編集部
近年、地図人気が高まっている。明治期の旧版地図と現代の地形図を重ねたものを持って歩き、土地利用の変遷を楽しむなど、地図の魅力は新たな広がりを見せている。
ルネッサンス以降、地図は近代化して科学に組み込まれ、美術の手法である絵画とは一線を画すようになった。しかし、それ以前には、まだ見ぬ場所へ思いを馳せ夢を膨らませるといった楽しみも求められていたから、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの高名な画家が地図を描くことも多かったようだ。
実際の地図だけでなく、『酒の世界地図』とか『音楽業界マップ』と銘打ったタイトルの書籍も増えているという。こうしたタイトルは、その分野における指針を提示しているよ、という意思表示。まさに、地図は道案内のための道具なのである。あくまでも象徴的な意味合いで用いられるため、場合によっては地図が一枚も掲載されないという愉快な状況を呈している。
人間は言葉によって思考するともいわれる。それは言葉が具象を抽象概念に置き換えて、自由な思考を助けるロゴス(理性的な道具)だからだ。
そのロゴスに空間(トポス)を与えて〈地図〉として認識するようになったことは人類史上の一大革新といってよい。言葉ではなく、記号や図式で表わす地図ならば、端的な表現によって、膨大な情報量を圧縮して伝達することも可能になる。
つまり、地図は大容量の情報伝達を得意とする優れたツールなのだ。抽象化された表現は、いってみれば圧縮作業であり、読み取る側の解凍作業によって、多くの情報を取り出させる。場合によっては、発信者の意図を超えた情報を取り出すこともでき、その面白さが昨今の地図ブームを後押ししているのかもしれない。
もちろん、素材の信頼性も重要だ。絵画と一線を画した地図は、〈特定された場所〉を詳細に表現する方向に発達し、GPS(Global Positioning System:全地球測位システム)が使われるようになって、測量の精度は格段に向上した。しかし実際に利用する側は、案外、ヒューマンスケールの情報を求めている。足で稼いだ情報の重要性も、忘れてはならないのである。
「素材を取捨選択して、関連を考えて配置を決め、構成すること」を編集というが、この作業には主観が入る。逆にいえば、主観が入らない編集はあり得ない。
こう考えると、地図をつくるのはまさに編集作業。解凍してくれる受け取り手の状況を想像しながらつくり、ほんの少しの薬味を利かせて隠れたメッセージを地図にしのばせることも。その気分は、見えない受け取り手とのキャッチボールに似ているかもしれない。
つくり始めたときには気づかなかったことを、作業の途中で発見するのも、地図づくりと編集作業に共通するところだ。曖昧さを確かめることで精度を高め、わかりやすく表現するために工夫を凝らすというプロセスは、完成品の質を高めるのに大いに貢献している。
松永悠彦君の博士勉強(「地図が広げる未来の可能性」参照)からは、誰からも強制されずに、次々と湧いてきたアイディアを地図づくりに反映させる楽しさが、見ている私たちにも充分伝わってくる。興味が興味を生んだこの経験は、一生忘れられることなく、宝物になるだろう。
人間にとって永遠のテーマがWho am I ? 〈自分は誰なのか〉としたら、さしずめ地図にとってのテーマは、Where am I ? 〈自分はどこにいるのか〉といえるだろう、というのは、近代地図史を研究する長谷川孝治さん(「地図で表わす世界観」参照)。
地図というと、最初に思い浮かべるのが、地理的情報を落とし込んだ図。しかし長谷川さんは、中世の宗教画が現世や来世を示して自分の居場所を教えたのも地図であり、〈どこか〉は具体的な土地に限らない、という。こう考えると、地図がもっと身近で人間臭い存在になるというものだ。
川、湖沼、溜め池、海は言うに及ばず、宗教画における三途の川や命の泉に至るまで、〈水にかかわる空間〉は地図においても重要な位置を占めてきた。それは、〈水にかかわる空間〉が人の営みと親しくあったから。そんな当たり前のことに気づかされるのは、地図に文化のレイヤーを重ねて見るからにほかならない。
発信者が地図に盛り込む主題が多様化しているのと同時に、発信者が経験し、体得した川や森や都市といった〈場の記憶〉を重ね合わせた地図づくりも進んでいる。それが単なる地理的情報を超えているからこそ、受け取り手は面白いと感じるのだ。地形図と土地利用図を重ねてみたら小水力発電の適地が浮かぶ、というように、地図は新たな発見の宝庫でもある。
地図は想像力を進化させるツールであり、そのことは見通しや景観をも変える力を持っている。主題(テーマ)を自在に重ねた交響曲として、地図の展開に期待したい。