機関誌『水の文化』48号
減災力

本間家の蔵が語る3・11震災

あの津波をしのぎ、奇跡的に残った明治生まれの土蔵。かつて、石巻で廻船業を営んだ名家〈武山家〉の跡を継ぐ本間英一さんは、土蔵をあの日のメモリアルとして残し、自宅を門脇地区に再建することを決意しました。当事者でさえ当時の記憶が薄れゆく現在、土蔵を「心に灯る灯火」としようと活動を続けています。

本間 英一さん

石巻ローンテニスクラブ経営
石巻若宮丸漂流民の会、石巻千石船の会
本間 英一(ほんま えいいち)さん

大地震が発生

14時46分、宮城県沖を震源とする大地震が発生。揺れは3分ほど続き、ついに懸念されていた宮城県沖地震がきたと実感しました。地震発生後20分ほどで津波がくると、何度か参加した研修で教えられていたので、すぐ準備に取りかかりました。

隣に住む母の家に寄り、居合わせた来客とともに日和山に避難するように促しました。自宅から懐中電灯、ラジオ、ろうそく、防寒着、腕時計を、海拔6mほどの所にある自営のテニスコート事務所に運び、記録に残すことの重要性を感じていたので、カメラを準備し動きやすい靴に履き替えました。15時50分ごろ家が壊れるバリバリという音がして、津波の来襲を知りました。テニスコート事務所に待機していた家族・知人9人と日和山に避難しました。石巻には珍しく、雪の降る日となりました。

私の住む門脇地区と南浜地区は、今回の津波で大きな被害を受けました。ご存知のように南浜地区は津波で、門脇地区は津波だけでなく、その後発生した火災によって壊滅的な被害を受け、私も土蔵1棟を除いてすべてを失いました。

両地区は、旧北上川の右岸河口部に位置する標高1m程度の低地です。地区の北側には、標高56.4mの日和山を抱きます。

門脇地区は、江戸時代に舟運で栄えた地域で、津方(つかた)会所や御舟蔵など造船関係の施設や御穀改所(おんこくあらためじょ)(米穀の出入りを監視する役所)がありました。

一方、当時の南浜には人家は存在しておらず、松林と湿地帯が広がっていました。明治時代の後期から大正時代になると、南浜地区でも開墾がなされ、桑畑や農場、水田として利用されるようになりました。1940年(昭和15)東北振興パルプが石巻で操業を開始したのを契機に、社宅などが建設され始めます。その後、1986年(昭和61)に石巻文化センター、1998年(平成10)に石巻市立病院など、市の基幹的施設が建設されるようになりました。

廻船業で栄えた石巻

近世から近代にかけて廻船業、金融業、醸造業を営み、石巻有数の資産家だった武山家の流れを汲む本間家は、門脇地区の日和山の麓にあり、2棟の住宅、2棟の土蔵、醸造蔵だった大きな倉庫と板蔵が並ぶ広壮な屋敷地を構えていました。

1993年(平成5)襖の下張りから大量の古文書が見つかり、斎藤善之さん(東北学院大学教授・NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク副理事長)によって〈武山六右衛門家文書 陸奥国石巻湊・御穀船船主〉(斎藤善之著・石巻千石船の会編 2006)として刊行されています(『水の文化』25号参照)。

石巻は北上川河口に位置し、ここから仙台藩の御穀米(藩米)が江戸に運ばれていました。一時、江戸の消費米の三割は御穀米といわれたほどで、武山家のように廻船業で財を成した資産家が生まれました。

石巻の礎を築いた千石船の歴史と文化を伝えるシンボルとして、市民の浄財を募って千石船の復元模型〈若宮丸〉を建造しましたが、武山商店の旧醸造蔵だった大型倉庫の倒壊とともに、残念ながら失われてしまいました。

残った土蔵

震災当初は押し寄せた瓦礫の山に埋もれるようになっていたため、すべての建物が失われたと思っていました。ところが瓦礫を取り除けてみると、前年の10月、外壁などを改修したばかりの土蔵が1棟、姿を現しました。

6mの津波によって1階天井付近まで浸水したものの、2階は窓から若干の海水が滲入しただけで、2階に置いてあった古文書や書籍、道具類はほとんど無事でした。

最初は土蔵を残すつもりでしたが、周囲の解体が進むにつれ、復興の障害になるのではないかと思うようになりました。そこで4月2日に解体することを決意し、史料を保存するため、NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク(以下、宮城資料ネットと表記)理事長の平川新さんに、文化財レスキューを要請。宮城資料ネットの会員を中心とした11人の方々によって、所蔵資料の保全活動(レスキュー)が実施されました。

取り壊さざるを得ないと諦めていましたが、「甚大な被害を被った門脇地区で瓦礫の中に佇む土蔵の光景は象徴的。この度の震災を後世に伝えるためにも、120年前の歴史の証人でもある土蔵を保存することはできないものか」という意見が平川さんから提起され、ともかく建築の専門家の診断をと、調査チームが結成されました。震災からわずか1カ月後の4月12日に実施された調査の結果、幸いにも基本構造には損傷はみられず部分的補修が可能である、とアドバイスされました。

現場では自衛隊による瓦礫撤去と被災建物の取り壊しが進んでいましたが、土蔵の取り壊しはひとまず回避することになりました。

もとより私も土蔵の解体は望んでいなかったので、修復に向けて努力しようと決意しました。瓦礫の中にポツンと建つ土蔵。この土蔵のたくましさを「被災地石巻の復興の礎にできないか」と考え、この土蔵を石巻の震災メモリアルとして保存継承していくことの要望書を〈石巻若宮丸漂流民の会〉と〈石巻千石船の会〉を発起人として、5月25日、亀山石巻市長へ提出しました。

9月24日の中間報告会には、約60名の参加がありました。募金は全国から寄せられ、最終的に370万円(234名)ほどになり、修復ができる金額に達しました。

現在も、家や家族を失くした人たちが避難所で苦しい生活を強いられています。助けを必要としている人たちへの直接的な生活の援助とともに、心の中に希望の灯火を持つことも大事なのではないか、と思うのです。

修復完了後、土蔵内部の展示資料パネルなどを作成し、2014年(平成26)4月から希望者に向けて一般公開をスタートさせました。それに先立ち、看板に刻んだのは次の言葉です。

(土蔵)は残った。
私が生まれたのは明治三陸大津波の翌年明治30年、
西暦で言うと1897年だった。
隣にあった同じ年の双子の蔵は
今回の津波のため
倒壊してしまった。
私は多くの悲劇を生んだ
この3・11の惨状を後世に伝えるために、ここに建ち続けるだろう。

  • 1897年(明治30)に建てられた双子の土蔵のかつての姿。

    1897年(明治30)に建てられた双子の土蔵のかつての姿。西隣に建つ片割れは壊れてしまった。建築の前年には三陸沖大地震と津波があり、2万人以上の犠牲者を出したこの未曾有の天災から得た知恵が、この土蔵にも生かされていたはず、と本間さん。

  • 厚みのある蓄音機の音が、土蔵の中に響く。

    厚みのある蓄音機の音が、土蔵の中に響く。

  • 土蔵に守られ、貴重な資料も難を逃れた。

    土蔵に守られ、貴重な資料も難を逃れた。

  • 1897年(明治30)に建てられた双子の土蔵のかつての姿。
  • 厚みのある蓄音機の音が、土蔵の中に響く。
  • 土蔵に守られ、貴重な資料も難を逃れた。

いつまでも忘れない

震災から2年が経過したとき、『本間家の蔵が語る3・11震災』という冊子を発行しました。

振り返ってみると、あまりに被害が大き過ぎて、現実を受け止めるのにとても時間がかかりました。生活の本拠地を瞬時に失い、かつて身近にあった必要なもの、便利なもの、ご先祖たちが残したものを失いました。どこに置いてあったかさえ鮮明に思い浮かぶのに、それらがすべて失われたことに思い至り、愕然とする。その繰り返しの3年半だったように思います。

冊子の編集を通じて感じたのは、忘れてはならないはずの当時の記憶の細部が既にかすんできている、ということです。しかし、過去のことにして忘れてはいけないことがあるのです。

この土蔵がなぜこの大津波を耐えることができたのか。そこには〈官〉に頼るだけでない、自立した石巻の〈民〉の知恵があったはずです。私たちは、それを後世に語り伝えていかなくてはなりません。たとえ私たちが、有限の命を終えたとしても、土蔵が伝え続けてくれるはずです。

時間が経過した今、被災地の実状は、行く末への不安へと移ってきています。復興に際して、石巻が石巻らしさを失わない魅力あるまちであり続けることが、行く末への不安を払拭する大きな希望につながると思います。

(取材:2014年8月12日)

PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 48号,本間 英一,宮城県,石巻市,水と生活,災害,水と自然,海,東日本大震災,津波,被害,土蔵,水害

関連する記事はこちら

ページトップへ