越前に頼めば、何かできる。 そんな、面白い和紙の企画が続いています。 近代的な印刷技術の導入で、印刷効率に優れた洋紙にその座を譲って久しい和紙。全国各地に散らばる和紙産地の危機的状況がささやかれる中、活路を求める越前和紙の元気の理由を探りました。
編集部
世界三大発明は、印刷、火薬、方位磁針といわれています。三大発明の一つである印刷は、紙があってこそ発展できたと言っても過言ではありません。中国で発明された紙は、朝鮮半島に渡って〈韓紙〉に、日本に渡って〈和紙〉に、と風土に根差した変化を遂げました。本場の中国の紙は〈唐紙(からかみ)〉と呼ばれていました。
国家機密だった紙の製法が広まって、やがて量産されるようになったことで、支配階級に独占されていた知識を解放したり、暮らしの豊かさに貢献しました。
明治になって近代的な印刷技術が導入されたことから、和紙は洋紙に取って代わられ、需要が減少してしまいます。
その後、都市人口の増加による住宅建設ラッシュに伴って、襖や障子といった建築素材などに新たな需要を求めながら、何とか存続してきた和紙産地。しかし、その需要も生活様式の変化に呼応して激減し、全国各地の和紙産地はわずかに伝統工芸として維持されているというのが今の実状です。
一般的に、和紙は使ったことのない〈過去のもの〉と認識されつつある、というのが正直なところではないでしょうか。
だからこそ越前和紙の産地〈五箇(ごか)の庄〉(旧・今立町岡本地区の大滝、岩本、不老〈おいず〉、新在家、定友)に行くと、誰しも驚きを覚えます。往年の生産量には及びもつかないと嘆息されながらも、ここでは生業としての和紙づくりが脈々と続けられているからです。
越前が産地として頑張れるのは、何と言っても多様な紙漉きが可能な層の厚さにあります。それで、冒頭の「越前に頼めば、何かできる」「何とかなる」という期待につながるのです。
そもそも、和紙とは何でしょう。実は和紙には、厳密な定義はありません。
思いつくままに挙げてみると、
・日本伝統の和紙原料〈楮(こうぞ)〉〈雁皮(がんぴ)〉〈三椏(みつまた)〉を使っていること
・原料が国産であること
・紙料とネリ(ノリウツギ、トロロアオイなどからつくられる粘り気のある物質。繊維が絡み合わないように分散させる効果と、長時間水中に浮かせる効果がある。「人間国宝 岩野市兵衛さん」 の写真参照)以外に添加物を加えないこと
など、材料を限定する定義。
・手漉きであること
・ネリを利用した流し漉き
など、製法を限定する定義。
・植物繊維の並べ方(絡ませ方)
・植物繊維の長さ
・空気層の含まれ方
など、仕上がり形状の品質を限定する定義。
等々があり、挙げていくと切りがありません。「外国産の楮を使って伝統的な手法で紙料をつくり、手で漉いた紙」は和紙なのか、といったように、条件が複雑に絡み合うので一概には言えないのです。
木材パルプを紙料に混ぜて機械でゆっくり漉いた紙は、仕上がり形状の品質から見たら立派な和紙ですが、認めないという立場もあります。
しかし、越前が産地として残ってきた要因は、この幅の広さにあるともいえます。決めつけて幅を狭めるのではなく、社会のニーズに幅広く応えてきたことが、越前が産地としての魅力を失わなかった要因なのです。
その層の厚みが形成されたのには、長い歴史がありました。
越前和紙の産地は、古代律令制のもとに置かれた今立郡(いまだてこおり)九郷の内、味真野(あじまの)郷に属した〈五箇の庄〉に開けました。国府が置かれた武生(たけふ)の東方、10km程に位置します。
1336年(延元元)室町幕府がつくられると、足利高経が越前守護となりました。大滝に勢力を持つ土豪だった道西掃部(どうさいかもん)が献上した紙が非常に良質で、高経はこの紙を〈奉書〉と名づけるように申し渡したといいます。
今も大滝町にある三田村家は、この道西掃部が三田村を名乗り、1338年(延元3)に創業したとされます。
三田村家文書によると、掃部は高経の跡を継いだ斯波(しば)氏、朝倉氏からも庇護を受け、朝倉氏が滅びたあとは織田信長に仕えて製紙の特権を得るようになります。掃部は紙座だけでなく、大瀧寺別当職としても力を持っていたそうです。これは、大瀧寺が紙座支配に力を持っていたことの表われでもあります。
掃部の跡を継いだ和泉は江戸幕府直参の地位にある御用紙工となりました。福井藩初代藩主には、徳川幕府二代将軍秀忠の兄で、家康の次男である結城秀康が着任。結城秀康は御紙屋(おかみや)制度を設置し、庄屋や長百姓とは別格の地位を持つ特権家格を五箇につくりました。もちろん、三田村家もその一つとなります。現在、有限会社越前製紙工場の代表である士郎さんは39代目。その長い歴史を語ってくれました。
「当時の紙座は紙の製造、販売に独占権を持って、いわば窓口になっていたわけですが、当家には、その証しとして織田信長の七宝の印、豊臣秀吉の桐紋の印、徳川将軍家の印が残っています。
信長たちは、多分、流通に対するロイヤリティーを取ったんじゃないかな、と。その代わりに保護してくれたというか、押印していない紙は取り締まるよ、ということなんでしょう。今だったら、独占禁止法に抵触するようなことを、時の権力者がしていたんですね」
確かに独占権を行使していたわけですが、安い値段の紙が流通して値崩れを起こさないようにする歯止めにもなって、結局は越前和紙の品質を保持することにつながりました。
「奉書紙は公文書に使われましたから、将軍家はいわば一番のクライアント。歴代の三田村家当主が秀忠や家光に拝謁した記録もあります。将軍が変わるたびにご挨拶に行っていたようで、元禄の初めごろには、江戸店(たな)も設けました。
幕府に納める紙は、今も蔵に保管してある長持ちに入れて運んだんですが、将軍が使う紙は別。特別の輿に乗せて運びました。道中も、決して地面に置いたりせず、宿も一流のところに泊まらせて床の間に安置したといいます」
旅や江戸店への出張には、携帯用の川上御前の像を持っていったそうです。
ご挨拶だけではなく、三田村家の仏間にある大きな仏壇には、家康と結城秀康の位牌があります。歴代の将軍や福井藩の殿様、奥方の位牌もあるそうですが、置ききれないので家康と結城秀康以外の位牌は、別の所に置いてあるそうです。
「ですから、この仏壇は先祖の仏壇とは別なんです。何しろ人数が多いので、この方々の命日が1月から12月までずっと続くんですよ。うちでは、その度ごとにお坊さんを呼んでお経を上げていたようです」
明治維新になったときは、クライアントである将軍も大名も失業したわけですから、紙代が払ってもらえず、ずいぶん踏み倒されてしまいました。三田村家は、それでガクッと体力を消耗してしまった、といいます。
「紙は税として納めたのではなく、あくまでも商品でした。借り入れをして材料を仕入れて紙を漉き、売ったお金で借り入れ金を返済する、というのは、現代と同じ。その資金繰りがうまくいかないと商売も難しいので、江戸時代でも良いときと悪いときがあったようです」
明治になってからも3トンほどの重量の紙を出荷しているそうで、三田村さんは記録を読んで、「どうせ、また踏み倒されてしまうのに」と思ったそうです。しかし、徳川幕府への最後の納品を取りやめにしなかったのは、何度も危機を乗り越えてきた紙屋衆としての気概とクライアントへの感謝の念からだったのかもしれません。
紙の神様、川上御前を祀った岡太神社・大瀧寺を天保年間に建立した中心人物も、三田村家の長門(ながと)でした。本殿と拝殿の彫刻には中国の故事に由来する題材が選ばれていますが、それは大変な教養人だった長門の指示でした。三田村家には、それを裏づける書物が蔵書として残されています。
越前にはいろいろな職人さんがいますが、3代目岩野平三郎さんの紙漉き工場では、日本画用の麻紙をつくっています。中国から紙が渡ってきたときの原料は麻。それが日本では雁皮、楮、三椏が使われるようになって、麻紙の製法は長い間途絶えていました。
平三郎さんのおじいさん(初代)は、大正末期に東洋史学者の内藤湖南(1866〜1934年)からの依頼を受けて、中国伝来の麻の繊維を研究し、越前和紙による日本画用紙〈雲肌麻紙〉(説明後述「MO紙」)を発明しました。
〈雲肌麻紙〉の発明以外にも、東京・京都の画壇と交流しながら製紙研究を続けたり、1925年(大正14)、横山大観による早稲田大学図書館の壁画「明暗」のために、当時世界最大といわれた5400mm四方の岡大紙(おかだいし)を漉くなど、チャレンジ精神に富んだ人でした。
代々紙漉きをしていた家柄なのに初代平三郎を名乗ったのには、こうした自負の念があるのでしょう。平三郎の紙は竹内栖鳳(せいほう)や横山大観といった日本画の大家たちに愛用され、近代日本画発展の影の立役者となったとも評されています。1932年(昭和7)に設立された越前製紙工業組合の初代理事長にも就任しました。
お父さんの2代目平三郎も、法隆寺金堂壁画復元のための壁画紙、薬師寺復興写経紙を製作しています。
「大判の紙、と一言で言いますが、漉くための簀(す)も乾かすための道具も、工夫して考えなくてはなりません。紙漉きでは紙料が入った漉き舟に簀を入れて、原料の繊維を掬うわけですが、大きな簀は動かすことができませんから、固定した簀に紙料を流す方法で漉きました。漉いた紙を乾かすのに、祖父は漆喰でかまぼこ型の小山をつくり、それに貼って乾かしています。中で薪が焚けるようにして、韓国のオンドルのようにして乾かしたといいます。
早稲田大学壁画用紙として、10枚ぐらいは漉いたのでしょう。その内の2枚は、ドイツのグーテンベルク博物館にいっています。大倉財閥の2代目で男爵の大倉喜七郎(1882〜1963年)が資金を出したそうです。最後に1枚残っていたのを、戦後になって永平寺に納めています。
ものすごく手間がかかって、とても割に合う仕事ではないですが、用途にあった紙をつくる、という越前和紙職人のプライドをかけてやったんじゃないでしょうか」
平三郎さん自身も、1982年(昭和57)桂離宮の「昭和の大修理」に使われた越前和紙を漉きあげ、吉田五十八記念芸術振興財団特別賞を受賞。平山郁夫による薬師寺玄奘三蔵院伽藍の〈大唐西域(だいとうさいいき)壁画〉、東山魁夷による奈良唐招提寺御影堂の障壁画群などの用紙を漉きました。
「平山郁夫さんの〈大唐西域壁画〉の用紙を漉くときは、2年間かけて道具類、工房を整えました。2700mm×3800mmの大きさの雲肌麻紙50枚を漉き上げ、1983年(昭和58)に納めています。これは普通の手漉きと同じ工程で漉きました。
紙を漉いたら乾かすための板が必要なんです。木目のない銀杏の板が最適で、それをそろえるのに大変な時間がかかったわけです」
平三郎さんはまた、平安時代から伝わる越前和紙古来の紙漉き模様である〈打雲〉〈飛雲〉〈落水〉の技術を継承しています(下の写真参照)。〈打雲〉は、雲がたなびくような模様を漉き込んだ料紙で、裏打ちして短冊状にして和歌を詠むのにも使われます。
五箇にあるのは和紙だけではありません。その品質を世界に認められた水彩画用紙〈MO紙〉の故郷でもあるのです。
絵画を趣味にしている人ならMO紙という名前を聞いたことがあると思いますが、これはなんと沖茂八さんという人の頭文字で、れっきとした日本製。今は、茂八さんのお孫さんである桂司(けいじ)さんがつくっています。
水彩画用紙はヨーロッパから輸入されていましたが、昭和になると徐々に戦時色が強くなり、外国からの品物が入ってきにくい状態になりました。
沖さんの家では、代々、越前奉書を漉いていたのですが、洋画家の石井柏亭さんから「何とか、日本で水彩画用紙を漉けないものか」と言われ、茂八さんが開発を始めたのです。
当時、水彩画用紙の主流は、イギリスのワットマン社製。茂八さんは入手が難しかったワットマン紙を大阪・中之島の吉村商店(現・ホルベイン画材株式会社)から取り寄せて研究を始めました。
「石井柏亭先生ご自身は洋画家ですが、お父さんが日本画家。そういう関係で越前とも関係があったのだと思います。うちのじいちゃんは、ちょっと変わり者だったんです。このまま越前奉書を漉いていても、と思ったらしく、何か新しいことにチャレンジしようとしたんですね」
洋紙といってもワットマン紙は手漉きでしたから、越前奉書と製法がかけ離れていたわけではありませんでした。しかし、材料には繊維の長いコットンが使われていました。
「中国から紙が伝わったときには、溜め漉きといって、ネリを入れないで漉いていました。MO紙は、そのやり方に戻ったということです。材料にはコットン以外にも紙の伝統的原料である麻を使いました。麻というのは長さもさることながら繊維が丈夫。繊維同士が絡みやすいという性質があります。
余談ですが、越前では絡んだ繊維を〈二人連れ〉と呼び、ダマができるので紙漉き職人に嫌われているんですよ」
「コットンと麻を使うのは、光沢のない紙を漉くためです。
和紙に使われる三椏は、自身がとろみを持っていて絡みにくい。繊維も大人しく、光沢のある紙に漉き上がります。逆に楮は荒々しくて、顕微鏡で見るとささくれ立っている。そのささくれにほかの繊維が引っ掛かるんですね。撹拌すると、余計絡み合いやすくなります。それをほぐすのが薙刀(なぎなた)ビーターという機械ですが、これも一定時間以上かけると逆に絡みをつくってしまいます。
楮を長所で見ると、発色が良いということです。繊維自体が光沢を持ちますが、一定方向にそろえると比較的光沢がない紙になります。ネリを使って流し漉きでさっと漉けば、繊維がそろって光沢のない紙になるんですが、溜め漉きでやると繊維がそろいませんから、光を乱反射して光沢のある紙に仕上がります。
その光を〈雲肌〉と呼び、溜め漉きと流し漉きとでは、その雲の大きさが違ってくるんです。
溜め漉きではどうしても光沢が出るので、絵の邪魔をしてしまう。そこで、ぼそっとして光沢がないコットンと麻を使って紙を漉くんです」
沖さんは、流し漉きと溜め漉きは、別々に育った双子みたい、といいます。同じ遺伝子を持っているけれど、少しずつ個性が違っているのです。MO紙は、厚さやプレスの加減、表面の仕上がりなど、すべてオーダーメイドでつくられています。ちなみに、現在、原料には麻とコットンのほかに針葉樹パルプを使用しています。
「最初からMO紙という名前だったのではありません。石井柏亭先生と東京高等師範学校の板倉賛治教授にお墨付きをいただいたあとに、石井先生に命名をお願いしたところ、沖茂八の頭文字を使いなさい、といってロゴも書いてくださったんです」
1935年(昭和10)、最初に完成したのが、中判のドーサ引き(説明は「筆記具の違いと紙の特質」 を参照 )の紙でした。ドーサ引きというのは滲みを防ぐ方法で、紙の表面に膠(にかわ)を塗るのですが、膠の定着剤として硫酸バンドという薬品が使われます。紙は呼吸していますから長年経つと硫酸バンドによって酸化して、せっかく描いた絵が色あせしてしまうのです。
しかし、膠を紙の原料に混ぜれば、硫酸バンドが不要になって紙を中性にすることができます。それで1985年(昭和60)にドーサ引きをやめて、膠を紙の原料に混ぜる方式に変えました。
翌年には中西利雄さん(東京芸術大学の前身である東京美術学校で、藤島武二師範の門下生)の指導の下、〈吸い込み〉を完成させました。中西利雄さんはフランス留学の経験から吸い込みの強いMO紙を要望しました。完成時には滲まない紙と区別するために、中西利雄さんのNの字を漉き込んでいます。
「紙漉きというと、みなさん一日中漉いていると思われるかもしれませんが、材料をつくるのにものすごく時間がかかるんです。繊維をバラバラにするのにアルカリ性の液で煮熟し、晒して、洗い流す。その工程で、ものすごく水を使います。そのあと、麻とコットンは繊維が長いのでカットしなくてはなりません。実際に漉く作業は全体のごく一部なんです」
漉いた紙の乾燥にも時間がかかりますし、さまざまな工夫もあります。乾かしたときに表面がデコボコになるのを「ガワになる」というそうですが、そうなっては商品としての価値がなくなってしまうのです。
このように紙漉きの仕事は一家総出で行なう、まさに生業として長らく続いてきました。五箇の女性が働き者なのは、そうでないと生業が成り立たなかったからです。
他には見られない発色の良さで、根強いファンに支持されているMO紙。沖さんも、奥さんとの二人三脚でファンの期待に応え続けています。
9代目岩野市兵衛さんが漉くのは、〈生漉(きず)き奉書〉。楮100%の「これぞ和紙」という逸品です。
市兵衛さんのお父さん(8代目岩野市兵衛)は、1968年(昭和43)に和紙の世界で初の人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されました。市兵衛さん自身も2000年(平成12)に人間国宝に認定されています。
お父さんが人間国宝に認定されたとき、埼玉県の工業試験所が水の検査に来たそうです。市兵衛さんの家の水は、中性の軟水。白い紙が漉けるのも、この水のお蔭、と市兵衛さんは言います。
「楮100%の紙を漉いている人は全国にいますが、私の紙は誰の紙より白い。それは私の腕が良いのではなく、水のお蔭です。他の産地を悪くいうわけではありませんが、越前の水でなければこんなに白くは漉けないんです」
原料に使う楮は、茨城県で栽培している那須楮。
「那須楮を煮熟といって釜で煮るんですが、水だけで煮ても繊維がほぐれません。それで薬品としては一番弱いソーダ灰を使っています。乾燥した材料に対して12%のソーダ灰を入れます。薬品はなるべく少なく抑えたいので4時間近く焚いて、火を止めてから1時間40分置いて蒸らします」
このあと水で洗って、丁寧にチリを取ります。市兵衛さんのところでは奥さんと息子さんとの三人で材料をつくって、今は、紙を漉くのは週の内2日だそうです。
和紙を藍染めすることがありますが、ソーダ灰であってもアルカリに傾きますから藍がうまく染まりません。それで昔ながらに植物で灰をつくって使うそうです。
「それならいつも灰でやればいいじゃないか、と思われるかもしれませんが、普通の木灰でやったら重量の7割もの木灰が必要になります(アクの強いヨモギなどなら6割)。これを準備するのは大変なことなんです」
煮熟、チリ取リが終わった楮を叩いてほぐします。昔は、欅(けやき)の板に載せた楮を樫の棒で叩きましたが、そのうち薙刀ビーターという機械が開発されました。
薙刀ビーターが出たときには、「これは便利なものができた」と市兵衛さんも喜んだそうですが、使ってみると「これはうちの紙じゃない」と納得のいかない仕上がりでした。
それで試行錯誤の結果、手打叩解(こうかい)と餅つき機状の道具と薙刀ビーターを組み合わせることで、納得のいく紙を漉くことができるようになりました。
「手打だけでやっているときは、バレーボール4個分ほどの楮を叩くのに、2時間かかった。親爺はうまかったから1時間半で仕上げましたが、私は2時間かかりました。
よく『市兵衛さんは、なんでそんなに叩くことにこだわるのか』と言われます。それは、叩かないと良い紙が漉けないことを経験から知っているからです。ところが顕微鏡で観察すると、叩いた繊維はふっくらと膨らみ、そうでない繊維と明らかに違っていたそうです。絵の具は、膨らんでいるところに入りやすい。それで発色が違ってくるんでしょう」
市兵衛さんの紙は95%以上、木版画に使われています。普通の浮世絵だったら、せいぜい30版ほどですからバレンでこすって摺るといっても30回。しかし、平山郁夫さんの絵を木版画にしようとしたら300回も版を重ねなくてはならないそうです。そうしたときは、よほど強くしなやかな紙でないと作品が仕上がりません。
「そこで求められるのが、100分の33mmの厚みを持った紙です。300回摺っても破けないだけではなく、300回目の版の絵の具を吸って、摺りの効果を出せる紙でないといけないのです」
煮熟によって繊維はほぐれていますが、でんぷん質がたくさん含まれていて、そのまま紙漉きをしても品質には問題ないけれど、長期保存には向かない、と市兵衛さん。
「でんぷん質ですから、虫が喰ったりして劣化が進みます。それでうちでは、そのでんぷん質をすっかり洗い流しています。豆腐づくりに使う木綿布より、少し粗目の布で材料を包んで、水に晒しながらすっかり流してしまう。そのときにも、ものすごく水が必要になります」
市兵衛さんの紙は、あとあとのことまで考えてこんな工程を経ているので、歩留まりがとても低くなるそうです。
「うちの親爺は『歩留まりは42〜43%』と言っていました。10kgの原料で4.2〜4.3kgしかできません。それを聞いたときには、本当かな、と思いましたけど、自分でやってみたらやっぱり同じでした。
原料の質にもよるのです。以前は茨城県の那須楮ではなく、石川県の加賀楮を使っていて、歩留まり60%だったといいます。繊維が長く光沢がある楮です。私は、それさえあれば日本一の紙が漉けると思っているんですが、今は残念ながらつくられていません。
昔は今の九頭竜ダムの辺りで、穴馬(あなま)楮とか内紙(うちがみ)楮とかいう、良質の楮がつくられていたんです。それがなくなったために加賀楮を使っていたんですが、それも1960年(昭和35)ごろになくなって、今は那須楮を使っています」
市兵衛さんのお母さんは「紙漉きは何年経っても一年生」と言っていたそうです。1933年(昭和8)生まれで今年79歳になる市兵衛さんも、「この年になって、その言葉の意味を思い知っています」と言います。
特に手漉きで厚さを漉き分けるのは、とても難しく、
「100分の10mmから100分の33mmまでのオーダーがあるのです。マイクロメーターで測ればすぐに数値が出ますが、同じように漉きそろえるのはなかなか難しい仕事です。薄い紙から厚い紙に移るとき、あまりに厚いんじゃないかと不安になって控えめにすると、やっぱり薄過ぎてしまう。だから、自分に自信を持って、思いきってやることですね」とのこと。
いよいよ漉くときには、紙料にネリをいれますが、ほとんどの職人さんがトロロアオイを使う中、市兵衛さんは北海道のノリウツギを使っているといいます。値段でいうと9倍もするノリウツギを使うのは、とろみの性質に惚れ込んでいるから。
「うちでは両方をミックスして使っています。トロロアオイだけの場合はブリンブリンのとろみができますが、ノリウツギのとろみは薄いんだけれど艶というか何とも言えない良さがあるんです」
乾燥するときは銀杏の板に貼って、室(むろ)でゆっくり乾かします。
「室の温度は42〜43゚C。もっと高温にすれば早く乾くと言う人もいますが、高温にすると90%ほど乾いたところで板から紙が剥がれてしまう。ゆっくりやりさえすれば失敗がないんです。
息子が跡を継いでいますが、たまに『こんな手間をかけて儲かるんかなあ』と言いますが、親父が私に言ったのは、『人の紙を見るなよ』ということでした。親父は私が弱い人間だと知っていたので、安易な方向に流れるのを嫌って、愚直に紙を漉け、という意味でそう言ったのでしょう。だから、儲けようとして急いではダメ。そのこだわりが認められて、親爺も私も人間国宝にしていただいた、と思っています」
市兵衛さんの所には、「市兵衛さんの紙がなくなったら、自分は創作ができない」と、たくさんの画家や版画家から熱いエールが送られてきます。市兵衛さんと息子の順市さんが、営々と同じ紙を漉き続けるために、楮や簀をつくる人が変わらずに仕事を続けてくれる必要があります。
機械漉きの和紙は、経済成長の波に乗り1957年(昭和32)ごろから盛んになりました。
和紙は簀で紙料をすくい上げて、紙料に含まれる植物繊維を並べ、水が切れるのを待つという工程でつくられます。厚くしようと思ってゆっくり漉くと、簀の目が詰まりますから、水切りにかかる時間は加速度的に長くなります。機械漉き和紙は、手で漉くのと同じこの原理を機械でやっているのです。
ですから、機械で漉くといっても、洋紙のようなスピードでガンガンつくれるわけではありません。
和紙を漉くための機械は、もちろんカスタムメイド。長い間に何度も改良が加えられ、品質の高い和紙をつくれるものになっています。機械漉き和紙の魅力は、手漉きに比べて大量生産ができること。それも、均質な紙が、量産できます。
福井県和紙工業協同組合の理事長を務めた石川満夫さんの石川製紙株式会社では、1961年(昭和36)から機械漉きを導入しました。今は息子の浩さんが跡を継ぎ、越前市大滝町の本社と武生の2カ所で工場を稼動させています。
「水がなければ紙漉きはできません。しかし、水量さえあればいいというわけではなく、中性に近い軟らかい水が紙質を左右します。うちでは武生にも工場がありますが、そちらは少し硬い水。大滝のように限りなく中性に近い水に恵まれるのは大変珍しいことです」
大滝の水はpH7で、ほとんど中性。この水のお蔭で、良質の紙が漉けるといいます。
「五箇の紙漉屋は、各自が水小屋に清流を引き入れたり、井戸を掘って紙漉きに最適な水を大切に使ってきました。ところが戦後、水が足りなくなり、そのために井戸を深く掘り直したり、ということが繰り返されました。杉の植林が進んで、山に保水力がなくなったのです。そればかりか、雨が降るとすぐに水が増えて土砂災害を起こすようになりました。大滝集落を流れる2本の川は、砂防河川に指定され、水害を防ぐためのダムをつくろうという話が出ました。どうせつくるなら、土砂を防ぐだけではなくて、水を溜めるようにしたらどうか、と考えました。ちょうど利水ダムという発想が認められるようになった時代で、1985年(昭和60)岡本ダムが完成し、そこから水を引けるようになりました。現在、岡本ダムを活用した小水力発電計画も進められていて、エネルギーの地産地消を目指す試みとして注目されています」
石川さんたちは、岡本川の利水を実現させたのに続き、神宮川では〈緑のダム〉づくりに取り組んでいます。
「水害を防ぐには、ただダムをつくるんじゃダメ。水をしっかり蓄える緑の森づくりが第一です。神宮川の源流である権現山のお峯は、紙の神様川上御前の鎮守の杜(もり)です。越前和紙の里の歴史文化を伝える史跡も多いところです。神様の杜を守ることが紙を守ることでもあるんだと、〈神紙(かみがみ)の森〉プロジェクトを立ち上げました」
1998年(平成10)、神宮川砂防事業に取りかかろうとした矢先に水害に見舞われました。1893年(明治26)、1965年(昭和40)にも山崩れでひどい土砂災害にあっています。ことに1965年には10人が亡くなっています。本格的に砂防工事に着手した2004年(平成16)にはさらに大水害が起こり、石川さんの家でも石垣の高さまで水がきたといいます。
神様は紙漉きのための水を恵んでくれましたが、時には洪水を起こす恐い存在でもあるのです。こうしたところから、水の神様を畏れ敬って祀るようになったのではないか、と石川さんは言います。
MO紙の沖桂司さんも、紙漉きの里の水使いについて、こう話してくれました。
「うちでは地下47mの井戸から水を汲み上げていて、今は紙漉きも生活用水もすべてそれでまかなっています。
昔からみんな井戸を使ってきました。最初は浅井戸でしたが、誰かが深くすると涸れてきてしまうので、次々に深くなっています。
浅井戸の場合は雑菌が心配なので、ほとんどの人は飲料水などには上水道を使います。うちも最初は引いていたんですが、塩素のことが心配なのであまり使っておらず、基本料金しか払わなかったんです。結局、もったいないから契約をやめてしまいました。ただ、地下水は地震のときに濁るから困るんです。東日本大震災のときも濁りました。そうするともう、仕事ができませんから、澄んでくるまで流しっ放しにして。地下のことですから、うっかり忘れちゃうんですね。ちょっとした地震で濁りますから、気をつけていないといけません」
濁るといっても目視でわかるほど濁るわけではなく、漉き舟に溜めておくと底に泥が溜まって気づく程度なので、意識して注意しないといけないそうです。
また、2004年(平成16)7月の福井豪雨のときは、大水害が発生して井戸のポンプが泥水で水没し、復旧までに時間がかかったといいます。
「古代の自然信仰では、山から湧き出る清水こそ命の根源、万物を身籠る神霊が宿ると信じられていました。その水分神(みくまりのかみ)と紙を生み出す神が結びついて〈紙の始祖神・川上御前〉(「紙の神様 川上御前」参照)になったと考えられます。
白山を開闢(かいびゃく)した泰澄(たいちょう)は、719年(養老3)川上御前を祀る岡太神社を御前立(おまえだち/秘仏である本尊の身代わりの像)に、国常立尊(くにとこたちのみこと)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を主祭神として十一面観世音菩薩を本地(ほんじ)とする神仏習合の社を〈大瀧兒権現(ちごごんげん)〉と称して建立しました。そのために岡太神社と大瀧神社は両社一体となっています。
寺にとって当時貴重品だった紙は、布教のためにも欠かせないもの。紙座は大瀧兒権現の保護のもと、生産と販売の独占権を持って大いに発展しました。
織田信長の一向一揆討伐で、四十八坊あったといわれる堂塔は灰塵に帰しましたが、紙漉きは信長をはじめ、歴代の権力者に庇護されて連綿と続いていきます。現在、大瀧神社となっているのは明治以降の神仏分離令によるものです」
五箇の庄にとって幸いしたのは、大瀧兒権現の社叢林(鎮守の杜)である権現山は、お峯といって崇められ、ゼンマイ桜や大杉といった巨木や広大なブナ林が残されたことです。標高250〜315mという低地にブナ林が分布するのは極めて珍しいそうで、県指定の天然記念物になっています。
「1843年(天保14)に建立された大瀧神社の本殿と拝殿は、複雑な屋根形状で連結された複合社殿となっています。1984年(昭和59)に国指定の重要文化財になり、昭和・平成の大造営を行ないました。そのときの経験から、2009年(平成21)にはブナ林に東接した大瀧神社の檜林が、檜皮(ひわだ)の原皮(もとかわ)確保のため〈ふるさと文化財の森〉に指定されました。〈神紙の森〉プロジェクトは、社叢林のブナ林保全と文化財の森の檜林育成が主な柱となっています」
石川さんを中心にして福井県和紙工業協同組合では、長年、水源林の保全に取り組んできました。これは水を豊富に得るためだけでなく、水害を少しでも減らすために、山の保水力を高めようという活動です。
一人ではできないことも、仲間がいれば可能になる。水源林の保全は、まさにそうした活動の一つです。
岩野市兵衛さんは、
「私は楽な仕事をしています。なぜなら、新たな工夫をしなくていいからです。愚直に、昔のまま、ごまかしのない仕事を続けていくだけです」
と言って、妥協を許さない生漉き奉書一筋でやってきました。一方で、もう少し単価が安い和紙を提供している人もいます。その一人ひとりの魅力を、適材適所に生かす和紙ソムリエもいます。
取材を通して、五箇の庄が総合性を持つ有機的な共同体であることがわかりました。現代社会が、和紙に求めるものは一律ではありません。ですから和紙が活用されるチャンスは、さまざまな場面に隠れているともいえます。だからこそ、多様性の維持は魅力ある〈産地〉の条件になるのです。〈産地〉の持つ魅力が新たな利用と結びつくように、知恵を出していきたいものです。
(取材:2012年4月21〜23日)