当時、世界でも有数の人口を擁した江戸。行徳の塩、周辺の農村から野菜などが川船で運ばれたが、そうした物流や人々の往来を支えたのが、隅田川と関連する運河だ。時は過ぎ、いま再び東京の東側「イースト・トーキョー」で新しい動きが生まれている。そこで1878年(明治11)の「東京15区」で浅草区、本所区、深川区だったエリアに着目し、何が起きているのかを見ていく。まずは東京大学史料編纂所教授の山本博文さんに、江戸の歴史や浅草、蔵前、本所、深川の地域特性などを教えていただいた。
インタビュー
東京大学史料編纂所 教授
山本博文(やまもと ひろふみ)さん
1957年(昭和32)、岡山県津山市生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。文学博士。1992年、『江戸お留守居役の日記』で日本エッセイスト・クラブ賞。著書に、『流れをつかむ日本の歴史』『武士の評判記』『日本史の一級史料』『歴史をつかむ技法』『決定版 江戸散歩』など多数。角川まんが学習シリーズ『日本の歴史』の全巻監修。NHK BS時代劇「一路」「雲霧仁左衛門」などの時代考証も手がける。
1457年(長禄元)に太田道灌(どうかん)(注1)が江戸城を築きます。北条氏の支配を経て、1590年(天正18)に徳川家康が入城して修築します。1603年(慶長8)に征夷大将軍となった家康が幕府を開き、政治の中心地となりました。
とはいえ、江戸城の目の前まで日比谷入り江が入り込んでいたため市街地(町場)にできる土地が少ない、とても小さなまちでした。そこで家康は神田山を切り崩し、その土で日比谷入り江を埋め立てて土地を造成し、山の手(注2)は武家地、日本橋から東側は商人地とします。家康は入城後すぐに行徳からの塩をはじめ物資を運ぶために小名木川(おなぎがわ)の開削に取りかかるなど、低湿地に排水と水運のための掘割もつくります。ですが、江戸初期の町場はせいぜい隅田川の手前まででした。
当時、隅田川には千住大橋しかなく、民衆が本所や深川に逃げられなかったので甚大な被害が出ました。そこで幕府は両国橋を架け、元禄期(1688〜1704)には新大橋や永代橋を架けます。それで町場が対岸の本所・深川に広がっていきます。
また、明暦の大火後の防火対策として「広小路」がつくられます。両国橋の両端にも大きな広場があり、芝居小屋や食べ物屋が並び、毎日お祭りのような賑わいでした。物資を運ぶ船が行き交い、橋の上を人が行き来し、橋のたもとには繁華街があって景色もいい。隅田川は人々が集ううってつけの場所だったのです。
また、隅田川沿いには、右岸の蔵前に年貢米を納める「御米蔵(おこめぐら)」、左岸の本所に竹を置く「御竹蔵(おたけぐら)」などがありました。つまり幕府の戦略物資の拠点だったのです。さらに小名木川など隅田川に通じる掘割に沿って藩邸や蔵屋敷がつくられます。あまり知られていないことですが、諸藩は幕府から与えられた上・中・下の三つの屋敷だけでなく、町人の名義で屋敷を購入して物資の集積所としていました。隅田川と関連する運河にはそういう役目もあったのです。
(注1)太田道灌
1432-1486。室町中期の武将。上杉定正の執事となり、江戸城を築城。兵法に長じ、和漢の学問や和歌にも優れた。
(注2)山の手
江戸城の近辺と西にあたる高台。地理的には武蔵野台地の東端。
元禄期の経済発展で江戸のまちは急速に大きくなり、享保期(1716〜1736)の人口は100万人に達したといわれています。同時期のロンドンやパリと比べても江戸の方が人口は多かったようです。
やがて「どこまでが江戸なのか」が問題になり、1818年(文政元)、地図上に赤い線(朱引)を引いて「ここまでが江戸」と定めました。同時に江戸町奉行の管轄する範囲も黒い線(墨引)で示されたのです。
浅草は、幕府が開かれる前から浅草寺を軸とする「信仰の地」として発展していました。浅草寺の縁起は飛鳥時代(628年[推古天皇36])とされ、隅田川で漁師の兄弟が網ですくった観音様を祀っていますね。庶民信仰の場として門前町が栄え、見世物小屋なども増えていきます。
御米蔵が並んでいた蔵前は、旗本・御家人のために俸禄米を換金する札差(ふださし)が集まるほか、米と一緒に運び込まれる各地の産物も商いの対象でした。幕府が消えると御米蔵も不要になりますが、今も「流通の要」のまま。さまざまな業種の問屋街です。
本所は、元禄期に吉良上野介の屋敷が移されるなど割と初期から開けていて、新興の芸術家たちも住んでいました。ただし、今とは違って芸術家の地位は高くなかった。著作権の概念がありませんから、一作書いてギャラをもらったらそれで終わり。北斎も、ベストセラー作家だった滝沢馬琴も裕福ではなかった。でも、だからこそ新しい文化をつくる気概と活力が生まれたともいえます。
深川は商人のまちですね。物流に携わる人が多かったので、気(き)っ風(ぷ)もいいし元気もある。飲み水には苦労したけれど、日本橋に近いのに家賃はそれほど高くない。埋め立てがどんどん進み、人は住み着いていく。その様に発展の可能性を見出し、さらに人が集まったのでしょう。
山の手と比べて庶民的ですね。例えば西側の池袋や新宿周辺はかつて江戸に住む人のための野菜などの生産地でしたが、昭和30年代から一気に開発が進みます。水に乏しい武蔵野台地が玉川上水とその分水などで潤い、「みんなが住みたがる」地域になりました。
それに対して東側は、少し取り残された感もありましたが、逆に今は「レトロなまち」として再評価されています。震災や戦災で焼け野原になりましたが、復興のときの雰囲気が残っているからでしょう。
時代ごとの変遷はあるものの、今でも本所や深川に下町っぽさが色濃く残っているように、昔からの土地の気質や記憶は続いているものです。江戸時代の切絵図(注3)を片手に東京を歩くと、大きかった稲荷神社が今はマンションの前でこぢんまりと、でもちゃんと残っていたりする。東京をそういう目で見ると、江戸とつながっていることに気づくでしょう。東京の東側、特に隅田川周辺に着目すると、江戸に対する興味はより高まると思いますよ。
(注3)切絵図
江戸時代につくられた地図の一種。詳細を記すために、特定の地域を分割した。
(今回の特集にまつわる主な出来事。編集部作成)
西暦 | 和暦 | 出来事 |
628 |
推古 天皇36 |
檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が土師中知(はじのなかとも)と浅草観音を祀る |
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1457 | 長禄元 | 太田道灌が江戸城を築く。のち北条氏の支城に |
1590 | 天正18 | 徳川家康が江戸入府し、小名木川を開削する |
1596 | 慶長元 | 深川八郎右衛門らが深川を開拓 |
1603 | 慶長8 | 徳川家康が江戸に幕府を開く |
1617 | 元和3 | 葺屋町(日本橋人形町)に傾城町創設(吉原遊郭) |
1620 | 元和6 | 幕府が浅草に米蔵をつくる |
1624 | 寛永元 |
長盛法師が深川永代島に富岡八幡宮を祀る 中村勘三郎が江戸猿若座(のちの中村座)を創設 |
1657 | 明暦3 |
明暦の大火で江戸市中の大半が焼失 吉原遊郭が浅草千束に移転し新吉原ができる |
1659 | 万治2 | 隅田川に両国橋が架けられる(時期は諸説ある) |
1658 〜60 |
万治年間 | 北十間川、竪川、横十間川、大横川が開削される |
1661 | 寛文元 | 小名木川の船番所が中川口へ移転 |
1680 | 延宝8 | 松尾芭蕉が深川に移り住む |
1701 | 元禄14 | 佐賀町の町場化が進み「蔵のまち」となる |
1702 | 元禄15 | 赤穂浪士が本所の吉良屋敷を襲い野介義央を討つ |
1724 | 享保9 | 浅草蔵前の「札差」が109人に定められる |
1733 | 享保18 | 隅田川の水神祭で花火が上がる |
1734 | 享保19 | 幕府の材木蔵が本所横網から猿江に移る |
1760 | 宝暦10 | 葛飾北斎が本所(墨田区亀沢付近)で生まれる |
1807 | 文化4 | 富岡八幡宮祭礼の群衆により永代橋が落橋する |
1842 | 天保13 |
日本橋から浅草猿若町に中村座と市村座が移転 岡場所取り締まりで深川花街も取り払われる |
1853 | 嘉永6 | 浅草花やしきが植物園として開園 |
1867 | 慶応3 | 大政奉還により江戸幕府崩壊 |
1868 | 明治元 | 明治維新。江戸を東京と改称 |
1872 | 明治5 | 芸娼妓解放令が発令される |
1875 | 明治8 | 工部省深川工場で日本初のセメント製造開始 |
1886 | 明治19 | 佐賀町に深川正米市場が開かれる |
1903 | 明治36 | 浅草六区に日本初の常設映画館(電気館)が設立 |
1917 | 大正6 | 浅草の常盤座で大衆オペラが上演される |
1923 | 大正12 | 関東大震災が起こる |
1933 | 昭和8 | 浅草の常盤座で古川ロッパらが「笑いの王国」旗上げ |
1945 | 昭和20 | 終戦 |
1946 | 昭和21 | 浅草復興祭で戦災者慰霊の灯篭流しを実施 |
1947 | 昭和22 |
東京都の35区が整理統合。 台東区(下谷区+浅草区)、墨田区(向島区+本所区)、江東区(深川区+城東区)が誕生する |
(2017年8月21日取材)