一勇斎(歌川)國芳『源頼光公舘土蜘作妖怪圖(みなもとのよりみつこうやかたつちぐもようかいをなすず)』(天保14[1843])。
熱病に伏せる源頼光(右端)が将軍・徳川家慶、手前の四天王が水野忠邦ら幕僚たち。
そして、屋敷に押しかけた無数の妖怪たちは天保の改革で犠牲になった町人たちに見立てられている 国立国会図書館蔵
時代が下り、江戸時代になると妖怪をフィクションとして楽しむ「妖怪文化」が発達する。それは畏怖の対象だった妖怪が「キャラクター化」した過程でもあった。そこで香川雅信さんに「江戸時代から現代に続く妖怪文化」についてお聞きした。妖怪の変遷には社会の移り変わりと、それに基づく人々の心の変化がきわめて密接にかかわっていた。
兵庫県立歴史博物館 主査・学芸員
香川 雅信(かがわ まさのぶ)さん
1969年香川県生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。総合研究大学院大学文化科学研究科にて妖怪に関する研究で博士号(学術)を取得。1999年4月から兵庫県立歴史博物館に勤務。「妖怪を必要としてきた人間(の文化)」を研究する。著書に『江戸の妖怪革命』(角川学芸出版 2013)、共著に『図説 妖怪画の系譜』(河出書房新社 2009)などがある。
2015年、神戸市立須磨海浜水族園で「水辺の妖怪」の特別展が開催され、私も講演しました。水辺の妖怪といえば河童や海坊主を思い浮かべますが、実在する魚が妖怪的に扱われることもよくあったのです。
例えばサメ。古くは鰐(わに) とも呼ばれました。「水面に映った影を鰐に呑まれるとその人は死ぬ」とか「海で船が進まなくなったら、それは鰐に魅入られたせいだ」といった話が各地にあります。
古来、日本人は自然への恐れや、理屈では説明できない事象への答えとして妖怪という存在を生み出してきました。江戸時代には、都市部を中心に妖怪をフィクションとして楽しむようになる。それが大衆文化としての「妖怪文化」に発展します。
興味深いのは、長く続く江戸時代で妖怪文化のあり方にいくつかの変遷があったことです。江戸の三大改革(享保、寛政、天保)が区切りになったと私は考えています。
まず享保の改革(1716〜1745)は、長く緩やかに文化に影響を与えました。八代将軍吉宗は、殖産興業政策を進め、その一環として本草学(博物学)を推奨し、全国に採薬使(注)を派遣して各地の物産を徹底的に調査させました。そうした科学的アプローチは、日本人の自然観を大きく変えたのです。
典型的なエピソードがあります。植村政勝という本草学者が、下野国の那須野に殺生石の調査に行ったときのこと。九尾の狐が化身したとされる殺生石は、近づく者を皆死に至らしめるという伝説で恐れられていたのですが、政勝はその殺生石を躊躇なくかち割り、自ら舐めて味をみて「普通の石だ」と結論づけたのです。自然はそれまで、信仰や伝説といった「意味」をもった存在でした。それを政勝は「物は物であり、観察できる要素の集合体でしかない」と見なしたのです。
こうして自然との接し方が変わってくると、人々は徐々に自然を恐れなくなります。それに伴い、自然の象徴だった妖怪の地位も落ち、「妖怪なんていない」という考えが常識になっていきました。ただし、このときの江戸の人たちは「いないけれどもいるということにして楽しんだ方がいい」と考え、妖怪を娯楽の対象として捉え直します。このおかげで18世紀後半に妖怪文化が盛んになるのです。
このころ刊行された鳥山石燕の『画図百鬼夜行』は、いわば「妖怪図鑑」のようなもの。それまで概念上の存在だった妖怪にわかりやすい視覚的特徴を与え、人々の好奇心を満たすユニークなキャラクターとして描きました。これを機に、妖怪は浮世絵や芝居、落語の題材としても使われるようになり、江戸の社会に妖怪ブームが起こったのです。
当時、特に人気があったのが、滑稽な化け物(妖怪)が多数登場する「黄表紙(きびょうし)」という大人向けの草双紙でした。これは滑稽絵本ですが文芸性が高く、作者も武士が多かった。黄表紙を多く描いた十辺舎一九や滝沢馬琴も実は武士です。黄表紙は知的な遊びや風刺のきいた内容なので、当時の妖怪文化の享受層は知識人たちだったことがわかります。
(注)採薬使
山野に分け入り、薬草を採集する人のこと。
この妖怪ブームに水を差したのが寛政の改革(1787〜1793)です。綱紀粛正で言論・出版に厳しい統制が加えられ、黄表紙は急速に衰えます。
一方、この時期は飢饉などにより貧しい人々が大量に江戸へ流入します。文化の中心は、圧倒的に人口が多い庶民に移ります。すると知的な笑いよりも、わかりやすくて刺激の強い娯楽が求められるようになりました。その結果、さまざまな仕掛けで観客を怖がらせる「怪談狂言」や、残虐な殺人や祟り、怪奇などおどろおどろしい表現を売りにした「合巻(ごうかん)」という草双紙が流行します。登場する妖怪に、もはや滑稽さはなく、人間を襲う不気味で恐ろしい存在として描かれました。「妖怪文化」の質が暴力的、見世物的なものへと変容していったのです。
また、『東海道四谷怪談』のように、庶民の厳しい暮らしをリアルに描く「生世話物(きぜわもの)」というジャンルが人気を博し、自然に由来する妖怪より、人間の恨みや情念を体現した幽霊の方が人々に受け入れられたのです。
三度、妖怪文化の転機となるのが、天保の改革(1841〜1843)。庶民の暮らしを厳しく規制しようとしたこの改革は2年足らずで失敗に終わるのですが、当時の人々は幕府に不満を募らせていました。そんな折に板行(はんこう)された『源頼光公舘土蜘作妖怪圖(みなもとのよりみつこうやかたつちぐもようかいをなすず) 』(一勇斎[歌川]國芳画、1843年[天保14])は、妖怪の姿を借りて庶民の怒りを表現した風刺画として大評判となります。あまりの人気に版元が恐れをなして自主回収するほど。しかし、その後も次々と似たような妖怪風刺画が出回るようになりました。
また、天保の改革では多色刷りの華美な出版物が禁止されたため、失敗後はその反動でいっそう豪華なものがはやり、浮世絵師たちがこぞってカラフルなおもちゃ絵を制作します。なかでも妖怪を題材にした「化け物双六」や「お化けかるた」、そして「化け物づくし」という一枚ものの妖怪図鑑が子どもたちに大人気となり、たくさんの種類がつくられました。
こうして滑稽で愛されるキャラクターを取り戻した妖怪は、大人から子どもまで誰もが楽しめる娯楽として、江戸末期に一つの成熟期を迎えたのです。
江戸の三大改革と「妖怪文化」の変容 | |||
---|---|---|---|
第一期 | 第二期 | 第三期 | |
時期 |
「享保の改革」以降 1716年(享保元)〜 |
「寛政の改革」以降 1787年(天明7)〜 |
「天保の改革」以降 1841年(天保12)〜 |
特徴 | 博物学的傾向、滑稽 |
怪奇趣味、 生世話(リアリズム) |
風刺、華美 |
代表作品 |
鳥山石燕 『画図百鬼夜行』 |
四世鶴屋南北 『東海道四谷怪談』 |
一勇斎(歌川)國芳 『源頼光公舘土蜘作妖怪圖』 |
享受層 |
武士、上層町民など 知識人層 |
庶民 | 庶民、子ども |
変化 |
恐怖の対象から 娯楽の対象へ |
妖怪<幽霊 矛盾を体現する幽霊が優勢 |
庶民=幕府を公然と皮肉る 風刺画が人気 子ども=おもちゃ絵によって 低年齢化 |
おもちゃ絵のブームが明治中ごろまで続いた後、妖怪は学問の世界で扱われるようになります。明治期には哲学者の井上円了が「妖怪学」を提唱し、大正・昭和期には、風俗史学や民俗学などが妖怪を題材に研究を行ないました。
再び多くの人たちの間で妖怪が脚光を浴びるのは高度経済成長期以降です。これは水木しげるの存在が大きいでしょう。1968年(昭和43)、『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメが放送されると大ブームが起こりました。
水木しげるに始まる現代の妖怪文化は「妖怪再発見」と言い換えてもよいかもしれません。その特徴は、エンターテインメントとアカデミズムが密接に結びついている点です。
『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくる妖怪の多くは、柳田國男の『妖怪談義』に紹介されたものです。水木しげるは明らかに民俗学の成果を利用し、それをエンターテインメントに昇華させているのです。その後、作家の京極夏彦さんがやはり民俗学の研究をベースに小説を書いています。アカデミズムとエンターテインメントに、ある種の共犯関係ができあがっている。そういう点で妖怪は他には見られない分野だと思います。
そうは言っても、妖怪は古いものだけではありません。共同体のなかで自然と生まれ、語り継がれるのが妖怪です。現代なら現代なりに、都市や学校という新しい共同体で「トイレの花子さん」や「口裂け女」などの新しい妖怪が生まれ、それがまた学問の研究対象にもなっています。
そして今、インターネットで妖怪話が次々と誕生しています。例えば「くねくね」などいろんな話がネットにはたくさん出回っています。
不特定多数の人がつながるインターネットの世界では、誰もが妖怪のつくり手、伝い手になり得る。これからは、今までと比べものにならないスピードで新しい妖怪たちが次々出現するかもしれませんね。
(2016年3月17日取材)