機関誌『水の文化』38号
記憶の重合

江戸川区の水神様

江戸川区の水神様

江戸川区の水神様

近代的な土木技術や都市政策によって、市街地に新しい景観が生み出されていくにつれその土地の由来は、わかりにくくなっていきます。 荒川放水路によって、都市化の波が緩やかであったお蔭で水神宮をはじめとする、豊かな地域資源が残された江戸川区。 地域に興味を持つことで、新たな発見がありました。

沖中 千津留さん

法政大学大学院博士課程後期
沖中 千津留(おきなか ちづる)さん

私は荒川対岸の江東区で生まれ、江戸川区には社会人になって引っ越してきました。水辺に囲まれた穏やかな暮らしやすい区であると感じています。大学では経済学を専攻して、銀行に就職。数年して、何かを身につけたいと思ったころ、陣内秀信先生の『都市のルネサンス』(中公新書 1978)を読み感銘しました。まさか自分がこうして研究室に入る日がくるとは、そのときは想像もしませんでしたが。その本がきっかけとなり建築に興味を持ち、専門学校に。二級建築士を取得し、建築関係の会社に就職しました。家庭に入っても住環境の資格を取得するなど、学ぶことにずっと積極的にいたようです。

数年前より区内で仕事をすることとなり、仕事柄、江戸川区の水辺空間について知るにつれて、とても興味を持ちました。この水辺のまちを広く知ってもらうために、ぜひ専門的に研究したいと、一念発起して大学院に入りました。修士課程は経済学研究科で水辺環境の経済分析をし、幸運にも工学部の博士課程後期に進むことができました。今、陣内先生のもとで学べることは本当に偶然なんですが、幸せな気持ちで夢のように思えます。先生はいつも「楽しい水辺」提案をされます。それは、経済学研究科に進むときから「水」をテーマに決めていた私にとって、とても刺激になります。

江戸川区には、かつておびただしい小河川や水路がありました。それらを調べていくうちに驚くほどたくさんの水神様が祀られていることに気がつきました。はじめは地図や区の郷土資料などに載っている水神宮を訪ねましたが、それ以外にもたくさんありました。かつての鎮守の神社の裏に移されたりしていて、なかなか見つからないことも。江戸川区はほとんどの土地が海面下で、高低差があまりない地形なので、自転車で移動するのが便利。休日などに、とにかく自転車で回っています。

こうして確認していった所在地を地図にプロットすると、いろいろなことがわかってきました。水神様は、地域の特色をよく反映しています。区画整理や荒川放水路(注1)の開削などで地形も区画も変わっていますから、昔の地図と重ねることで、なぜ水神宮がそこに置かれたのかが、やっと理解できる。近代的な土木技術や都市政策が、新しい景観をつくっているということでもありますね。また水の神様というと治水の要衝に置かれる、ということが、真っ先に頭に浮かびます。確かに江戸川区には水害の悲しい歴史がたくさんあります。しかし、区内の水神宮は水田の神様として用水路の引き込み脇に置かれていた場合が多いようです。今は水田もありませんから、神社合祀令や区画整理などの際に集められたり、謂(いわ)れがわからなくなったものも多い。お稲荷さんと間違えられて石の狐が置いてあったり等々、既に行方がわからなくなっている水神宮もあります。

少なくとも今の段階でわかることは、形に残したいですね。区内にこれだけ多くの水神宮が残ったのも、荒川の開削などが影響して、都市化の波が緩やかだったのが一因ではないでしょうか。経済やインフラの面からはデメリットだったかもしれませんが、今となっては住みやすい環境が残されたという意味からも、大きなメリットになっています。

こうして地形と歴史的な土地利用を学び、都市を読むことにより水神宮に出合えたわけですが、せっかく残された水神宮を見直すことは、昔の人の素朴な信仰に隠された多くのことを学ぶきっかけにもなりますね。

今回の震災にあたって、被災された皆様への哀悼の意を含め、水の神様に対する思いをより深くしました。

(注1)荒川放水路
もとの荒川は、関東平野に出たのち東へ下り、現在の越谷市・吉川市周辺で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら東京湾に注いでいたが、しばしば川筋を変えるその名の通りの暴れ川だった。下流域の浸水による被害は深刻で、開発もままならないために、人工水路が開削されて現在の流路に固定された。荒川放水路(現在は荒川)と呼ばれるのは、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで。1913年(大正2)から1930年(昭和5)にかけて、17年がかりの難工事であった。この用地買収は、1000ha。これにより1300戸、南葛飾郡の大木村、平井村、船堀村の3村が廃村となり、周辺の町村へ編入されていった。

  • 沖中千津留さん提供の資料及び、1909年(明治42)に測図された国土地理院2万分の1地形図より編集部で作図。

    図:沖中千津留さん提供の資料及び、1909年(明治42)に測図された国土地理院2万分の1地形図より編集部で作図。地形図は時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ2」((C)谷謙二) より作成 (http://ktgis.net/kjmap/



(取材:2011年4月9日)

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