左奥が太田川上流。左側に祇園水門があり太田川放水路に、右へ大芝水門で市内派川に分派される。
都市に水の都が多いのは、河口部に開けたデルタが利用されるからでしょう。その中でも、群を抜いたデルタ都市が広島です。毛利輝元によって開発された近世都市は、水の恵みを受け入れ、災害と闘いながら、1989年(平成元)広島城築城400年を迎えました。 広島にとっての里川、太田川を見直してみました。
編集部
広島の起源はしばしば、「毛利輝元が、天正17年にデルタ上に築城したのが100万都市広島の出発点」という書き出しから語られる。輝元は1589年(天正17)、当時の交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に、土台づくりから始まる広島城の築城を開始した。
毛利輝元(1553〜1625年)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国時代の三英傑に肩を並べるほどの武将。稀代の謀将といわれる元就(もとなり)を祖父に持ち、1563年(永禄6)に父 隆元が急死したため、11歳で家督を継ぐ。若年のため元就が実権を掌握し、元就亡き後も叔父の吉川(きっかわ)元春、小早川隆景が補佐役を務めた。このような生育環境のためか、安芸(広島)の吉田郡山城を本拠に土豪連合の集団的盟主から中国制覇を成し遂げた祖父 元就に比すと、「お坊ちゃん育ち」といわれることも。
1576年(天正4)2月、輝元は将軍 足利義昭をかくまったことと石山本願寺の戦いによって、織田信長と対立。越後の上杉謙信が北から織田を牽制する中、織田水軍を破り大勝利を収めた。しかし上杉謙信の死去、さらに第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆によって毛利水軍が壊滅させられるなど、次第に戦況は不利となった。
ところが、人生何があるかわからない。1582年(天正10)6月2日、秀吉との備中高松城攻防戦の最中に本能寺の変が発生。秀吉は信長の死を隠したまま和睦を申し出、輝元は危機を脱することになった。1585年(天正13)の四国攻め、翌年の九州の役にも先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与。豊臣政権五大老の一人に任じられた。
のちに輝元は、1592年(文禄元)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵にも、主力軍として参戦。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは石田三成率いる西軍の総大将として擁立された。結果は、徳川家康率いる東軍が勝利。吉川元春の三男 広家の取りなしにより、毛利本家の改易は避けられたものの、輝元は隠居、所領は嫡男 秀就への周防と長門2カ国の37万石に大減封され、傾国の将と称されることも。しかし、家臣の長井元房が輝元の没後に殉死したエピソードからは、実直で人間味のある人柄が浮かぶのである。
秀吉の聚楽第を模したといわれる壮大な城は、明治維新後の城取り壊しからも逃れ、創建当時の歴史を語る貴重な史料でもあったが、原爆投下によってあえない最期を遂げた。
確かに五箇村は交通の要衝であり、平城の必要性は、戦国時代から近世社会への移行期にあって不可欠のものだった。しかし、築城後400年以上にわたり、広島住人が洪水、高潮に悩まされてきたことを考えると、なぜ輝元はこの地を選んだのだろう、という疑問が湧いてくる。
秀吉と広島城の関係を記した文献に『川角太閤記』がある。秀吉に仕えた田中吉政(注1)の家臣 川角三郎右衛門が江戸時代初頭にまとめたといわれる秀吉の実録である。巻4に「毛利の居城である吉田郡山城が堅固なので、秀吉のブレーンの一人、黒田孝高らを通じて、輝元に山城の不便さを説き、海辺に平城を築くように勧めさせた。輝元はこの言に従ったがのちに後悔した」というものだ。
広島城の築城には、祖父 元就の庶子で四男の二宮就辰があたっている。難攻不落の山城 吉田郡山城を出て、広島進出を渋る輝元に、「かつては敵対していた秀吉に疑いを抱かせるような行動を取らないように」と諭した、という説がある。
しかし、反論もある。『毛利家文書』などの信憑性(しんぴょうせい)の高い一次史料には、これを裏づける記述がなく、天下統一がなって、戦が治まってくれば商工業に便利な平城のほうがよい。広島城は時代の要請に合ったものだ、というのである。
葦の繁る寒村だった当時の状況を考えれば、便利さよりも困難のほうが大きいように思うし、輝元が秀吉の信頼を勝ち取るために、敢えて大量の手間と金をかけてこの地に築城した、というほうが説得力があるように感じられるのだがいかがだろうか。
いずれにしても、輝元の英断がなければ、この都市の今はなかった。1591年(天正19)、輝元は長年にわたる毛利氏の居城であった吉田郡山城を廃して、まだ工事中だった広島城に入った。1600年(慶長5)に移封され、福島正則が入封してくるまで、わずか9年間の城主であった。
(注1)田中吉政
秀吉の死後は家康に接近。東軍で戦った吉政は、石田三成を捕縛するという戦功もあって、筑後・柳河の国主になった。土木工学に長け、城の大規模修築、郡上八幡や岡崎の水利、久留米・柳河往還の整備、慶長本土居の築堤など大きな功績を残す。
中国山地の西部に位置する冠山(標高1339m)に端を発した太田川は、平野に出ると6筋に分流し、広島湾に向かって南下する。
可部から祇園大橋辺りまでは海抜5mの下流低地。それより南は太田川の三角州(デルタ)で低湿・軟弱な土地だった。輝元が築城を開始したときには、海上に点々と島が浮かんでいる状態であったらしい。手始めに、城の上手にある箱島(現・白島)で分流する本流と神田川(現・京橋川)の川筋を固定するところから着手した、と記録にある。
洪水や高潮による水害も多発している。1617年(元和3)の大洪水によって三の丸の東北郭が崩れ、城内も浸水。破損箇所の修復を行なったことを理由に、輝元に代わり広島城に入った福島正則は、咎めを受けて信濃国に移封されてしまう。
続いて安芸及び備後8郡の領主となった浅野家(初代 長晟:ながあきら)は、幕末に至るまで安泰だった。検地を行ない、地先の干潟が次々と干拓され、浅野氏が大坂から伴った御用商人によって商業活動も活発化した。
新開地は塩分に強い綿花栽培に用いられ、大坂に安芸木綿として出荷された。1880年(明治13)官営の広島紡績所が近代工業の先駆けとなったほか、帝国人絹広島工場が設立した経緯は、このような繊維業の長い歴史があってのことだ。
鈴木充 広島大学名誉教授は、当時、毛利が中国貿易を積極的に行なっていたことから、胴木と呼ばれる松の丸太を軟弱地盤に打ち込んで基礎とする技術は、中国・杭州から学んだ可能性がある、と指摘する。ちなみに中国に輸出されていたのは、硫黄のほか、刀剣や扇、漆製品といった工芸品だったそうだ。
太田川流域を、気象や地質から見てみよう。
中国山地の西部には豊後水道から湿った風が入りやすいため、上流では沿岸部の1.5倍の降水量がある。気温も、温暖な瀬戸内海性気候の沿岸部に比べ、上流部の山地では東北地方並み。直線距離ならわずか25km、川の全長でも100km足らずの川にもかかわらず、上下流で降水量や気温に大きな差があることが、太田川の特徴となっている。
また、通常、流域の支川・本川は樹枝状模様を描くものだが、太田川の支川・本川は格子状になっており、奇異に感じる。その理由は、北東から南西方向に卓越している断層にある。支川は断層に沿うように流れ、本川は断層に直交するように流下するために、格子状になるのである。
太田川の良いところは、湾曲しているところだ−という声をよく聞く。河川改修で真っ直ぐにされた川を見慣れた目には、曲がりながらゆったり流れる姿に、川本来の美しさを感じる人が多いのだろう。
地質は、太田川が曲流していることにも影響を与えている。上流は段丘から隆起した花崗岩山地。水流によって狭く深い谷が形成され、川はそこを曲がりながら流れ下る。特別名勝〈三段峡〉は、押ヶ峠断層の断層線に沿って流れる支川 柴木川の強い浸食力によって形成されたものだ。中流部も谷底平野で、広い平野部がなく、川は谷あいでやはり蛇行を繰り返しながら流れる。
花崗岩山地はマサ土となって風化するため、急峻で崩壊しやすい。そのため、太田川流域は、山から(土砂)、川から(洪水)、海から(高潮)という三重苦に苦しんできた。デルタ地先に新開地をつくったことは、河口を狭め、洪水多発に拍車をかけることになった。1609年(慶長14)の大洪水では、太田川が旧流路(古川)から現流路に流れを変えるほどの被害を生じている。
しかし、山が深く、表土や風化層が厚いことから「水持ちの良い川」で、人々に多くの恩恵も与えてきた。中流部に広い平野がないことは、大きな町が開けないので、水田や工場といった汚染源が少ないという、水質上のメリットにもつながっている。
広島にはデルタ地帯につくられた都市という宿命があった。恵みとともに、災害ももたらした太田川。
1896年(明治29)河川法が制定され、1910年(明治43)第一次治水計画が策定されたが、太田川はこれに含まれず、1921年(大正10)第二次治水計画まで待たなければならなかったが、指定後も昭和になるまで直轄事業は開始されなかったのである。
土砂、洪水、高潮という三重苦の災害は、枚挙にいとまがないほどだが、1919年(大正8)、1923年(大正12)、1928年(昭和3)の被害は特に大きく、これを契機に〈太田川改修期成同盟〉が発足、1932年(昭和7)帝国議会において、ようやく太田川河川改修事業計画が立案された。
この中で、最も大規模な計画は、太田川7河川の内、西側の2河川である山手川と福島川を利用した〈太田川放水路〉開鑿計画であろう。だが1944年(昭和19)、戦争激化に伴い放水路建設は中断されてしまった。
建設の中断中にも大きな災害が頻発、〈太田川治水期成同盟会〉が結成され再開が懇願された。終戦の翌年には再開に向けた準備が始められたが、計画された当時は旧・日本陸軍及び海軍の要望もあって、用地取得もほぼ強制的に行なわれ、移転に対する補償にも納得できないという理由から、建設再開に反対する動きが活発化した。この調停は、建設省(当時)によって行なわれ、1951年(昭和26)まで5年を要したのである。
1961年(昭和36)からは、太田川・放水路分流点における可動堰の建設が始まり、太田川放水路(のちに本川)起点には祇園水門が、旧太田川(放水路分派後、さらに市内派川(天満川・元安川・京橋川・猿猴川〈えんこうがわ〉)に分派)には大芝水門が建設された。二つの水門は、矢口第1水位観測所(安佐北区口田1丁目)の観測値によって連動し、平水時(平常時)は大芝水門を全開して旧太田川に水を流して祇園水門で調整、洪水時は逆に祇園水門を全開して太田川放水路に水を流して大芝水門で調整している。下流域を洪水から防御し、流域の正常な流量を維持する目的で使用されているのだ。
1965年(昭和40)通水に成功、事業開始から36年かかって、1967年(昭和42)に完成した。その後も流域を豪雨が襲ったが、広島市中心部は放水路の完成以後、水害をほぼ免れている。
一方、高潮対策は1959年(昭和34)の伊勢湾台風を機に、低地高潮対策の必要性が考慮され、1969年(昭和44)から、高潮堤・河川堤防の築堤や嵩上げが始まり、下流部・下流デルタの治水事業が進行した。
しかし、上流部の治水整備は手つかずに近い状態で、1972年(昭和47)7月に発生した梅雨前線豪雨は上流部に甚大な被害を与えた。建設省(当時)は直轄管理区間を拡大して、築堤や護岸整備などで未改修地点の改良に着手。
また、1975年(昭和50)には、従来の計画には盛り込まれてこなかった多目的ダムによる洪水調節を事業に組み込んだ。こうして2002年(平成14)3月に完成した温井ダム(滝山川上流部)は、太田川水系初の多目的ダムである。
2005年(平成17)9月の台風14号も、上・中流域に家屋の床上浸水などの被害をもたらした。この対策として、限られた事業費を有効かつ迅速に活用する方法として、連続堤の整備だけではなく、輪中堤の整備や、輪中堤に宅地の嵩上げを組み合わせた整備を行ない、順次、実施されている。
洪水に悩んできた広島が、1973年(昭和48)、1982年(昭和57)には、大渇水に見舞われた。人口の増大による水道用水の需要増と、河川水の電力利用によって水量が減少したのが原因である。
そこで安定した都市用水確保のために、江戸時代に建設された小田定(おだじょう)用水の取水口である高瀬井堰を、1970年(昭和45)可動堰に改造する事業に着手し、1975年(昭和50)高瀬堰が完成した。高瀬堰の目的は、
の三つである。
高瀬堰完成に先立って、洪水時の分派流路として利用されていた、旧流路である古川の締め切り工事も1969年(昭和44)に行なわれ、中流部の治水事業が果たされた。これを記して、中国最古の王朝〈夏〉の皇祖といわれ、儒教の聖人の一人で治水に功績があった禹王にあやかり、太田川改修記念碑として大禹謨が建立されている。
広島は太田川下流域の三角州に形成された町であり、海に近いため井戸からも飲用水を取ることができず、住民は川水を飲用していたが、1886年(明治19)コレラの大発生を契機に、市民から水道建設の要望が高まった。
折しも安芸郡牛田村(当時)一帯は、1889年(明治22)からの富国強兵政策の一環で、陸軍省の用地となっていた。これに伴ない、1898年(明治31)広島軍用水道、及び広島市水道が創設され、太田川の牛田水源地に浄水場が建造された。これは、日本で5都市目の近代水道である。
水力発電では1912年(明治45)に亀山発電所が建設されたのを皮切りに、1935年(昭和10)には王泊ダム(滝山川・滝山川発電所)が、1939年(昭和14)には立岩ダム(太田川本川・打梨発電所)が完成。太田川水系の電源開発が急速に進められたのは、軍事都市であったから、と推測することもできる。また、1965年(昭和40)の大水害を受けて建設された江の川の土師(はじ)ダムからは、中国山地を貫く導水トンネルで中国電力・可部発電所に送水されている。
広島県は1871年(明治4)の廃藩置県の最初から、広島市は1888年(明治21)市制が制定されたときからの、日本最初の県であり市である。このことは中国地方の中心都市としての役割を期待され、大陸への地の利からも世界に開かれた窓であったことの表われである。軍都としての道を進んだ広島は、不幸な経験をすることになったが、市内を流れる6筋の川は、市民に希望を与え復興の力に寄与したことも間違いないはずだ。
築城400年を契機に、広島城の外濠の水は、旧太田川から導水され、循環利用されるようになった。
軟弱地盤のデルタに都市を築こうとした輝元の突拍子もない計画は、400年を経て、想像もつかないほどの実りを得ている。市街地に占める水面面積は約13%と大きく、水の都と呼ぶにふさわしい。里川 太田川とともにある広島は、どんな未来を見せてくれるのだろうか。
(取材:2011年4月5日)