側は竹小舞を入れた土壁で、外壁側に板材を張った。それが全部で5cmぐらいしかなかったから寒かったのだそうだ。

「今は、厚さ10cmの断熱材を入れているから、壁厚は20cmぐらいあります。柱が直径15cmしかないから、外から見える柱はツケ柱にしているんです」

壁が薄くても、雪が断熱材になるので、雪が降れば多少は暖かかったそうだ。

「この家はそもそも、たいした家ではなかったんです。庄屋の家とか、もっと立派な家はたくさんある。でも、やろうと思えば、これぐらいにはなる。そのことを、みんなにわかってもらいたい」

とカールさん。ほんの少しの空間を生かして、ロフトの寝室のそばにトイレをつくったり、バスルームにも床暖房を入れて、冬場でも快適な暮らしが営めるように工夫をしている。

建設当時はまだドイツに住んでいたから、別荘のつもりでつくった家。だから、キッチンも少し簡易的だし、冷蔵庫も小さすぎた。階段も急すぎる−こういった反省点はあるものの、クリスティーナさんもカールさんも「双鶴庵」での暮らしを楽しんでいる。

自宅の「双鶴庵」で実績をつくったカールさんは、竹所における2軒目の古民家再生を手掛けることになる。

  • ロフトには、寝室と書斎がある

    ロフトには、寝室と書斎がある

  • 左はロフトの端っこに設置されたトイレ。右のバスルームとトイレは1階の半地下にある

    左はロフトの端っこに設置されたトイレ。右のバスルームとトイレは1階の半地下にある

  • ロフトには、寝室と書斎がある
  • 左はロフトの端っこに設置されたトイレ。右のバスルームとトイレは1階の半地下にある

竹所プロジェクト

外壁の色からイエローハウスと名づけられた家は、築200年程経った竹所最後の茅葺き民家で、ここもかなり傷んだ状態だった。

「目の前で貴重な家が朽ち果てていくのを、どうしても放っておけませんでした。とにかく残したいと思った」

カールさんはあとのことはあまり考えずに、買い取って2軒目の再生に取り組む。

手入れのことも考えて、茅葺きではなく鉄平石を屋根材に選んだ。常駐でないと、冬場は茅が凍ってダメになってしまうからだ。

幸いイエローハウスは、東京に住む人に気に入られて、新しい持ち主が決まった。今は月に2回のペースで利用されているが、将来は引っ越してくるつもりだという。

イエローハウスを売るときに、カールさんが言ったのは、

「古いものを大切にしていくという価値観を、この竹所から発信していきましょう」

という一言だったとか。

かつて38軒あった集落まで戻すことは無理でも、あと5、6軒はつくりたいというカールさん。竹所プロジェクトと命名して、竹所を「古民家再生の里」にしようと活動を広げている。

その健闘ぶりが評価されて、2007年(平成19)に第2回安吾賞の新潟市特別賞を受賞した。これは、坂口安吾の出身地である新潟市が「世俗の権威にとらわれずに本質を提示し、反骨と飽くなき挑戦者魂の安吾精神を発揮する現代の安吾に光を当てたい」として2006年(平成18)に設立した賞だ。

でも、今のところ竹所に住んでくれるのは東京の人か、新潟でも町なかの人。地元の人は、古民家にはまだ抵抗感があるという。それでもカールさんは、歴史を刻んだ素晴らしい部材が、快適に暮らせる住まいとして生まれ変わることを実証しながら、「古いものを大切にしていくという価値観」を発信していくつもりだ。

竹所の魅力は水

「竹所に私が来たときには9軒しか残っていませんでした。みんな、空き家。もっと生活に便利な所に引っ越していった。引っ越したのは、除雪車がくる低い土地に住むほうが便利だから。
 でも、35年程前に古い民家を捨てて引っ越したのに、自分の家の水が一番おいしいと言って、新しい家にパイプで水を引いているんですね。
 水は生活に一番大切なものでした。だから、昔は湧き水にしろ、井戸水にしろ、水のある場所に家をつくったんです。竹所は水が豊かな場所です。そのことは飲み水や生活に必要な水に困らないという安心感を与えてくれます。
 水があるということは、食べ物もあるし、動物もいるということ。それは、生き物を養う豊かさがあるということなんです。だから、安心できるのでしょう」

春になったら、村にある何百年も前からの湧き水の所を石積みにするという。今は、塩ビ管で引いてくるだけの味気ない仕組みを、少しでも風情のあるものに変えようとしているのだそうだ。竹所プロジェクトとして取り組んできたカールさんの働きが少しずつみんなにも伝わってきたようである。

再生への思い

「私が買ったときの値段を考えると、土地にも家にも価値が認められていなかったということがわかります。解体するとお金がかかるけれど、誰かが買うと処分できるから好都合、と思っていたかもしれません」

建築家たちは、新しい作品をつくりたいから、「壊したほうがいい」と言うし、大工たちも修繕という汚い仕事より、新しい仕事のほうが早くできるし、きれいだし、良いと思っている。

「大工さんとはいつも闘い」と言うカールさん。古い柱の一部でも腐っていたら、すぐに全部新しくしようとする。本当は日本は世界中で一番、木を接ぐ技術を持っていて、傷んだ所を何度も接ぎながら使い続けていた。地震がある国なのに平気で100年ぐらいは保たせていたのだ。それなのに今の大工はやろうとしないから、若い大工と組むほうがチャレンジ精神があっていいという。

「残したいと思っても、面倒くさいから、大工さんたちが『新しくしたほうが安いですよ』と言う。

安いわけがないでしょう。昔と今じゃ、材料の質が全然違う。同じレベルのものが欲しかったら、いくらお金を積んでもそろえられません。本当に勿体ない。

プレカットされてきて組み立てるだけの家は、技術がいらないから今のままだと大工さんの仕事もなくなってしまいます。古いものがあれば、それを直すために技術も守られるんです」

ドイツには文化財でなくても、記念物として残そうという法律があるという。将来の思い出のために残そう、というもので、100年以上経った建物を壊してはいけないそうだ。もちろん、維持するための修繕費などは国から支援される。日本には、ドイツと違って、景観を守るために建物を規制する法律がないから、個人の自由で壊されてしまう。

「田舎に行けばブローカーがいて、こういう古民家を500万円ぐらいで売っています。
 ちょっと風が吹けば煤が落ちるし、水まわりはまともに使えないし、寒いから、奥さんは1回来たらもう来ません。男の人はお酒を飲んで騒げば楽しいけどね。だから、いくら安いからといって、そんな古民家を買っても、別荘としても使えないんです。
 ちゃんと直せば、やはり3000万円ぐらいはかかります。でも、みんなが価値を認めるような良い家にしなくては、住む気になれないし意味がないんです」

左の写真は再生前の事務所棟外観。本当にボロボロだ。 右の写真は、再生前の双鶴庵。

左の写真は再生前の事務所棟外観。本当にボロボロだ。 右の写真は、再生前の双鶴庵。

決まり事はない

日本では開口部が大きいために筋交いは入れないで、梁より上の所の構造でもたせるように考えられていた。日本は障子を開け放つと、すぐ庭。自然と一体となって暮らしていたのだが、夏を意識するあまり、冬のことはあまり顧みられていなかった。断熱のことは、まったく考えられておらず、冬の寒さは我慢するものだった。

ドイツでは、開口部から熱が逃げるのを少しでも防ごうと、サッシが工夫されていった。オフィスに使われているドイツ製のペアガラスサッシは、2枚のガラスの内側に桟が入っているから、掃除がし易い。

日本では、木製サッシは防火の問題で、町中では使えない。だから、味気ないアルミサッシを使うことになるが、断熱性能が木より劣るから、ペアガラスでも結露する。ドイツは逆に、アルミサッシは特殊なもので、高いのだという。

またドイツには既製品がなく、サッシも全部特注。みんなが自由に家をつくるから、規格サイズがないのである。こういう背景を持ったカールさんの設計は、決まり事に縛られることがない。

「私は風水のことは何もわからないんだけれど、トイレをどこにつくって換気をどうするか、というようなことは、当時の家づくりにとってとても大切なことだったんです。なぜなら、自然の力でやらなくてはいけなかったから。今は、電力などを使って換気をすることができるようになりましたから、昔ほど制約を感じる必要はありません。
 私は日本の古民家に先入観がないので、水まわりも間取りも自由につくることができます。日本人がもし、古民家の再生をやったら、まったく違ったものをつくるでしょう。
 古民家の骨組みは、今ではもう手に入らない材料だし、時間が経って得られた経年変化の味わいは、新しい材料には備わっていない。だから、大切にしなくてはいけないのは骨組み。人間と同じで、骨組みがダメになったら家はおしまいです。骨組みさえ残せば、あとはみんな変えてもいい。
 ほかの部分は、今の暮らしに合ったように、直していけばいいんです。特に水まわりは毎日使うものだし、機能的でないと快適な暮らしはできません。一番、改善しなくてはならない部分ですね」

残すべきものは残し、その人らしい暮らしを快適に営むための機能は新しくする。当たり前のようだが、先入観にとらわれていてはなかなか実行できないことをしてくれるから、カールさんには世界中から仕事の依頼がくるのだろう。

キッチンにいるのはカールさんのパートナー、クリスティーナさん

キッチンにいるのはカールさんのパートナー、クリスティーナさん

エコもバランス

「地元の土を使った土壁もいいですが、あんまり断熱効果が高くないんです。ただ防寒というだけではなく、これからはエネルギーのことを考えて断熱に工夫をしなくてはなりません。
 ドイツでは25年ほどまえから研究されていて、個人の家でも実際に採用されていますが、地熱利用をしてみたいんです。これを稼働するのに電力がかかりますが、それでも電気使用量が3分の1ぐらいで済みます。日本は火山国で、温泉がどこででも出るんだから、利用しない手はないでしょう」

とカールさんは新しい取り組みに意欲的だ。

日本では、何かやろうとすると、すぐに「予算がないから」と言われるけれど、エコロジーに関心が集まっているから、やり始めたら早いのではないかとのこと。

断熱材のことも、カールさんが始めたころは入れないのが当たり前だったが、今では入れるようになっているし、窓ガラスもだんだんペアガラスが標準になってきた。

カールさんに、自分の家がこれからどれぐらい保つと思うか聞いてみた。

「木の部分はずっと大丈夫でしょう。基礎はコンクリートだから、80年ぐらい。でも、基礎はジャッキアップしてやり直せばいいんだから、まだまだ何百年も使えるはずです。
 ドイツでもエネルギー0ハウスが流行っていますが、カッコ悪いんですよ。屋根にはソーラーパネルを並べて。そこのところは、やはりバランスだと思いますよ。エコロジーと美しさと経済性と。
 手を入れながら何百年も使うためには、価値を認めて大事にすることが大切。それには、やはり美しいことも重要な要素なんです」

国土交通省の調査では日本の住宅の平均寿命は26年。それを少なくとも100年に伸ばすことは、環境や資源の視点からも有意義なことだ。

そして何よりも「使い捨て文化」に慣らされ、自国の文化すら捨て去る恐れがあることに、カールさんは気づきを与えてくれた。

愛着を持ちつつ、使いながら維持していく住まいをつくるには、今の私たちの暮らしに適した機能と、変わらず守るものを共存させればいい。

家と生業が切り離された時代に、多くの暮らし手は、便利を善しとして都会に出て行った。古民家は、守るべき価値があるものとは思われずにうち捨てられたのだ。

今、美と持続性が融合した姿として再び古民家が注目を浴びている。これを単なる風潮として終わらせてはならないだろう。



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