長島、大垣は、ともに木曽三川によるデルタ地帯に広がる輪中の地として知られる所。輪中といえば、小学校のときに習った「堤防に囲まれた、水屋のある家々」を思い出すが、実はそんな数行の説明では語りきれない、多くの示唆に富んだ歴史の舞台でもある。 三重県長島町「輪中の郷」で、古くから伝わる輪中の智恵を伝えている諸戸靖さんと、岐阜県大垣市で「大垣輪中」というホームページを作り上げた、大垣市立赤坂小学校教諭の近藤満さんの働きを通して、現代に生かせる輪中の智恵を学びたい。
編集部
岐阜県大垣市立赤坂小学校教諭
近藤 満さん
三重県長島町「輪中の郷」
諸戸 靖さん
輪中という言葉だけなら、おそらく誰もが知っているにちがいない。小学校の社会科で、知識としてなら記憶に止めているからである。しかし、「輪中て何?」と改めて子供から質問されたとき、正確に答えられる大人はあまりいないのではないだろうか。
輪中とは、「低湿地にある集落と農地とを含む囲堤(かこいづつみ)を持ち、外水や内水を統制する水防共同体やその範囲」と定義されている。つまり、堤防に守られた「土地空間」と、それを守る「人々の協力組織」の両方を表す言葉なのである。
長島町「輪中の郷」に務め、長年調査や解説役を務めてきた諸戸靖さんは、見学に来る子どもたちに「輪中とは、住む人が手をつないで輪になって守ってきた所」と説明するそうだ。
長島町は長良川、揖斐川と木曽川の両河口にはさまれた中州のような地域で、人口約1万5千人の町。ゼロメートル地帯の土地に農地が広がっているように見えるが、今や第一次産業に携わるのは全就業人口の1割にすぎない。
長島という地名からもわかる通り、戦国時代末期、ここは文字通り島であった。河口の物資集散地として、また一向一揆の拠点として知られるが、織田信長が攻めたということは、長島町が富と力を蓄えた要地であったという証しでもある。
「輪中というと、堤防に囲まれた土地と小学校では教えられますが、それは正確ではないと思います。堤防内側ではなく、堤防の上に人々が居を構え、内側に田畑を作った。堤防で囲まれた土地がだんだんとつながっていくと、輪中は広がり、もともと堤防の上に立っていた集落が列状に残るわけです。そして、江戸時代までには、長島の原型が形作られました」と諸戸さんは言う。
確かに、航空写真を見ると、集落の形状と堤防の形がくっきりと重なる。車で町内を走ったとき、ずいぶん道が細いなと感じたのは、実はかつての堤防の上に載った住居群だったのだ。
なぜこのような低地で、常に洪水の危険にさらされながら、人々はわざわざ堤を作ってまで移り住んだのだろうか。
「水に困らない土地というのは、生きていく上で最も重要な問題が解決されているということ。このあたりは砂地で水はけが良い。洪水の危険はありますが、それは同時に上流から土が運ばれてくることでもある。肥沃な土地ということです。江戸時代には、一反(991・7m2)あたり3俵から5俵の米が取れました。洪水の翌年は、それが倍以上に増えたといいます。それだけ、恵みを運んでくる川だったのです。しかも三年一作、五年一作といわれ、3年に1回の収穫で豊作、5年に1回収穫できたら並、といわれるほどのペースで食糧から種籾までをまかなっていたのですから、収穫量は大変多かったのです。
さらに、このあたりは水運の要地で商業も盛んだったはずです。陸上輸送が盛んになるまでは木曽檜も運ばれていましたし、揖斐川町や、恵那からも荷物が運ばれてきたようですからね」
長島は、さまざまな恵みを受け取りやすい土地でもあったようだ。
とはいっても、江戸時代にはたびたび輪中堤が切れ、田畑が水に浸かった。
「確かに、大変な苦労だったと思います。堤防というのは、いきなり切れるものではなく、決壊しそうになると、堤防の内側から水が染み出てきます。この段階になったら、みんな避難します。洪水も一挙に濁流に飲み込まれるというのではなく、徐々に水が寄せてくるというものです。ですから、長島には『堤防切れたら、イモ洗え』という言い伝えがあります。堤防が切れる兆候が出たら、水が来るまでの間に食糧の用意をしておけという意味で、その程度の時間的余裕はあったようです。これは長島の立地が河口に近いということがあります。上流でしたら当然状況は違ってきます。長島が河口に近いということでもうひとつ助かったのは、潮の満ち引きを利用できるということです。普通、田圃は水を引くことが問題となりますが、輪中では排水が問題になる。もっと上流の輪中では排水のための苦労がなされるのですが、長島では潮の干満で移動する淡水が利用できるため、他の地域よりは楽でした」
ここに暮らす人たちは、度重なる危機体験には、どんな意識で対したのだろう。
「こういう土地に住んでいる人間でないと、実感することは難しいと思いますが、水かさがどんどん増えてきたときに、対岸より1つでも多く土嚢を積めば、自分の土地、財産を守ることができる。どこか他で堤防が切れれば途端に水は引いて、自分の所は助かる。これは紛れもない事実で、輪中根性とも呼ばれます。そのため、堤を守るための共同意識は強固です。上流の輪中には水防小屋があり、危険が迫るとみんなが駆けつけるのですが、どんな事情であれ、その場に駆けつけられなかった者は罰則を受けます。
また、『力石』という成人儀礼があって、重い石や米俵をかつぎ、これを持ち上げられたら、共同体の一員として認められました。長島の子供として認められるにも、通過儀礼がありました。木曽川の中州のエビを採ってくるというテストなのです。中州まで片道約500m。これをパスできなければ、長島の子供にはなれないということです。
良くも悪くも、災害時の高揚感があることは事実です。普段は娯楽がない生活でしたから、日常の憂さを発散するために、遊廓や博打が盛んになるという側面もありました」
1896年(明治29年)のデ・レーケによる明治改修の後、この地域は1959年の伊勢湾台風による高潮まで、水に浸かることはなかった。約60年間水害から遠ざかり、多くの住民は「もう堤が切れることはないだろう」と思っていたという。そこに襲ってきたのが、伊勢湾台風だった。
伊勢湾台風は上流からの洪水というよりも、伊勢湾からの高潮被害が甚大で、それまでの体験を越えるものだった。台風が通過した9月26日、名古屋の時間雨量は40~70mm、最高潮位は5.81mを記録。26日午後8時30分ごろに、長島の堤防は13ヶ所で決壊、町内は大洪水となり、27日までには全町が水に沈んだ。
伊勢湾台風は最悪の条件が重なったことと、普通上流から切れる堤防が下流から切れたということで、今までの経験が生かせなかったため、被害も例外的に大きなものとなった。死者383名を出す大惨事で、当時水防番をしていた人は、「じわじわ来た水は防ぐことができる。ただ、伊勢湾台風のときの高潮は、山が落ちてきたように見えた。津波よりもはるかに恐ろしかった」と後で話したそうである。
長島には「堤防が切れたら、堤防に逃げろ」という言い伝えがある。堤防が一番高い場所だから、堤防上が一番安全なのだ。また、輪中では洪水が出たら雨戸を全部開け放つのが常識であったが、過去に水害の経験がなく、家を守ろうとして雨戸を内側から押さえていた人は命を失ったという。伊勢湾台風のときも、過去の教訓を知るお年寄りがいた家族では、大きな被害に至らなかったという。
「輪中の郷」の近くにある、水屋を持つ農家。
左上:正面左手、屋敷林で囲まれた建物が水屋。輪中の地面は砂地だったため、木が生えない。貴重な土を盛って作った水屋の土台の廻りに屋敷林を作ることは、薪の確保のためには至極合理的なことであった。
右:母家側から見た水屋。水が引くまでの間の生活必需品を、水屋に備えるのはもちろんだが、一番大切なのは種籾であった。
左下:裏手。
その伊勢湾台風からも、40年あまりがたった。長島町の堤防は、あれ以来さらに高くなり、1回も水に浸かっていない。堤防の横に建つ、建て売り住宅なども目立つようになってきているが、前の町長は、水防活動に支障が出るから団地などは造らない方針だった。名古屋のベッドタウンとしては都合のいい立地ではあるが、無責任に人口を増やすことを戒めている。
水防意識を育てるために、諸戸さんが大切と考えているものは何か。「1976年(昭和51)の安八水害の前と後では、水防意識が決定的に違います。これだけ水防意識が高いはずの地域でも、長い間水害が起きないと危機意識が薄れてしまうのです。ですから、まったく水害を経験したことがない人が移り住んできて、水防の意識も低かったらもしもの時に危険だと思います。
しかし、一番大切なことは、堤防を毎日見ること。いたずらに危機感を煽っても仕方がありませんから。毎日堤防を見れば、今どれぐらいの水位なのか、堤防の状態が変わりないのか、といったことがわかると思います。第二は、水害が迫ったら、他人をあてにせず、自分たちで何ができるかを考えてほしい。水防活動は、いざとなったら人海戦術。協力しようという意識が大切なんです」諸戸さんの懸念は、都市にも広がる。
「長島が特別な場所というのではないのです。都市でも同じことが言えるということです。特に、都市部では避難所が一番の低地に設定されていることなど、ざらにあります。国や業者の責任を追及しても、なくしてしまったら命も財産も戻らないのですから、自らの手で守らなくてはなりません。水がくる危険性のある場所ならばどこであれ、輪中の智恵で、もう一度水と対峙してもらいたい。輪中を水防共同体として捉え直すと、輪中の智恵は、全国の水防対策に貢献できるのではないでしょうか」
伊勢長島の上流にあたる輪中地帯が、水の都と言われる大垣市。揖斐川に程近いこのあたりは、現在でも毎年のように浸水被害に見舞われている。この土地で、「大垣輪中」という小学生向けホームページを制作、公開し、子供たちに輪中の智恵を伝えているのが、地元で生まれ育ち、現在は大垣市立赤坂小学校の社会科教諭である、近藤満さん。
ホームページは、「輪中マップ」「大垣を襲った大水」「水をおさめる」といったページから構成されている。輪中マップを開けると、大垣市内の地図をベースに、「水屋」「決壊碑」「水防倉庫」「水神」「伏せ越し」「排水機場」の位置が表示されるようになっており、クリックするとその情報が表れる。輪中文化を記した地図は、一種のハザードマップとしても解釈することができる。
「水をおさめる」では、清水五右衛門、ヨハネス・デ・レーケ、平田靱負(ゆきえ)、伊藤伝右衛門、金森吉次郎といった、治水に尽力した偉人の業績を紹介している。
なかでも、近藤さんが注目したのが、金森吉治郎(1864年~1930年)である。大垣市に生まれ、一生を治山治水に捧げ、1896(明治29)年の大洪水では、横曽根(よこぞね)の堤防の切り割りを決断し、8000戸の家と4000人の人命を救った人物である。1889年(明治24年)の濃尾地震による山林崩壊が大垣の洪水の原因となっていると考え、「水を治むるもとは山を治むるにあり」と、揖斐川上流の工事や山の植林を進め、1898(明治31)年には、森林法を作らせて1億8000万本の植林を行った。
近藤さんは、こう言う。「輪中根性をご存じでしょう。私は墨俣出身ですが、高校生のとき長良川が決壊し、まわりの大人が一瞬、フワッとした顔をしたのを覚えているんです。下流が決壊したので、ここは大丈夫だという安堵感が顔に出たのでしょう。それが良いことだとは決して言えないけれど、そういう気持ちを隠すのではなく、ほっとするのも人間、でも他人を思いやるのも同じ人間だと、子供たちに伝えていきたい」ただ、かつて「堤の高さ競いや、切り合い」の歴史があったように、目を広域の治水に転じたとき、輪中同士の折り合いをつける必要が出てくる。
「金森吉治郎は、大垣の洪水を救うために、上流の植林を進めました。議員をしていたので、目先の堤防の強化をすれば集票にも役立つはずなのにあえてそれをせず、大垣以外の治水のことも考えて、上流で小さな苗木を植えることから始める。未来に焦点を据えた、こういう生き方もあるわけです。輪中ではなく、水の都全体を考えるならば、もう一つ思いを高くして、高い次元から考えることがどうしても必要となる。それを、子供たちにわかってほしいのです」
近藤さんはHPを使って、金森吉治郎のケースを題材に、輪中について小学校4 年生に考えてもらったそうだ。みんなが悩んで出した結論は「今はよくわからない。けれど、これからなんとかしていく」。大垣市は都市化が進んでいるので、自分たちがどんな地域に住んでいるかが見えにくくなっている。子供たちは「水の都」としての地域を、蛍がいる、魚が棲む、水鳥がやってくるなどといったプラスのイメージでとらえているが、これも優れた先人の業績のお蔭だ。先人の智恵を見直すことで、子供たちにも住民としての意識を高めてほしい、と近藤さんは言う。
「輪中を例にすると、住む人の『感情』と、あるべき方向の『理解』という、両方を教えることになります。教科書には建前の部分しか書いていないわけですが、家に帰って、おじいさんに『なぜ大垣全体で、水を防ぐ協力できないのか』と尋ねると『そうは言っても?』と本音の答えにぶつかることになります。自分の地域を愛し、守ること。そして、なおかつ自分のことだけを考えない、という2 つの視点を持つことのできる大人に育ってほしいと思います」大垣と長島。同じ長良川、揖斐川の上流・下流といっても地勢は違い、輪中に居住する人々の考え方や協力関係、水防への眼差しも違ってくる。
良くも悪くも、「輪中根性」と呼ばれる地元に根付いたものの見方や慣習を知ることなしには、将来に向けた水防協力関係を作ることはできない。近藤さんの話は、この点をよく表しているようである。
昨年から総合学習が導入され、近藤さんが作ったホームページにも、大垣市の全学校でアクセスし、教材として使用できるようになっている。地区、地域の歴史、習慣や情報を蓄積して、アクセスした人が自分の目で情報を見直してみる。こうした作業にホームページは最適だ。近藤さんの作ったホームページは、子供たちだけでなく、家庭で大垣輪中のことを考えてもらうきっかけともなった。金森吉治郎が、広く長い視野で考えた水防を、現在はホームページを見た人々が、みんなで考えることができる条件が整ってきているのだ。
大垣が都市化したおかげで、いつのまにか自分たちの住んでいる土地が輪中の中にあるということを知らない子供や家族が多くいるという。そんな中で、ホームページによる大垣輪中の情報提供は、緊急時の対応を学ぶ上でも、大きな意味を持つことだろう。自分たちが水に浸かる可能性の高い土地に住んでいると知ったとき、子供たちは「自分で、どのように水害への備えをすればよいのか」考えるきっかけとなるだろう。輪中の智恵を伝えるという水の文化楽習は、水防文化を伝え、新しい時代の水防文化を創るきっかけとなっている。