機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

愛知用水概説

ドラマチックに語られることが多かった愛知用水。しかし、実現に向けた多くの苦難と、それを乗り越えるための努力の話を、単に、過去の偉大な出来事として片付けてはいけない気がします。 愛知用水に何を学び、今と将来にどう生かすのか。理解の一助として、編集部でまとめてみました。

編集部

愛知用水の水源

長野県木曽郡王滝村と木曽町にまたがる牧尾ダム (1961年〈昭和36〉完成)
岐阜県恵那市の阿木川ダム (1990年〈平成2〉 完成 都市用水・洪水調節)
長野県木曽郡木祖村の味噌川ダム (1996年〈平成8〉 完成 都市用水・洪水調節)

牧尾ダムの水没地域

土地面積 約235ha
三岳村(現・木曽町三岳)の和田、黒瀬の2地区 42戸、206名
王滝村の淀地、崩越、田島、三沢の4地区 198戸、797名

幹線水路

岐阜県可児市と八百津町にまたがる兼山ダム(関西電力管理)の愛知用水取水口から美浜町の美浜調整池までの112km

支線水路

幹線水路から分岐した農業用水の総延長1012 km

愛知用水土地改良区(1952年〈昭和27〉設立)

組合員数

3万2085名

地区面積

1万3584.6ha

関係市町

24市町
(犬山市、小牧市、春日井市、名古屋市、尾張旭市、瀬戸市、長久手町、日進市、東郷町、豊明市、みよし市、豊田市、刈谷市、知立市、大府市、東海市、東浦町、阿久比町、半田市、知多市、常滑市、武豊町、美浜町、南知多町)

管理組織

管理区105、
管理班641

(2010年4月1日現在)

お手本は明治用水

愛知用水の萌芽は、明治用水にある、と言っていいだろう。

碧海郡(へきかいぐん)和泉村(現・安城市和泉町)の豪農 都築弥厚(つづきやこう)(1765〜1833年)が、碧海台地に矢作(やはぎ)川の水を引き新田開発する計画を立てた。1827年(文政10)『三河国碧海郡新開一件願書』をまとめ「碧海台地が原野のままである理由は用水がないため」として、幕府勘定奉行に用水路施工を願い出た。1833年(天保4)、幕府は計画を許可したが、同年都築は病没。都築の死後、地元の反対もあり計画は頓挫した。のちに岡崎の庄屋 伊豫田与八郎(いよだよはちろう)(1822〜1895年)と石井新田(現・安城市石井町)の農民 岡本兵松(ひょうまつ)(1821〜1903年)が都築の志を引き継ぎ完成させる。

愛知県豊田市で矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、西尾市、碧南市、高浜市、刈谷市、知立市に水を供給し、「日本のデンマーク」と教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。

この明治用水の成功を知る知多郡富貴村(現・武豊町)の元村長 森田萬右衛門(まんえもん)(1852〜1934年)は、「碧海郡に明治用水があるように、知多郡にも木曽川から用水を導きたい」とことあるごとに語った。

愛知用水年表
(独)水資源機構愛知用水総合管理所ホームページより編集部で作成

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水不足に苦しむ知多

知多半島は台地状の地形のために、木曽川や矢作川といった大河川は半島を中心として左右に分かれ、伊勢湾と三河湾に注いでしまう。大きな川がないために、雨が降ってもすぐに水が海に流れてしまい、また地質的に地下水も得にくいために、長らく水不足に苦しんできた。「知多の豊年米食わず」ということわざがあるが、知多半島が豊年の年は、他の地方は水害で米ができないという意味。それほど、水が足りない地域であった。

農業も天水に頼らざるを得ないため、皿池と呼ばれる浅く小さな溜め池が数多くつくられた。その数は1万3000とも1万5000ともいわれている。

溜め池から田んぼへ水を入れるのも、当時はすべて人力。溜め池横の田を一段、その上の田を二段と数え、まずは一段の田を満杯にし、その水をさらに二段の田へ運ぶことを二段替え、もう一段上の田に入れることを三段替えといった。桶を担いで坂を上るか、跳ねつるべを使う大変な労働だった。田んぼ1枚を一杯にするのに、桶で3000杯かかるといわれた。

久野庄太郎の決心

愛知用水運動の中心となった知多郡八幡村(現・知多市八幡町)の農民 久野庄太郎(1900〜1997年)は、貧しい農家の長男として生まれ、尋常小学校に通ったがそれさえも弟の子守りで思うようにまかせなかった。11歳になったときに、この地方の出稼ぎ仕事である「万歳」に行くようになる。太夫と才蔵が演じる江戸時代からある伝承芸能で、大府駅から東京へ向かう臨時列車、「万歳列車」が出るほど盛んだった。

水に苦労した経験から、のちに発動機とポンプを手に入れた久野は、1947年(昭和22)の大旱魃の際は、年寄りや戦争に夫を取られた家々を訪ねて、昼夜を惜しまず水を汲んだ、というエピソードも残っている。

貧しいながらも勉学に励み、積極的に農業の多角経営にも乗り出して、父 彦松とともに篤農家として知られるまでに成長した久野は、17歳のときに森田萬右衛門の話を聞き、感銘を受けている。

1947年(昭和22)3月、久野は農業問題を昭和天皇にご進講する機会があり、激励を受けたことから木曽川疎水実現の決心をする。どんなに努力しても水がなければ報われないという長年の悔しさと、明治用水の成功を知って「水さえあれば、皆が幸せになれる」という確信があってのことだろう。

農聖と呼ばれた安城農林学校(当時)初代校長の山崎延吉は毎年5月5日に〈つつじの会〉と称して篤農家を集め研究会を主宰していた。山崎は碧海郡地域の農業指導にあたり、「日本のデンマーク」として先進的農業地帯に生まれ変わらせた指導者でもあった。1948年(昭和23)、久野はその席上で用水運動への思いを語ったのである。このとき、久野は49歳になっていた。

参加者から無謀な計画であると懸念する声が上がる中、山崎は「技術的に可能があるなら、吾輩も余生を傾けて協力しよう」と約束してくれた。

久野と浜島の出会い

一方、もう一人の立役者、浜島辰雄は1916年(大正5)に豊明村(現・豊明市)の豊かな農家に6人兄弟の末っ子として生まれた。8歳のときに父親から溜め池の水番を頼まれたが、子供だったことから水泥棒を阻止できずに悔しい思いを経験している。愛知県立安城農林学校(当時)から三重高等農林学校に進み、卒業後は南満州鉄道調査部、名古屋陸軍幼年学校教官を経て、母校である安城農林学校(当時)の教職に就いた。

この二人を出会わせたのは、1948年(昭和23)7月18日付けの中部日本新聞尾張版の記事である。久野の活動を取り上げた「発展する知多の夢。その名も愛知用水」という記事を読んだ浜島は、早速久野を訪ねて意気投合する。満州での経験を生かして、浜島は愛知用水の概要図を書いた。当時の吉田茂首相に愛知用水建設の陳情に行ったときに説得できたのも、多くの賛同者を得られたのも、この概要図に因るところが大きい。実に精密で、完成水路と重ねてみても、ほぼ90%が合致している。そういう意味でも、浜島が果たした役割は非常に大きかった。

久野と浜島は15歳の年の差があったが、互いに尊敬し合い、生涯の善き友であった。久野は「無欲の者には無欲の人がよく解る。無欲の同志は身分、学歴、年齢などを超越して、直に仲良しになる」と浜島に語ったという。

写真:愛知用水概説

左上:木曽川疎水運動の発起人であり、愛知用水の生みの親である久野庄太郎さん。
左下:愛知用水概要図を完成させ、久野さんと二人三脚で運動に参加した浜島辰雄さん。
中:犠牲者追悼のために、久野さんがつくった観音像。工事現場の土を使って、500体つくられた。これは愛知県・大府にある愛知用水土地改良区の建物内に安置されている。
右:長大な水路の途中に調整池として設けられた愛知池。周回道路は市民の憩いの空間になっている。
写真提供:(独)水資源機構愛知用水総合管理所

愛知用水期成同盟会発足

1948年(昭和23)は、愛知用水運動が大きく進展した年であった。

久野はまず、戦時中、東海軍管区司令長官岡田中将の幕僚として知多に来て面識があった緋田工(あけだたくみ)元・特高警察官を用水運動の指導者として迎える。次に地元有志を集めて、農村同志会の下打ち合せを行なっている。農村同志会に働きかけて、運動の推進母体である〈愛知用水開発期成同盟会〉を発足しようというものだ。

この年の9月から10月にかけて、賛同者を募るために久野らは説明会を開いた。集まった聴衆の心を引きつけるのに浪曲「開けゆく安城ヶ原―偉人弥厚と日本のデンマーク」(三門博作)を梅ヶ枝(うめがえ)鶯を招いて披露した。聴衆が感動して聞き入ったあとに、久野がおおよそ縦4m横2mもある大きな「愛知用水概要図」を掲げて説明した。話も聴衆を魅了して人気を博し、各町村とも競って説明会を行なった。延べ70回に及ぶ説明会の成果もあって、知多半島の1市25町村すべてが参加する愛知用水開発期成会が設立された。

当時の知多半島で唯一の市であった半田市は、何事を起こすにあたっても、中心となる習わしとなっていた。半田は水こそ得にくかったが、海運業や醸造業で栄えた土地であった。そこで、森信蔵 半田市長に〈愛知用水開発期成同盟会〉発足の折には会長に就任するように要請して快諾を得る。

東京への陳情

1948年(昭和23)年末、予算編成以降なるべく早く陳情に来るようにと農林省開拓局(当時)から連絡が入った。農村同志会のメンバー16名が上京し、局長の伊藤佐(たすく)、久野の説明に続き、浜島が概要図を広げて説明をした。

偶然、三重高等農林学校時代の農業土木担任教授で陸上競技部の監督教官であった松田俊正 建設部専門官が居合わせたこともあって、幸先の良いスタートとなった。

会議終了後に、ある面会のチャンスが突然回ってきた。巣鴨拘置所から昨晩釈放になった岸信介が弟で官房長官の佐藤栄作の自宅にいるので来ないか、という誘いであった。緋田のコネクションによる差配である。

この面会は翌朝の吉田茂首相への陳情につながった。5分の約束が40分を超えたころ、ワンマン宰相の鶴の一声が上がった。「食糧増産、失業対策、よいではないか」

夢として始まり、久野が「自分の生きている間には実現は不可能ではないか」と考えた愛知用水への長い道のりが、一挙に縮まった瞬間であった。

愛知用水土地改良区、愛知県企業庁提供のデータ及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)、湖沼データ(平成17年)」より編集部で作図

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挫折と再生

久野と浜島の愛知用水に賭ける情熱は、己や家族を犠牲にするほどのものだった。

昼間は安城農林高校(1948年〈昭和23〉改称)教員として働きながら、寝る間も惜しんで図面を引く浜島の身体を心配した妻のとしゑと口論になり、心血を注いだ概要図を燃やされそうになったこともあった。その後、職場の上司の配慮から、通勤に便利な県立半田農業高校へ転勤となった。

1952年(昭和27)、農林官僚から愛知用水土地改良区理事長に就任していた伊藤佐は、用水事業の推進のために衆議院議員に立候補した。浜島は、その筆頭秘書を務めるために退職を余儀なくされる。「労多く、資金面でも大変な無駄遣いだった」(浜島が後述)この選挙で、浜島は退職金12万円をすべて失い、久野も破産の遠因をつくってしまった。

一方の久野は、愛知用水運動に没頭するために家業を家族にまかせただけでなく、活動資金のすべてをポケットマネーでまかなった。久野は海苔の養殖や養豚にも挑戦し、多角経営を行ない、耕地面積も収穫量も県下一といわれたが、愛知用水運動を始めてからは人手が足りず、また資金捻出のために土地や家屋を手放していった。

1954年(昭和29)には一切の運動資金を個人資産でまかなっていた久野が、破産宣告を受ける。愛知用水運動の資金を捻出するために始めた〈愛知農林物産〉という会社が、倉庫の品物を盗難されたことで手形の不渡りを出してしまったのである。

久野の窮状とこれ以上の負担を見かねた期成同盟会の幹部から、「今後は用水運動から手を引くように」と宣告され、久野は失意のどん底に落ちた。その久野が立ち直るきっかけを与えてくれたのが、京都にある一燈園(いっとうえん)である。1904年(明治37)、西田天香(てんこう)によって設立され「自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、また働きを金に換えないでも、許されて生かされる」という信条のもとに、常に懺悔の心を持って、無所有奉仕の生活を行なっている。

久野は一燈園で生活するうちに、独りよがりになっていた自らを反省し、再生したのであった。

久野の祈り

1951年(昭和26)ダムで水没する王滝村と三岳村(現・木曽町三岳)が、ダム建設反対同盟を組織し、反対運動を展開した。久野は村へ何度も足を運び、移転予定の140戸すべてを回って頭を下げ、理解を求めた。愛知用水運動は既に久野たち農民の手を離れ、国家事業になっていたが、水源地で反対運動が起きたと聞いて居ても立ってもいられなくなったのである。

久野が王滝村の常宿にしていた小林旅館は村議会の議長が経営しており、当然反対派の側にいた。わざわざ居心地の悪い宿を選んだところも久野らしい。

また、工事中に出た56人の犠牲者を悼み、ダムの土で観音菩薩像をつくり供養している。犠牲者を出したことへの後悔と苦悩は、のちに献体団体〈不老会〉を組織することで収まっていった。

世界銀行の融資を受ける

用水運動が進展し、農林省(当時)による現地調査が進むにつれ、建設費が明らかになってきた。その額は知多半島の農民が負える金額ではなく、県はおろか国にさえ予算の確保はおぼつかなかった。

資金難の解決策として「余剰農産物見返り資金」と「世界銀行による、敗戦国に対する復興開発資金融資」が上げられた。〈農業開発公社〉を設立して調達を図ろうとした農林省に対して、世界銀行は「特定地域の復興事業であること」「灌漑用水などの開発には地元住民の3分の2以上の同意」を求めてきた。こうして〈農業開発公社〉構想は〈愛知用水公社(当時)〉設立へと方針転換された。

〈愛知用水公社〉は世界銀行の指導のもと、シカゴに本社をおくエリック・フロアー社(EFA)とコンサルタント契約を結んだ。EFA社は大型土木機械の使用や設計技術の標準化、安全への意識など、それまでの日本にないやり方を持ち込み、のちの日本の土木技術に大きな足跡を残した。

水源となるダムは、当初二子持地区に重力式コンクリートダムでつくる予定だったが、槇尾橋付近にロックフィルダムでつくる場合に比べ70億円も余計に費用が発生するとして、世界銀行は農林省の計画を退けた。EFA社も「地質的に可能」という結論を出し、牧尾ロックフィルダムに決定した。

このように、世界銀行は単なる融資に留まらず、貸した金の使い道にまで責任を放棄せず介入してきた。「世界銀行から融資を受ける」ことは、間接的に信用を増すことにもつながったといえよう。

ちなみに半田市長で〈愛知用水開発期成同盟会〉会長の森は、戦前、カリフォルニアの大学を卒業後、新聞記者として30年間アメリカに駐在した経験を持ち、世界銀行のガードナー副総裁とも知己の間柄だった。渡米の際には農村同志会と〈愛知用水開発期成同盟会〉が中心となってつくった論文「愛知用水の趣旨と理想」(1949年9月)(Aichi Irrigation System - It's Prospects & Ideal)を翻訳してガードナーに手渡すなど、橋渡しの役を担った。

困難な工事

牧尾ダム本体に先駆けて、仮排水路工事が進行していた矢先、火山性ガスが発生して爆発が起きた。この事故で、愛知用水工事で最初の犠牲者が出てしまった。1960年(昭和35)7月には、台風11号の襲来によって仮設ダムの一部が流失してしまう。

多くの困難を乗り越え、工事は1961年5月28日、わずか5年の工期で完了した。

用途転用と二期事業

水に乏しい知多半島の簡易水道では、夏の渇水期には断水が日常化した。また、名古屋南部臨海工業地帯の発展に伴って地下水が大量に汲み上げられ、地盤沈下や地下水に塩分が多量に含まれるなどの問題も顕在化した。

こうしたことから愛知県初の県営水道事業が行なわれることとなり、1957年(昭和32)に認可を受け、18市町の約30万人を給水人口とし、水源を愛知用水に求めた。その後、急激な伸びを示した水道用水需要のため、三期にわたる拡張事業が実施されている。

1981〜2004年(昭和56〜平成16)、幹線水路の二連化、支線水路のパイプライン化が愛知用水二期事業として行なわれた。

また1995〜2006年(平成7〜18)には、1984年(昭和59)9月14日に発生し死者、行方不明者29名の犠牲者を出した長野県西部地震(マグニチュード6.8)で流入した土砂を取り除く、牧尾ダム堆砂対策事業が行なわれた。

愛知用水のような大きなプロジェクトが行なわれると、そこで開発された技術は応用され、進化して、次々と伝播していくものだ。

一つのプロジェクトが終わるごとに螺旋階段を登るように技術水準が高まっていった、と (独)水資源機構の愛知用水総合管理所所長 井爪宏さんは言う。

例えば山や川や溜め池、道路を越えていくには、サイホンやポンプ、トンネルが必要になる。すると1mあたりの工事費が高額になるから、愛知用水はできるだけそれらを避けて、コストがかからない開水路を採用した結果、水路延長が長くなった。つまり、愛知用水では路線選定の目利きが求められた。

ゆったり流れるから、水が到達するまでに時間がかかる。これが豊川用水になると、だんだん日本人の性格が出てきて早く流れるような路線になる。サイホンやトンネルを使っても総延長を短くすればいいじゃないか、と愛知用水→豊川用水→群馬用水→香川用水の順にだんだん直線的になってくる。香川用水に至っては図面も定規で引いたように「一路高松へ」とピューっといくようになった。

農業土木が専門で、京都大学の総長も務めた沢田敏男さん(注1)も「愛知用水プロジェクトによって創始開発された科学技術的事項」として愛知用水方式を再検証してまとめている。

日本の用水の歴史の中で、愛知用水が果たしたパイオニアとしての働きを紹介しよう。

(注1)沢田敏男(さわだ としお 1919年〜)
農学博士、京都大学名誉教授。専門は農業土木、ダム工学。1979〜1985年 京都大学総長。2005年文化勲章受章。

1 技術を標準化した

それまでは専門家の養成は、長となる人が書いたものをそのとおりにつくる徒弟制度的なやり方だったが、アメリカ式を受け入れることで、図面も設計・積算技術も標準化された。また、土木技術を体系的にまとめることにも貢献した。その結果、幅広い技術力を持つ技術者の養成が可能となった。

2 長大水路の途中の調整池〈愛知池〉

 愛知用水のような長大水路で中間地点の調整池が果たす役割は、以下の三つ。「下流に送る水量を調節する」「下流まで水を送る時間を短くする」「雨が降って水量が増えたときに、水を蓄える」。これらの結果、水路の断面積を小さくし建設コストを縮小することができる。また、水路の末端で生じる余水を減らし、水の有効利用に貢献できる。

3 高圧サイホンの実現

 川や溜め池、道路を迂回するために地下に水を通すには、サイホン原理が用いられ、入口を出口より高くして水を流す。1m2あたり1〜2kg、水圧に直すと10〜20mを標準にしていたが、愛知用水は30〜40mまで高めた。この技術開発のお蔭で、深い谷を一気に抜けていくことも可能になった。

4 チェックゲートの無動力化・自動化

 初代チェックゲートには、フランスのネルピック社が開発した無動力ゲートを全39カ所中19カ所に採用。これらの無動力ゲートは、上流側の水位を一定に保つ仕組みを持ち、電気などを使わず無人で行なうもので、アミル(上流の意)ゲートと呼ばれている。上流側の水位が下がるとゲートが閉じて水位を回復させ、水位が上がり過ぎるとゲートを開いて元の水位に戻して、上流側の水位が一定になるようにする仕組み。
 二期事業では、無動力ゲートの自動化と、さらなる改良版としてフロート式ゲート(商品名:ウォッチマン型ゲート)を全31カ所中22カ所に採用。その後も改良を重ね、現在では6タイプある。中でも、一つのゲートで上・下流の水位を一定にするゲートについては、水資源機構が特許の一部を取得している。

写真:ゲートの無動力化・自動化

ゲートの無動力化・自動化
・ゲート上流側の幹線水位を、上限水位と下限水位の間で優先的に管理する。
・ゲート下流水位が設定水位より低下した場合は、ゲート上流側の貯留量の範囲内で放流する。
・無動力で自動的に制御を行なうため、人為的なゲート開度の操作は不要。
右上画像提供:(独)水資源機構愛知用水総合管理所



5 幹線水路に水を貯留させるチェックゲート

 チェックゲート間に水を溜める機能を、上下流水位一定型ゲートの操作を行なうことで可能とする仕組み。水を溜めるためにダムをつくろうとすると、土地をたくさん買収しなくてはならないし、生態系にも影響を及ぼす。チェックゲート間で水位を上げて、水路に水を蓄えられればダムが不要になる。いわば、棚田の発想である。上下流水位一定式ゲートは、これを実現するためのゲートである。愛知用水ではこの方法で、幹線水路の水位を25cm嵩(かさ)上げして5〜6万tの水を余分に蓄えている。水路に水を溜めるという発想は、筑後川下流の貯留堀(クリーク)にも見られる。

6 中壁を施工(二期工事)

 農業用水は冬場に使用量が減るし、一時的な断水は問題にならないので修理ができるが、都市用水は年間を通して使用量が変わらず断水もできないので、修理のために中壁を設けた。
 愛知用水は溜め池を避けた分、用地買収が必要になったが、そこで用地を確保していたから、二期工事で水路を広げることが可能になった。

  • 図:幹線水路模式図

    図:幹線水路模式図
    画像提供:(独)水資源機構愛知用水総合管理所

  • 図:幹線水路

    図:幹線水路
    画像提供:(独)水資源機構愛知用水総合管理所

  • 図:幹線水路模式図
  • 図:幹線水路


7 トンネルの全断面掘削工法

 それまでのトンネルは、上部半分を掘って支保工で補強してから、下部半分を掘っていた。愛知用水では大型機械を入れて全断面で掘ったので工事期間が短縮された。

8 PSコンクリート工法

 通常は鉄筋を入れてコンクリートを打設するが、鉄筋の代わりにあらかじめ引っ張っておいたピアノ線を用いる。
 するとピアノ線が戻ろうとすることによって張力が生じ、コンクリートが曲げる力に対して強くなる。PSというのはプレ・ストレスト(Prestressed)の略。あらかじめストレスを溜めておくという意味。このコンクリートを急流箇所に使用するのは、愛知用水が初めて。

9 コンクリートライニング工法

 それまでの水路は、土が剥き出しが普通だった。もともと土水路(どすいろ)であって、コンクリートの役目は土が流れないように押さえていればいい、という考えで、鉄筋も入っていない10cmの薄いコンクリートが張ってある。
 アメリカのアクアダクトの技術が導入されたもので、工事費が安くできる。常願寺川のように洗掘防止のために石積みをした例はあるが、コンクリートのライニングで覆ったというのは珍しかった。
 これは洗掘防止とともに流れをスムーズにする、つまり粗度係数を高める働きをする。

図:牧尾ダム(ロックフィルダム)の断面図

図:牧尾ダム(ロックフィルダム)の断面図
愛知用水事業概要書をもとに編集部で作図



10 フィルダム工学

 コンクリートを主体とするコンクリートダムとは異なり、天然の土砂や岩石を盛り立てて築く工法。牧尾ダムは、中心に土で水を通さないコアをつくり、両側に岩を積む〈ロックフィルダム〉という工法でつくられた。
 ダムサイトの地盤が堅固でない、近隣からコンクリートの骨材が得られないなどの理由で、コンクリートダムの建設が困難な場合に、フィルダムが採用される。

11 グラウト工法

 グラウトというのは、一種のひび割れ。グラウトにコンクリートの詰めものをして補強する際に、圧力をかけると奥まで入っていくが、周辺の組織を壊してしまう恐れもある。だから、なるべく壊さないように奥まで入れる兼ね合いが難しく、その技術が開発された。

12 間隙水圧消散工法(インターセプター、ドレーンブランケット)

 土は粒子でできているので、どんなに圧力をかけて転圧しても元に戻ろうとする。そのときに土の粒子にくっついた水の表面張力が一番大きい力となり、水が増えすぎると土を浮かすことにもなるので、ドレーンブランケットを差し込んでおいてその圧力を人工的に抜く。沢田敏男教授が考案した工法。
 土を盛り上げてつくった愛知池で最初に採用された。ぬか漬けをつくるぬか床の水を抜くのに、穴の開いた器を入れておくのと同じ原理。

13 不透水性ブランケット工法

 堤をつくる際に土を転圧して強固なものにするが、土の性質によってはいくら転圧しても強くならない。その解決策として表面に粘土状のものを貼り付けて強くする工法。現在ではゴムシートを貼り付けたりする。
 愛知池は、周囲1000mの堤帯すべてに施工している珍しい例。田んぼの畦塗りと同じ原理。

14 サンドドレーン工やリリーフウェル

 サンドドレーン工は、ケーシング(鉄管)を打ち込み、砂杭を形成することで圧密促進を図る、軟弱な粘性地盤への対策工法。リリーフウェルは、地盤の浸透圧を下げるために透水層内に設置した排水用井戸。
 いずれも悪さをする圧力を、あらかじめ抜いてしまう工法。

15 畑地灌漑法の確立

 それまで日本には畑地灌漑(かんがい)はなかった。ユタ大学のビショップ教授(A.Alvin Bishop)が招聘され、一から教えてもらった。愛知用水は試験研究所をつくり、畑地灌漑技術の修得を実践的に行なった。

16 水路における小水力発電

 愛知池で、池の高さ20mを利用して発電している。庁舎の電灯をこの電力でまかなっているほか、売電して収入を得ている。発電量は1000kWh。今、RPS法(2002年〈平成14〉に施行された、電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法)で、このような小水力発電を推奨するために、売電時に少し上乗せがある。



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