農事組合法人〈きのこの里〉が設立して30年。農業の企業化は、経営を安定させ六次産業化を可能にし、カッコ良くて儲かる素敵な農家を増やしました。地域全体の発展・安定化に寄与する地域事業を続けてきたことが、生ゴミ堆肥や培養基屑による有機農業栽培やバイオマスプラントで循環型社会をかなえる住民パワーにつながっています。事業と暮らしを分断しない〈きのこの里〉のやり方は、農業経営と地域の在り方に、新しい道筋を示しています。
農事組合法人きのこの里理事長
水落 重喜(みずおち しげき)さん
1947年福岡県三潴郡大木町生まれ。1965年県立三池農業高校卒業、1968年農業者大学校入学、1975年同校卒業。1973年大木町、八町牟田営農組合代表、1985年農事組合法人きのこの里設立、理事長に就任。2008年JA福岡大城理事。
農事組合法人〈きのこの里〉は、筑後平野に位置する福岡県三潴(みずま)郡大木町にあります。福岡市中心部から60km、隣接する久留米市中心部から15km。東京なら立川や八王子といった感覚で、町の中心部を西鉄電車が通ることもあって、近年では都市のベッドタウンとしての性格も帯びています。
家もあって通勤に便利ですから若者は出て行かないのですが、農業後継者が確保しづらくなっています。
そこで私は、自分たちが「カッコ良くて儲かる素敵な農家」になって「素敵な田舎」をつくり、若者が農業の後継者になりたいと思うような仕組みをつくろうと思いました。私がこうした想いを抱いたのには、農業者大学校(注1)の1期生として学んだことが影響しています。
30歳代のころ、今よりずっと勉強をしていたしやる気もあった私が感じたことは、田舎社会というのは若者と女性の意見を聞かない所だ、ということです。それで私も不遇の時代を過ごしました。そんな慣習を打ち破らないと、農業も集落も衰退するという危機感を持っているときに、大木町で土地改良事業が始まりました。
(注1)農業者大学校
1968年(昭和43)東京都多摩市に農林省(当時)によって設立された農業の後継者とリーダー育成を主な目的とした教育機関。独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構の内部組織となってから、2008年(平成20)茨城県つくば市に移転、非農家出身者が増加した。つくばでの3期の卒業生は高い就農率であったが、2010年(平成22)行政刷新会議の事業仕分けにより廃止とされ、翌年閉校した。
当時の大木町は夏野菜がつくれないほど、小規模な洪水が度々起こっていました。私は土地改良事業で洪水をなくし、なんでもつくれる田んぼにしたいと理想に燃えていました。そして、農業と集落共同体の再生のためには、一集落一農場(注2)を実現して、共同経営による農事組合法人を立ち上げるべきだ、と考えていたのです。
ところが病気になって、志半ばで断念。そのとき、〈きのこの里〉の技術部長で創立メンバーの北島良信さんが「きのこは必ず儲かる。きのこで世の中を変えましょう」と言ってきたのです。迷いもあったのですが、やろうと決心して、1985年(昭和60)青年5人で農事組合法人として〈きのこの里〉を立ち上げました。
〈きのこの里〉では指揮命令系統はなく、それぞれが役割を分担しています。役員は同一出資、同一分配を基本にしてやってきました。共同経営だと仲間がいるから寂しくないし、休みもしっかり取れます。二次・三次産業部門をつくって連携させることで、六次産業化を目指すことも容易になります。
(注2)一集落一農場
集落営農の一形態。生産効率が悪い零細・自己完結型の農業からの脱却、及び継続的な農業生産活動を可能にするために、農事組合などの集落営農組織をつくって農業に従事するやり方。
農事組合法人を立ち上げた私たちは、次に女性が活躍できる場をつくろうと、女性の農事組合法人モア・ハウスという組織を1997年(平成9)設立させました。
モアの意味は、オランダ語の「モーア=母」であり、英語の「モア=もっと。さらに。それ以上」。つまり農家の主婦が人生の目標を持ち、本当にやりたいことを実現できるような環境をつくっていけるように、という思いを込めて命名しました。
農家の普通のお母さんたち4名による共同出資で、ブナシメジとアスパラガスの栽培を中心とした事業を開始。今は加工品製造に力を入れています。
現在は、従業員15名、数十名のパートの従業員もすべて女性で年商1億2000万円にまで成長しました。理事長は大藪佐恵子さん、うちの妻の増子も参画していますし、理事の松藤富士子さんは、あとで紹介するレストラン〈ビストロくるるん〉を2010年(平成22)にオープンさせ、代表取締役を務めています。
実は大木町は、今でいう六次産業化を昔から実践していました。
商品作物として価値の高い〈い草〉の特産地だった大木町では、特化することで一気にダメになる危険性を危惧はしていたとみえて、い草で花莚(かえん:編み込みで模様をつけた花ござのこと)をつくってハワイに売りに行ったりしています。北海道の農家が小豆の相場に一喜一憂したという話がありますが、大木町もい草の相場で一喜一憂しました。
寒いときに植えつけ、暑いときに収穫するい草は、海外から安いい草が入ってくるようになって衰退していきました。い草がダメになって米の価格も低迷する中、大木町の農業者は諦めることなく、イチゴやきのこやアスパラガスに活路を切り開いてきました。最近はネギが好調です。小さい町が生き残るための工夫を繰り返してきた地域なのです。
大木町でつくられるきのこはすべて、株式会社大木町種菌研究所で独自で開発した種菌を使っています。この組織は、JAが合併してJA福岡大城(おおき)になる以前は〈JA大木町種菌研究所〉だったのですが、合併後に株式会社化しました。北島良信さんが、きのこの里のグループ化にあたり、設備設計を担いました。
きのこの菌床栽培で使う培養基は、堆肥に利用できる掻き出し屑になります。1年に約2万t以上出る掻き出し屑を有効活用するには、アスパラガスはもってこいでした。これを堆肥化し、良質な土壌改良剤として地域の田畑に還元するシステムを構築することで、安心でおいしい大木町ブランドを推進できると考えました。
きのこの里総務部で設立メンバーの真崎萬次さんは、最初からアスパラガスを産地化するつもりで、1999年(平成11)6.8町歩(2万400坪)から栽培を開始し、モア・ハウスにも1町歩(3000坪)受け持ってもらいました。
半分はモア・ハウスの直営で栽培し、残りの半分は1反歩(300坪)ずつに分けて素人の人につくってもらおう、と考えました。
農業用ハウスをつくって苗を植えた状態で引き継いでもらって、かかったコストは10年間で償還する、という仕組みです。このやり方を考えたのは、農業経験のない女性が始めるときの敷居を低くしようと思ったからです。結局、応募は3人でしたが、農業への想いを共有する仲間を増やすことができました。
ある研修に行ったときに、レインボープラン(注3)推進協議会の菅野芳秀さんがバイオマスプラントの講演をしてくださいました。
農家と消費者が循環的な関係性を取り戻すという山形県長井市のテーマは、私たちの心を揺さぶりました。環境意識は、前々町長の石川隆文さんの時代から高まっていて、大木町でもすぐに取り入れようと決まったのです。トップが決断すればすぐに実現できるというのが、1万4000人の町の良いところです。そのときの担当課長だった石川潤一さんが今、大木町の町長になっています。
最初のプランは、生ゴミを回収して液肥にして農業に活用する、というところまで。その考えを実務担当の境公雄さんたち役場の人たちが発展させてくれました。〈ゼロウエイスト宣言〉まで持っていったのは、大木町役場の担当者たちの力です。
レストラン〈ビストロくるるん〉を始めたのは、レインボープランの一環です。循環的な関係が大きな環になるために、地域の食材を使ったレストランの存在が必要だったのです。消費者である都市住民が出した堆肥原料(生ゴミなど)で土づくりに参加し、その土でつくられた農産物を材料にして食事を提供する―その理念には賛同したのですが、「ゴミ処理場の横で食べものを扱うなんて」という反対の声が多く、かくいう私も懸念した一人です。しかし、蓋を開けてみると、臭いも虫の心配もなく、大人気のレストランに成長しました。
(注3)レインボープラン
山形県長井市のバイオマスプラント「レインボープラン」の正式名称は「台所と農業をつなぐながい計画」。名称が示す通り、作物の消費者である都市の住民は堆肥原料である生ゴミの分別という役割を通じて農業の土づくりに参加し、農家は単なる食料の生産者ではなく、堆肥の消費者という役割を担い、循環的な関係性を取り戻すことを目指している。
大木町の仕組みのいろいろは、トータルではオリジナルになっているけれど、一つひとつはよそ様から教えていただいた知恵の集積。
バイオマスプラントは、山形県長井市が進めていたレインボープランだし、ビストロくるるんも、〈ぶどうの樹〉の代表取締役 小役丸秀一さんがお手本です。
敢えて言えば、「農村を現代社会の中で安定化させるために、経営も収入も栽培技術もボトムアップしなくてはならない」、そう考えて組織を設計してきたことが、大木町のオリジナルかもしれません。
大木町の農産物は海外にも需要があって、香港などへの輸出も伸びています。グループ企業で20〜30歳代の若手が経営する(株)秋香園の販売部長の大藪耕士さんが「TPPも恐れるに足らず」と言うぐらいです。産業には流行り廃りがあります。農業も一時期は衰退しましたが、これからは、やり方次第で夢を抱ける産業になると信じています。
我々が恵まれていたのは、骨惜しみせずよく働くという先祖からのDNAと、理想を実現しようと一緒に夢を見られる仲間がいたこと。ゴミの分別や生ゴミの回収ができるのも、そういう素地を住民のみんなが持っていたからだと思います。
共に支え合うのは、人間社会にとって当たり前のことですよね。それが現代社会では、競争という面があまりにも強くなり過ぎて、歪みが出ているのだと思います。
競争も大事なんですが、偏ることが歪みを生む。そのバランスをうまく取れるのが、分業と協働を目指す協同組合方式だと思っています。それは社会の最小単位である夫婦の在り方も同じです。
共同経営のメリットはたくさんありますが、一番のメリットはセーフティー。病気になったり亡くなったりしても、個人経営のときのような大打撃になりません。例えば4人で始めたとしたら25%ずつの責任、と考えるのではなく400%の安心と考えることができる、と私は思っています。だから冗談で、「3人まで死んでも大丈夫」と言っているんです。
都市部の農家は小規模なところが多いですが、だからこそ共同経営を行なうことで、仲間が増えたり農業経営の可能性がふくらんだりといった展望が拓けるのではないかと思います。
(取材:2013年12月9日)
増え続けるゴミの焼却費用や老朽化した処理施設の建て替え費用などは全国的な問題です。大木町では早くから生ゴミの資源化を模索しており、2000年(平成12)には新エネルギービジョンの策定をして、生ゴミのメタン発酵計画を具体化しました。また、2007年(平成19)1月にし尿の海洋投棄が禁止となる中、し尿や浄化槽汚泥も地域の資源として活用する選択をしました。これらは、安易な廃棄や焼却をやめ、現在ゴミになっているものを地域資源として活かそうとする考え方であり、資源ゴミの分別を含む住民との協働作業として位置づけられました。
こうして2006年(平成18)11月に生ゴミ、し尿などを資源化するバイオマス施設〈おおき循環センター〉が完成しました。また2010年(平成22)には隣接地に道の駅が完成し、今では住民協働のシンボルとして、また循環のまちづくりの拠点となっています。
今のように無駄を出さなかった時代には、資源の循環が実現していました。そういう先人の暮らしの知恵を学び現代に生かしていくために、また未来の子どもたちにつけを残さないためにすべての「ゴミ」の再資源化を行なうことを目指しています。2008年(平成20)3月には処理する「ゴミ」をゼロにする「大木町もったいない宣言」を発表しました。
この意識が浸透することは、ゴミの減量にもつながり、資源循環のシステムができ上がります。ゴミも分ければ資源になります。大木町では資源ゴミの25分別を行なっており、生ゴミ、プラスチック、紙おむつまで分別収集しています。
分別された廃油を軽油代替燃料(BDF)として利用し、自然エネルギーを活用するため太陽光の導入など、地域での省エネ創エネを実現しています。
町内から出た生ゴミ・し尿・浄化槽汚泥は、すべておおき循環センターに集められ、メタン発酵させます。そのときに生じたガスは発電利用し、消化液はバイオガス液肥(くるっ肥)として町内で使います。この肥料は年間約6000t程度生産されており、それを使って栽培された作物は町内で販売されています。また一部は学校給食としても消費されています。
これには、住民の方たちによる生ゴミの分別が大きな役割を果たしています。生ゴミは家庭用バケツで分別され、生ゴミ専用の大きなバケツに移し替えて収集されます。資源を分けることから始まり液肥でできた作物の消費まで行なうという、こうした循環は、住民の皆さんの協力の賜物です。
オープン当初は、まだバイパスも開通していなかったため車の往来も少なく、田んぼの中にポツンとあって「大丈夫なんだろうか」と不安に思ったこともあったという。しかも、隣の敷地に〈おおき循環センター〉があるので「廃棄物処理センターの横で食べものを扱うのはどうか」と疑問視する声もあった。ところが始まってみたら、臭いもまったくなく、本当に多くのお客様に恵まれたそうだ。
「高速道路で1時間とか1時間半というのは、良いドライブコース。福岡はもちろん、大分、熊本からも来られます。マスコミも単にレストランとしてではなく、コンセプトや地域を元気にしている施設という観点から取り上げてくださって、掲載される度に新たなお客様が来てくださいます」と、共同経営者の中島陽子さんは言う。
食材はできるだけ地元産のものを使っている。敷地内に農協の畑があり、直売所も隣接しているので、新鮮な野菜が常に手に入る。レストランにかかわるのは農業をやっている人が多く、せっかく生産されたものを無駄にするには忍びない、という気持ちでやっているそうだ。
レストランは、町の一般公募で選ばれた素人の女性3人が共同で経営している。出資金は2000万円で、代表取締役社長の松藤富士子さんが1050万円、中島陽子さんと店長の小林絵美さんがそれぞれ400万円、残りをレストランをプロデュースした小役丸秀一さんが出している。
私の家では、養豚、米麦をメインに多品目の栽培をしてきました。一貫経営だった養豚業を子豚の委託飼育に切り替えたことで、時間に余裕ができました。その余剰労働力を、アスパラガス生産に向けました。大木町がアスパラガスに取り組み始めた当初からの生産者です。
施設園芸を始めようと思ったら大きな初期投資が必要ですが、町役場や農協がそれをサポートして、若者や女性の農業者の働きやすい条件をつくってくれました。
また、栽培から出荷作業まで全部一人でやるというのは大変です。それで共選共販といいまして、小さな面積の畑でもやっていかれるし、若い農業者や非農家の人たちのように経験のない人でも栽培しやすいように、JAに持っていけば選別して販売してくれる環境が整えられています。
アスパラガスを始めたのは、自分で何かを立ち上げたいという思いが強くあったことと、その実現には自己資金が必要だということがわかっていたからです。アスパラガス栽培は資金づくりのために自分名義で始め、少しずつ預貯金を蓄えていきました。
ですからこのお話が出てお金が必要になったときも、自分で準備していましたから家族に相談しなくても決断することができました。大きなお金を出資したのですが、アスパラガス栽培で資金づくりを目指した経験が、レストラン経営に背中を押してくれたのだと思います。
レストランの経営者は、町の一般公募で選ばれました。公募といっても狭い町ですから、私の実家がエノキをつくっているとか、どこの誰なのかをみんなが知っています。大木町のサポーターで、何度も調査やアドバイスに入ってくださっている熊本大学の徳野貞雄先生流にいうと「個体識別」ができている地域なんです。
やってみて失敗したらまた考えればいい、と考えるタイプなので、レストランを始めるときに不安はまったくありませんでした。お蔭さまで、初年度から黒字経営で順調にいっています。
ビュッフェスタイルでおかずは25〜30種類ぐらいですが、飲みものやデザートまで含めると50種類ほど。各シーズンごとに、一人2品ずつメニューを持ち寄って試食するメニュー検討会を行なっています。
一番人気はころころエリンギです。度々、お客様からレシピを聞かれるので、3年目の節目の年にメニューブックをつくらせていただきました。
ここの料理は、基本的に家庭料理。4人の主婦たちが主要メンバーとしてつくっています。せっかく大木町にあるので、キノコや地元の野菜をふんだんに使っています。