大街道商店街
松山銀天街商店街
人口減少期の地域政策を研究し、自治体や観光協会などに提案している多摩大学教授の中庭光彦さんが「おもしろそうだ」と思う土地を巡る連載です。将来を見据えて、若手による「活きのいい活動」と「地域の魅力づくりの今」を切り取りながら、地域ブランディングの構造を解き明かしていきます。今回は、愛媛県松山市の二つの商店街と道後温泉を舞台に、今こそ必要なまちにおける「循環」について考えました。
多摩大学経営情報学部事業構想学科教授
中庭 光彦(なかにわ みつひこ)
1962年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士課程退学。専門は地域政策・観光まちづくり。郊外や地方の開発政策史研究を続け、人口減少期における地域経営・サービス産業政策の提案を行なっている。並行して1998年よりミツカン水の文化センターの活動にかかわり、2014年よりアドバイザー。主な著書に『コミュニティ3.0――地域バージョンアップの論理』(水曜社 2017)、『オーラルヒストリー・多摩ニュータウン』(中央大学出版部 2010)、『NPOの底力』(水曜社 2004)ほか。
このコーナーではまちづくり・地域づくりの分野で、人口ボーナス期(注1)の常識を壊す魅力づくりを模索・実践している人々を紹介してきた。課題解決を創造的に楽しんでいる「おもしろがれる人」だ。結果として30〜40歳代を中心とした若手だったのだが、今回紹介するのもそのような事業者だ。
場所は愛媛県松山市。51万人という四国第一の人口を擁し、中心部には大街道(おおかいどう)商店街(以下、大街道)と松山銀天街(ぎんてんがい)商店街(以下、銀天街)という二つの全蓋型アーケードがL字型に連なる商店街がある。ここから車で10分ほどの場所には全国的に有名な道後温泉がある。中心市街地と人気の温泉スポットの二つが寄り添っている県庁所在地は珍しい。
この地の地域づくりの背景にある思想をひと言で表すならば「流れの創造」である。水文化ならともかく、魅力づくりでの「流れ」とは何のことなのか。
(注1)人口ボーナス期
子どもと老人が少なく、生産年齢人口が多い状態の時期のこと。日本は1960年代から1990年代初頭までがそれにあたる。豊富な労働力で高度な経済成長が可能とされる。
まず訪れたのは道後温泉だ。印象的なのは何と言っても「道後温泉本館」だ。建てられたのは1894年(明治27)。観光客みんなが、ここをバックに写真を撮るほど存在感がある。その背後は大型ホテルや温泉旅館が取り巻いている。
本館前から延びているのが、現在は「道後ハイカラ通り」と呼ばれるアーケード商店街。土産物屋、飲食店が並び、観光客で大賑わいだ。
ここで生まれ育った石丸明義さんは土産物店「葵屋」のご主人で、道後商店街振興組合の理事を務めている。石丸さんの父親がここで化粧品屋を始めたのは第二次世界大戦後のこと。当時の道後温泉は旅館が80軒ほどあり、戦時中は紅を引くこともできなかった仲居や芸者など女性たちが化粧品を買い求めて繁盛した。
「道後の特徴は、経営者自らが商売を転換していくことです」と石丸さんは話す。
一般に、全国のシャッター商店街化の原因の多くは後継者不足で、経営者自身が商売を辞めるばかりか、空き店舗を他に貸さない地主になってしまうことにある。ところが道後では、自ら商売を替えて事業そのものは続けていく。たとえ商売をやめても空き店舗にせず、すぐにテナントに貸すという。
聞くと、時代の流れを見越して、かつてはおもちゃ屋だった店主がカフェに転換し、旅館がギフトショップになり、家電販売店はうどん屋へとなった。かく言う石丸さんも現在は土産物屋だ。
このため、シャッターが降りた空き店舗が見当たらない。石丸さんは「道後温泉のおかげです」と全国から観光客を集める道後温泉の集客力を理由に挙げたが、道後の温泉商店街の新陳代謝の速さの裏には、温泉集客力とともに、文化的背景もあるように思える。
「道後の人は情熱的な人が多いけれど、永遠にその仕事を続けるわけでもない。変わるときは大胆に変わっていく」という気質だそうだ。
道後温泉には全国から人が流れ、その人々が温泉周辺を回遊する。流れのしくみが機能している。
この道後温泉の流れのしくみをつくった一人が伊佐庭如矢(いさにわゆきや)(1828-1907)だ。
伊佐庭は松山藩の家老に仕えた後、愛媛県官吏、金比羅宮の財政整理を行ない、61歳で道後湯之町長になった。温泉支配権を町に移し、今も多くの観光客を集め続ける本館の建設を主導。さらに、人々の足として道後鉄道を整備した。江戸から明治期の経世家(けいせいか)(注2)の力量が本館建物に象徴される。
伊佐庭は道後のインフラ整備者だったが、松山市中心市街地に人の流れ、金の流れといった経済のしくみを整備したのは一世代若い小林信近(のぶちか)(1842-1918)だ。小林は伊予鉄道、伊予水力電気(現・四国電力)などの事業を興し、初代市議会議長も務めた。明治前期に全国各地で輩出した、鉄道・発電事業を中心とする事業家である。
松山市の中心市街地は江戸期の城下町時代から栄えていたが、小林が近代化の経済環境を整えたといってよい。戦時中は空襲にも遭ったが、立ち直りは早かった。
(注2)経世家
江戸時代における政治経済論者の総称。
先に述べたように、松山市の中心市街地は大街道と銀天街がL字型につながり、賑わいを生んでいる。南北に延びる大街道は、どちらかというと買い回り品や専門品、全国チェーン店が立地。伊予鉄道松山市駅から東に延びる銀天街は最寄り品が中心だ。銀天街の町名は湊町という。湊町、すなわち銀天街の付近は江戸時代から荷下ろし場だったのだ。中の川という灌漑用水路を利用し、三津浜から宮前川を経てここまで荷を運んでいた。
観光、経済インフラが問題だった近代化期の伊佐庭と小林の時代から約130年。今は何が問題なのだろうか。
株式会社まちづくり松山の代表取締役社長、加戸(かど)慎太郎さんは「流動性の向上」と言い切る。
まちづくり松山は2005年(平成17)に中心市街地活性化法によるタウン・マネジメント・オーガニゼーション(TMO)として設立されたが、現在は収益を市民に還元する組織に移行している。
加戸さんは東京の大学を卒業後、外資系証券会社に勤務、2009年(平成21)に家業の衣料品店を継ぎ、株式会社とかげや代表取締役社長となる。今は松山銀天街商店街振興組合理事長でもある。
「地方の課題はお金が循環しないこと、つまり流動性の枯渇が問題のすべてです。ところが今、世の中では『何をしたらもうかるか』という点に関心が集まっています。しかも、それを前面に出すからみんな勘違いする。『もうける』ことの真の目的とは『お金の流動性の向上』で、なおかつそれが長く続く『継続性』が必要。そのしくみをきちんとつくることが大事なんです。何回も同じことをやってはつぶれるのでは意味がありません。施策でもイベントでも、取り組んだことのデータを残して自分たちで検証し、次に活かす。つまり、まちづくりも経営なのです」と語る。この言葉で加戸さんがどこまで先を見ているか、よくわかる。
中心市街地の衰退が問題視されたのは1990年代後半。それは現在の地方創生にもつながっている。当初の目標はバラバラだった個店をまとめ上げること、次に個店がまず収益を上げることだった。特徴のある個店をつくることが大事といわれるが、ロードサイドショップと通販に慣れた人々のなかで商店街が生き残るのは大変だ。まずは、広域の魅力拠点として商店街を再整備しなくてはならない。つまり、個店もまちづくり会社も、取り組みによって得た収益あるいは時間の幾分かを再投資しなければ先細りとなり、中心市街地「全体」は持続できない。収益力とともに「持続させるしくみ」が大事なのだ。
そのためには、人と金の流れを呼び込み循環させるとともに、その発想を事業者たちに学習してもらう必要がある。そこにまちづくり会社の役割がある。
まちづくり松山が取り組むのは、若手経営者の交流をベースに、商店街のなかに大型ディスプレイを据えて行なうCMやPR、イベント告知、産官学金労言(注3)の連携、まちの清掃や落書き消し、「お城下大学」といったイベント開催、およびそれらを通じた人材育成だ。長年続けているうちに形骸化し、やりっ放しとなっていた事業を自分たちでやり直し、まちづくりを自分事(じぶんごと)にしているとも言える。
一見するとこれまでの商店街の高度化事業(注4)と変わらないが、まちづくり松山の事業によって人と金が流れ、まちを担う人も育ちつつある。こちらの方が目的なのだ。
たとえると、自分の井戸水の量だけを増やそうとするのではなく、井戸そのものを成り立たせている水循環を増やしていこうという発想とまったく同じだ。水循環が人と金の循環になっているだけの話。きちんと循環する環境を、行政や他人任せではなく、自分事として守ることを目指しているのだ。
(注3)産官学金労言
地方創生においては、従来の産(民間企業)、官(役所)、学(教育機関)に加えて、金(金融)、労(労働組合)、言(地方のメディア)が連携することが必要とされる。
(注4)商店街の高度化事業
商店街の活性化を図るため、店舗の改装とアーケードの整備などを行なう集積区域整備事業などが代表的。
銀天街の脇を流れる中の川。この付近が三津浜からの荷下ろし場だったことが現在につながっている
まちづくりを自分事ととらえて参加することで、金の循環と人材の育成に成果を上げつつある松山市の事業者。その代表としてセキ株式会社を訪ねた。
同社は1908年(明治41)の創業。もともと愛媛県中央部にある久万(くま)高原町で手漉き和紙を販売していたが、大阪で洋紙に出合い、洋紙の販売も始めた。現在は紙卸と印刷の二軸に加え、地域活性化事業、イベント事業、広告出版業まで手広い。
代表取締役社長の関宏孝さんは四代目。松山市道後に生まれ、東京で外資系証券会社に勤め、ニューヨークにも2年いた。10年前に松山市に戻り、今は経営者としてまちづくりにかかわる38歳だ。
金融出身者で、ともに家業を継ぐ加戸さんと関さん。二人がまちづくりにかかわるのは偶然だろうか。
企業が地域づくりに力を入れる理由はどこにあるのか。関さんは「地域イベントに来る人たちをどうしたら喜ばせることができるかを考えます。そのような思いと活動が、結果的に地域の優れた人材が集まるきっかけになると思います」と言う。
地域活性化に社員が熱を入れる。それは社員全体の気持ちを、仕事だけではなく地域にも向ける割合を高めることになる。これについて、関さんは「心の分配率を高めているということでしょう」とうまく表現していた。
地域の経済社会を元気にするには、収益を上げてまちの人に再投資して新陳代謝を促すことが重要だ。今回お会いした三人に共通していた考え方は、伊佐庭と小林にも通じる。
地域経済に大事なのは「流れ」であることを伊予の人は知っていたのだろう。そういえば、月賦販売を考え出したのも伊予の桜井漆器の商人だったことを思い出した。
事業者が自分事としてリスクをとりまちづくり事業を始めると、人も金も流れ収益を再投資できるようになる。流れは魅力の源だ。
参考文献
『松山市史第一巻〜五巻』(松山 1995)
『道後温泉 増補版』(松山市 1982)
(2017年3月27〜28日取材)