『てんじんき』3巻 (慶長[1596-1615]頃)巻中より。『てんじんき』は菅原道真(845-903)が神に祀られた由来を記した天神縁起を絵入り本にしたもの。写真は道真の怨念による雷神が天皇の住まい「清涼殿」に雷を落としているシーン
国立国会図書館蔵
現代の「妖怪学」の第一人者は、民俗学者・文化人類学者の小松和彦さんだ。小松さんは「日本ほど多種多様な妖怪の文化が花開いた国は珍しい」と言う。妖怪がマンガ、アニメ、ゲームに登場し、それが海外から「クールジャパン」と呼ばれ注目されているのは、日本古来の自然崇拝の信仰「アニミズム」と、仏画・絵巻などの内容や思想を説き語る「絵解き」の伝統が結びついた妖怪文化が背景にある。日本人にとって妖怪とはどのような存在なのか?
国際日本文化研究センター所長
小松 和彦(こまつ かずひこ)さん
1947年東京都生まれ。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。専攻は文化人類学、民俗学。信州大学助教授、大阪大学教授を経て現職。妖怪研究の第一人者。『妖怪学新考』(講談社 2015)、『知識ゼロからの妖怪入門』(幻冬舎 2015)、『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社 2008)、『憑霊信仰論 妖怪研究への試み』(講談社 1994)など著書多数。
妖怪も人間がつくり出した文化の一つで、きわめて広義な概念です。自分のもつ知識ではすぐに了解できない不思議な現象や存在、現代の言葉でいえば科学的・合理的に説明できない現象や存在を広く「妖怪」と呼んできました。「怪異」(現実にはあり得ない、異様なこと)とほぼ同義語なのですが、どちらかといえば怪異は現象を指し、妖怪はそれに形を付与した存在のことです。
例えば、山へ出かけたらなんだかわからない物音がする。明らかに人間が出している音ではない。すると、当時の人々のもつ知識に照らして、あれは天狗や鬼のしわざだ、となります。現象を引き起こしている原因として不可思議な存在を想定するわけです。あるいは、タヌキやキツネが化けているのではないかと、その地域社会のなかで神秘的な力をもつと言い伝えられている動物を、現実から探し出して原因とします。
天狗や鬼といっても姿形は見えない。「いや、見たんだ」「真っ暗闇のなかで鼻をつままれた」など、それぞれ経験談をもち寄って、こんな姿形ではないかという共通のイメージがやがてできあがります。しかし絵は特殊な能力がないと描けません。農山漁村に妖怪の話は数多く伝わっていますが、ほとんど絵は残っていない。せいぜい絵師に頼んで絵馬として描き神社に奉納したくらいです。
妖怪の絵は都の絵師たちがイメージを膨らませて描きました。例えば僧侶が布教活動のため絵師に頼んで高僧の一代記を紙芝居のような絵にして信者に説いたわけです。偉いお坊さんの生涯には、霊験あらたかにも不思議な力を使って鬼を退治した、といったエピソードもあるので、絵師はなんとかして鬼に姿形を与えなければなりません。鬼という言葉は『古事記』『日本書紀』にも登場するし『今昔物語』にも一つ目だとか鹿の頭をしていたとか、文章による記述はありますが絵はついていません。だから絵師は言い伝えを元に自らの想像力を駆使して描くしかないわけです。それが今に伝わりました。
目に見えない恐ろしいものに名前をつけて姿形を与えるのは、恐怖をコントロールする意味合いもあります。例えば節分の豆まき。誰かが鬼の面を被れば、その鬼に向かって「鬼は外、福は内」と豆をぶつけ、退治すればいいわけです。そうすると鬼が退散するから穢(けが)れがもち去られる。絵にしたり、お面にしたりして、見えないものを見えるようにするのは、人間が恐怖をコントロールして安心したいからでもあります。
元をたどれば、妖怪という漢字は中国で使われていました。宮中で天変地異や怪異現象が起きるとそれを妖怪と表した。なんと発音していたかはわかりません。日本でも平安時代の『続日本紀』などには「怪異」に近い言葉として見られますが、次第に使われなくなります。むしろ「もののけ」という大和言葉の方が一般的でした。「もの」とは、それこそ森羅万象、見えないものも見えるものも表すもっとも広い概念の言葉です。何か特定の事物を指し示しているわけではありません。「け」は気配ですが、むしろネガティブな「気」として「怪」の字をあてたりします。だから「もののけ」とは「なにかしらわからないけれど怪しい気配」。
江戸時代の草双紙(くさぞうし)にも「妖怪」の文字は出てきますが「ばけもの」とルビがふってあることが多い。明治時代に仏教哲学者の井上円了(いのうええんりょう)(注)が、怪異現象や化け物や幽霊などはすべて科学的に説明できると主張し、そうした非合理的な迷信全般を撲滅する対象として妖怪という言葉でくくって「妖怪学」を提唱しました。ですから、当時はまだ特殊な言葉でした。
しかしその後、『日本妖怪変化史』を著した風俗史家の江馬務(えまつとむ)や妖怪を民俗学の対象とした柳田國男に代表されるように、それを信じる信じないは脇に置いて、歴史に残る逸話や農村に伝わる民話のなかから妖怪にまつわるものを拾い上げ、日本人の文化の生きた証の一つとして記録し研究されるようになったのです。
(注)井上円了
雑誌『東洋哲学』を創刊するなど仏教と東洋哲学の啓蒙に努める。後に東洋大学となる哲学館を設立。迷信打破のために1894年(明治27)『妖怪学講義』を著し「妖怪博士」と呼ばれた。
柳田國男は妖怪を「零落した神霊」と捉えました。かつては人間に良き恩恵をもたらした神が、時代が下るにつれ人々の信仰心が失われた結果「妖怪」として立ち現れた。したがって河童は水神の、山姥は山の神の零落したものと考えたのです。
しかし『古事記』や『日本書紀』には、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)をはじめ、数多くの災厄をもたらす神霊、つまり柳田説でいうところの「零落した神霊」に相当する存在が記述されています。
周知のように日本には古来、自然崇拝の信仰がありました。あらゆるものにはそれを活気づけている魂があるとする「アニミズム」の伝統です。生きているものだけでなく、およそ名づけられるものすべて、言葉にさえも言霊(ことだま)という魂が宿っている。
その魂は擬人化されています。人間の喜怒哀楽と同じように魂にも喜怒哀楽がある。魂が喜び楽しんでいれば、その恩恵を分けてもらおうと神社を建て手厚く祀りました。逆に怒り哀しんでいると災厄を受けてしまうので、作物を奉納したり神楽を舞うなどして魂を鎮めたわけです。
妖怪とは怒り哀しむ魂が荒れ、祀られても鎮められてもいない状態と考えられます。どんな魂にも、人間に対してよい恩恵をもたらすか、悪い災厄をもたらすかの二面性があって、おそらく妖怪は悪い方の魂の側面を映し出したものなのでしょう。ですから妖怪を「零落した神霊」と考えるよりも、古代から人間に災厄をもたらす悪い神霊、「もののけ」的な存在として、日本人の文化のなかにあったと考えた方が自然ではないでしょうか。
水辺にまつわる妖怪となると、よく知られているのが「河童」。「河太郎(がたろう)」「猿猴(えんこう)」「かわそ」など、地方によってさまざまな呼び方があります。おそらく水辺に出没するサルやカワウソなどが、タヌキやキツネと同じように化けて人をだます霊力をもったもの、と考えられていたのでしょう。川や用水で仕事をする大人や水遊びをしている子どもの水難事故は、そのような動物の幻想化した存在が引き起こすというわけです。
関東から東北地方で使われていた河童という言葉が、それらをまとめる総称として江戸時代に採用されましたが、当時の本草学者(博物学者)には、中国に伝わる水辺の妖怪「水虎(すいこ)」という項目に河童や猿猴などを分類している人もいます。実際、青森県津軽地方など「すいこさま」という水神を祀る民間信仰が残されている地域もあるのです。
人手不足を補うため大工の棟梁が呪力で人形に生命を吹き込み、無事に建物が完成すると元の人形に戻して川に流したのが河童になった、といった逸話も残されており、河童伝説はさまざまです。
いずれにせよ、もしやいるかもしれない「雪男」や「ツチノコ」に類する〈未確認動物〉のイメージで江戸時代から捉えられてきました。
ただし、河童がもたらす災厄は日常生活のアクシデントです。もっと規模が大きく破壊的な水害は、大蛇や龍の化身した悪霊が引き起こす、とされてきました。大雨による洪水被害が頻発した岐阜県南木曽(なぎそ)町では古くから土石流のことを「蛇抜(じゃぬ)け」と呼んでいます。大蛇が走り抜けて山津波を起こすわけです。
時代が下るにつれて河童には滑稽なイメージも付与されてきました。絵画化することで恐怖をコントロールする意思も働いたのでしょう。現代では、日本水泳連盟が河童を公認マスコットキャラクターにしたり、「河童が棲めるきれいな川に戻そう」など、自然環境をないがしろにしてきた反省を促す水質再生のシンボル的な役割も果たしています。
日本ほど多種多様な妖怪の文化が花開いた国は珍しいと思います。あらゆるものに魂が宿る「アニミズム」の発想からすると、妖怪もどんどん細分化して一つひとつ名づけていく。
例えば朝鮮半島では日本の妖怪に近いものを「トッケビ」といいますが、それ以上あまり分けません。不思議な現象はだいたいトッケビのせいにします。ところが日本ではいちいち名前をつける。「小豆洗い」「べとべとさん」「砂かけ婆」「一反木綿」「ぬらりひょん」……などなど。
『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に登場する「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)」とは、百人の同じような鬼ではなく、違う姿形をした100種類の鬼です。中世くらいから鬼も細分化が始まり、丹波国大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)など、地域によって異なる鬼も伝わりました。
種類の多さも珍しいですが、それと同時にせっせと造形化したのも日本の特性です。その伝統は『妖怪ウォッチ』に至るまで連綿と続いているのです。漫画家の水木しげるは『ゲゲゲの鬼太郎』の敵役に多くの妖怪を登場させましたが、『百鬼夜行絵巻』や幕末の絵師、鳥山石燕(とりやませきえん)の妖怪画などを参考にしています。さらには昔話や民間伝承に登場する名前だけの妖怪にも姿形を与えた。それが広まり、多くの人が妖怪と聞けば水木しげるの絵を思い浮かべるまでになったわけです。
「アニミズム」と仏画・絵巻などの内容や思想を説き語る「絵解き」の伝統が日本のマンガ、アニメ、ゲームに多種多様な妖怪を登場させました。日本人は妖怪を媒介にしつつ、想像力を働かせてさまざまな文化を生み出してきたし、それが現代にも残っています。今、妖怪が豊かな文化資源となって世界にも発信されていることを、海外の日本研究者は羨ましいと言います。
空を飛べる魔法はありませんが、かつての人々は物語をつくって、そのなかで空を飛んだり、海底の竜宮で遊んだりしていました。つまり現実を潤すような夢の世界だったわけです。妖怪も同じです。もしも、私たちの世界から妖怪や妖怪にかかわるものは迷信だから一切使ってはならないとされたら、とても不自由でしょう。
だから、この世知辛い現実をひととき忘れ、空想の世界に遊ぶファンタジーとして私たちは妖怪を楽しめばいい。妖怪のいない世界なんて味気ないじゃないですか。
(2016年3月3日取材)