機関誌『水の文化』41号
和紙の表情

植物繊維としての和紙

楮で漉かれた和紙を裂くと、長い繊維を見ることができる。

楮で漉かれた和紙を裂くと、長い繊維を見ることができる。

植物が大好きで、繊維を見れば即座に何だかわかる、と言う宍倉佐敏さん。その特技を生かして、製紙用植物繊維に関する研究を続け、紙の繊維分析に貢献してきました。和紙の優れた特質を受け継ぐには、子どもの教育が要。もっと和紙に触れるチャンスをつくり、その魅力を知ってもらうこと、そして、国際的に通用する標準化が必要です。

宍倉 佐敏さん

宍倉ペーパーラボ主宰
宍倉 佐敏(ししくら さとし)さん

1944年静岡県沼津市に生まれる。1965年日本大学短期大学部卒業、特種製紙総合技術研究所勤務。1967年静岡県立製紙研修所にて紙の一般を研修。1970年アメリカ・カナダにて木材パルプの研修。2005年特種製紙(株)定年退職、宍倉ペーパー・ラボ設立。女子美術大学大学院非常勤講師、日本鑑識学会会員(紙の分析)、紙の博物館・陀羅尼会会員。
主な著書に『中世和紙の研究』(特種製紙 2004)、『製紙用植物繊維』(特種製紙 2005)、『和紙の歴史 製法と原材料の変遷』(印刷朝陽会 2006)、『必携 古典籍古文書 料紙事典』(八木書店 2011)ほか

麻から楮(こうぞ)

日本に紙が入ってきたのは610年(推古天皇18)と言われていますが、私はもっと古くまで遡ると思います。他所の国では、紙は仏教伝来と一緒に入ってくるんです。それを、日本だけ何十年も遅れるというのは説明がつきません。

伝来当時は、中国と同じように麻で紙をつくった。しかし、日本にはあまり麻がなかったんです。日本では楮の皮で糸をつくり、それを織って着物をつくっていたので、それを応用したのでしょう。

今でも徳島の那賀町では特産品となっていて、このような綿花以外の植物繊維で織られた布を太布(たふ)といいます。楮をそのまま使ったのではゴワゴワしますから、灰で煮て軟らかくします。しかし煮過ぎると弱くなり過ぎて、繊維が切れてしまう。そんなことから、「ああ、楮も灰で煮れば紙漉きの材料にできるんだな」と気づいたんだと思います。

同じような植物に雁皮(がんぴ)というものがあります。これは糸にして紐や網をつくる材料にしていました。これも灰で煮て紙にしていた。やってみたら麻よりずっと紙にしやすかったのです。

麻の場合は灰で煮なくても、レッチングといいますが、水に浸けておくだけでボロボロになります。ただし繊維が長い。少なくとも1本の繊維が5cmはありますから、切らないと紙にできません。苧麻(ちょま)なんて、15cmもあります。麻は切らないと紙にできませんが、楮や雁皮は繊維が短いので切る手間が省けるのです。

当時は、紙屋院(かんやいん)という国立の紙生産センターのようなものがあった。最初は、奈良につくられました。多分そこで、雁皮で紙料をつくって放っておいたのでしょう。雨が降ると紙を漉いてもダメになってしまうので、作業を中断することがよくあるのです。

しばらくおいた紙料を触ってみたところ、ヌルヌルする。このヌルヌルするものを楮に混ぜて紙を漉いてみたところ、すごくきれいな紙になった。ネリ剤が採用されるようになったのは、そんなことがヒントになってのことでしょう。ネリは日本にしかない、といわれている材料です。今はトロロアオイなどを使ってつくります。

中国でも、やはり麻は切るのが大変だということで、一時は藤を使っていました。ところがあまりにたくさん使ったせいで、山に藤がなくなってしまった。それで代わりになったのが、豊富にある竹です。中国では竹で紙をつくる製法が800年代に確立しています。ただ、竹よりも藁で漉いた紙のほうがきれいに書ける、と書道の人たちがいうので、藁の紙に人気が出た時期もあるようです。

竹の繊維は1.2mm、藁は0.8mmですから、中国では短い繊維の材料で紙を漉くことが主流になりました。弱いけれど、きれいな紙になります。中国では漢字しか書きませんから運筆がゆっくりで、紙が弱くても不都合がないんです。

日本ではネリを入れることで、長い繊維のまま、美しくて強い紙を漉いています。日本には漢字だけではなく仮名文字があり、運筆が速いため、紙が強くないといけなかったのです。

紙づくりには大変な重労働があります。紙料をつくるときにチリ取りといってゴミを丁寧に取り除く仕事、叩いて繊維を短くする仕事、漉いたあとに表面を叩いて平滑にする仕事、がその三つです。

雁皮紙は、表面が平滑ですから文字を書きやすいですが、楮の紙は表面がボコボコしていますから、〈打ち紙〉といって、叩いて平滑にする場合があったのです。

打ち紙加工したものとそうでないものとの見本。

打ち紙加工したものとそうでないものとの見本。

韓紙

日本と中国の違いと言えば、中国の紙は書くことだけに特化していったんですが、日本の場合は書くこと以外にも広がっていきました。日本へは韓国経由で、高句麗の僧 曇徴(どんちょう)によって紙が伝えられたことになっていますが、私は中国から直接きたように思います。

韓国では、紙を韓紙と呼びます。材料は日本と同じ楮なんですが、2、3年ごとに収穫するため、繊維断面が丸くなります。日本は毎年収穫するので、繊維断面が比較的扁平です。

和紙と韓紙の最大の違いは、漉き方です。韓国では、漉き具に簀を固定するための上枠がないのです。それで両手の親指で簀を固定して漉きます。こうするとゆっくり漉いて厚い紙にすることができないので、薄い紙をすっと漉く。こういう漉き方だから、繊維断面の丸い楮のほうが漉きやすいんです。丸いほうが、水切れがいいですから。理にかなっているんです。

紙というのは、構成物質であるセルロース繊維同士が緊密に結合するため、濡れた状態で重ねておくと、水素が上下のセルロース繊維をしっかりと結合させるんです。これを水素結合といいます。この作用を利用して、韓国では7〜9枚重ねたものに脂を染み込ませて、オンドルの床に使いますし、通常の紙も最低でも2枚重ねて使います。

朝鮮通信使が逗留した静岡市清水区の清見寺(せいけんじ)には関連文書がたくさん残されています。その調査にいったとき、私が「これは和紙、これは韓紙」とパッパと分けたので、教育委員会の人から「適当にやっているんじゃないか」と疑われましたが、触ればわかるんです。韓紙は2枚重ねで厚いですから。

厳密に言えば、韓国には楮の木はありません。日本の楮は、ヒメコウゾという在来種とアジア原産のカジノキが交配してできた種なんです。しかし、この3種をちゃんと分けられる人がいないから、カジノキもヒメコウゾも楮も「楮でいいや」ということになっている。いずれも桑科です。

原則的にはヒメコウゾといわれるのは、那須楮など、関東地方に多い。中国・九州地方ではカジノキが多い。高知では、書に向くとか版画に向くとか、用途によって楮も使い分けています。

私も繊維の長さ、丸いか扁平かでカジノキ系かヒメコウゾ系かと2種類には分けられますが、高知の人たちのように細分化するのは無理。彼らは経験から違いがわかるんですね。

紙の量産

先だって、中尊寺の調査で岩手・一関の紙漉きを調べに行ったんですが、江戸時代の正真正銘の本物の和紙がたくさんありました。それには役人の名前が書いてある。要は、「これと同じ紙をつくれ」と指示するために、紙を持っていったんです。その指示を役人がしていた。一関は仙台藩伊達氏の内分分知(江戸時代の武家の分家形態の一つ)で、一関藩田村氏の知行地。ここの役人が京都で紙を買い求めて、国元に送っているのです。

その中には杉原紙(すぎはらがみ/椙原紙とも)(注1)などもありました。杉原紙は武家がたくさん使っていましたからね。

杉原谷の紙が良い、というので有名になりましたが、つくり方が簡単だからあちこちで真似されるようになります。江戸時代には、相当へたくそな人も紙漉きをしたんです。金になりましたから。和紙の生産はどんどん増えていきましたが、それでも高価な貴重品だったことには変わりありません。

米を粉にして紙の中に入れると、白くなる、薄くても裏写りがしない、それと当時、紙は重さで取り引きされていましたから、重くするというメリットになりました。

薄く漉けるから、枚数がたくさんつくれる。筆の走りが良くなる。白い紙になる。そういうことで江戸時代には、楮の紙料に米粉を入れたのです。だから、江戸時代の紙には虫食いが多いんです。こんなことは、米よりも紙のほうが高価だからできたことです。

江戸時代に紙の量産が行なわれたのは、農民に紙漉きを強いたからです。長州(現在の山口県)が一番ひどかったようです。長州では、例えば10kgの楮をよこして「5kgの紙を納めろ」と命じた。10kgの楮からは、どんなに頑張っても6〜7kgの紙しかできません。つまり、ただ働きのようなものです。だから明治になってから、長州の人たちは紙漉きを一気にやめてしまったのです。

ところが土佐(現在の高知県)ではそうではなかった。良いものをつくれば褒められますし、ますます精進した。それで今でも土佐和紙という立派なブランドが残ったんです。

美濃も越前も同じ。三大産地として残っているのには、理由があるのです。こういう感覚がなくて無理矢理やらされていたところは、みんなやめてしまいました。単に需要がなくなったから、という理由だけではないのです。

(注1)杉原紙
播磨国多可郡杉原谷(現在の兵庫県多可町)で漉かれた、奉書紙や檀紙よりも薄い和紙。比較的低廉であったため、京都に近い地の利を生かして、高級紙の代用品となり、贈答品の包装や武家の普段の公文書に用いられた。

産地の特色

私は各産地での特色を表わしている表現で、越前奉書、美濃書院、土佐典具(てんぐ)と言っています。

奉書というのは、身分の高い人が下した命令を、役人が作成する文書です。紙にも格式があって、奉書は、将軍が使う檀紙(だんし)(注2)の次の位にありました。文書以外にも、木版画の紙として、今でも活用されています。

書院というのは、障子紙。美濃では薄くて丈夫な障子紙をつくっています。

土佐典具帖紙(てんぐじょうし)というのは、カゲロウの羽根のように薄い和紙。土佐典具帖紙も、紙料は楮。漉き方が違うだけです。楮で薄い紙をつくろうと思ったら、簀を激しく揺すること。今は、浜田幸雄さんという人間国宝の方が漉いています。

逆に、越前の奉書はゆっくり漉く。今、日本で一番時間をかけて漉いているのは、人間国宝の岩野市兵衛さんでしょう。私は、市兵衛さんの漉き方は、〈半流し漉き〉だと思っています。

金沢では加賀奉書をつくっていますが、漉いているところを見ると全然違います。繊維の絡め方や時間の掛け方が違いますから、できたものも違ってきます。それは見ただけでわかるものです。

越前では簀はすっと入れてすっと引き、横には揺すりませんが、美濃の場合は、簀を縦横に揺すります。おのおの製法が違うし、一子相伝。教えないというか、教えられない。

浜田さんの漉く典具帖紙は、漉く技術もさることながら、薄くって普通の人じゃ剥がせない。和紙は漉くたびに重ねていって、干すときに一枚、一枚剥がして板に張るんです。それが剥がせない。ものすごく薄いから。

東京で和紙の集まりがあったときに、ある人が浜田さんと同じような典具帖紙を出品していたんですよ。それで聞いてみたら、薄くて剥がせないから、漉いたそばから板に張っている、と言っていた。手間がかかるから、1日数枚しか漉けないそうです。やはり、浜田さんしかできない技なんですね。

(注2)檀紙
楮を原料としてつくられた、縮緬状のしわがある和紙。徳川将軍による朱印状は、原則として檀紙が用いられた。

地位を表わす紙

実は使った紙を見ると、その人の地位や教養がわかるんですよ。家柄や経済力もわかる。それは使う本人が決めるわけではなく、人から決められてしまう、とも言えます。役人が全部指示するのです。

書札礼(しょさつれい)といって、書簡を出すときに守るべき礼法があった。書簡を出すときの書式や文面、字配り、崩し字の決まり事、料紙の種類や折り方、封書の方法などが事細かに決められていたのです。地位の上下関係がわかるだけではなく、当時の社会的秩序が反映されるので、史料として絶好の証拠ともなります。

以前、千葉・佐倉にある歴史民俗博物館で調査したことがあるのですが、惚れ惚れするほど良い紙に書かれている史料があった。それで研究者に「先生、これは良い紙ですね」と言ったら「よくわかりますね、これは〇〇大臣の書簡ですからね」と言われました。また、同じ苗字なのにそれほどでもない紙に書かれた書簡もある。そうするとその先生は「そうです、これはその大臣の息子なんです」と言いました。

研究者は書いてある内容から身分や地位を知るわけですが、私は紙を触っただけでそれがわかってしまう。それほど、紙というのはすべてを物語っているのです。

日本で紙といえば、厚くて白くて大きい、という3条件に価値が置かれました。厚くて大きい紙をつくるのは、ものすごく大変だった。逆に薄くて小さい紙は簡単にできた。その代表的なものが杉原紙です。檀紙なんか、重くてなかなかつくれなかった。少しでも軽くするために簀も茅(かや)でつくったり、と工夫を重ねることで、やっと漉くことができました。

海外で和紙に目覚める

私の育った所は、有名な柿田川湧水に代表されるように水に恵まれています。製紙会社が多いのも、そんな理由からでしょうか。私が勤務していた特種製紙株式会社(現・特種東海製紙株式会社)もその内の一社です。入社してから、「勉強したいんだったら自由にやっていいから」と言われて、静岡県立製紙研修所で学びました。

そこを終えてから、基本的には洋紙ですから木材パルプの勉強ということでアメリカやカナダに行きました。そのときに和紙のことを質問されてまったく答えられなかった。それで和紙を勉強しなくては、と思ったんです。

帰ってきて2、3年経ったころに岐阜工場に転勤になりましたので、「これは、しめた」とバイクを買って、美濃に通ったのです。1時間ぐらいで行けましたから。

それで直接、紙漉き職人さんのところに行って手伝わせてもらった。タダで力仕事をするんですから、大歓迎された。それで自分でもだいたいのことはできるようになった。畑もやっていますから、楮も三椏も自分でつくります。

退職して6年が経ちますが、特種製紙にいたときには、毎日、紙を見ていましたから、1週間もしないうちに禁断症状が出ました。とにかく、植物の繊維が好きなんです。

教科書の洋紙化

1903年(明治36)に「教科書の国定化」が行なわれ、和紙から洋紙へ変更されました。それまでは和紙のほうが洋紙よりも生産量が多かったのです。

当時の文部省が「教科書を和紙から洋紙にする」といったときに、和紙業界では「どうせ洋紙なんて」と言って反対しなかった。そのころは6対4で和紙の生産量のほうが多かったから、自信があったんです。ところが印刷ということになると、洋紙のほうがずっと都合がいい。それで、どんどん洋紙に取って代わられてしまいました。わずか2年ほどで、和紙と洋紙の比率は逆転してしまったそうです。

教科書が洋紙になったことは、生産量の減少だけでなく、子どもたちが和紙に接する機会がなくなることでもありました。そうして和紙が忘れられていったのです。

洋紙に変わる以前の、和紙の教科書。明治34年発行の『高等小学国語教本女子用巻一』(育英舎 1901)

洋紙に変わる以前の、和紙の教科書。明治34年発行の『高等小学国語教本女子用巻一』(育英舎 1901)
画像提供/公益財団法人 紙の博物館

百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)研究に取り組む

百万塔陀羅尼(注3)は、現在、確認できる世界最古の印刷物です。

木版が磨耗してしまうので、これほど大量の印刷物を一つの木版で印刷するのは不可能です。複数の陀羅尼が確認できますので、版がいくつかあったことは事実。複数の木版を彫ったのではなく、鋳造で複製した金属活版を用いて印刷した可能性も指摘され、木製か金属製かは不明ですが、凸状に彫った版の上に、幅4.5cm、長さ15〜50cmの紙を載せて印刷しています。また、紙を下にして捺印方式で印刷したという説もあります。

紙は、虫食い防止のために黄蘗(きはだ)で染められていて、陀羅尼を納める塔は、中国伝来のろくろを使って小さな三重の塔につくられ、白い塗料が塗られています。

私は学者ではなくただの研究員でしたので、みなさんが気軽に「うちのも見てよ」と声をかけてくださったのかもしれません。特種製紙株式会社におりましたから、会社からも「それだったらうちでも集めてみようよ」と言われて、10点ほど蒐集しました。それを見た報告をある雑誌に掲載したところ、「うちのも見て」と広がっていきました。

いろいろ見ているうちに、世田谷の静嘉堂文庫から声をかけていただきました。ここは、民間で一番たくさん百万塔陀羅尼を持っている機関で、90点近く持っていたと思います。

陀羅尼というのは小さな巻物で、クルクルッと巻いたあとに包装紙でくるんであるんです。その包装紙には何も書いていないので、大概の場合は価値がないと見なされて捨てられてしまいます。みなさん、文字だけを大切にしているんですね。

ところが静嘉堂文庫では、その包装紙も丁寧に取っていた。しかし、やはり文字が書いていないから価値がない。サンプルとして持っていって、自由に研究してください、と言ってくださったんですよ。結局、四十数点、調べることができました。その成果は、著書(『必携 古典籍古文書 料紙事典』八木書店 2011)にも掲載しています。

私の想像ですが、百万塔陀羅尼がつくられたのは、和紙の過渡期の時代だったと思うんです。中国から伝わった紙漉きをお手本にして、日本独自の〈和紙〉をつくっていくという過渡期だったと。

20年ぐらい前までは、百万塔陀羅尼は〈麻紙(まし)〉だといわれていたんですよ。私も当時はそう信じていたんですが、実物に接する機会が増えるにつれ、「どうもそうではないらしいぞ」と思うようになりました。

同じものが一つもない。見るものがすべて違っているのです。それで「これはそんなに簡単に片づけられるものじゃない」と思い、研究を始めました。たくさん見たことで、違いがわかってきたのです。それまでの研究は、1点見ただけで「麻紙だ」と決めつけていたのです。特に学者の人たちには、そういう傾向がありました。

(注3)百万塔陀羅尼
藤原仲麻呂の乱を平定した称徳天皇は、国家の鎮護と戦死した将兵の菩提を弔い滅罪を祈願するために、陀羅尼(仏教において用いられる呪文の一種。サンスクリット語のダーラニーで、記憶して忘れないという意味)を100万巻印刷し、木製の小さな塔(百万塔と呼ばれる)に納め、770年(宝亀元)10万基ずつ大安寺・元興寺・法隆寺・東大寺・西大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺・川原寺(弘福寺)・崇福寺の10大寺に奉納した。藤原仲麻呂の乱から6年の歳月を掛けた大事業だったが、百万塔はほとんどが焼失したり散逸したりして、現在では法隆寺に4万数千基が残っているほかは、博物館や個人に数基所蔵されているのみ。

福井県越前市の〈紙の文化博物館〉所蔵の百万塔陀羅尼。

福井県越前市の〈紙の文化博物館〉所蔵の百万塔陀羅尼。

溜め漉きから流し漉きへ

奈良、平安時代までは、中国から入ってきたままに〈溜め漉き〉(注4)という漉き方をしていました。江戸時代は〈流し漉き〉(注5)。

百万塔陀羅尼は、原材料も、実にさまざまで、短く切った繊維を使い、固まるのをゆっくり待つという中国式の〈溜め漉き〉から、江戸時代に確立した長い繊維をからめて漉く〈流し漉き〉の前身といえるようなものまで、ありとあらゆる紙が使われていました。

ついこの間も京都で「文字を記した日本の紙」という講演をしたばかりですが、質問は百万塔陀羅尼に集中しましたね。やはり、日本最古の印刷物ということで、みなさん、興味を持っているんです。

福井・越前の〈紙の文化博物館〉にも、百万塔陀羅尼を再現する番組のビデオが流れていますが、そのときですよ、NHKが「百万塔陀羅尼は麻紙だ」と放映してしまって、それが定説になってしまったのは。私もそのときは信じていました。しかし、実際はそうではなかった。もっと多様だったのです。

10年ぐらい前、よく紙に接する人たち、国文学や修復をしている人たちから「どうも中世の紙は様子が違う」という話が出ました。それで研究することになり、中世の紙を一番持っているのは高野山だ、ということになって出かけて行きました。

ところがなかなか違いがわからない。それで中世以前の紙や江戸時代の紙も触って比べてみた。どうやら漉き方が違っていたらしい、ということがわかってきた。

私は工房を持っていて試作品がつくれますので、〈半流し漉き〉の紙をつくって持っていったところ、中世の紙に似ている、ということになりました。中世の貴族や高級僧侶は、この〈半流し漉き〉で漉かれた紙を使っていたんです。

〈半流し漉き〉ではゆっくり漉くので、簀の上面には植物の繊維が固まった箇所ができて、ボコボコしています。しかし、簀に接している下面は平らなんです。

鎌倉幕府を最後まで支えた北条氏の一門である金沢氏の菩提寺称名寺には、4代目当主で15代執権の金沢貞顕(さだあき)の手紙が650通も残っています(現在確認されている鎌倉時代の文書は4万通といわれている)。

これは手紙の裏を経典の書写などに再利用したためで、こういうものは紙背文書(しはいもんじょ)と呼ばれています。

称名寺では貞顕が出した書簡を取っておき、ボコボコした裏面を叩いて平らにして再利用していたのです。神奈川の金沢文庫で「金沢貞顕の手紙」という展覧会を行なったときに、そのことがはっきりわかりました。

(注4)溜め漉き
紙料(漉けるように処理された紙の原料)を漉槽に入れて簀や網で汲み込み、簀や網の上に湿紙ができたあと布に移す方法。叩解度の高い紙料で漉かれた湿紙を重ねると、くっつき合って剥がすことが困難になるため、湿紙と布を交互に重ねていく。
(注5)流し漉き
濾水性の簀や網を動かして、漉槽の中の紙料を汲み込んだり捨て戻したりして、簀や網の上に紙層をつくる漉き方。

蝉翼拓(せんよくたく)の技法で採られた拓本の端切れ。

蝉翼拓(せんよくたく)の技法で採られた拓本の端切れ。裏から見ると、字口への食い込みがよくわかる。この紙は和紙ではなく中国の紙。和紙は繊維が強いので、水貼りのときにせっかく字口に食い込ませても、乾燥するともとに戻ってしまうのだそうだ。

心で漉く和紙

和紙は自然の水と自然の繊維を利用してつくられます。敢えて言えば、心で漉いている。日本ではなかなかその良さが認められないかもしれませんが、海外にいったら、このようにつくられた紙は大変高く評価されます。だから、外国に売ったほうがいい。

ただ、手づくりなので品質がまちまちです。海外ではそれが認められないので、まずは品質を標準化しなくてはなりません。今は良い紙をつくろう、という気持ちだけでつくっていますが、外国人に買ってもらおう、と考えるようになれば、こうした欠点は克服できるはずです。

外国人に買ってもらおうと思ったら、いつまでも匁(もんめ)や尺(しゃく)なんて言っていたらダメ。単位も標準化しなくては。そういう売り方をしない限り、和紙の国際化は難しい。また、大きさや厚み、色などの規格化も大事ですね。

参議院の議長官邸の応接室の天井に和紙を使うことになって、デザイナーが調べて、越前和紙の岩野市兵衛さんの紙が選ばれました。

ところが貼っていく途中で足りなくなってしまったんです。足りなくなったからといって、急にはつくれません。似ている和紙を探してきて使ったそうです。その後、納品した業者が市兵衛さんの紙1枚幾ら、もう一方の紙幾ら、と単価を出して請求したら、役人が怒って「同じ紙なのに、なんで単価が違うんだ。全部、安いほうに統一しろ」と言ってきたそうです。

それで業者が私のところに「宍倉さん、この単価の差を説明できないだろうか」と言ってきたんです。私は即座に「説明できますよ」と答えました。私は両方のつくり方も材料も見ていますから、「水に浸けて、引っ張ってみてください」と言ったんです。市兵衛さんの紙は、簡単には破れない。この紙を引っ張り試験機にかけたら、数値ではっきりと違いが出ます。数値が3倍違いました。それで役人も納得したそうです。それぐらい、違う。

画家の平山郁夫さんが市兵衛さんから紙を買っていたんですが、「その3分の1でいいですから買いませんか」と、紙を持ってきた人がいたそうです。それで平山さんが修復をやっている専門家に相談したら、「3版か4版刷ったら、すぐに紙の違いが出るよ」と言われたということです。「市兵衛さんの紙が100枚あったら99枚良い作品に摺れる。しかし、3分の1の価格の紙は100枚摺って、まともな作品になるのは60枚程度。信用を落とすだけだから、市兵衛さんの紙を使ったほうがいいですよ」と言われたんだそうです。

楮だといいながら、原料に木材パルプが混入している和紙もある。残念ながら素人の人にはわからないから、本物の紙の見本帳と50倍ルーペを常に持って歩く必要があるんですよ。この見本帳は、愛知県名古屋市にある紙の温度株式会社でつくったものです。紙を扱う人たちが、面倒でもそういうことをしてくれると、つくる人たちも真剣になりますから。

これから「和紙の優れた特質を生かして受け継いでいこう」と思ったら、ポイントになるのは子どもの教育だと思います。いきなりものすごく高級な和紙を渡して「これに何か書きなさい」と言ったって、無理ですよ。まずは楮に似た木材パルプ製の紙を渡して、接する機会を増やしていく。そこから徐々に和紙の魅力が理解できる人間に育てていく必要があります。

今、それが行なわれているのは書道の分野です。安い書道用紙から高級なものまで出回っていますから、自分の買える範囲で選ぶ自由度がある。

MO紙(越前でつくられる水彩画用紙)なんかは、全部オーダーメイドですよ。私は女子美術大学で教えているんですが、学生たちには「良い作品をつくろうと思ったら、安い紙を使っちゃダメだよ」と言っています。安い紙だと、いい加減に描いてしまうんです。書道だって、練習だからといって安い紙を使うと安易になりますから。

教科書も、全部が無理でも、ある教科の見返しだけでも和紙にしてみる。また、出生届を和紙にする。墨を擦って筆で書く。そういうことから始めたらいいと思います。そんな程度のことだったら、国会議員がちょっと頑張ればできる可能性があるんです。

アメリカの役人は、課長以上の役職になると、自分専用のコットン製のレターペーパーを使うでしょ。日本も見習ったらいいと思います。

宍倉さん必携の和紙見本帳とペン式携帯用小型マイクロスコープ

宍倉さん必携の和紙見本帳とペン式携帯用小型マイクロスコープ(本来はオフセット印刷の網点を確認するためのもの)。長さ0.8 mmの稲藁でも50倍以上のマイクロスコープで観察すると、およその繊維の形態は確認できる、という。



(取材:2012年3月29日)

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