機関誌『水の文化』56号
雲をつかむ

雲
文化をつくる

たまには楽しみたい「雲 時間」

編集部

とらえどころのない身近な生きもの

小学校3年生のとき、雲をつかまえたことがある。

両親に連れられて奥多摩の山を登っていたら、山頂近くで白いもやに囲まれた。「これは雲だよ」という父の言葉に私と妹は目を丸くした。口をぱくぱくさせて食べ、ビニール袋やプラスチック製のフィルムケースに競って雲を詰めた。うんと、たっぷりと。そのときは確かにつかまえたつもりなのに、あとで見ると雲らしきものはどこにもなかった。

当然ながら雲はつかめない。けれど少しでもつかみたくて、多くの人に話を聞いた。なるほどと思い、ハッとして、考えさせられた。

まずは「雲はまちなかに残された自然」という視点。遠くに行かなくても、空を見上げれば誰でも見られるものなのだ。

さらに、雲は「生きもの」ということ。雲の案内人・村井昭夫さんに300倍速の雲の動画を見せていただいたが、次々と湧き出て押し寄せ、ぶつかったり、一瞬で消えたり、形を変えたりしながら去っていく。およそ8時間30分の録画を1分42秒にまとめたものだが、私たちの時間の流れとはスケールの異なる「雲の時間」がたしかにある。村井さんのブログ「雲三昧」から見ることができるのでぜひ。一見の価値ありだ。

雲から読みとる地球のシグナル

とらえどころがなく生きもののような雲を、生業(なりわい)に活かしているのが静岡市葵区のお茶農家の方々だ。

実は、当初は漁業関係者への取材を考えていた。ところが今は天気予報が発達し、さまざまな情報も瞬時に手に入る。観天望気、すなわち雲や風の動きから天候を予測して漁に出る人はとうとう見つからず、狙いを農業に切り替えた。本誌52号「食物保存の水抜き加減」でお会いしたJA長崎せいひの小林大輔さんから「お茶は調べた?」とヒントを得た。そこで静岡県内の関係団体に聞いて回ると「当たり」だった。

そのお茶農家の取材で「微気象」という言葉を初めて聞いた。ちょっとした地形やそれに伴う気流の流れで、天気予報が当たらない地域がある。本誌52号で凍みこんにゃくを撮影した帰り道、雪が降っていた現場から1kmも離れないうちに晴天になって首を傾げたことがあったが、あれも微気象ならば説明がつく。

そうした農地の特性を知るお茶農家の森内吉男さんと斉藤勝弥さんは、地球からのシグナルを雲から読みとり、風や湿度の変化も肌で感じている。「すごいですね」と思わず本心を口にすると、お二人は「外にいれば誰でもわかるよ」とこともなげに言う。しかし、温度・湿度がほどよく調整された空間に慣れた身には真似できそうにない。できるとすれば、外へ出て五感を意識することだろうか。

スマホを手に雲を眺める

本誌55号でインタビューした染色家のリンダ・ブラシントンさんが展示会のため再来日した。益子町まで会いに行くと「今は何を取材しているの?」と問われたので「雲です」と答えると「それは興味深い!」とリンダさんは言う。日本と同じようにイギリスも島国なので雲の動きがダイナミックでよく似ているそうだ。

そういえば、雲に見向きもしない人々の現状を憂いて2004年に「雲を愛(め)でる会」をつくったギャヴィン・プレイター=ピニー氏もロンドン在住だ。村井さんが知る限り、雲好きが集まる世界唯一の組織で会員は4万人ほどいるらしい。

ピニー氏の著書『「雲」の楽しみ方』(河出書房新社 2007)に掲載されている会の声明書がふるっている。「雲は不当にも悪者扱いされている」「雲がなければ人生は果てしなく味気ない」といった言葉が並んでいるのだ。

ならばイギリスの人たちは空や雲をよく見るのだろうか。リンダさんに尋ねると「今は日本と同じでみんなスマホを見てばかり。だから空を見よう、星を見ようという機運が出てきているの」と教えてくれた。

リンダさんにそんな質問を投げかけたのは、「空を見上げて雲を見る」ことが、人にどんな影響を与えるのか(あるいは与えないのか)知りたかったからだ。その問いに対して「空を見上げて雲を見る人がこれからますます貴重な存在になる」と指摘したのは哲学者の小林康夫さんだ。なるほどと深く首肯する。

スマホ、もう少し遡ってインターネットもなかった時代を知る人たちのなかには「当時どんなふうに日々過ごしていたのか思い出せない」という声もある。スマホは浸透しているし便利だけれど、ときにはスマホ以外の何かを見て、思いを巡らせる時間があっても悪くはない。

雲は、そうした思索の対象としてうってつけではないだろうか。スマホを手に外へ出て、空を見上げて雲を眺め、微妙な風や湿気の変化を感じながら写真を撮り、よい写真なら誰かに送ってもいい――。日々の暮らしに彩りを与える、そんな「雲 時間」を楽しむ人が増えると、この社会の雰囲気も変わっていくかもしれない。



PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 56号,文化をつくる,編集部,雲,天気予報,農地,イギリス,スマートフォン

関連する記事はこちら

ページトップへ