水郷で有名な福岡・柳川も、存続の危機を経験しています。 多くの人の注目を集めた広松伝さんの活躍は、土地の風土と歴史を振り返り、掘割を市民の手に取り戻そうとしたことから始まりました。 水の会がその志を引き継いだ背景にある、人と仕組みと地場の資産を探ります。
柳川には、中心部のたった2km四方に60kmもの水路が、東西11km、南北12kmの柳川市全域ではおよそ930kmの水路が張り巡らされているという。
ところが1977年(昭和52)、幹線水路以外を埋め立て、下水溝にするという計画が浮上した。
水路の汚染が進み、「汚い」「臭い」「蚊が大発生」という事態にまで環境が悪化。当時の古賀杉夫柳川市長は、これ以上の維持管理は不可能と判断した。
「水郷柳川」を訪れた観光客から寄せられた手紙にも、「がっかりした」「汚くて驚いた」という文字が並んだ。その最悪の状況から、どんな再生の物語があったのか。
柳川掘割の再生の軌跡を追う前に、そもそも掘割がどのようなものなのか、少し探ってみよう。
私たちは、柳川をつい「水が豊かな地域」と思いがちだが、実は真水を得にくい地理的条件がある。
柳川は、筑後川が運んだ土砂でつくられた沖積平野。最大6mの干満の差がある有明海では、干潮時には大きな干潟が出現する。柳川に限らず、河口付近の平野の耕地化は、こうした干潟に掘割を切って排水を促し、掘り上げた土を盛ることによってつくられてきた。
よく「世界は神がつくった。しかし、オランダはオランダ人がつくった」と言われるが、河口付近の低湿地を人力で耕地化するには、尋常でない努力が必要。また、井戸を掘っても真水が得られないから、干拓地は水源に乏しい。頼れるのは雨水と川水である。
掘割は、土地の水はけのためにつくられ、そこから掘り上げられた土は耕地や住宅地や土居(堤防)に利用され、さらに真水を蓄える「溜池」機能も果たすのである。
堀割の水は、磯鳥堰(いそどりせき)という防潮堤の上流で取水しているので潮が入っていない。干潮のときには排水されるようになっている。
柳川では、上水道ができるまでは、飲料水も掘割から得ていた。一晩かけて澄切った朝一番の水を、大きな水瓶に汲み置いたという。
排水は、池に溜めて沈殿させてから流したり、水芋を植えて水を浄化させた。おむつを洗った汚水は庭に掘った「タンボ」と呼ぶ穴に流し、直接掘割に流すことはなかったそうだ。
今、水道水は筑後川などから取っている。また、新田開発が進んで足りなくなった分の農業用水は、筑後川導水引いてきているという。
柳川中心の2km四方、60kmの水路の水は、主に瀬高水門から入ってくる。その水は、沖端川に設けた二ツ川堰から人工水路の二ツ川に引き込んだ水と矢部川から取水している。しかし、頼りにすべき矢部川は総延長60kmの小河川で、実に1万6000haもの耕地をまかなわなくてはならない。
掘割では水はゆっくりと流れるが、大切な水をいっそう長く滞留させ活用するために、柳川の人たちは、さらに「もたせ」という工夫を考え出した。
「もたせ」を俯瞰して見ると、橋が架かっている場所などでは、堀の幅が狭まっている。幅が狭くなっているので、その手前で水はいったん、滞留する。狭い所を流れるときは速くなるので、水を撹拌して酸素を取り込む作用もある。
断面方向に見ると、上が開いた台形につくられている。このため、水が増えたときに貯留できる水量が、少ないときよりも多くなるのだ。こうしておけば、満潮時に雨が降って排水できないときにも、掘割に貯留することで氾濫を防ぐことができる。たとえ氾濫しても、じわじわあふれるだけで、潮が引くときに、掘割が排水路の役目を担ってくれるのである。
つまり掘割には、少ない水を有効に利用する利水機能と、水勢や水量を調整して洪水を防ぐ治水機能が一体となった、非常に賢いシステムがあるのである。
柳川には、それまでにも掘割はあったが、1601〜1609年(慶長6〜14)に城主を務めた田中吉政(注1)が近世柳川の基礎を築いたといわれている。
(注1)田中吉政
関ヶ原の合戦で東軍として戦った吉政は、石田三成を捕縛するという戦功もあって、筑後の国主になった。郡上八幡や岡崎の水利もやった土木工学に長けた人物で、城の大規模修築、久留米・柳川往還の整備、慶長本土居の築堤など大きな功績を残している。
ゆっくり流れると弊害もある。滞留した水が澱んで水草が繁茂したり、塵芥(じんかい・ヘドロ)が溜まって水質が悪化したりするのである。
その解消方法として、城濠堰(しろほりせき)を閉め切り沖端の二丁井樋を開放し、掘割を空にして掃除をする。一般に堀干しといわれるこうした行事を、旧・城下町の城濠では特に水落しと呼んだ。
単に掃除をするだけではなく、水を落とした掘割で、魚を捕ることも大きな楽しみだった。明治の末までは、城内にある日吉神社の秋季祭礼の前に行なっていた。捕った魚で酒宴を催すことが恒例だったからである。
現在は、有明海の海苔養殖への影響を配慮して、2月中旬ごろに10日間ほど行なわれている。
こんなにも豊かな水の仕組みを持っていた柳川も、高度経済成長期にはご他聞に漏れず、掘割存続の危機を迎えていた。
上水道敷設によって飲み水として使わなくなったことが、水を大切にする心を失わせてしまった。加えて、合成洗剤の使用、油分の多い食生活への嗜好が、掘割の水の汚れに拍車をかけた。
利用されなくなった水は汚れ、汚れた水には親しみが消えて、いつしか水路はゴミ捨て場となった。ビニールや缶など自然に戻らないゴミもどんどん水路に捨てられた。
元・柳川市長の古賀杉夫さんは、汚れ切って悪臭を放ち、機能を終えたように見える掘割を、幹線水路以外は埋め立てて下水溝をつくることで、市民の環境改善を図るしかないと判断した。
ところが、国から6割の援助を取りつけて、20億円に上る工事計画が決まった矢先に、都市下水路係長だった広松伝(ひろまつつたえ)さんが「待った」をかけたのである。
広松さんは、以前の担当が上水の仕事だったことから、川と土地との関係を熱心に調べて理解しようと努めてきた人だ。広松さんの熱心な説得に、古賀市長が出した条件は、6カ月の猶予を与えるから、実現性の高い代替案を作成せよ、というものだった。
いったん決まった計画の見直しが、いかに大変なことかは、想像に難くない。今でこそ、ダム計画の白紙撤回といった画期的な計画見直しが実現しているが、1970年代後半(昭和50年代)には考えられない英断だったといえよう。それには、古賀市長の「昔に返せるものなら、それに越したことはない」という思いが込められていたのである。
あちこちの現地に足を運び、データを集める以外にも、住民を説得して同意を得るという役目を一人で負った広松さん。人を説得するために勉強を始め、このことが掘割を歴史の側面、科学の側面から総合的に検証する、初めての研究となった。
飲み水は上水道。だから、掘割はその機能を終えた。高度経済成長期に、多くの都市はそう判断して、掘割や川にフタをしたり埋めたりしてしまったが、広松さんは、柳川ならではの掘割機能を主張。それは、地盤の維持であり、洪水時の排水路としての機能である。
「水路を埋めれば柳川は沈没してしまう」と言って、広松さんは住民に呼びかけをした。柳川は水分70%のガタと呼ばれる細かい粒子の土壌が、5〜18mも堆積した上に載っている。地盤を掘れば豆腐のような軟弱地盤なのだ。
コンクリートやアスファルトで覆って水が浸透しなくなっている上に、地下水を汲み上げたら柳川は地盤沈下してしまう。
これは、単なる誇張ではない。実際、農業用水を溜池利用などから地下水汲み上げに切り換えた地域で、2mもの地盤沈下で苦しんでいる所があるという。
広松さんは掘割再生を期した「河川浄化計画」で3つの実施計画を決めた。
広松さんをはじめ、市職員が率先して清掃を行なう姿に、美しかった掘割の記憶を持つ人たちが共感した。
当時広松さんは、水路が1本きれいになって流れが戻ったら活動が加速した、と語っている。水路上につくられた不法構築物を自主的に撤去したり、最初は頭を悩ませたヘドロの捨て場を提供してくれる人も現れる。結果的に2倍のスピードで目標が達せられ、費用は下水路計画の5分の1で済んだ。
1989年(平成元)、第5回全国水郷水都全国会議が柳川市で開催される。この成果を受けて、「水の会」発足に向けた活動が始まった。2年後の1991年(平成3)、水の日である8月1日に「水の会」が発足。
柳川に水を供給する沖端川の上流に、矢部川源流の山村、矢部村がある。この村の子供たちとの交流も始まる。
掘割は、川でもあり池でもある。英語のクリーク(creek)とは違う、と水の会の立花民雄会長(柳川城主立花氏の子孫。柳川市観光協会会長)はいつも言っているそうだ。クリークは、米語では小川、英語では小さな入り江のことを指すから、自然にできた潮が上がってくる水路をいうのだそうだ。だから、ここでいうと沖端川や塩塚川は、クリークである。
掘割は自然な地形を利用しているが、人工的な手が入っているから正確にはキャナル(canal)。
立花会長の記憶によれば、最初に言い出したのは北原白秋(柳川出身の文学者)ではないかということ。今ではその誤用がすっかり定着してしまった。
毎年恒例となった、潮干狩りの日の午前中、水の会幹事の堤弘崇さんと平野幸二さんが、インタビューに答えてくださった。
どの家も掘割に面しているので、水汲み場があり、「水くん場」と呼ばれて親しまれてきた。
今年50歳になる平野さんは、
「飲んだ経験があるのは、爺ちゃん婆ちゃん世代。僕は飲んではいないけれど、茶碗を堀で洗った経験がある」
掘割の水が急速に汚くなったのは、上水道が敷設されてから。小学校にプールができたことも、それを加速した。
実は、水が汚れていた時代にも市が予算を取って管理していたのだが、いったんはきれいになっても、すぐにまた汚れてしまう。
昔は、さらった泥は農地の大事な客土だったし、掘割は舟運にも活用されていた。観光の川下りだけではなく、交通手段として機能していた。住人が掘割とそんな深いつきあいをしていない今、維持していくのは容易ではない。
下水道が敷設された現在も、掘割の水が汚れているのはなぜか。
それは、下水幹線からの引き込み部分が個人負担で、利用していない人も多いからだ。当然のことながら、罰則規定はない。
「昔のようには利用していないので、きれいにするといっても限界がある。結局、掘割と向き合うためには、良いことばかりじゃない。煩わしさもあるんです」
新しい掘割との付き合い方にどんなものがあるのかは、まだきちんと位置づけられていない。
水の会では「とにかく掘割で遊ぼう」「まずは掘割を楽しもう」と、8月初旬に「水郷柳川の水の祭典実行委員会」が行なっている「スイ!水!すい!」に協力している。
今の小学生の親世代は、堀が汚かったときに子供だった人たち。だから遊んだ経験もないし、危ない、と思っている。そうした人たちに、掘割の魅力を知ってもらうことから始めているのだ。
下水問題も難しい要因を含んでいるが、要は水量が足りないことが一番の原因である。水量が充分にあって流れがそれなりにあれば、きれいになるからである。
水の会と連携を取っている、NPO法人有明海理事長の工藤徹さんは、川下りの舟会社の経営者でもある。工藤さんは
「堰の管理は(取水口も排水口も)農業委員さんの役目。他の人間は触ることが許されません。近年つくられた農業用水路はコンクリート三面張りで真っ直ぐ。水がすぐに流れ去ってしまう。掘割が<もたせ>でゆっくり流したのとは正反対です。ですから、水がすぐに足りなくなって、柳川の下流の耕地に流すために掘割の水位が低くなってしまうんです」
と言う。川舟は掘割に水がなければ営業できない。観光で頑張っている柳川にとって、これは手痛い打撃となる。
工藤さんは、田中吉政没後400年に当たる今年、掘割の持つ意味を問い直そうと働きかけている。
平野さんも水が循環しているものだという思いを取り戻したい、と言う。
「我々は蛇口を捻ればきれいな水道水が出るのを、当たり前と思っています。そして、すべてお金に換算してしまう。お金という代償に置き換えてしまって、どこからどのようにしてきた水か、どこへ行く水かという本質を見ないようになっている。それは水が蛇口の中や、配水管の中に閉じ込められているからですね。
今みたいに、塩ビ管からドーっと流すんじゃなくて、昔は、使う水も使った水も目に見えた。水汲みが朝一番の仕事だったし、使った水も、そのまま流さないで浄化するシステムがあったんです。そういう水の循環というのができていたんですね。今思うと、最先端のサイエンスですよね。
柳川の場合、水量が少ないから一巡した水を、また戻して使っている。汚れた水だけれど、それは自分たちが使った結果ですから」
掘割の上に道路ができて、商店街の駐車場になっている殺風景な場所が、実は城の玄関口。辻門があった所である。城内に入るときは、ここで審査を受けて入るから時間がかかる。そのため、この辺りに御客屋ができて、大層繁盛していたそうだ。
「今は何にもありません。辻門の堀を開けようという運動もありますが、開けるのはできても、どう活用するかまで考えなくては続きませんから」
と平野さん。
「観光客は柳川駅のそばで舟に乗ったら、そのまま御花(おはな・柳河藩三代藩主 立花鏡虎が城の西南に築いた休息用の屋敷)まで行って、川下りとウナギだけで終わってしまっているんですよ。観光客は、年間約120万人、しかし宿泊するのは全体の約5%に留まっています。
柳川は、掘割が残ったから江戸時代の古い町並みも残った。古地図と現在とで、あんまり変わっていないんですよ。道も狭いし、見通しも悪い。それは、城攻めがしにくいようにつくられていたから。昔は堀も幅が25mぐらいあった場所もあります。弓で射っても届かない距離だということです。
大きなお寺さんが多いのは、兵隊を隠しておくためだったんです。城の増築がなかなかできなくなった時代に、お寺はつくることが許された。だから路地裏を歩いてもらえれば、柳川の歴史をもっと身近に感じてもらえるんです」
と堤さんは、柳川の歴史を知って隠れた魅力を再発見してほしいと言う。
2002年(平成14)、広松さんは64歳で急逝してしまう。牽引役を失った水の会は、ここから第二のスタートを切った。
堤さんが水の会に入ったのは、広松さんが亡くなってからだった。
「学生時代に東京に住んでいて、全国水環境交流会の事務局を手伝っていたんです。そのご縁で、広松さんの偲ぶ会をやる、というお知らせがきた。地元に帰ってきていたので、友人に誘われて参加しました。そのときに隣に座ったのが、のちに事務局長になる松石めい子さん。カッパに引き込まれるみたいに、引っ張り込まれた」
平野さんは古参のメンバーだ。
「福岡市の隣の糸島で勤務していました。そのときに低農薬農業とか環境問題に取り組まれていた宇根さんという方が、広松さんを糸島に呼ばれたんですよ。1993年(平成5)ぐらいだったでしょうか。私も柳川出身。講演を聞いて改めて考えさせられました。
転勤で柳川に帰ってきてからは、広松さんたちと一緒に活動するようになりました。浄化槽の普及を進めたり、一時は「ゴミの会」みたいに、ゴミの勉強会もしました。
最初はスーパースター広松さんが、全国で講演をされて。堀割の再生が、非常に大きな功績としていろいろな所に取り上げられていった、という形でした。
広松さんが亡くなられて、どうしようかとみんなで話し合って、御花の立花民雄さんに会長をお願いした。やはり、我々は広松さんの意思を受け継いでいこう、ということになりました」
そのときは、名簿自体がなかったから会員数も定かではなかった。水の会の再スタートは、名簿をつくり直すところから始まった。
しかし、事務局長を引き受けてくれた松石さんも2006年(平成18)に亡くなられてしまう。広松さんが亡くなって、松石さんが活動されたのはわずか4年ほど。でも、会として機能するように仕組みをつくってくれたのは、松石さんだった。
とにかくあっちこっちの交流会や勉強会に参加し、他団体や研究者などと交流したりネットワークづくりに、松石さんの行動力が発揮された。堤さんは言う。
「島谷幸宏先生を活動に引き込んだり、全国都市再生まちづくり会議の関連行事、日仏景観会議、水もり自慢大会などを柳川で開催して、内外にアピールしたりと、松石さんの功績は大きいです」
今は会員全体で50人ぐらい。5月第4土曜日を「堀と人をつなぐ日」と決めて、町内会の掘掃除を手伝っている。堀さらいまではしないが、護岸の草刈り、黄菖蒲の植栽と、美観に一役買っている。
「堀掃除も5回目になりました。ただ掃除するだけではなく、終わってから交流会をやったんです。そこで初めて、掘割をこれからどうするかとか、辻門の暗渠を開けたらどうか、といった話をしました。もっと無関心かなあ、と思っていたんですが、『こういったことは大事なことだから、これからも協力したい』と言ってくださったんですよ」
と平野さん。
最近取り組み始めた水の浄化も、水の会だけでやったら広がりがない。やはり、もっと多くの人と一緒にやりたい。そして次のステップとして、いろいろな地域の人とやるようにしたい。そこには、行政も巻き込んで。
「住む人と掘割との、今の時代に合った新しい関係をみつけて掘割を活用しないと、だんだんマンネリ化してきて、せっかくきれいになったのにまた元に戻ってしまう。
多くの人と一緒にやるのは、結構大変で、自分たちだけでしたほうが、よっぱど簡単だけれど、その原点にあるのが広松さんなんです。広松さんは2年間で百数十回も地元の人と根気よく話し合ってきた。あれをやらないと、かつて行政任せにしていたときのように、掃除をしてもすぐに汚れてしまうでしょう」
柳川では『ゆっくり』のことを、『ジワーッと』と言う。水も自然も、すぐに思い通りにはならないもの。だから水の会は、せっかちにならずにジワーッとやっていけたら、と考えている。
「まちづくり」には「未来予想図」のような夢があって、その中心に掘割がある。観光も「まちづくり」にとって大切なもの。しかし、それだけでは地元の住民がかかわれる部分が少なすぎる気がする。掘割とのつきあいが、もっと暮らしに密接にかかわるものになったら、水への関心が増えるのではないか。
かつて広松さんの熱意に賛同した人たちには、掘割の楽しい思い出があった。今は、先に立ってしまっている煩わしさを乗り越えなくてはならない。
人と掘割との関係を、きちっと築いていくことが、水の会の目指すところである。