運航に必要なさまざまなデータを映し出すモニターの前で同僚と情報交換する井上さん(右)
ライト兄弟が有人動力飛行に成功したのは1903年(明治36)、乗客や荷物を運ぶ旅客機の登場が1919年(大正8)なのでおよそ一世紀が経つ。陸から飛び立ち、雲を突っ切る旅客機は、言うまでもなく現代社会で大きな役割を果たしているが、上空の交通はどう守られているのか。あまり知られていないかもしれないが、乗客の安全を支える立役者「運航支援者」の業務を見ると、雲はかなり重要な存在であることがわかった。
ANA
空港でパイロットと交信しながら飛行機の安全な運航を支える仕事、といったらどんな職種を思い浮かべるだろうか。真っ先に頭をよぎるのは、ドラマや映画などにもよく登場する「航空管制官」かもしれない。飛行機が安全で効率的に離着陸できるよう、パイロットに無線で指示を与えて交通整理するのが航空管制官で、国土交通省の国家公務員だ。
そして、離発着ではなく、運航中の飛行機の安全を後方で支える重要な任務の人たちが、航空会社ごとに存在する。それが「運航管理者」ならびに、その補佐役の「運航支援者」だ。
主な業務をひと言で言うと、安全で快適な空の旅を乗客が楽しめるよう、必要な情報をパイロットに提供すること。出発地と到着地の気象概況、今後どのような変化が予測されるか、どの高度を飛べばもっとも揺れが少ないか、といった情報をフライト前のパイロットにブリーフィングする。機体の整備状況はむろん、乗客や搭載物に関する情報も必要だ。安全運航のためには、どのような貨物が積まれているか、飛行機の乗員は知っておかなければならない。
さらにパイロットとは飛行中も交信する。事前に情報提供しても空の状況は刻一刻と変わるから、リアルタイムのやりとりが欠かせない。雲や風向きの変化はどうか、雷が発生していないかといった情報が大切になる。気象庁のスーパーコンピュータによる上空データをもとに伝達するが、実際には飛行中の便からの報告もナマの情報になる。
国家資格となる運航管理者は、情報提供だけでなくフライトプランを作成する。補佐役である運航支援者が提供した情報をもとにパイロットと相談しながら、離着陸の可否や欠航など重大な判断に責任をもつ。
羽田空港のANA(全日本空輸株式会社)に勤務している運航管理者と運航支援者は一日で各々15〜20人程度。3交代制で数百に及ぶフライトを支えている。深夜の貨物便や国際線、早朝に到着する便があるので夜勤も必要なのだ。
ANAエアポート株式会社の井上晃介さんは、入社3年目の運航支援者。一日の業務は、まず天気図をチェックすることから始まる。
「日本全体の地上から上空までを見ます。到着地の空港の天気が悪化する要素がないかどうか。どの高度で風が急変しているか、温度がどれくらい変わっているかなども航路の断面図で把握します。それによって飛行する高度を変える必要もあるからです」
運航支援に関しては、羽田を離陸するパイロットに対面で情報提供するカウンター業務と、飛行中の便と無線のやりとりをするラジオ業務を1〜2時間ごとに交代して行なう。集中力が途切れないようにだ。飛行中の便は羽田発着便だけではなく、北は東北の半ばまで、西は中部エリアまでをカバーするという。
気象でとりわけ注視するのは、乱気流をもたらし飛行中の機体を揺らす雲だ。井上さんによれば、なかでも避けなければいけないのは積乱雲。
「積乱雲は雨の降っている場所から吹き出すように風が吹き、下層でくるくる回っています。風向きが急に変わるときは気をつけなければいけません。飛行機は向かい風で揚力を得ているので、追い風や横風は避けたいのです。特に離着陸の際、向かい風から急に追い風になるといけないので、一日のうちでも風向きによって方向を変えています。今の時期なら、羽田空港では午後3時ごろを境に、滑走路の進行方向を切り替えます。また、前線が通過するとき風向きが変わるので、風の変わり目が空港に位置しているときは、タイミングをずらす必要があります」
ジェット気流近くの巻雲も揺れの原因になり、層雲の下層で発生する霧も空港が視界不良になるので要注意。このように雲は飛行機の安全に影響を及ぼすが「逆にいえば、雲の存在が兆候となって気流の乱れを避けられます」と井上さんは話す。だから「まったく予想せずに機体が大きく揺れることは、まずない」とのこと。飛行中にシートベルト着用サインが出て多少揺れても、あらかじめ織り込み済みだから、パイロットのアナウンス通り心配無用というわけだ。
井上さんは東京学芸大学で理科教育の気象学を専攻していた。子どものころから天気に興味があり、空を見上げることや天気予報が好きで、天気図などもよく描いていたという。
大学生のとき気象予報士の資格を取得。就職活動中に、航空会社には運航支援業務というものがあることを知り、志望した。念願かなって入社時からこの業務に携わっている。
「気象や飛行機の世界はわからない部分が多く、自分にとって得るものが大きいかなと思いました」と、この仕事に魅かれた理由を語る。
運航支援業務に気象予報士の資格は必須ではないが、当然ながら知識は役立っている。例えば積乱雲の発生を予測するのは難しいが「発生しそうな要素はわかるので、おおよその範囲は予測できます。ただ、どこに湧くかはギリギリまでわかりませんから、刻一刻変化する状況を眺めつつ、どちらに流れているか、雷が発生していないかどうか、といった情報を伝達します」(井上さん)。
何時ごろには雷雨が通りすぎているはず、といった予想がピッタリ当たり、パイロットから「アドバイスありがとう」と感謝されたときなど、この仕事に大きなやりがいを感じる。
井上さんは今、運航管理者になるため国家試験に挑戦中。学科試験は合格した。難関は実技の口頭試問だ。
「こうしたケースではどう判断する?といった実運航に則した試験なので、さまざまなパターンを考えて自分だったらどう判断するか、先輩に聞いたりしながら一つひとつ積み上げています。あとはマニュアルや規定を細かく読み込み、いろんな場合に備えて選択肢を増やしているところです」と勉強に余念がない。
井上さんの趣味の一つは、空の写真を撮ること。被写体としての雲は、運航支援の業務で日々接する雲とはまるで違うと言う。
「仕事で見る雲と、休みの日に見る雲では、見え方が違います。夏だったら、それこそ積乱雲が絵になります。しかし、運航支援者という仕事の目で見たら、なるべく積乱雲には湧いてほしくないですけど」
常に窓から空が見えないと落ち着かないと話す井上さんは、雲に興味をもつことの効用をこんなふうに考える。
「梅雨の時期なら雨が降りそうだなと身構えられるし、気温の変化もある程度予測できます。テレビの衛星画像などで雲の流れを見る習慣がつくと、天気の変化傾向を読みとりやすくなります。例えば、出かけるときの服装にも気をつけるので、風邪をひきづらくなるかもしれません」
特に雨の日は足元だけに気を取られ、下ばかり見て歩きがちだ。でもたまには、空を見上げるのもいい。「空を見上げてイヤなことは考えないじゃないですか。刻一刻と形を変えていく雲を眺めていると飽きないし、ぜひおすすめしたいですね」
井上さんは最後にそう語った。
(2017年4月21日取材)