川崎宿名主だった田中丘隅は、酒匂川改修を見事にやり遂げ、足柄平野の洪水常襲地帯を復興させました。中国・夏王朝初代の禹を祀る大口土手の文命宮と文命東堤碑、岩流瀬土手の文命宮と文命西堤碑は、災害の再発を防ぐ、丘隅の想いが込められた仕組みです。献言書『民間省要』を著した丘隅を認めた時代背景について、深谷克己さんにうかがいました。
早稲田大学名誉教授 文学博士
深谷 克己(ふかや かつみ)さん
1939年、三重県久居市生まれ。早稲田大学文学研究科史学専攻博士課程修了。1971年同文学部助手、1974年専任講師、1977年助教授、1982年教授に就任。1980年、「百姓一揆の歴史的構造」で早稲田大学文学博士。アジア民衆史研究会代表、早稲田大学アジア歴史文化研究所(総合研究機構プロジェクト研究所)代表などを歴任。2010年、同大学を定年退職。専門は日本近世史。
主な著書に『百姓一揆の歴史的構造』(校倉書房 1979)、『百姓成立』(塙書房 1993)、『近世人の研究ー江戸時代の日記に見る人間像』(名著刊行会 2003)、『藩政改革と百姓一揆 津藩の寛政期』(比較文化研究所 2004)、『江戸時代の身分願望ー身上りと上下無しー』(吉川弘文館 2006)ほか
富士山が1707年(宝永4)に大爆発して、噴火による降灰が酒匂川に溜まったことで土手が切れ、足柄平野は洪水の常襲地帯となりました。徳川吉宗は、その治水事業を大岡越前守忠相に命じ、大岡は田中丘隅を復旧工事の責任者に任じました。
田中丘隅(「禹王の足跡をめぐる旅」参照)は、その仕事を見事にやり遂げ、災害の再発を防ぐ仕組みとして大口土手と岩流瀬土手に中国・夏王朝初代の禹を祀りました。大口土手につくられた碑の原文は田中丘隅が書き、吉宗の命で荻生徂徠(おぎゅうそらい)が添削し、大岡が幕府代表として検分に訪れたといいます。
大岡越前守忠相は、1717年(享保2)から19年間江戸町奉行を務めましたが、兼職の形で1722年(享保7)関東地方御用掛(じかたごようがかり)に任じられています。従来の農政担当機関である勘定所と競合する形で、武蔵を中心に各地で新田開発などの農政を担当しました。
享保期には、かなりいろいろな政策が打ち出され、歴史の中の曲がり角として大きなものでした。律(刑法)の見直しも、その一つです。古代の日本は遣唐使を派遣して、中国の律令政治の仕組みを取り入れました。室町幕府の時代は、中国との間に冊封・朝貢の関係ができていたのですが、貿易(勘合貿易)利益を得ることに主眼がありましたし、そのうちに中断状態になってしまいました。そのため遣唐使の廃止以降、王朝が交代するたびに改編された中国の律を学んでこなかった。400年続いた明代の律も、日本に入ってきていませんでした。
日本にそういうことを学ぶ儒者が育ってきた、という背景もあります。紀伊藩主徳川光貞や加賀藩主前田綱紀とその周辺の学者によって行なわれたのが嚆矢(こうし)です。荻生徂徠などは中国に行ったこともないのに、発音も非常に巧みだったようです。刑法というのは現場の実状が理解できていないと本当の意味での理解が難しいのですが、徂徠は『明律国字解』を著して、今の私たちでも理解できるように書き下してくれています。
光貞の子である徳川吉宗が8代将軍になってから幕府内部でも、改めて明律などの研究をも参考にしながら、大きくいえば「寛刑化(かんけいか)」が進みました。今の表現を使えば、司法改革ですね。戦国時代の名残である「やられたらやり返す」といったような残虐刑をゆるめ、特に遠隔の血縁者でも同罪にするような連座制などを改めています。
これは私の推測なのですが、近世人の改名についての話です。新撰組の近藤勇は、甲陽鎮撫隊を率いて甲府城の占拠に向かうにあたって、大久保剛、土方歳三は内藤隼人と改名します。一方、東山道軍参謀として土佐軍と因幡軍を率いる乾退助は「入甲」にあたり、板垣退助と改名します。
大久保は、おそらく八王子千人同心(注1)を代官として最初に指図して、西方からの江戸攻撃を防御する基盤をつくった大久保長安(ながやす)、内藤は江戸城から府内麹町、四谷門を経て多摩に抜ける道筋に屋敷を与えられた譜代大名内藤氏(高遠藩)の名字だろうと思います。対する乾が選んだ板垣姓は、武田信玄の重臣、板垣信形からきていると考えられます。
多摩地域というのはほとんど将軍・旗本領という直轄地だったこともあって、東照神君(家康)、東照大権現への想い、恩頼感情が余所(よそ)と比べて根強い。そのことは、千人同心や新撰組、農兵、さらには武州一揆に加わった百姓にも見られます。板垣姓を名乗ることで、甲州に点在する武田家遺臣や領民が徳川から離れ、新政府に帰順することを期待したのです。乾家は、幸いにして板垣信形の末裔でもあったので、あながち荒唐無稽な改名でもありません。
新撰組がどこで崩壊したかを判断するのはなかなか難しいところですが、甲陽鎮撫隊をつくって最後まで応戦しているし、その資金を全部ではないとしても、「大政奉還」した後の江戸城の指揮者クラスが資金を渡していますから、京都で敗退したときが終わりとはいえません。そのころには幕府の老中会議は崩壊しているんですが、京都では近藤に大名格を与えています。
江戸城から一番直近の防備線は麹町、次が多摩、その先端が八王子で、その向こうにあるのが、甲府城。陽というのは州と同じ意味で、甲州のこと。甲府城をいち早く奪取して、幕府の回復を図ろうとして、近藤は大久保、土方は内藤と名乗った。そこに私は、彼らが江戸を守る、という意気込みを見るのです。
徳川が江戸に入府するきっかけになったのは、豊臣秀吉の小田原攻めでした。関東の覇者である後北条氏の小田原城には支城が58もあって、江戸城も八王子城もそれらの一つです。小田原攻めでは八王子城で玉砕型の激戦が行なわれています。江戸城攻撃を担当したのは、徳川勢。ですから家康は、江戸は西から攻撃を受けやすいことを痛感していたのです。
当時、社会の動揺が大きくなって悪ねだりや強盗などが増えましたが、安全を保障する領主の力は衰えていました。そのため各地の豪農の間では、自衛の必要を考えて剣術稽古が盛んになりました。八王子宿と高井戸宿の中間に置かれた日野宿の名主問屋の佐藤彦五郎も、自邸の一角に出稽古用の道場を設けています。天然理心流の剣士、沖田総司らが出張してきて、村の若者たちに剣術を教えています。農兵は、洋式の出で立ちで銃砲の調練を行ない、千人同心とはほとんど関係を持ちませんでした。1866年(慶応2)の武州一揆(通称、名栗のぶっこわし)鎮圧や八王子での薩摩浪士捕縛にも尽力しています。日野宿では、多摩を支配していた伊豆代官の江川太郎左衛門の指示で、郷土防衛意識を持った在村武装集団もつくられ、江川農兵とも呼ばれました。
土方歳三の姉と結婚し、新撰組の支援者でもあった彦五郎たちは、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻ってきた近藤たちを迎え、兵糧隊として農兵隊(春日隊)を組織し、甲陽鎮撫隊にも加わっています。
(注1)八王子千人同心
武蔵国多摩郡八王子(現・八王子市)に配置された郷士身分の警備組織。徳川家康の江戸入府に伴い、1600年(慶長5)に発足し、甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持が任務とされた。初代の統括者は、代官頭大久保長安。甲斐の武田家の滅亡後に武田遺臣を中心に組織された。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備の役割が薄れると、日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。
江戸時代の身分制の特徴は、「身分別に支配する」、というところにあります。町奉行所の役人たちは、旗本にも寺社にも手が出せない。身分の高低というよりも、属する身分集団が違うと監督・監察する者も違う。これを「筋違い」といいますが、この身分別支配というのが近世的な特徴です。
御三家の紀州藩主から将軍になって江戸に乗り込んできた吉宗は、御三家出身の将軍といっても宗家筋ではない。自分一人が乗り込んでも、権力は形成できない。そこで紀州藩から二、三百人、家来を引き連れてきた。三河以来の旗本ではなく、新参の旗本や御家人です。それまでの諜報組織である伊賀者も甲賀者も信用しない。御庭番という組織を設けて紀州出身の者を使う。江戸城政治でも同じです。やがて江戸城政治は、紀州系の人材によって担われるようになる。その代表的な人物が田沼意次です。父親が吉宗に従って和歌山から江戸に来る。その子の意次が吉宗以降三代の将軍の「恩寵」で5万石クラスの大名になり、政策を牽引しました。
吉宗が確立した、いわば「紀州王朝」の顕著な例が、御三卿(ごさんきょう/吉宗が分立した徳川氏の一族。田安徳川家と一橋徳川家と清水徳川家)です。吉宗の孫の家治の子で「世子」に決まっていた家基が若くして急死したことから、さっそく御三卿の一橋家から家斉が出て11代将軍になりました。
吉宗が目安箱を江戸城の評定所近くの門に出して、投書を大いに奨めたこともあって、自分の訴えを捨文の形にすることが流行りました。日本橋には目安提出推奨の高札が出され、三つ内容を奨めています。一は政治向き(お仕置き筋)の改革案、二は悪政の事実(私曲・非分)事例、三は裁判の遅滞(永々捨て置き)の言い分です。「裁判が遅れている」という苦情が増えた背景には、民間の経済活動が活発になったために、訴訟が増えたことがあります。犯罪というより、利害のもつれから訴訟に及ぶ者が増える一方で、領分を越える紛争では江戸の評定所で裁判を行ないました。
吉宗が刑法を改革しようと考えたのは、法と実際とに齟齬(そご)ができて、解決できない問題が増えてきたからです。明律の研究も中国の真似をするというのではなく、紛争解決を図るために、東アジアの蓄積、特に中国の刑法について、もう一度研究し直そうとしたことにあります。
裁判のために宿屋(公事宿)に逗留して、訴状を出し判決を待つ遠方の百姓なども多くいました。訴訟代表者を送り出した村からすると、非常に費用がかさむ。そういう状況が、吉宗の膝元の江戸で生まれていた。それに、吉宗は対応したわけです。田中丘隅も、川崎宿名主のときに、江戸に訴訟で赴く人の苦労話を聞いたかもしれませんね。
田中丘隅についての研究では、長大な意見書である『民間省要』の解説として、法政大学名誉教授の村上直さんたちが平川家本からまとめているものが一番新しく、正確なものです。例えば「キュウグ」という名前についても、本人が書いたように休に愚としたほうがいいと提言しています。
新政府になってしばらくの間、国会開設運動、自由民権運動といわれる活動が広まった時期があります。そのころ、建白の時代と呼ばれて多くの人が意見を提出しました。江戸時代は、以前は言論などほど遠いイメージととらえられていましたが、近年は見直されています。田中丘隅のように下から意見を出した事例はたくさんあり、献言(建言)の時代といえます。建白も似た言葉ですが、多少主張の度合いが強いと解されるため、明治以降は、特定の主君のみでなく公に訴え出る場合に建白という言葉が用いられたのでしょう。
主君から「異見」(自説を主張するので、意見より異見と表記することが多い)を言え、と言われて家臣が主君に建言することは諫言(かんげん)といわれます。主君が家臣から誓詞を徴するときには、考えた異見を必ず言わなくてはならない、という内容を入れることさえあります。それが、行政実務を根気良くやることと合わせて、戦国の槍働きの忠義(武功)でなく、近世的な忠義であるとされるようになったのです。17世紀の名君といわれた池田光政(注2)も、既にそうした誓約を徴しています。
田中丘隅は、唐の史官である呉兢が編成したとされる太宗皇帝(李世民)の言行録『貞観政要(じょうがんせいよう)』(全10巻40篇)を意識して著した、と自ら述べています。政要とは政治の要諦ということ。丘隅は太宗を尊敬しながらも、「私は下から物申す野の人間だから」と、政要でなく省要とするといい、まさに「民間」からの異見を言上しようとしたのです。
それにしても、『貞観政要』を引き合いに出しているということは、「貞観の治」や太宗についての知識が丘隅にあったということでもあります。中国でも日本でも、『貞観政要』は政道の書の代表的なものなんですね。大坂の陣で豊臣が滅びたときに、天皇や公家を縛る「禁中并公家中諸法度」が出されましたが、その第一条で「天子は学問が第一である」と指示しています。その「学問」として、第一に挙げられるのが『貞観政要』です。日本の近世天皇は政治の場(民百姓統治)にはいないけれど、民百姓に治者がどう臨むかを学ぶことが義務づけられているのです。
家康や吉宗が儒学者に講じさせて『貞観政要』を学んだと『徳川實紀』にも記録されています。唐の2代目皇帝である太宗は、玄武門の変を起こして兄の李建成と弟の李元吉を殺害して皇位に就きますが、あるとき吉宗のまわりの医師や儒者たちが秀吉と李世民を比べ、どちらも戦好きで似たり寄ったりだ、という話をしている。別室で彼らの話を聞いていた吉宗は、「秀吉は家を滅ぼしたけれど、李世民は以降の繁栄(盛唐)の礎を築いたのだからまったく違う」と諭しています。
これは聖王の禹(う)の話と通じるところがありますよね。古代中国には堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹という伝説の三皇帝がいます。禹の父親の鯀(こん)は堯の臣下で天下に洪水が起こったときに治水工事を任せられましたが、9年経っても何の成果も挙げることができず、摂政の舜が羽山(東方辺境の山)に押し込めて死にいたらしめると同時に、子の禹を起用して事業を継がせたとあります。つまり親への孝と王への忠をどう考えるか、ということです。当時の儒者たち、また治者は、こういう話を引き合いに出しては、異同を弁別する思想を磨いていったのだろうと思います。
(注2)池田光政 (1609〜1682年)
西国将軍と呼ばれた池田輝政の孫。水戸藩主の徳川光圀、会津藩主の保科正之と並び、江戸時代初期の三名君と称されている。
7歳のときに42万石の姫路藩主である父・利隆が死去。幼少を理由に因幡鳥取藩32万5000石に減転封となる。叔父・池田忠雄の死去に伴い、岡山藩31万5000石へ移封。幕府が推奨した朱子学ではなく、陽明学を信奉し、陽明学者の熊沢蕃山を招聘し、〈諫め箱〉を採用した。しかし、次第に朱子学に近づき、蕃山と齟齬が生まれた。
1641年(寛永18)全国初の藩校として花畠教場及び、1670年(寛文10)庶民の学校としては日本最古の閑谷学校を開いた。岡山郡代官として津田永忠を登用し、干拓による新田開発や百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水事業、産業の振興を奨励して、教育の充実と質素倹約を旨とする〈備前風〉といわれる政治姿勢を確立した。
およそ近世の宿場は、経済的に疲弊していくのが普通でした。そもそも宿場というのは、社会の最上層から最下層までの人間が立ち寄る所です。下は胡麻の蠅(護摩の灰とも。旅人の姿をして、旅客の持ちものを盗む泥棒)や雲助(宿場や街道で荷物運搬や川渡し、駕篭かきに携わった人足)から、大名・公家までが通り、あらゆる身分の人間が行き交いました。
こういう大変なところに、田中丘隅は見込まれて夫婦養子として入ります。養子に取った東海道川崎宿の本陣名主田中家にしてみれば、才覚のありそうな人物を選ばなければ、宿場の破綻につながるわけです。
宿場は本陣や問屋を兼ねることもあり、宿としての仕事以外にも、宿駅の常備人足・馬、道路・用水施設の管理、荷物・手紙のスムーズな受け渡し、さらには名産や名所にも目を配るというような仕事が種々雑多にありました。そういう中で、忙しいだけでなく、宿経営が全体として出超赤字に陥っていくというのが、東海道などの幹線道路の宿場の傾向だったので、公儀からの財政援助もありました。
丘隅は宿名主として、伝馬制度の負担や多摩川の治水、地震などで経済的に疲弊していた川崎宿の立て直しを図ります。多摩川の河口は今でも六郷川と呼ばれますが、そこの渡船権を川崎宿の請負にする許可を受け、渡船賃の収入を得られるようにしたり、幕府から宿救済金3500両の支給を受け、川崎宿を再興したのです。
しかし、丘隅は死ぬまで宿場運営というようには考えませんでした。だいたい近世人は、一人前になるまでの25年間、当主として家業・家職に打ち込む40歳までの15年間、それから隠居してからの50歳代までの十余年間、というように考えるのが普通でした。人生三分論ですね。近世には、この隠居の第3期にまったく新しいことに挑戦し、社会還元を考える人たちがいました。人よりも長く生きたんだから命を惜しまないというわけで、百姓一揆のときに、処刑の恐れのあるリーダーを引き受けたりすることもあったのです。
田中丘隅は、なるべく早く隠居しようとしますが、何も風雅の余生を求めたのではなく、自分の蓄えた見聞、考えを、学問的に確かなものにし、農政や民間の問題解決に生かそうとしたのです。そのことは、その後の歩みでわかります。丘隅は1711年(正徳元)、50歳のときに隠居。江戸に遊学し、儒学者で古文辞学(こぶんじがく)(蘐園学派(けんえんがくは))を確立した荻生徂徠の門に入り、経世済民、つまり政道論を学びました。荻生徂徠は、吉宗の諮問に答えたり、提言することのできる立場にいた有力な儒者でした。古文辞とは、明朝で提唱された復古的な文学運動のことで、儒学でいえば、宋代の学問である朱子学よりも、もっと古い時代の儒教の一語一語から理解し直そうとする立場です。
この時代、幕府は直轄地でいろいろな人に代官の仕事をやらせました。徳川氏の知行分は700万石。その内の幕領、つまり将軍の直轄地は、石高でいうと400万石ぐらいありました。仮に5万石ずつに小分けすると、同時期に80人の幕領代官がいることになります。多摩の佐藤彦五郎を支援した江川太郎左衛門も、伊豆国田方郡韮山(現在の静岡県)を本拠とした世襲代官で、相模、伊豆、駿河、甲斐、武蔵の天領の代官として、民政に当たっています。百姓身分だった田中丘隅も、死の5カ月前に武蔵国内3万石を管轄する支配勘定格に任ぜられ、直臣になったので百姓身分から士分になる。そうして、蓑笠之助正高を養子にして、跡を継がせています。
戦国時代には、水の扱いが一段と磨かれました。土手をつくり、石垣を築くような大土木工事を短時日でやってのけるようになり、信玄堤に代表されるような土木技術が、一種の軍事技術として発達したのです。
箱根用水(注3)は、この軍用技術が民生に応用された好例です。
箱根用水がつくられた寛文年間(1661〜1673年)の特徴は、江戸の町人資本にあります。溜まった富の投資先と、年貢の増収を願って新田開発に取り組んだ幕府や藩の思惑とが一致。もちろん、成功した暁には既得権益(年貢米処分権や用水利用料徴収など)が認められましたが、儲けだけでなく、社会的な正義や公共心もあったでしょう。
農業をするには、水をいかに導くかという技術が求められます。日本では棚田に人気があって日本の原風景などといわれますが、これは近世の主たる光景ではありません。近世は、大きな河川の護岸、川筋の付け替えといった治水工事を行ない、溜池や大河の下流、つまり沖積平野に用水路をつくって水を導き、川の下流の沖積地を水田化するという政策に転換した時代です。新田開発は、17世紀に入ってからの爆発的な人口増加の原因ともなり、社会の再生産を支える基盤ともなりました。
しかし、この大開発は、マイナス面も引き起こします。過剰開発の弊害が起きて河川に大きな影響を与え、全国的に洪水が頻発しました。1666年(寛文6)には「諸国山川掟」の幕令が出され、幕府も新田開発推進から既存の田畑、つまり本田(ほんでん)を丁寧に耕作する方向に、農政の転換を図っています。まあ、これは淀川水系に限定した話ですが、それでも公儀(国)の姿勢がそのように変わっていったことは事実です。過剰に開発が進むと、秣場(まぐさば)や入会山の不足から紛争になることが多く、各藩でも開発制限令などが必要となりました。
熊沢蕃山も、新田開発を批判して、新田でなく本田を大事にすべきだと言っていますし、丘隅も『民間省要』で多摩川の水を取り過ぎて水が涸れてしまったと批判しています。17世紀の半ば以降、開発との関係で起こる社会問題に、人々が気づいてくるのです。
失敗もあるのですが、ともあれ水との向き合い方を、中国の故事からも学び、実験的にも経験し、用水についての見解を深めていったのが近世です。私は、禹が水を治めた聖人であるという知識は、当時の民間レベルにまで入っていたと思います。
寺子屋や家塾で教わった教え子が、師匠が死んだ際にその遺徳を偲んで建てた、筆子塚が近年続々と発見され、この時代の庶民がいかに勉強熱心であったかがわかっています。勉強熱心というだけでなく、男なら日常の貨幣使いや証文・帳面の必要、女なら奉公に出る際に嗜(たしな)みのために読み書きが求められるようになり、貧しいから奉公に出るというだけでなく、奉公に出るにはそれぐらいの備えが必要だ、と考えられるようになったのです。
日本に中国の治水の神である禹にかかわる碑がたくさんつくられたということは、近世になって、こういう教養や富が庶民にも備わってきたことと、決して無縁ではないと思います。
(注3)箱根(深良とも)用水
1670年(寛文10)に完成した用水路。海抜723m、貯水量1億7000万tの芦ノ湖の水を駿河国(現在の静岡県)駿東郡(すんとうぐん)に流した用水路。湖尻水門で湖水の水位を堰上げ、深良水門から取水。総延長約1280m、高低差約10mの隧道(トンネル)で、芦ノ湖の水を山向こうの裾野市深良地域、黄瀬川へと導いた。
深良村(現裾野市)の名主である大庭源之丞は灌漑用に芦ノ湖から箱根山の外輪山(湖尻峠下)を貫通する隧道を掘ることを考え、江戸商人である友野与右衛門に資金協力を要請した。戦後、民主主義実践のモデルとして、小説や映画「箱根風雲録」で全国に紹介された。
(取材:2011年11月15日)