機関誌『水の文化』40号
大禹の治水

禹の治水に学ぶ

編集部

なぜ日本に

禹のことを知ったのは、『水の文化』32号〈治水家の統〉で和田一範さんが中国・四川省の都江堰(とこうえん)について話されたときだった。最初はパソコンの文字変換でも禹という字が出てこなかったし、「兎(うさぎ)の王様?」と勘違いする人もいたぐらい。

その程度の知識だったから、2010年(平成22)11月に神奈川県足柄上郡開成町で禹の全国サミットが開催されると知って、びっくりした。しかも、禹にかかわる石碑や地名は、当時、全国に18カ所も確認されていた。各所在地から集い、それぞれの思いを込めて研究成果を披露する発表者たちの熱い思いに触れて、当初の驚きはいっそう大きくなっていった。

禹と孔子の切っても切れない関係

そもそも、古代中国の王である禹が、なぜ日本で治水神として祀られるようになったのだろうか。

禹は、中国が国として興った中心地〈中原〉を流れる黄河の治水を成し遂げて、人が住める土地をつくり、作物の生産性を高めたとされる。治水神としてあがめられると同時に、勤勉で誠実な為政者の象徴とされることも多い。日本でも、古事記や日本書紀では、聖人君子の比喩として描かれている。

禹を治水神にした一番の功労者は、中国・春秋時代の思想家で、儒家の始祖といわれる孔子だ。孔子は実力主義が横行し階層制秩序が解体されつつあった周の末期に、周公旦(周王朝初代武王の弟)が建国した魯国に生まれた。残念ながら、孔子は自らの考えを国政の場で実践する機会に恵まれなかったが、周公をモデルとして、階層制秩序の再編と仁道政治を掲げた。

中国最古の歴史書『尚書』(のちの『書経』)は、儒教では孔子が編纂したとされている。伝説上の堯帝、舜帝から始まって夏・殷・周の王の詔(みことのり)を整理した政治文書で、禹の功績を讃えた文献もこの中にある。日本へ禹が伝播したのも、儒学とともに海を越えてやってきたと考えられる。

また、孔子の死後、弟子たちによってまとめられた『論語』は、孔子と高弟の言行録で、中国のみならず朝鮮半島や日本でも広く読まれた。特に日本では、江戸時代には藩校や寺子屋で、第二次大戦前までは修身科で、『論語』が教育の基礎となっていたという。

しかし、第二次大戦での敗戦によって、『論語』は一転して批判の対象に。身分や立場の区別を厳格に守ろうとする孔子の教え(階層制秩序)が、封建主義的な身分制度を強めようとした、とみなされたからである。

本家 中国では

20世紀に中国で起こった文化大革命で、孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、禹も当然のことながら批判の対象になった。禹廟や禹像の多くは破壊されたが、中国のアイデンティティー復活のためか、近年、再整備されつつある。大掛かりに禹を祀る施設や像を見るにつけ、中国人にとって禹はおのれのルーツであり、精神の拠り所であると思わされる。文化大革命だけでなく、日中戦争で日本軍が破壊した禹廟も多い。孔子も禹も不遇の時代を経て、今、やっと再評価が始まったばかりだ。

時代が要請する禹の存在

酒匂川の治水事業を行なった田中丘隅は、水害の再発防止を願う象徴として禹を用いた。田中丘隅は隠居後に、江戸で荻生徂徠から古文辞(こぶんじ)学を学び、実務家であると同時に、〈祀り〉の重要性を認識する文化人、教養人でもあった。高松・香東川に大禹謨を建立した西嶋八兵衛もまた然り、である。

このように、近世以前の日本人は、大陸中国文明を父として、半島朝鮮文明を兄として、さまざまな学びを深め、教養を磨いてきた。したがって、「禹にかかわる事物」が日本に15河川22カ所(2012年〈平成24〉2月現在)も存在することが確認されているのも、広く浸透した儒学の教養を考えれば、あって然るべき、と言ってよい。さらに、近代河川工学を修めた研究者や技術者に、このことが驚きをもって受け止められているという。禹に象徴されるような治水の知恵(ローカルノーレッジ)を知り、伝えることの重要さに改めて気づかされる。

22カ所の「禹にかかわる事物」の中には謂われがわからなくなったり、今は存在が確認できないものもある。消えていったのも、必然があってのことだろう。しかし禹に託された治水の歴史、つまり人が暮らしていく上で欠かせない川との折り合いのつけ方は、22カ所のすべてに共通して存在する。

禹には拠り所としての強い求心力があるだけではなく、川を治めるにあたっての心構えも示してくれる。この〈治水に向き合うリアリティ〉こそが、水の流れと人との距離を縮め、里川を創成する第一歩だ。いったん姿を隠した禹が、再び現われてきたのも時代の求めによるもののように思う。



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