機関誌『水の文化』56号
雲をつかむ

雲
心 〈雲の哲学〉

今、
この時代だからこそ、
雲を哲学する価値がある

今、この時代だからこそ、雲を哲学する価値がある

今、この時代だからこそ、雲を哲学する価値がある

空を見上げて、雲を眺めること。それは人の心になんらかの影響を及ぼすのだろうか――。そんな、まさに雲のようにつかみどころがない問いに答えてくれたのは哲学者の小林康夫さんだ。著書のなかで「哲学とは何かがあるのではない。自分で考えていくことがすなわち哲学なのだ」と語る小林さんに、雲が人々に想起させること、西洋と東洋における雲の存在などについてお聞きした。

小林 康夫さん

インタビュー
東京大学名誉教授・青山学院大学
総合文化政策学部特任教授
小林 康夫(こばやし やすお)さん

1950年生まれ。東京大学教養学部卒業後、同大学院人文系比較文学比較文化専攻修士修了。パリ第10大学テクスト記号学科博士号取得。専門は現代哲学、表象文化論、フランス現代文学、現代思想。2002年フランス政府・学術教育功労賞シュヴァリエ受賞。主な著書に『表象文化論講義 絵画の冒険』『君自身の哲学へ』『こころのアポリア―幸福と死のあいだで』『オペラ戦後文化論1 肉体の暗き運命1945-1970』など。

西洋と東洋における雲に対する認識の差

――雲は哲学においてどのような存在なのでしょうか?

私が知る限りで、これまで雲の哲学はなかったのではと思います。木の哲学はあっても、雲のように常に動いていて形の定まらないものを哲学の対象とするのは、困難が伴います。

では、なぜこの取材を引き受けたかというと、それは雲の哲学を今、この時代から始めてみるのもおもしろいかもしれないと思ったからです。

でも、西欧のアートの分野では、雲はとても大きな役割を果たしていました。フランスの哲学者・美術史家のユベール・ダミッシュ(注1)は、名著『雲の理論』で、西欧絵画における雲の役割を「地上と天上の世界をつなぐ装置(媒介)だった」と論じています。つまり、天上には天使や神がいて地上には人間がいる、この二つの異なった世界の「間」を雲が媒介していたわけですね。

でも、そうした表現上の装置としてではなく、自然のありのままの雲を画家が描きはじめるのが、オランダ絵画の画家たち、そしてイギリスのカンスタブルやターナー(注2)といった19世紀のロマン主義(注3)の画家たちです。とりわけターナーは、嵐などの激しい、荒々しい自然の動きを雲に託します。嵐の海の波やアルプスの雪崩などと並んで、雲は人間の力を超えた「崇高なもの」の表現となる。世界の根源的な力が雲に現れると言ったらいいかもしれません。ダミッシュの著書のなかでも、ターナーの雲は、雲の表現の歴史の到着点として語られていました。そこでは、雲は、ある意味では、世界の「気分」そのものです。穏やかな田園には流れる白雲。嵐の海には、荒れ狂う黒雲というようにね。

――西洋と東洋で雲の表現は違うのですか?

ダミッシュは同書の最後で東洋(中国)の雲についても言及しています。そして中国の淡彩による風景画の雲を「人間の息の神聖文字(注4)である」と表現しています。

風景画なのになぜ「文字」なのか。それは中国をはじめとする東アジアは筆の文化圏だからです。15世紀に活字印刷が始まったヨーロッパのように文字と絵画の領域が完全に分かれているのではなく、絵も文もすべて同じように筆で書きます。しかも、それは、書く人の息づかいまで感じさせる。まるで、筆の先から、その人の息が「雲」となって現れるように。強いて言うなら、東洋では、雲は世界の「気分」だけではなく、人の「気」も伝えているのかもしれませんね。

(注1)ユベール・ダミッシュ
1928年生まれ。パリ社会科学高等研究所に芸術の理論/歴史部門を設立。表象文化と呼ばれる絵画、彫刻、建築、写真、映画、文学などを研究。
(注2)ターナー
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)。イギリスのロマン主義の画家。
(注3)ロマン主義
18世紀末から19世紀前半にかけてヨーロッパで起こった、文学、哲学、芸術分野における精神運動。それまでの古典主義・合理主義に対し感受性や個性、主観に重きを置いた。
(注4)神聖文字
古代エジプトの象形文字(絵文字)の一つで、主に神殿の壁や墓などに刻まれた。

ターナーの描いた『Keelmen Heaving in Coals by Moonlight』(1835年 油彩・画布 ワシントン・ナショナル ギャラリー蔵) 提供:Bridgeman Images / AFLO


ターナーの描いた『Keelmen Heaving in Coals by Moonlight』(1835年 油彩・画布 ワシントン・ナショナル ギャラリー蔵) 提供:Bridgeman Images / AFLO

雲の向こうにある「別世界」への思い

――小林さんが考える雲のおもしろさとは?

誰もが知っているし見ることができる身近な存在だけれど、地上のものではない。人間の生活にそのまま役立つこともない。でも、見上げれば誰でも「気分」や「気」を感じとることができますよね。そして、不思議なことに、「雲」の向こう、「雲の上」への思いが湧いてきませんか。雲は主役ではない。天地のあいだの境界や媒介の場にすぎない。でも、それだから、雲を見ていると、われわれの心になにか別世界への憧憬のような思いが、雲のように湧いてくるのだと思います。

――日本の絵巻でも、雲は場面転換や神仏が現れるシーンで使われていたそうです。

そうです。リアルに考えればそこに雲があるのはおかしいのですが、誰も異議を唱えないし、不思議とは思わない。神仏は、われわれの世界とは違う世界、でも、われわれの世界のちょっと「上」、それほど離れていない世界にいる、そう感じて安心して納得してしまう。そこがおもしろいのです。

もう一つ、雲に関して大事なことは、それが「常に動く」ことです。風に吹かれてね。雲と聞いて多くの人がイメージするのは、青い空に静かに流れていく白い雲ではないでしょうか。雲が全天を覆い尽くしている曇天の日に、雲にポエジーを感じる人は少ないでしょう。じっと見ていると、驚くほどのスピードで流れ、消えていく雲は、時間というものを感じさせてくれるものでもあるのです。

究極の教えは「行雲流水」にある

――空を見上げて雲を見る行為にはどんな意味があると思いますか?

人工的な心地よい空間にいて、空も見ずにスマートフォンだけで天気予報を見る人が多いこの時代、「空を見上げて雲を見る人」、「雲と対話できる人」はますます貴重な存在になると思います。

文学でいえば、ヨーロッパではヘルマン・ヘッセとか、日本では宮沢賢治が空を見上げていた人ですよね。

雲を見上げることができるのか――。これは、これからの時代の大きなテーマだと思います。雲の正体は「水」ですよね。水がなければ雲はない。でも、それだけではなくて、空気もなければならない。水と風がふれあって「婚姻する」ことで雲は生まれているわけです。それは、われわれの地球の本質です。雲を見ることは、私たちが地球に住んでいることを実感するすばらしい機会なのです。

――雲が私たちに「生きる力」を与えてくれるということですか?

そうではありません。雲を見て「よし、がんばるぞ!」といったことではないのです。もしも雲に「教え」のようなものがあるとすれば、もっと厳しい真理ではないでしょうか。「生きる力をあげよう」ではなく、「君も私(雲)と同じようにいつの間にか生まれて、やがて消えていくんだよ」というような。

「行雲流水(こううんりゅうすい)」という禅の言葉がありますね。何事にも執着することなく、雲や流れる水のように成り行きに任せて生きることの教えですが、「こうしたい」という自分の欲望をかなえるための生ではなく、「人間のどんな思いも、雲のように生まれ、消え、そして人間もまた死んでこの空へと還っていく」、そのように生きることで初めてそこに究極の自由の境地が開かれるという教えですよね。これこそ、究極の雲のレッスンではないでしょうか。

それは、東洋的な禅の思想というだけではなく、西洋でも同じです。私が思い出すのは、フランスの詩人ボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の冒頭の詩「異邦人」のなかで、自由な異邦人に「わたしが愛するのは雲、彼方の空を過ぎて行くあの雲、素晴らしい雲」と言わせていることですね。

空を見上げることは、生まれては消えていく雲の様子をじっと見つめる自由の時間をもつこと。それは一種のメディテーション(瞑想)に近いかもしれませんね。

歩道橋を渡る人とその向こうに広がる雲。人は雲から何を学ぶのか

歩道橋を渡る人とその向こうに広がる雲。人は雲から何を学ぶのか

カオス的に動く雲から学ぶこと

――雲は災いをもたらすこともありますが、台風や雷雨に出合うと気持ちが高揚してしまう自分もいます。

それは、「人間の尺度を超えた圧倒的な力に出合う」ことからの高揚感ではないでしょうか。「自分は打ちのめされてしまうかもしれないけど、でも自然の激しい力に触れてみたい」という人間の深い心理が働いていると思います。

都市で暮らしていると自然の驚異(脅威)は感じにくいですが、日本の積乱雲は特別ですね。もくもくと何千mもの高さまで立ち込めた雲がみるみる黒くなり、稲光を発して激しく雨が降りはじめる。子どものころはわくわくしたものですが、あれほどの力をもった激しい雲が見られる国は、そうはないでしょうね。

人間の内面には、激しいものと静かなものがあり、その間でバランスをとっています。それは雲も同じです。「静」と「動」の両極があり、常に形を変えながら動く雲には、カオス的な美しさがあります。

雲の動きも形も思いがけない波乱に満ちているけれど、でも、決してでたらめでもない。自然界のさまざまな事象が複雑に絡み合いながら、いくつものパターンが重なり合い、干渉し合って、ダイナミックに動いています。カオス的「美」ともいえる雲の動きは、実は、人間の文明社会が進むべき次のステップへのヒントになるかもしれません。

つまり、今の時代、「AのためにBをする」というような線形的な、直線的な思考が急速に行き詰まりはじめています。そのとき、われわれは自然のカオスに学ばなければならないかもしれません。地上の拘束から少し離れた、しかし複雑性を引き受ける新しい自由を、今一度、地球から、学び直さなければならないのかもしれません。そこに雲の哲学の希望があると思います。

(2017年5月10日取材)

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