一級河川・安倍川流域にある森内茶農園。
雲や風の動きなどを観察して、経験をもとに天気を予想する「観天望気(かんてんぼうき)」には「こけら雲(うろこ雲)が西から出れば雨」など雲にまつわる言い伝えも多い。ところが天気予報が発達した今、生業に結び付けている事例はなかなかない。しかし、銘茶の産地として知られる静岡県には、雲や風の動きから天候を予測し、それを栽培や収穫に活かしている人々がいる。一番茶の収穫で忙しい静岡市葵区のお茶農家に、お茶づくりの過程における「雲による天気読み」を聞いた。
静岡市葵区
急斜面に植えられた茶の木に三方を囲まれたお椀の底のような場所で、「森内茶農園」の主、森内吉男さんにお話を伺っているとスマートフォンが鳴った。目がくらむような斜面の上方で女性たちと新茶を手摘みする妻・真澄さんから収穫作業についての相談だった。
「今日は、もう少し上の方まで摘んでもらおうか」。指示を出し終えると、森内さんは再びこちらを向く。
「昔は大声で伝えていたんですよ。この地形は声が反響して遠くまで通るから。内緒話をするときは、気をつけないといけないけどね」
森内茶農園は、静岡市葵区の内牧地区にある。同地区を含む安倍川流域は、起源が鎌倉時代とも伝えられる本山茶(ほんやまちゃ)の産地。江戸時代には将軍職を譲り隠居した徳川家康から愛され、駿府城に御用茶として献上されていた歴史をもつ銘茶である。
森内さんはこの地で九代続く茶農家だ。3haの敷地の7割を傾斜地が占め、収穫は斜面の上の方から行なわれることが多いという。
「内牧は低山に囲まれた盆地なので、山から吹き下ろす冷たい空気が溜まりやすい地形です。だから、冷気が留まらない斜面は茶の木の生育が早く、逆に底にあたる場所に植えた茶の木は生育が遅い。同じ品種でも摘採(てきさい)時期が2〜3週間も違うのです」
森内さんは、今ではあまり見なくなった手摘みを一部用いるなど、手間をかけたお茶づくりに取り組む。その一環として、風向きや気温、地温といったその土地固有の気象条件「微気象」(注)を熱心に研究している。微気象には茶葉の品質向上につながるヒントが潜んでいるからだ。
「摘採の時期は、特に雨に敏感になります。その雨の到来を知らせてくれるのは雲なのです」と森内さんは言う。
お茶は葉を摘み取ったあと、蒸して乾燥させて、形を整えて製品になる。したがって収穫前に雨を浴び、必要以上に水分を細胞内に蓄えてしまった葉は乾燥に時間がかかる。すると香りが落ち、あるいは茶液の色がくすみ、市場価値は下がってしまう。「にわか雨程度なら機械で空気を吹きかけて乾かせば影響は出ない」(森内さん)そうだが、雨が2〜3日降りつづくようだと葉は水をたっぷり吸うので、収穫を遅らせることもある。
「お茶は八十八夜(5月1日もしくは2日)の贈答用の需要が大きく、それに間に合うよう出荷できるとよい値がつきます。求められる時期に質の高いお茶を出荷できるかどうかは雨の降り方と、雨を予測した作業にかかってきます」
(注)微気象
地表より100mくらいまで(2m以下のこともある)、水平的には数mから数kmの範囲に起こる気象現象のこと。地表の状態や地形、建物、植生、農作物などの影響で微細な変化が生じる。地表で生活する人間にとってはもっとも関連が深い気象といえる。
そこで、かねて内牧で用いられてきたのが、雲を用いた天気読みだ。「東側にある盆地の出口から、西にある山へ向かって雲が流れると天気は悪化する」はその代表例だ。
「東から西に風が吹き、雲が山に登っていくと、農家の間では『天気が崩れそうだね』という言葉が出ます。集落の人たちはみんな天気を気にしていますし、挨拶がわりに自分の予報を話したりもする。最初に誰かが気づいて、だんだんと合意されていったものなんでしょうね。ただし、これは低気圧が近づいている時の風向きであり、気象理論としても正しいように思います」
森内さんたちがもう一つ気にしているのは、茶畑の北方にある牛ヶ峰(高山/標高717m)だ。梅雨時、曇り空を背景に牛ヶ峰の稜線がくっきり見えるときはのちに天候が悪化する。その反対に、雲がかかっていて稜線がぼやけているときは雨が降らないという。
「これも住民の会話から生まれたものだと思います。根拠はわからないのですが、かなり当たるんですよ」
次に話を伺ったのは、同じ静岡市葵区の西又地区で「ほんやまの有機茶園」を営む斉藤勝弥さん。斉藤さんは十八代目で、お茶づくりを始めたのは四代目からとのこと。本山茶の歴史を支えてきた一族といえる。
斉藤さんがこだわるのはお茶の栄養価だ。収穫されたお茶は毎年精密な分析を行ない、出来を科学的に確かめている。その結果をもとに、日々の作業に工夫を加えてきた。
「西又は、風と風がぶつかるのでよく雲が出ます。そして空気が冷えて降りてくる。だから気温が低くて、雨が多い。そのうえ静岡市中心部の天気予報は当てはまらない。かなり特殊な地域なので、自分で考えるようになったんだね」(斉藤さん)
JR静岡駅そばにある静岡地方気象台の年間降水量は2300mm程度だが、西又は2800mm。最低気温は4度も低いそうだ。ところがこの環境には、お茶の生産に適した面もあると斉藤さんは言う。
「寒さは茶の木の生育を遅らせますが、一方で自己防衛機能を引き出します。樹液を濃くする、つまり糖分を蓄えて凍結を避けようとする力を活かすと栄養価が高まると私は考えています」
そこで重要なのが「水」。土壌の養分をしっかり茶の木に吸わせるためには、とにかく肥料を溶かし込む水が必要。水が必要な分だけ供給され、肥料の溶け込んだ溶液が樹液よりも薄い状態が維持されれば、茶の木はどんどん肥料を吸いとるそうだ。
「どうやって適切に水分を与えるかが、お茶づくりではきわめて大事です。理想は土壌の肥料をきっちり茶の木に吸収させること。肥料が余ると、雨がたくさん降ったときに流れて、川を汚してしまうからね」
水の管理がすべて―。斉藤さんはそう考えているから、いつでも外で風を受け、雲を見て、いつ茶畑に雨が降るか読みとろうとしてきた。若いころに農業試験場で学んだ「天気は、風と雲と水のかかわり合いで決まる」という知識を下敷きに経験を重ね、雲の流れ、風の重さ、湿気などから、高気圧や低気圧の位置を推測できるようになったという。
「明確な基準はないんだけどね。高気圧が来ているときは真東に雲が強く流れるとか、それが少しずれて北東に吹くようになると低気圧が来ているなとか。そういう感じですね」
それは斉藤さんが父親から教えられてきたことと重なる部分も多い。
「父は気象を学んだわけではないのですが、風の湿り方などからよく雨を予測していました。なぜそういう判断をしたか、当時はわからなかったのですが、経験を重ねた今は合点がいく部分がたくさんあります」
雲を使った天気読みは、経験的、感覚的な術なので、そのすべてに裏付けがあるわけではないだろう。しかし、それぞれの茶畑で地形や微気象を読みとりながら栽培を続けてきた事実は、科学的な法則や計算だけではわからないことがまだあることを示唆している。
いみじくも森内さんと斉藤さん、双方が口にした「ずっと外にいれば、わかる」という言葉が印象に残る。空調の効いた空間に慣れた都市生活者の目には、茶畑へ足を運びつづけて磨いた「雲や風などのサイン」を読みとる力がまぶしく見えた。
(2017年4月24日取材)