川系男子 坂本貴啓さんの案内で、編集部の面々が109水系を巡り、川と人とのかかわりを探りながら、川の個性を再発見していく連載です。
筑波大学大学院
システム情報工学研究科 博士後期課程
構造エネルギー工学専攻 在学中
坂本 貴啓(さかもと たかあき)さん
1987年福岡県生まれの川系男子。北九州で育ち、高校生になってから下校途中の遠賀川へ寄り道をするようになり、川に興味を持ちはじめ、川に青春を捧げる。高校時代にはYNHC(青少年博物学会)、大学時代にはJOC(Joint of College)を設立。白川直樹研究室『川と人』ゼミ所属。河川市民団体の活動が河川環境改善に対する潜在力をどの程度持っているかについて研究中。
109水系
1964年(昭和39)に制定された新河川法では、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けるのではなく、中小河川までまとめて治水と利水を統合した水系として一貫管理する方針が打ち出された。その内、「国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定したもの」(河川法第4条第1項)を一級水系と定め、全国で109の水系が指定されている。
村石利夫編『日本全河川ルーツ大辞典』(竹書房 1979)によれば、名前の由来は諸説ある。①神稲(くましろ)=神 ②隠野(こもりぬ)=死者の隠れるところ ③クマ=荒ぶる ④地勢上から山深く生い茂った所=木間野。熊=隈 ⑤隈=僻陬(へきすう)すなわち僻地や未開地など
水系番号 : | 66 | |
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都道府県 : |
奈良県、三重県、和歌山県 |
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源流 : | 山上ヶ岳(標高1719m) | |
河口 : |
熊野灘(太平洋) |
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本川流路延長 : | 183km | 14位/109 |
支川数 : | 103河川 |
37位/109 |
流域面積 : | 2360 km2 | 26位/109 |
流域耕地面積率 : | 0.6 % | 108位/109 |
流域年平均降水量 : | 2680 mm | 16位/109 |
基本高水流量 : | 1万9000 m3/ s | 3位/109 |
河口の基本高水流量 : | 1万9920 m3/ s | 9位/109 |
流域内人口 : | 4万7000人 | 87位/109 |
流域人口密度 : | 20人/ km2 | 103位/109 |
(基本高水流量観測地点:相賀〈おうが 河口から10.6km地点〉)
河口換算の基本高水流量 = 流域面積×比流量(基本高水流量÷基準点の集水面積)
データ出典:『河川便覧 2002』(国際建設技術協会発行の日本河川図の裏面)
第4回の川巡りには、熊野川を選びました。ぼくは川の市民活動について研究しています。川の調査に入るときには、地域の河川事務所を訪問して資料をいただき、その川の個性についてうかがったり、市民活動団体を紹介していただいています。ところが、熊野川は流域面積が2360km2で遠賀川の倍以上広いにもかかわらず、なかなか市民活動団体を見つけることができませんでした。
流域の土地利用は森林が約95%、水田や畑地などの農地が約1.5%、宅地が約0.5%、その他が約3%。しかも流域内人口密度は109水系中103位と非常に低く、下流の一部にしか見られない平野(新宮市)に、流域人口のほとんどともいえる4万人近くが住んでいます。流域の人口が少なく、川と直接かかわることが厳しい地形が、市民活動を難しくしているのかな、と想像しました。
やっと出合えた市民活動団体は新宮の〈河川を美しくする会〉で、1982年(昭和57)に新宮市の周辺を流れる河川を美しくすることを目的として結成されました。新宮市婦人団体連絡協議会など22団体、137の町内会が加盟する大規模な団体です。毎年7月第一日曜日に、500人ほどが河川清掃を行なっているそうです。
今は水質も良いので「河川をきれいに?」と思いましたが、取りまとめをしておられる堀種藏さんと中岸基英さんによれば、
「世界遺産になって10年経ち、みんなの意識が川に向かったお蔭か、だいぶきれいになりました。十数年前には、それほどきれいではなかったのですよ」
ということです。
新宮市は熊野速玉大社(通称、新宮)の門前町として発展し、江戸時代からは城下町として栄えました。紀伊国は木の国と呼ばれるほど材木の商いが盛んでしたから、熊野速玉大社には寄進した材木商の名前が残っていました。中岸さんによれば、神社に向かって左側に花柳界があったそうです。
新宮前の一画に、面白い建物がありました。お店の方に話をうかがうと、明治末期から大正時代にかけての最盛期に使われていた〈川原家(かわらや)〉と呼ばれる簡易住宅を復元したものだそうです。地元の新宮高校建設工学科の実習で復元したのがきっかけで、土産物店などが営業する〈川原家横丁〉ができました。
しょっちゅう水に浸かった新宮では、大水がありそうなときには2時間ほどで店を畳んで部材を持って避難し、水が引くと同じ場所に建てることができる折り畳み式の仮設小屋を使っていたのです。
みなさんの記憶にも新しい2011年(平成23)の台風12号では、9月4日5時8分、河口から3.4km地点の相筋地区の堤防から越水し、新宮市内へと水が流れ出ました。新宮の社殿も水に浸かり、市内は機能麻痺に陥ったそうです。
熊野川大橋が架かる前、渡し船があったときのことも覚えているという堀種藏さんは、1931年(昭和6)生まれ。地震も津波も水害も何度も体験しているので、何かあったらすぐに避難する習慣が身についている、と言っていました。迅速な避難で命を守ることの大切さを、地域の子どもたちに語り継いでいるそうです。
熊野川では豊富な水量を生かして、現在は11のダムが開発されています。
ダムの機能は大きく二つに分けられます。一つは治水機能。ダム下流への放流量が流入量を下回るようにして、下流部の水位上昇を低減したり、水位上昇のピークを遅らせたりしながら洪水調節を行ないます。
二つ目は利水機能。灌漑用水、上水道用水、工業用水、発電用水、消流雪用水などがあります。
熊野川の場合、流域のほとんどは人が住まない山間部であるため、他の河川のように、積極的な治水は行なわれてきませんでした。そのために11あるダムはすべて利水ダムです。また、利水についても水力発電に特化しています。
熊野川上流部(奈良県五條市大塔町)にある猿谷ダムも利水専用ダムで、発電用水、不特定用水(特に灌漑用水)を目的としています。国が管理するダムで利水専用は珍しく、本州では唯一です。こんなところにも、熊野川の特性が表われていますね。
猿谷ダムができた経緯は少し複雑です。戦後の厳しい食糧事情解決のために、1949年(昭和24)農林省(現・農林水産省)は〈国営農業水利事業〉を計画。これに伴い、水不足の恐れがある奈良盆地に灌漑用水を供給するという300年来の悲願〈吉野川分水構想〉が、現実味を帯びて浮上してきました。その結果、〈十津川・紀の川総合開発事業〉として、紀の川(奈良県側の名称は吉野川)の水を奈良県へ分水することになりました。
人口でみると、熊野川は流域全体で約4万5000人なのに対し、紀の川は67万人(調査基準年平成17年度末)。降雨量が少ないのに水需要が高い紀の川は、吉野川分水によって水不足が懸念されます。その解決案として、紀の川に熊野川の水を送るためにつくられたのが猿谷ダム。いわば、水のお裾分けなのです。
猿谷ダムに蓄えられた熊野川の水は、坂本分水路を通って流域を越え、紀の川水系大和丹生川(にゅうがわ)へ導水されています。運ぶ途中の分水路の落差を利用して、発電も行なわれています。
熊野川には治水機能を持ったダムは一つもありません。利水専用ダムに治水機能が無いというのは、ダムに貯水できる全容量のうち、洪水調節のためのポケット(余地)がないということです。
しかし近年、多発する集中豪雨で大きな被害をもたらしている背景もあり、河川管理者とそれぞれの利水専用ダム管理者が協議して〈治水協力協定〉をつくりました。利水のために貯めるポケットの一部を一時的に空けてもらい、そこに洪水を貯めて受け止めるという作戦です。猿谷ダム以外でも、電源開発の風屋(かざや)ダム、池原ダムが治水協力を行なっています。利水専用ダムを、積極的に治水運用した事例は全国初ではないでしょうか。
国土交通省近畿地方整備局紀の川ダム統合管理事務所猿谷ダム管理支所長の小原雅彦さんのお話では、例年9月1日から15日の期間は水位を下げて、100万m3のポケット容量を備えておくそうです。灌漑期間が9月15日に終了するので、台風シーズンにあたる9月15日〜10月31日までは、流量が1000m3/sを超えるような降雨、大型台風が予測されるときに水位を下げて対応しています。
利水ダムにとって、水は電力生産や農業生産、工業生産などに変換できる資源ですから、利水のために貯めるポケットを、一時的にせよ空けてもらうことはお金を捨てることと同意義です。それにもかかわらず、利水専用ダム管理者が治水に協力すると申し出てくれたことは、全国でも稀な事例で、すごいことだと思います。
気象庁発表によると、2011年(平成23)9月の台風12号では8月30日から雨が降り始め、9月3日10時ごろには高知県東部に上陸して中国地方を北上したため、紀伊半島に上陸はしなかったものの大雨をもたらしました。8月30日18時〜9月4日24時の累積雨量は1493mmに達し、1年間で降る雨の3分の1が、わずか6日間で降ったことになります。
熊野川上流部には大規模な土砂災害、下流部には大きな浸水被害が発生しました。
大規模な深層崩壊(土壌の下深くの岩盤ごと崩れ落ちること)も多発して、紀伊山系全体で約1億m3もの土砂が流れ出しました。これは1889年(明治22)以降歴代4位の崩壊土砂量ということで、いかに大きな崩壊であったかがわかります。
その現場の一つ〈赤谷地区〉を、国土交通省近畿地方整備局紀伊山地砂防事務所建設監督官の後藤彦幸さんにご案内いただきました。
災害現場を実際に見て、言葉を失いました。まるで別の星に降り立ったような風景が広がっていました。
後藤さんによると、本来は都道府県管理の箇所ですが、2011年(平成23)に土砂対策防止法(土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律)ができて、大規模な土砂災害が急迫して、特に高度な技術を要する土砂災害については国土交通省が直接、緊急調査を行なえるようになったそうです。
「それで各地方整備局からそれぞれの専門の精鋭スタッフをかき集めて、緊急災害対策派遣隊(TEC−FORCE:テックフォース)が組織され、災害現地に入りました」
赤谷地区では、大量の土砂が河道に流れ込み川を塞いだため、天然ダムが形成されています。
ダムの堤体をつくるときは、強い岩盤を基礎にコンクリートで立ち上げて、堤体を超える水量があっても壊れないような強度に設計されています。
しかし天然ダムの場合は、なんの処理もされていない土砂が溜まっているだけ。赤谷の場合、厚さ80〜90mほど積もった不安定な土砂に上流からの水がどんどん溜まっていきますから、一気に土石流になる恐れがあります。土石流の流れを計算すると、ここから4〜5km先まで到達することがわかりました。
「台風がくるたびに今でも斜面が崩れています。168号線が分断されると、十津川村は奈良への交通路が断たれてしまいますから、天然ダムの水抜きと浸食を抑えることが急務です。具体的には水路護岸を行ない、崩れてきたものを受け止めるように砂防堰堤を複数つくっています」
とのことでした。
山体がごっそりと崩壊した傷痕は、ぼくには山に棲む龍が大暴れをしたようにも見えました。人の力では成すすべのない惨状に、自然の脅威を痛感しました。
「紀伊半島というのは太平洋プレートで押し上げられて隆起してできた半島です。隆起と浸食のバランスが良ければ山の斜面がなだらかになるのですが、紀伊半島は隆起のほうが勝っている上、プレートに押されて隆起した地質なので、ひびが入って崩れやすいのです」
と後藤さんが教えてくれました。調べてみると、紀伊半島の地質は北から南へ三波川帯、秩父古生層、四万十累層群とに区分されます。
北山川の大部分は秩父古生層に、熊野川では四万十累層群となっていて、性質も異なるそうです。実際に斜面崩壊が多数起きたのは熊野川筋のほうで、北山川筋ではほとんど発生しなかったことからも両地質の差を確認できます。
熊野川の最下流域の国管理区間は、河口から5kmで、1959年(昭和34)伊勢湾台風の洪水実績流量をもとにして、基本高水流量が設定されています。
基本高水流量が1万9000m3/s(河口から10.6kmの相賀〈おうが〉地点)というのは吉野川、利根川に匹敵する日本有数の流下能力ですが、2011年(平成23)の水害では、これをはるかに越える2万4000m3/sの水が流れました。日本有数の流下能力のある大河川でありながら、川から水があふれたことは、今回の洪水がいかに大きかったかを物語っています。
近畿地方整備局紀南河川国道事務所の由井伸直(のぶなお)さんによると、当時の熊野川の流下能力は、実際には1万2000m3/s程度だったので、河川激甚災害対策特別緊急事業(いわゆる激特事業)の指定を受けて、河川整備計画に定められた基本高水流量1万9000m3/sまで流下能力を上げることを目標に工事を進めているそうです。
熊野川流域はほとんどが山間部で遊水地に適した土地もなく、河道掘削や築堤などを中心に河川改修を行なっています。掘削する土砂は、約470万m3です。
熊野川は洪水だけでなく、河口閉塞の問題も抱えています。流れる水の量が少ないと河口を塞ぎ、流下を妨げる原因にもなるため、常に目を光らせています。
「熊野川は土砂の生産量が多い川で、堆積した土砂が河口を塞ぎがちになりますので、常にモニタリングしています。しかし、いったん洪水になると土砂はごっそり海に運ばれていきます。6000m3/s以上の流量があれば、河口を塞いでいる土砂も流れていくようです」
由井さんが「イメージで言うと、扇状地が海の中にあるような川」という表現が、とても印象的でした。
熊野川を有名にしたのは、平安時代の貴族たちです。上皇や貴族たちは、険しい山中、急流の川の道を往復1カ月ほどかけて、何度も参拝しました。
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ行くには、都から熊野九十九王子(くじゅうくおうじ)を経て山中の本宮大社へ詣でました。参詣道には小辺路(こへち)、中辺路(なかへち)、大辺路(おおへち)、紀伊路、伊勢路があり、これらの総称が一般に熊野古道と呼ばれ、2004年(平成16)〈紀伊山地の霊場と参詣道〉としてユネスコの世界文化遺産の指定を受けました。
上皇たちが使った参詣道は中辺路です。京から船で淀川を下り、現在の大阪市天満橋の辺りで上陸し陸路で紀伊田辺へ。そこから山越えで本宮に入りました。
新宮と呼ばれる熊野速玉大社へは、本宮から熊野川を舟で下って行きました。おそらく世界唯一の〈川の参詣道〉でしょう。新宮から那智山へは徒歩です。
今、ぼくたちが車やジェット船、特急電車を使っても、かなり厳しい行程です。箸より重いものを持ったことがない平安貴族が目指すには、よほどの覚悟がいったに違いありませんから、熊野詣でには高いモチベーションがあったのでしょうね。
熊野信仰について教えてくれた熊野本宮語り部の会会長の坂本勲生さんは、熊野川支流の大塔川(おおとうがわ)のほとりにある請川(うけがわ)中学校で教師をしておられました。大川と呼ぶ熊野川は、非常に大事な交通路であり、モノの行き来、人間の行き来の要だと、生徒たちに教えていました。米が採れない土地柄で、米も下流からきたそうです。
「塩、酒、醤油、味噌といった生活用品全般が下流から運ばれてきました。山から下ろしたものは、薪、炭、板材、割菜(サトイモの茎)などでした」
と坂本さん。1953年(昭和28)の7・18水害の経験も話してくれました。
「当時は学校の財政が乏しい時代。校庭の遊具が流されないように、必死で結びつけていたら、水が上がってきて校庭を囲む堤防も見えないようになっていました。泳いでいたら、蛇やムカデが流れてきて必死に私の身体に引っ付いてきたのです。陸に上がる前に、水中に潜ったら蛇もムカデも離れてホッとしました。
結局、遊具は全部流されてしまったので、苦労は報われませんでしたが、校舎にあったピアノは山仕事の人が助けに来てくれて、無事に守ることができました」
ところがその2カ月後に、9・26水害が起きました。坂本さんは新宮に出張中で、そのときは何もできなかったといいます。
「やっとの思いで手に入れた修理用の木材も、全部流されてしまいました。道路も分断されてしまったので、同僚と二人で自転車を手に入れて自宅を目指しましたが、自転車が役に立ったのは最初だけ。道は崩れるわ、倒木はあるわで、ほとんど担がないとならないような状態で、自転車はかえって足手まといになってしまいました」
(注)建武の中興とは
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、1333年(元弘3/正慶2)に開始した〈親政〉を指す。親政とは、源頼朝から始まった武家政治や院政に対して、天皇が自ら行なう政治のこと。
神仏習合
そもそも、日本の宗教の最初は自然信仰でした。森羅万象に命や神霊が宿るとして、神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象としたのです。本宮でいえば、熊野川の恵みとリスクを祀り、新宮はゴトビキ岩が最初のご神体。那智のご神体は大滝です。
ですから信仰の対象となった神様は、その地域の狭い範囲の氏神だったのですが、上皇たちに帰依されて、いきなり日本の歴史の中に組み込まれてしまいました。願い事も、狭い範囲からいっきに広がってしまい、「願いを全部、聞き届けられるか」という課題に突き当たったのです。
そのときに、修験道では当時外国から入ってきた新しい宗教である仏教に着目して、「仏さんと一緒にしたら全部の悩みを聞き入れることができる」と考えた、という説があります。
修験道というのは、自然神を包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教です。熊野三山は、修験道の修行の場となって霊山として信仰されました。
最初は新宮の位のほうが上だったのですが、本宮は神仏習合になったときに格が上がって 名神大社(みょうしんたいしゃ 古代における社格の一つ)になりました。山の中にある本宮の位が上がったのは、最初に必ず本宮に入り、新宮に行っても本宮に戻ってくるという位置にあると思います。付き添いで来たお供や妃は、本宮に留められますから滞在時間が長くなります。そういうことがあって本宮が賑やかになりました。
ちなみに足が3本ある八咫烏(やたがらす)は、熊野本宮ではスサノオノミコトの仕えとしています。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したとされ、『古事記』や『日本書紀』、『延喜式』にも記述があります。八咫烏は、日本サッカー協会のマークとしても有名です。
坂本さんによると、本宮と新宮は洪水と関係が深いといわれています。
本宮は、もともと熊野川と音無川、岩田川の中洲で大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる場所に洪水鎮圧のために祀ったのではないかといわれています。
1889年(明治22)の十津川水害で壊滅的な被害を受けたため、現在は、被害を免れた4社が高台へ移築されています。跡地であった大斎原には、流された8社を合祀した石祠と大鳥居が建てられていました。また新宮である熊野速玉大社の〈速玉〉は、川の流れの速さを表わしているのではないかといわれています。
このように熊野川は古より暴れ川であったことがうかがい知れますが、だからこそ畏れを抱く対象でよみがえりの力を持つと信仰されたのかもしれません。
熊野川流域だけでなく、紀伊の国は熊野三山以外の信仰も育みました。16世紀後半にポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、「宗教団体が四つ、五つあって宗教共和国のようだ」と表現しています。
高野山や根来寺、粉河(こかわ)寺、雑賀(さいが)衆の勢力は高い経済力と軍事力を擁して自治を行ないました。そのもとになったのは、豊富で良質な森林資源と海運。ときには脅威にもなる豊かな降雨が森林を育む源でしたし、海に浮かぶ大きな島のような紀伊半島とそこに流れる川は、舟運にとって高速道路のような存在だったはずです。陸中心に考える今のぼくたちの価値観では理解できない世界が、熊野にはあったのでしょう。
ぼくは、熊野川は水がきれいなだけでなく、河原の石が艶やかだという印象を持ちました。撹乱がしょっちゅう起こるので、常に動いて洗われているからでしょう。伊勢神宮に行くときに渡る五十鈴(いすず)川も石がきれいな川ですが、泥や苔がついていない石は、清浄さを感じさせます。そのことが穢れを浄め、よみがえりの力を増幅することにも役立ったのかもしれません。
(取材:2014年3月17〜19日)