研究者は紙に書かれた内容を気にしますが、山根一城さんは、「紙そのものが気になる」といいます。紙漉きを知っていると、時の権力者が使った紙がなぜ格上なのか、紙そのものが語ってくれるからだというのです。白が尊ばれる、折形の紙。輝くように光る白は、生命の源である太陽の光を表わし、清浄をも表わしています。そこには贈る相手を大切に思う、心そのものを包む想いが込められています。
山根折形礼法教室主宰
山根 一城(やまね かずき)さん
1950年、東京生まれ。法政大学文学部英文科卒業後、アメリカ・カリフォルニア州立大学フラトン校大学院に留学、文化人類学を学ぶ。BMW Japan Corp.マーケティング部長、日本コカ・コーラ広報担当副社長など外資系企業勤務を経て、2003年より礼法研究家、折形礼法の第一人者である父 山根章弘の後継者として折形礼法の普及を開始。折形礼法のほか、アナログ文化をテーマとして、中国茶、オーディオ、天文教室などの分野でも活動の一方、広報・危機管理コンサルタントとしても活躍。2006年、東久邇宮記念賞受賞。
主な著書に『折形レッスン―美しい日本の包み方』(文化出版局 2005)、『暮らしに使える「折形」の本』(PHP研究所 2007)、『暮らしの折り方、包み方―贈る・飾る・楽しむ折形84』(主婦と生活社 2009)、『日本の折形―伝統を受け継ぐ型約七十点を掲載した包み方の手引き』(誠文堂新光社 2009)ほか
輸入文化が遣唐使(注1)の終焉で一応終わりを遂げて、日本独自の文化として、平安王朝の貴族文化が京都を中心に開花しました。コピーや物真似ではなく、良いところを巧みに吸収して、オリジナルより良いものをつくる。私はそれを〈折衷文化〉と呼んでいます。
そこで信仰されたのが天照大神です。天照大神というのは天皇家の神で太陽神。太陽の恵みを受けて、私たちは自然界の動植物の一つとして生かされている。だから自然と共存し、自然の命をいただいて生きているのです。
折形に用いる紙は白が尊ばれます。輝くように光る白は、生命の源である太陽の光を表わしているからです。白はまた、清浄をも表わしています。
写真やテレビ、パソコンのモニターなどで、色を正確に再現するために、色温度(いろおんど/color temperature)(注2)という指標があります。
色温度の単位には、K(ケルビン)が用いられます。
朝日や夕日の色温度はおおむね2000K、普通の太陽光線は5000〜6000Kで、一般に考えられている白よりかなり黄色味がかっている色です。これが自然界における白であって、漂白したり蛍光色で青く光る白ではない。生成りというのは太陽の色。この太陽の光は陰陽五行では緑、紅、黄、白、黒(紫)の5色で構成されていると考えられています。
(注1)遣唐使
619年(推古天皇27)に隋が滅び唐が興る以前は、遣隋使が派遣されていた。第一次遣唐使は630年(舒明天皇2)。200年以上にわたって、当時の先進国であった唐の文化や法制度、仏教の日本への伝播に貢献したが、894年(寛平6)に菅原道真の建議により停止された。
(注2)色温度
理想的な黒体を想定すると、温度が低いときは暗いオレンジ色を放射し、温度が高くなるにつれて黄色みを帯びた白になり、さらに高くなると青みがかった白に近くなる、という分布を得ることができる。このように白という色を、黒体の温度で表現したものを色温度と呼ぶ。写真撮影では、スタジオ撮影のライトが3200K、太陽光線が5500Kと想定されており、フイルムはこの色温度の照明下で最適な色再現ができるようつくられている。
日本は、温帯ゾーンに位置する数少ない先進国で、動植物と四季の変化、色の変化が最も豊かな国でもあります。
5日ごとに目まぐるしく変わる自然の移ろいを暦に写したものに七十二候(しちじゅうにこう)(注3)がありますが、これが日本の美意識の原点にあり、生活のリズムの大原則ともなっています。
これらの季節のすべてを司っているのが、太陽です。五行思想の木火土金水(もっかどごんすい)という自然界の理念の中に生かされているから、天皇陛下は稲を植えられ、皇后陛下は蚕を飼って絹をつくられます。神さまにお供えする一番大切なものは、米と米からつくったお酒と塩と水と藁。繊維は絹と麻と楮で、それぞれ和妙(にきたえ)、荒妙(あらたえ)、白妙(しろたえ)と呼ばれました。
糸を縒(よ)って繊維にすることを〈績(う)む〉と言いますが、布は糸をつくるところから始まります。糸をつくって染めて織る。つまり公家の女性たちは、七夕の織り姫がやっているのと同じ仕事をしていたのです。このほかに公家の女性の嗜(たしな)みとされたものに、「詩を詠う」「文字(変体仮名)を書く」「楽器を奏でる」などがあります。
そもそも七夕というのは、日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん)や仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)などが習合したものと考えられています。各々不得意なことをカジの葉に書き、上達を願ったものが、のちに短冊に書くようになりました。
(注3)七十二候
古代中国で考案された季節を表わす方式。二十四節気(にじゅうしせっき)をだいたい5日ずつの三つに分けた。俳句の季語にも影響を与えている。
二十四節気は古代中国のものがそのまま使われているが、七十二候は江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によって「本朝七十二候」として日本の気候風土に合うように改訂されている。
貴族階級である公家から始まった礼法ですが、武家が台頭してきて鎌倉に幕府を開いた。今、ちょうど大河ドラマで平清盛をやっていますが、武家が台頭してくるようになると、貴族だけではなく武家の間でも、礼法や公家の文化が広がります。
室町幕府三代将軍の足利義満は知識人で、「公家に礼法あれば、武家には武家の礼法を」と、武家のための礼法を定めました。公家の礼法は五位から上の位で主に採用されましたから、以来、六位以下の者はすべて武家の礼法に従ったとされます。正確には武家とは将軍と直接接見できた大名と旗本クラスに限定して定義されています。
足利将軍は武家の礼法をきちんと伝える役割を三つの高家(こうけ)に命じました。まずは、弓と馬術に優れた小笠原家を外の礼法の指南役とし、お城の中のインナーマナーである殿中の礼法、内の礼法は伊勢家に。書と画は、今川家。今川家はすぐにお家断絶になったので、吉良家が受け継ぎました。
礼法というとすぐに流派は?といわれますが、本来は流派などなかったのです。強いていえば、天皇家流と将軍家流でしょう。
江戸時代になると、戦がなくなって失業した下級侍が、副業として寺子屋などで教えるようになる。そこで礼法も教えられましたが、根拠のない歪められた礼法が蔓延した結果、江戸時代にはさまざまな流派が派生し、将軍家殿中の礼法本家の末裔 伊勢貞丈(さだたけ)は著作の中で、「千流、万流もの礼法流派ができた」と嘆いています。今の時代に、インターネットやテレビ・雑誌などで根拠のない情報が氾濫しているのと同様です。
武家礼法のバイブルは、『貞丈雑記(ていじょうざっき)』です。
『貞丈雑記』は、江戸時代中期の旗本であり、武家故実の大家であった伊勢貞丈が、1763年(宝暦13)1月以後に書き記した雑録で、草稿のまま伝わったため、子孫の貞友の時代に岡田光大が清書校合して1843年(天保14)に刊行されました。室町幕府政所執事(及び御所奉行を兼務)の家柄であり礼法に精通した貞丈は、子孫が古書を読むときの頼りとして、また、人から故実(朝廷の儀式典礼の拠り所となる歴史的事実)を聞かれたときの助けになるようにと、16巻2350項目にわたって、鎌倉時代から伊勢家に保存してあった武家礼法に関する膨大な古文書をもとに、武家の礼法、武家故実を正確に後世に書き残しました。
もう一つお伝えしたいのは、作法と礼法の違いです。連続した動作を場面場面で方式化したのが、作法。こうして、ああして、3秒止まってこうする、という、いわば動作のマニュアル化です。一方、「ありがとうございました」と思う礼の気持ちを、自然に形に表わしたのが礼法です。作法に振り回されたら、ハートがなくなって礼がなくなる、と私は敢えて申し上げています。
心が形になったのが礼法です。儀礼でやっているわけではありません。形にはめられて形式が優先するのが作法。地方ごとにやり方が違うのは、慣習、地方文化です。特にお葬式などの冠婚葬祭は、地方ごとに違いがあります。お雑煮の餅が四角だったり丸だったりするのも地方文化と慣習。これらは礼法と混同されやすいのですが、都を中心に公家や上級武家が秘伝で守ってきた格式の高い礼法とは違います。
このような混乱が起こるのはなぜかというと、ものごとの本来の意味や歴史、思想、哲学を学んでそれらの行動の背景を知る機会が減ってきた結果、多くの人が、マニュアル本やネットでの情報、流通業の販売員などからの見聞に、一から十まで頼るようになってしまったからではないでしょうか。長い歴史を持つ日本の文化はまさに奥深い資産ですが、折形が消失してしまったように、戦後の高度成長の経済社会に育って「物」中心の価値観を尊重してきた結果、私たちは、ややもすると「日本人の顔をした西欧人」になってしまった気がします。
天皇の紙、公家の紙、将軍や武家の紙。紙を位や目的別に明確に使い分ける「紙の格の使い分け」を持つのは、日本だけの文化です。
武家は漢字中心ですから、厚く強靭で荒々しい楮紙が向いています。また野戦では、重要な伝達は早馬を飛ばして書を通して行ないました。その際、懐に入れた包みが汗でぐしゃぐしゃになってもいいように、分厚く丈夫な楮紙が武家の紙になりました。
それに対して公家は変体仮名を書きますから、美しく薄い雁皮紙を使います。公家は基本的に外出せず、御簾の内側ですごします。従って、繊細で優美な雁皮紙が用いられたのです。
公家の礼法では、日本古来の方法で染めた色雁皮紙を重ね、目的に応じた表現をすることもあります。このときに使われる色紙は、〈におい〉と呼ばれるもので、平安時代に十二単(じゅうにひとえ)の袖口からほんの少しだけ重ねの色を見せていたように用いるのが基本です。紙の使い分けや色目の組み合わせには目的に応じた使い分けが厳しくされていました。色と紙の使い分けは重要な階級社会のステイタスでもあり、決して侵してはいけない最も厳しい規範、〈戒(かい)〉とされました。こうして階級社会が維持されてきたのです。武家でも上位の折形では、公家文化の影響を受け白の紙に色紙を重ねることが行なわれました。
一番格上の紙は、あとからご説明しますが檀紙(だんし)で、次が奉書紙です。奉書紙はシボがない中厚の楮和紙、引き合わせとも呼ばれます。これは将軍や大名が決定事項を伝える(奉じる)ための指令書として使われました。
紙を折らなくなって、小さく、薄くなっていくにつれ、格が低くなります。武田家の所縁の寺に、折紙付きの書状や御朱印状など、いろいろ文書が残っていますが、幕府が倒れて薩長政権になったときに徳川時代の檀紙の朱印状を回収廃棄する旨の命令書には、奉書紙の下の格である杉原紙が使われていました。
紙の格も志もあったものではありませんね。目的と心持ちの違いが、使う紙に明確に出ている好例だと思いました。
宣旨(せんじ)は天皇の命令を書いた文書ですが、天皇の命令・意向(勅旨)が文書化される際、口頭で受けた命令・意向を、弁官史が忘れないために記したメモから始まりました。やがてこのメモが発給されるようになり、文書として様式化していって、律令期以降、宣旨になった。
そのため、天皇の意を反映した文書として認識されましたが、弁官などの署名しか記されませんでした。つまり天皇のサインがないのです。宣旨は、紙を見ただけでサインがなくても天皇の宣旨だということが理解されるんですね。
このときに使われる紙は院宣紙で、檀紙のほか、墨で書かれた使用済みの和紙を漉き戻した薄墨紙も使われました。天皇家ですら大変貴重であった和紙をリサイクルしていたのですから頭が下がります。
将軍の特別な公文書には、楮でつくった分厚い檀紙を使います。檀紙を横半分に折って、サインである花押(かおう)と直径5cmほどの朱印や黒印が押されました。これが〈御朱印状〉です。この形状の公文書を正式には〈折紙〉と呼び、〈折り紙付き〉の語源になりました。正式な折紙は、すべてこの折り方です。現在でも刀剣の証明書や、茶道、華道といった習い事の上位の免状はすべて檀紙や奉書紙を折紙にして使われています。
折紙付き
お墨付き
折目正しく
雛形
横紙破り
これらは、すべて折形の用語です。
三代将軍徳川家光の御朱印状は、厚さが100分の55mmもあります。一般の書道用半紙は100分の8mmですから、いかに厚い紙であるかがわかります。牛の皮のように厚く、固い紙だったようです。檀紙には凹凸のシボがありますが、シボに対して筆で直角に書きます。
厚く漉かれた本物の和紙は、ものすごく墨を吸収します。ですから黒光りする程、濃く摺った墨をたっぷりつけて書かなければ文字を書くことができません。それで、濃い墨で書いた辞令を〈お墨付き〉というのです。
和紙はものすごく丈夫です。思いきり力を入れても、ちょっと破けないほど強い。紙衣(かみこ)といって衣装にも使われ、東大寺のお水取りでは今でも使われています。
研究者は紙に書かれた内容を気にしますが、私は紙そのものが気になる。手の目といいますが、触ってみて、腰や厚さ、素材を手で確認します。そうして紙をじっくり見ることで、時の権力者にふさわしい紙ということがわかってきます。
なぜなら実際にここまで強靭な紙を漉こうと思ったら、大変な労力が必要とされるからです。だんだん簀の目が詰まって、漉き桁の中に水が溜まった状態になる。その水が落ちるまで、ずっと待っているのは、なかなかしんどい作業です。腰は痛くなるし、生産性は落ちるし、枠は傷むし。使われている紙から得られる情報が多いか少ないかは、このように紙づくりの現場を知っているかどうかに左右されるのです。
私は、今ではつくられなくなった紙も多いので、お願いして職人さんに再現してもらっています。優れた職人さんの良いところは、難しいことでも執念を燃やしてチャレンジしてくれることですね。
折形とは、このような礼法の精神に則って、贈りものなどを和紙で包むやり方です。包む紙にもランクがあって、必要とされる紙が選ばれました。
『貞丈雑記』に、
「心を尽くして取り調えるを、馳走とも奔走ともいう。馳、奔、走、三字とも走ると読むなり」
とあり、見えないところで時間をかけて、十分に相手のために尽くすことを意味しています。おいしい食べものを準備しておもてなしをすることを〈ご馳走〉というように、食べもののほかに贈りものも心を尽くして調えたのです。
自分の時間を小切りにして相手に贈ることが第一義で、大切なのは物ではない。ですから、折形というのは、その気持ちや行動が形になったほんの一部なのです。
贈りものをするときに最も大事なのは、心を込めて自らが贈りものを選ぶこと。そして、出かけて行ってお祝いの口上を述べることです。祝儀を述べることが目的で、ついでに贈りものをお渡しする。それぐらい、口上を述べることは大切なことでした。
しかし大正時代に、百貨店が〈贈答〉という言葉を考案しました。中元という言葉も、もともと道教のものなのに仏教と結びつけて夏の贈りものの意味にしました。その商魂のたくましさは、さすがです。西欧ではよくギブ&テイクといわれますが、日本人の感性はそうではありません。徹底して与えることを喜びとします。どこかで人知れず戻ってくるのは結果としてであって、主張して見返りを要求するものではありません。それが〈徳〉ということでしょう。
古来、折形礼法で贈られたのは、主に日常使う絹の布や和紙、扇や馬具、弓矢の羽などの消耗品で、西欧社会のように豪華な金品ではなかったようです。最も重用されたのはその日、最初に咲いた花。真っ赤に紅葉した紅葉(もみじ)も同様に、大切にされました。公家も武家も、自然界からの貴重な賜わりものを最も尊重したということがわかります。
包むものの性質、陰と陽に合わせて、折り方も使い分けます。木の花は幹が円筒形で、地面から天に向かって垂直に伸びるので〈陽〉。丸めた反物や弓矢なども〈陽〉とされます。
それに対して、地面に水平に広がる草花は〈陰〉。「平らきもの」と呼ばれる折り畳んだ布なども地に水平に広がるので〈陰〉です。折るときには自分の前に正対して和紙を置き、天と地を守りながら、紙の向きを変えずに折っていくのが基本です。
ものを差し上げるときの原則は、品物の上と下を隠さないで包むこと。例外として粉は包みました。お金は紛失しては困りますから、この包み隠す〈粉包み〉を応用し、明治以降考案された折形です。金子は包むものですから〈一包み〉と書き、一封とは書きません。
一方、隠さなければいけないものは、情報。つまり手紙は、封をして〈親展〉とする。袋というのは封筒で、書簡のための包みであって、金銭を贈るための包みではありません。包みと袋とは用途が別なのです。ですから、のし袋にお金を入れるのは、本来、誤り。
ポチ袋を祝儀袋とするのも、間違いです。ポチ袋は、大阪で芸人に「これぽっち」と言って渡した祝儀が入れられていた袋です。最近は主流になってしまいましたが、二重の意味で間違っています。
礼法で使う紙ですが、もとは貴族と武家のものですから、一般の人は使えませんでした。しかし、江戸時代に入って幕藩体制になると、一気に普及します。紙づくりが農業の副業になったからです。それで折形も書も、一般に普及することができました。また木版摺りの技術が発達して紙の需要が大きくなりました。
農家での和紙漉きは副業ですから粗悪品が多かったのです。福井の越前などが今も産地として残っているのは、農家の副業ではなく、上質な紙を専門に御所や将軍家のために専門に漉いていたためです。紙屋紙(かんやがみ/官屋紙)とも呼ばれる専用紙です。公的な紙製造部門である紙屋院(かんやいん)では、朝廷などの用向きに充てる和紙や中古和紙である漉返紙(すきかえしかみ)などがつくられました。
江戸に近い所でいえば、山梨の市川大門。600人の紙漉職人がいたといいます。もとは武田信玄の工人でしたが、後に家康の専用紙となりました。ここでつくられていたのが肌吉紙(はだよしがみ)。私もオーダーメイドでつくってもらっています。
紙の最高位が紙屋紙とすれば、暮らしに一番身近な紙は典具帖紙。幻の和紙といわれる土佐の典具帖紙は、上等な鼻紙です。同じような薄紙は、吉野でつくれば吉野紙といわれ、京花紙という美しい表現もされました。何度も乾かして、ときには水洗いして、繰り返して使いました。
枕紙にも使われ、遊郭では遊女にも格がありましたから、一番上の遊女が使った枕紙を、洗って乾かして、次の位の遊女にお下がりとしていった。それを何回か繰り返して、最後には漉き直して落とし紙にしました。大福帳や写経紙なども、真っ黒になるまで使うと漉き直して、漉返紙にしました。
遊郭の入口にある浅草では、枕紙を大福帳などの古紙と併せて落とし紙に漉き返していました。水洗トイレが普及されるまで使われていたネズミ色の紙が浅草紙でした。地名と由来から来た紙の呼称です。
典具帖紙は、イタリアでは壁画の修復にも使われています。タイプライターのカーボン紙の後ろにも使われていました。あれだけきつく打たれても切れない丈夫な紙。もともとは、漆の濾し紙としても使われていました。
紙は徹底的に使い回され、リサイクルするのが基本でしたが、祝い事は一生に1回のことですから、使い回ししないで燃やします。燃やすというのは、土に還すという意味です。伊勢神宮の神様の食器は泥土器(どろかわらけ)ですが、毎食割って土に還します。ですから、使い回さない場合でも、土に還して無駄にはしませんでした。
私が企業のマーケティング業務から折形礼法の世界に転じたのは、すべての価値観がお金になっていく中で、ないがしろにして、失ってしまった大切なものにもう一度光を当てたいと思ったからです。両方の価値観がわかっている立場から私が語ることで、少しは耳を傾けてくださるのではないか、と期待しています。
今の時代には、材料から時間をかけてつくる和紙は、採算が合わないと敬遠されます。しかし、海外に持っていったら、この良さを生かせるプロデューサーはいっぱいいると思います。
引っ越しの挨拶に行っても、拒否される時代です。他人とかかわることを拒否する社会だから、いざというときの支援もない。だから、知恵も伝承される機会が少なくなってしまいました。
一方、江戸時代というのは安定した平和な時代でしたから、余裕ができて知恵が伝承されました。町民の暮らしには、無駄がまったくありません。リサイクルとかリユースではなく、徹底的に使い尽くすのです。東北で見つかったどてらに、ツギが650枚も当てられていた、という報告もあります。よほど上等なものなら現代でもカケハギもするかもしれませんが、それだってせいぜい1回ぐらいなものでしょう。そんな手間をかけるまでもないような質のものなら捨ててしまいます。それを650枚も継ぎを当てて、地の生地が見えないぐらいになっても捨てない。大切にする。
鍋の鋳掛けやキセルの修理、漆の塗り替えなど、町中には、修理して使い続けるための仕組みが機能していました。しかも、絶対に手抜きをしない修理法です。万が一手抜きをしたことがわかってしまったら、顔が見える関係ですから何代後になっても恥になるからです。信頼関係に根差した、知恵にあふれた暮らしです。
私はそこに戻れとは言いませんが、少し捨て過ぎている気がします。それは、自分たちが持っている宝に気づかずに、西欧的な価値観に染まってしまったからなのではないでしょうか。だから、私は「日本人の顔をした西洋人」と表現するのです。
例えば、日本人の間合いは90cm、西欧では120cmです。西欧で120cmの間合いを取るのは、手を出しても届かない距離を取るためです。日本人は究極のコミュニケーションを取れる距離として90cmまで近づく。そもそも発想が違うんです。私自身、外国に長くいましたから、その違いがわかります。しかし、ふと帰ってきたくなったのは、日本の価値観の良さがわかってきたからです。
折形礼法には、日本で醸成された感性や発想が凝縮されています。これを学ぶことで、生き方を見直すきっかけになれば、これに勝る幸せはありません。
みんなが、消費者から利用者になってくれることを願っています。
(取材:2012年4月12日)