機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

《愛知用水の軌跡》

古賀 邦雄さん

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄(こが くにお)さん

1967年西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川開発調査会筑後川水問題研究会に所属。2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設。

〈遥かなる 木曾の谷間の牧尾ダム みなもとの水は田に張られたり〉(志水 孝)。この歌は、志水 孝著『歌集 愛知用水』(自費出版 2006)に所収されている。作者は愛知県日進市在住、愛知用水土地改良区の組合員、農民作家である。旱魃や飲み水の不足に悩まされてきた知多半島の人たちは、久野庄太郎、浜島辰雄らによって昭和23年愛知用水建設運動を開始した。愛知用水は木曽川上流に水源となる牧尾ダムを築造し、岐阜県から愛知県の尾張東部の平野及びこれに続く知多半島一帯まで水路を通し、農業用水、水道用水、工業用水を供給するものである。昭和30年から昭和36年にかけて愛知用水公団(現・独立行政法人水資源機構)で施工された。戦後間もないころの我が国は、すべての物資が不足し、勿論水も食糧もエネルギーも不足していた。その愛知用水の完成まで決して平坦な道のりではなかった。建設中、昭和34年9月伊勢湾台風に遭遇。殉職者も出た。完成後も昭和59年9月に発生した長野県西部地震により、牧尾ダム湖に大量の土砂が流入した。さらに新たな都市用水の需要増加及び水路等の老朽化も顕在化する。しかしながら、その都度これらの難題に対処してきた。愛知用水の軌跡を追ってみたい。

天水や溜め池に頼っている地域は、水不足に悩まされ、水さえあれば、水さえ引ければ、との願いは強い。知多半島の農民たちには木曽川からの導水が悲願であった。愛知県内では既に、矢作川からの明治用水が通水しており、安城市、豊田市、岡崎市などは安定的に農業用水などの供給体系ができ上がっていた。明治用水のように知多半島にも水が流れてきたら、と思うのも当然のことだった。愛知用水建設運動の中心人物は農民久野庄太郎と安城農林学校教員浜島辰雄であった。浜島辰雄編著『愛知用水と不老会』(財団法人不老会 2005)、愛知用水土地改良区編・発行『愛知用水土地改良区五十年の歩み』(2002)には、その建設活動が描かれている、この二人は、木曽川からの導水に関して意気投合して早速用水路の現地踏査を行ない、「愛知用水概要図」を昭和23年8月に作成し、それを携帯、掲示に便利なように軸装にした。その図には関係市町村4市48カ町村、導水路延長120km、水源は滝越、丸山そのほかに4億m3を貯める計画である。現・愛知用水路線とほとんど変わらない。その図でもって、農村同志会のメンバーと各市町村に、浪曲師梅ヶ枝鶯の浪曲で人を集めながら、愛知用水建設運動を展開したが、木曽川下流用水組合の木津、宮田、羽島から猛烈な反対陳情が愛知県農地部などへ出てきた。それにも挫けずに、昭和23年12月吉田茂首相、佐藤栄作官房長官に陳情し、建設の了解を得た。この陳情について、高崎哲郎著『水の思想 土の理想 世紀の大事業愛知用水』(鹿島出版会 2010)で、次のように描かれている。「久野は挨拶をしたのち、机に大地図を広げて説明をした。自信に満ちた語りと表情だった。首相からは『食糧の増産になるか。労働者はどのくらい使うのか』と相次いで質問が投じられた。『米の増産になります。もちろんです』吉田は、腕を組んで耳を傾けた。五分間だけという約束の時間は、またたく間に過ぎ四十分にもなった。吉田は大声をあげた。『食糧増産、失業対策、よいではないか!』農民の熱意が通じ、首相吉田は大声をはり上げて協力を約束した。異例のことであった。敗戦国日本の国土総合開発が急がれたころであった。大規模公共事業を最優先と考えていた吉田には愛知用水計画は最高の事業の一つに思えたに違いない」

  • 『歌集 愛知用水』

    『歌集 愛知用水』

  • 『愛知用水と不老会』

    『愛知用水と不老会』

  • 『歌集 愛知用水』
  • 『愛知用水と不老会』



  • 『愛知用水土地改良区五十年の歩み』

    『愛知用水土地改良区五十年の歩み』

  • 『水の思想 土の理想 世紀の大事業愛知用水』

    『水の思想 土の理想 世紀の大事業愛知用水』

  • 『愛知用水土地改良区五十年の歩み』
  • 『水の思想 土の理想 世紀の大事業愛知用水』


昭和30年愛知用水公団が発足し、施工が始まった。愛知用水の水源ダムとして、藪原、滝越、二子持、丸山の候補地が挙がったが、最終的には牧尾橋地点に決着する。また、ダム型式も重力式コンクリートダムか、ロックフィルダムか、日米間において意見が分かれたが、ロックフィルダムに落ち着いた。牧尾ダム、兼山取水口、三好ダム、東郷ダム、松野ダム、そしてそれらを連結した水路の完成まで、人的な確保、予算の確保、土地関係者の説得、さらに技術の対応には、大変な労苦が伴った。その技術の書として、愛知用水公団編・発行『愛知用水技術誌 ダム編』、同『愛知用水技術誌 幹線水路編』、同『愛知用水技術誌 支線・開墾および畑かん編』、同『愛知用水技術誌 仕様書および計画書編』(すべて1962)が刊行された。また、同編・発行『愛知用水 その建設の全貌』(1961)は、世界銀行からの借款をはじめとし、アメリカとの技術提携、牧尾ダムの突貫工事、沈みゆく村々、可児川サイホン工事、高蔵寺サイホン工事、東海道線橋梁新設工事の写真集である。また、愛知用水事業の全体を捉えた愛知用水公団・愛知県編・発行『愛知用水史』、同『愛知用水史 資料編』(ともに1968)がある。この書に、愛知用水と民主主義について、「愛知用水の発起者達は、この用水を真に民衆のものとして、民衆の自覚による民主的な力によって実現したいと希望している。この用水は自分達が自分たちの手で作ったものであり、その保存の責任も自分達の上にあるのだという気持ちが民衆の間に存在する場合には、その用水は最も有効に利用せられ、又最も大切に愛護せられるのである。民衆自身の間から民主的にこの用水の開墾を達成せんとする運動を起こすことが出来たならば、この用水は必ず実現する。これが最初に発起者が持った考え方であった。民衆ほど強いものはない。一人一人の民衆は弱いが、組織化せられた民衆は強い。組織化するためには一定のハッキリした目標と、その目標に向って民衆を伴れていく中心人物が必要である」と論じる。この世紀の大事業を成し得た根底には、このような民主主義の理念が流れていた。昭和36年9月愛知用水事業は完成し、知多半島まで通水が開始された。愛知用水の兼山取水口には、濱口雄彦総裁による「この木曽の水は 百年の夢をうつつに愛知用水として濃尾の野をうるおす ゆくてに幸多かれ」の碑が、木曽川の清流にのぞんで建っている。

幸多かれと流れていた水は、昭和59年9月14日長野県西部地震が起こり、牧尾ダムに大量の土砂が入り込み、その通水に支障をきたした。その復元工事として、平成8年3月から「愛知用水二期事業牧尾ダム堆砂対策工事」がなされ、平成19年3月に竣工した。また、通水から20年を経て、新たな都市用水の需要増加と水路等の老朽化が進んだ。これに対処するために新たな水源として、木曽川上流に味噌川ダム、阿木川ダムが建設された。老朽化に対しては「愛知用水二期事業」として、水路施設の全面改築が昭和56年度から平成16年度にかけて23年の歳月を費やして行なわれた。なお、これらの技術書として、独立行政法人水資源機構愛知用水総合事業部編・発行『愛知用水二期事業 牧尾ダム堆砂対策工事記録』(2007)、同『愛知用水二期事業工事誌 水路編』、同『愛知用水二期事業工事誌 水路施工例』(ともに2005)が刊行され、新たな施工技術が駆使された。水路改築においては、河川以外の水路でも自然に配慮した工法が採用され、生態保全について、名古屋市水辺研究会編・発行『愛知用水 志段味開水路自然環境モニタリング・フォローアップ業務 実績報告書』(2004)にまとめられた。名古屋市水辺研究会代表國村恵子は「用水事業という大きな仕事をする人達が守った、日本一小さなトンボ・ハッチヨトンボの生命は、これからも滔々と流れる開水路とともに生きつづけることであろう。守ってくれて、ありがとう」と結んでいる。

  • 『愛知用水 その建設の全貌』

    『愛知用水 その建設の全貌』

  • 『愛知用水 志段味開水路自然環境モニタリング・フォローアップ業務 実績報告書』

    『愛知用水 志段味開水路自然環境モニタリング・フォローアップ業務 実績報告書』

  • 『愛知用水 その建設の全貌』
  • 『愛知用水 志段味開水路自然環境モニタリング・フォローアップ業務 実績報告書』


愛知用水の水利用の変遷を追ってみたい。愛知用水の受益地は、昭和30年代の初めころは、製造業を中心とする産業が盛んであったが、昭和36年愛知用水施設による供用開始を機に二、三次産業も一段と加速した。愛知用水の年間使用量は1.4億m3が4.6億m3と、実に3.3倍に増加した(昭和38年度と平成17年度比較)。一方、農業用水と都市用水(水道用水・工業用水)は農65%、都35%であったものが、農23%、都77%と逆転した(同年度比較)。愛知用水地域の農業産出額は約255.7億円が664.1億円、特に果実は約12.8億円から約75.8億円に、花は約2.6億円から約75.5億円に増加した(昭和38年度と平成16年度比較)。水道用水の給水人口も20万人から173万人と増加(昭和38年度と平成16年度比較)。工業用水は、鉄鋼業をはじめ化学工業等諸産業の水需要に対応している。通水後、企業進出は著しく、約3259億円であった愛知用水関係市町製造品出荷額は、3兆6000億円に達した(昭和38年度と平成16年度比較)。このように、久野庄太郎らが始めた愛知用水建設運動はここに大きく稔り、中部圏の経済と文化の発展の大基盤を創り上げた。畑地かんがい研究会編・発行『愛知用水 その事業の意義』(1961)で福田仁志は「愛知用水が事業を以って、かんがい技術史上画期的であるのは、湿潤地帯における水管理と配水を2万町余という一大団地の水田、畑のかんがいに行なう事業に対してである。この水操作上に来る困難さを克服することこそ、日本の農業土木技術者の努力に値する有意義な仕事と思いたい」と述べている。その土木技術を駆使して、こまかな水管理の運営がなされている。

  • 『愛知用水 その事業の意義』

    『愛知用水 その事業の意義』

  • 『愛知用水と地域開発』

    『愛知用水と地域開発』

  • 『愛知用水 その事業の意義』
  • 『愛知用水と地域開発』


通水後の調査研究については、酒井正三郎編『愛知用水と地域開発』(東洋経済新報社 1967)、愛知用水土地改良区編・発行『愛知用水土地改良区誌「研究編」』(2005)がある。残念なことだが、愛知用水事業建設中、56人の殉職者が出た。久野庄太郎はそのことを大いに悔やみ、「私が殺したようなものだ。私がこんな仕事を始めなければ、この人達は死ななかった」と、嘆き悲しみ現場にひれ伏したという。佐布里池近くに、愛知用水神社、愛知用水利水観音を造り、その霊を弔った。さらに自ら献体をすることを決心し、「愛知用水不老会」を設立し、人々に献体を奨励した。世紀の大事業、ゆめの用水といわれた愛知用水は昭和36年の通水から、平成23年9月30日をもって通水50周年を迎える。

〈生涯を 愛知用水建設に命を懸けたり 久野庄太郎〉(志水 孝)

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